(7)「単調な工場労働イヤ」 家族残し、自分の意志で帰伯
「日本での生活が嫌になっちゃったんですよね」。帰伯して1年が経つ的野アドレルさん(22、三世)は、今までの例とは異なり、自分の意思でブラジルに戻ってきた。
2歳で広島に移住して以来、約20年間を県内で過ごした。母は幼い頃にブラジルに渡った準二世で、広島県警で通訳を務めるほど日本語が堪能だったが、家の中ではポ語での会話が普通だったという。
一方で家庭以外の生活言語は当然日本語。的野さんも二カ国語を問題なく使いこなす。「いずれブラジルに戻るのだろうって考えていたし、何より自分はブラジル人だって意識は強く持っていたので、違和感を覚えることはありませんでしたね。おかげでポ語会話に困ったことはないです」と敬語を交えて語る日本語は実に流暢だ。
日本の学校での勉強に対する気持ちは「自分の国のことでないのに」と「周りになめられたくない」という二つの感情の板ばさみとなっていた。
「『やっぱりこれだからブラジル人は』って思われるのが一番嫌でした。中学校に上がると、日系人の同級生の数がぐんと少なくなったからなおさらで。それでも、やっぱり歴史や国語の授業なんかへの意欲はどうしてもね・・・」と言葉を濁す。
好条件を求めて転職を繰り返す家族の都合で、10回以上の引越しを経験し、その都度、転校も余儀なくされた。「中学生の時は、いったん転出した中学に再転入することまであった。何度も何度も新しい環境になじまなきゃいけない、慣れたらまた転校…。そりゃあ、うんざりして登校するのも嫌になりますよね」
そんな学校生活での唯一の楽しみは部活動でのバスケットボールだった。
「やはり“外国人だから”という理由で嫌がらせや軽いイジメもありました。でもバスケで活躍すればみんな認めてくれる。自分を見る目が変わる。それにチームワークの重要性とか、生きていく上で大事なこともたくさん学べました」と話し、「バスケと出会えただけで日本に行った甲斐があった」とまで言い切る。
高校への進学を希望した理由も、継続して部活動を続けたいという気持ちによるものが大きかった。
ところが、デカセギ子弟向けの補習を積極的に利用するなど、満を持して試験を迎えたはずの高校受験に失敗した。「他に行くところがなかったから」という理由で、夜間の定時制高校へと進学先を変えた。
高校進学という日系子弟の厚い壁が、ここでも高く立ちはだかった。
「不良ばかりがいるイメージで入学前はビクビクしていた」というが、行ってみれば、様々な経歴を持った同年代から50代までの幅広い年齢層の生徒が集まる場だった。そんな多様性は、これまで外国人というマイノリティーの寂しさが付きまとっていた的野さんにとって、「むしろここに来られて良かった」と感じられる居心地の良いものだった。
高校卒業後は約4年間工場等で働いた。この経験が、それまで漠然としていた帰伯への思いを明確にさせた。「閉鎖的な環境で毎日同じことの繰り返し。好きな仕事でもないし、給料が大きく上がる見込みもない。夢もなければ、楽しみも自由もない生活にうんざりしちゃったんです」
その思いがピークに達した2011年、日本での定住を優先し、ブラジルに帰る意思のなかった家族のもとを離れ、聖市に戻った。
現在は日系の国際引越し代行業者に勤務しながら、児童を対象としたバスケットボール教室の開講のための準備を進める。
「より多くの人にバスケの楽しさと素晴らしさを広めたいんです。安定した生活ではないけど、『バスケを通して何かしたい』っていう夢を追える生活は楽しい」と目を輝かせた。(2012年9月10日取材、酒井大二郎記者)
注1:伯=ブラジル、聖市=サンパウロ市、ポ語=ポルトガル語
注2:11回にわたり連載された「第2の子供移民~その夢と現実=日伯教育矛盾の狭間で」の4~7回を掲載しました。
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