(6) 非日系の母に日本語強要 不法滞在迫り“帰国”
わずか8カ月で親に連れられて訪日した田中アルベルトさん(21、仮名)には、“祖国”ブラジルの記憶はない。
訪日当初、非日系の母は日本語を満足に話すことが出来なかった。田中さんが物心ついた時にはすでに父は別離した後だった。母親は三重県鈴鹿市などで、女手ひとつで田中さんを育てた。つまり、田中さんを日本人の保育園に預けて、工場で懸命に働いた。
その結果、なにが起きたか――。家庭以外の全ての時間を日本語の環境で過ごす田中さんは、どんどんポ語を忘れ、母親との間には自然と言葉の問題が生まれるようになった。母子家庭であるにも関わらず、「満足なコミュニケーションがなかなか取れなかった」という幼少期を過ごした。
そのもどかしさからか「ポ語に対する嫌悪感は年を重ねるごとに増していった」と振り返る。思春期を迎える頃になると「家で母がポ語を話したらぶち切れて怒鳴り散らしていた。日本語しか認めなかった」という形で気持ちが表現されるようになった。
同様に、祖国であるはずのブラジルに対する感情も嫌悪的で、自分が「ブラジル人」として扱われることに極度の嫌悪感を覚え、常に強い抵抗を感じていた。
「自分は日本しか知らないし、ポ語も話せない。意識としてはただの“日本人”でしかなかった。あの頃の俺にとってのブラジル人は、母が家に連れてくるような日本語を覚える気もなければ向上心もない人間。そんな奴らのことは心底嫌っていたし、一緒にされたくなかった」と当時の心境を語る。
このようにデカセギ子弟の一部には、日本人よりも日本人的な人格が形成される傾向がある。かつて、終戦直後に思春期を迎えた当地には「ブラジル人よりもブラジル人らしい」二世の集団が生まれたことがある。まるで、その裏返しのような現象だ。
そんな田中さんが日本に留まることを望むのは自然な流れだったが、中学校に進学した頃、ビザの問題を教えられ、将来的に帰伯を余儀なくされることを知った。
「母は非日系だったから、俺の扶養期間が終わったら帰らなきゃいけなくて、俺も無条件でいられるのは18歳までだと聞いた。その時は絶望したよね・・・」。日本で生まれたも同然で、日本しか知らないで、日本語だけで育った田中さんは当然、そのまま居られるものだと思っていた。
18歳までは合法なのに、その後、知らない“祖国”に「帰れ!」と放り出される。日伯の教育と法律の矛盾という深い溝に、ズッポリとはまってしまった。
その時から、田中さんは真剣に自分が日本に残る方法を考えるようになった――。
「幼くて馬鹿な考えだったけど、日本人との間に子どもを作ればここに居られるって本気で考えて実行しようとしていた時期もあった」と自嘲気味に笑う。
高校に進学し、いよいよ期限が目前に迫ってくると、ツテを辿って知り合った政治家や、法律の専門家らに助言を仰ぐようになった。だが、そうした努力や調査も実ることはなく、有効な解決策はなかった。
「このまま不法滞在か、素直に帰国か。相当悩んだけど、前者の場合二度と日本に戻ってくることが出来なくなる可能性もあるっていう助言もあって・・・。そうしたら帰るしかないでしょ」。そう呟く表情からはやるせなさが滲む。
帰伯後、当地で知り合った二世との間に一児をもうけた。「今はもう日本に帰りたいだとか言っていられない。子どものために家を建てないと。とにかくお金を稼なきゃ」と自分に言い聞かせるように語る。
だが、こんな言葉もポロリと漏らした。「死ぬときは、日本で死にたいなって思う。でもやっぱり難しいかな」。
この一言の奥には、本当の“祖国”はどこなのか――という深い問いかけがある。(2012年12月23日取材)
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