第65回 株式会社アルビレックス新潟 池田 弘 3

2010/02/15

第65回 株式会社アルビレックス新潟 池田 弘 3


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<新潟へ~愛宕神社の禰宜に就任>
父との約束を律儀に守り、25歳で神職に。しかしそこにはもうひとつの夢が

 フランス留学から帰国した従兄弟がいましてね。彼は、パリ大学などで学び、帰国後は、講師や通訳をしていました。彼といろいろ将来について相談する うちに、新潟で教育事業を立ち上げてはどうかという話が持ち上がったんです。私が22歳の頃だったと思います。当時ちょうど、生涯学習という概念が一般的に言われはじめていました。確かに、マズローの欲求段階説の5段階目は自己実現の欲求であるという考え方に従えば、人間は死ぬまで勉強したい生き物なのかもしれない。それに教育事業であれば、人材育成という意味で地元にも貢献できます。そうやって、だんだんと経営者になるための青写真ができ上がっていくんですね。

 経営者になるなら経理の知識が必須だろうと、簿記の学校に通って2級の資格を取得。そして國學院大学での研修期間を終え、私は新潟に戻りました。そして律儀にも(笑)、父との約束どおり、25歳でまずは神明宮の禰宜(ねぎ=宮司を補佐する神職)に就任するのです。それからの3年間は、自転車に乗って氏家さんの家々を回って、お祓いを続けました。この活動は、エリアでの自己基盤づくりとマーケティングリサーチを兼ねることができましたね。

 その間、縁あったスイス人の教授から「カリフォルニア大学で神道に関する講義を行なってほしい」という依頼を受け、3カ月間の語学留学を交換条件に渡米しています。実際に講義してみて、これほど東洋文化に興味を持つアメリカ人がいたんだと驚きました。また、渡米する前の2カ月間を使って、ヨーロッパを旅したんです。ユーレイルパスという列車乗り放題のチケットを購入して。食堂車で会ったベルギーの宝石商は、「これから地中海にバカンスに行く。1カ月ゆっくり休むんだ」と。彼は桁違いのお金持ちで、さんざんご馳走してもらいました(笑)。その後、夏のパリに降り立ったら、やはりみんな避暑に出かけていて、住宅街はガランとしている。一方で中心部は、観光の外国人が目立つ。様々な文化を知った、様々な人種の人たちと出会った。そういった意味で、この数カ月間は世界に触れられた貴重な経験となりました。

<宮司と理事長、二足のわらじ>
27歳で起業した小さな教育事業が、30年の時を経て一大コングロマリットに

 新潟に戻って3年後の1977年、愛宕神社の宮司に就任。そして同じ年に、くだんの従兄弟を共同経営者とし、新潟総合学院(NSG)を開校。私は理事長となりましました。開業資金はふたりの親から500万円ずつ借金した1000万円のみ。でも、境内に立てる校舎の建設費用は安く見積もっても2000万円強。そこで融資を受けるために銀行を回ったのですが、「ベンチャー以前にアドベンチャーですね。貸せません」と、ほぼ門前払い状態です(苦笑)。でも、最後にお願いした信用組合が、融資に応じてくれて、それで何とか事業をスタートさせることができたんですよ。

 神社が幼稚園経営しているケースはたくさんありましたが、私たちは語学学校から始め、学習塾や資格取得の学校、さらには専門学校を展開していく計画を立てたのです。そもそも起業の目的を教育に定めた理由は地域活性のため。地元に元気を取り戻すためには、県外へ出て行く若者に留まってもらうことが重要でしょう。そのために専門学校をつくり、卒業後も地元で働ける環境を整えたいと考えたのです。最初に学習塾や語学学校を立ち上げた時の講師採用では、「地元を活性化させたい」という理念を語って、「給料は成功報酬でお願いしたい」と口説きました。生徒ひとり1ヵ月の授業料が5000円なら、その半分があなたの報酬ですと。そんな地道な活動を続けていくうちに、信頼がクチコミで徐々に広がり、2年後に、日商簿記1級の合格率日本一を目指す専門学校を開校することができたのです。

 そうやって教育を軸に地元を活性化させるための努力を積み重ねながら、現在では29校の専門学校、大学院大学、大学、高等学校、学習塾を運営し、また医療・福祉機関も立ち上げるなど、NSGグループを成長させることができました。でも、教育を提供したら、やはりそれにふさわしい就職先が必要じゃないですか。たとえば日本一の賞を獲得した優秀なデザイナーを育てても、東京の会社にとられてしまっては意味がないわけです。ですから、創業5年目くらいからは、卒業生の受け入れ先をつくるべく、創業支援活動にも力を入れています。あ、ちょっと話が先に進みすぎましたね。では、私がプロサッカーチームの経営に参画することになった頃に話題を戻しましょう。

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