民団の北送反対運動 |
在日の生活権拡充を目的に結成した朝連を組織ごと乗っ取った在日共産主義者と日本共産党は、「共産主義革命が実現すれば幸せになれる」と在日を扇動して活動家に引き入れ、日本を共産主義化する武装革命闘争に駆り出した。
過去の日韓両国政府の政治から見捨てられ、見放された捨て子のような状況に追い込まれていた在日は、北軍政に拾われ共産主義思想政治の甘い夢物語の誘惑に騙された挙句に北送拉致され人質にされたのである。だが朝総連の勧誘した際の「北朝鮮で豊かな生活を約束する」という甘言は、すべて嘘であった。
政治の情報隠し詐欺工作に激怒して民団が初めて決起したのが「北送反対闘争」であった。北朝鮮の悲劇を熟知していた北朝鮮が故郷の民団幹部が主導した「北送反対闘争」に集結した全国の民団幹部は北軍政が引き起こした南侵(朝鮮)戦争により父母や、身内、友人を失った者たちであった。北朝鮮軍が韓国に侵攻した時、いかに残忍に同じ民族を殺戮したかを知っていた。
その残酷さを知る北朝鮮生まれの在日は北軍政と朝総連の言葉を信用しなかった。また共産主義者の話を信用したらトンデモナイことになるという心が民団有志の民族心を呼び起こした。この北送反対運動をリードした金致淳動員部長(元民団中央本部常任顧問)の日記から当時の行動を振り返ってみる。
1959年2月25日、民団本部「北送反対闘争委員会」を結成。
同日、東京日比谷公会堂において「北送反対集会」後、都内を街頭デモ行進。この日、全国45の地方都市でも街頭デモが行われる。5月15日から6月15日まで全国で「北送反対署名運動」を実施。6月17日、反対署名簿を国際赤十字委員会に提出。
6月25日、日比谷公会堂で3千名の「北送反対集会」、その後街頭デモ行進。8月15日、神奈川・鎌倉にて5千名が「北送反対集会」を開催。8月23日、赤十字国際委員会ジュノー副委員長が来日、1500名が羽田で反対デモ。
9月21日、日比谷音楽堂において3000名が反対集会、街頭デモ行進。同日から53名が芝公園にて「北送反対断食闘争」を開始。12月10日、品川駅からの帰還特別列車運行阻止行動実施。
苦難の北送反対闘争に明け暮れた年月を複雑な心境で思い出される民団一世が多数おられると思うが反対運動に決起した者は生活の余裕など全く無かった。
むしろ金成柱が言う「差別のない社会で豊かな生活」とは程遠い「差別のある社会で貧しい生活」を強いられていた。我が子の将来に不安を抱き、まともな仕事に就くことなど、殆ど不可能であった。
陰に陽に受ける差別に耐え生きていた民団一世諸氏は北軍政や朝総連の甘言に騙されることはなかった。
それどころか北軍政と朝総連の嘘を見ぬき「北送反対闘争」に決起したのである。北送反対闘争は約二年の長期戦であった。参加した民団有志の全員が苦しい生活を省みず最後まで頑張り通す事ができた理由はただ一つ、在日と日本人家族が不幸になり死ぬのを黙って見過ごすことはできないという人間の良心からであった。
生き地獄の北朝鮮に行けば酷い目にあう殆どが死ぬ事になる。
在日と日本人が不幸になるのを断じて阻止しなければならないという人間としての切なる思いが人々を決起させたのである。
しかし残念ながら北送反対闘争は日本社会では孤立無援であった。民団の請願運動に日本のほとんどの政治家や官僚は面会も拒絶した。日本政府は帰還実施は既定の方針であり実施あるのみという態度であった。民団の声に耳をかすことはなかった。
しかし日本の最後の右翼と言われた大日本愛国党の赤尾敏氏は民団が街頭デモを行うと古びた街宣車でどこからともなく現れ、北政権と朝鮮総連を糾弾し日本政府の失政を糾していた。日本国民の多くは彼を敬遠していたので民団幹部は困惑した。
だが当時を思い出すと、あの光景が何故か脳裏に浮かぶと民団一世の諸先輩が回想されていた。北軍政と朝総連と当時の日本政府の冷酷な態度に悔し涙を流し、歯噛みしながら運動を展開した反対運動のメンバーは血気盛んな年代であり、命がけで「北送拉致」を阻止するために必死であった。
そして事態が切羽詰る緊迫した状況を迎えたのである。誰云うと無く最後の手段として特別列車の運行を阻止することを決意した。
そして帰還者を乗せた特別列車の運行阻止に挑んだ。早速2隊の決死隊を結成した。1隊は品川駅で列車の出発を阻止し、もう1隊は新潟で線路に座りこみ列車の進行を阻止するというものであった。
全く無謀な作戦であったが、いよいよ「北送拉致」開始の日を迎えた。1959年12月10日は第一次船が出港する新潟に特別列車が品川駅を出発する日であった。
この日、金致淳動員部長は600人の抗議デモ隊を率いて品川駅へ向かった。品川駅は日本の警察機動隊のバリケードと朝総連が動員した警備隊によって二重三重のガードが固められ物々しい厳戒体制が敷かれていた。
金致淳動員部長ら何人かの仲間は改札口を駈けぬけた。だが、あっという間に警察機動隊に取り囲まれた。金属や警棒がぶつかり合う音と怒声や悲鳴に包まれ激しい小競り合いが起こった。
どれぐらいの時間が経ったであろうか。民団有志はやっとのことで九番線に潜りこんだ。ホームは見送りの人で埋め尽くされていた。
北朝鮮の小旗を振り、泣き叫ぶ声が周囲に溢れていた。
やがて特別列車は「ポォーッ、ポォーッ」という無常な汽笛を夜空に響かせ、ゆっくりと動きだした。小さな赤い尾灯が暗闇に吸い込まれるように消え、列車の汽笛はまるで死出の旅路を告げるかのような悲しい響きであった。
辛よ、さようなら、金よ、さようなら、君らは雨の降る品川駅から乗車する。李よ、さようなら、も一人の李よ、さようなら、君らは君らの父母の国へかえる。君らの国の河はさむい冬に凍る。君らの叛逆する心は一瞬に凍る。雨は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる。鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまひおりる。
これは中野重治の「雨の降る品川駅」という詩である。中野重治は日本のプロレタリアート文学を代表する共産党員の経歴を持つ詩人である。その彼でさえ北朝鮮へ向かう在日の未来に暗い影を感じ取っていたのであろう。
金致淳先生は「今でも品川駅に立つとこの詩を思い出す、北送される同胞の悲劇を思うと溢れる涙を止めることができなかった、同時に希望と不安に顔を強張らせ特別列車に乗って行った人達の姿が瞼に浮かぶ」と辛い思いを堪えて耐えておられた。
約十万人の人生を破滅させた「北送拉致」は、ついに開始されてしまったのである。新潟には関西から二百人を超える同志たちが駆けつけ総勢300人を超える決死隊が線路を枕に横たわった。新潟港の近くで線路を枕にして死ぬ覚悟で横たわったのだった。
参加した有志の一人は「レールを枕に横たわっていると列車が近づく振動音が近くなり大きくなった時、ああ俺は機関車に轢かれて、死んでしまうのかと観念した」と述懐していた。列車に轢かれる事を覚悟した命がけの行動であった。
だが列車は寸前で停車し、駆けつけた機動隊によって一人ずつゴボウ抜きに排除されてしまった。この最後の手段も圧倒的警官隊に排除されてしまった。この決死隊による抗議行動は約六時間、特別列車を現場に立ち往生させたが同志達は逮捕された。
だが決死隊の気迫に圧倒されたのか誰ひとり列車往来妨害罪に問われることなく全員が無罪放免にされた。拉致加害者の金成柱(金日成)と韓徳銖が英雄になり、人間を救う者達が逮捕される本末転倒の時代であった。誰もが皆、悔し涙を流した。
その無念さが今でも心に残っている。李麟基氏と車進は残された最後の手段は帰還船を撃沈するしかないと新潟港へ向かった。
本気で自爆するつもりであった。新潟で大量のガソリンを買い込めば怪しまれると東京からガソリンを持って行こうとしたが上野駅で公安に追尾され新潟駅で下車した途端、逮捕されてしまった。二人は北送者を収容する新潟日赤センターの放火も考えていた。
現在の民団幹部は民団の北送反対運動を知っているのであろうか。今の民団幹部は殆どが知らない。いやまったく知らないというのが現状のようだ。亡くなられた先輩勇者の嘆かれる声が聞こえてくる。
1959年の在日総数は619,096人であったというが、実に在日の約六人に一人が「北送拉致」されたのである。この数字を眺めていると何と多くの在日が犠牲者になったのかと愕然とさせられる。多くの罪なき無垢の在日と日本人を犠牲にした国家と政治の愚行により、北送拉致が実行された事実を思うと心の底から怒りがこみあげる。
近年は脱北難民の証言、北朝鮮潜入ビデオ等が報道され、北軍政による表面的な極一部分の人権侵害が世間に知られるようになった。だが在日と日本人が北送拉致された悲劇の真相は知らされていない。韓国でも在日と日本人が北送拉致された悲劇は一切報道もされていない。しかも未だに在日北送拉致犠牲者とは呼称していない。拉致の真相と経緯、その悲惨な境遇からして「拉致犠牲者」と云うべきである。在問研は在日の北送を「北送拉致犠牲者」または「拉致犠牲者」と呼称するのは北送拉致の真相を知らせるためである。
北送拉致犠牲者は処刑、餓死、自殺に追い込まれる犠牲者になっていた。脱北して韓国にいる在日北送犠牲者の子や孫が悔しい思いを堪え、北軍政と朝総連は勿論、何処の国も誰も信用できないと語っていた。思想政治と団体と組織に騙され裏切られたと嘆いていた。それなのに北送拉致と呼称せず未だに「地上の楽園、北朝鮮への帰還者、帰郷者、帰国者」と呼称している。
多くの在日は朝総連の報復に怯え硬く口を閉ざしていた。自分の子供や孫にも一切、何も言わないと語っていた。忘れたいという人もいた。だがその結果、在日は北軍政と朝総連に身代金と物資を搾取され、極悪非道な北軍政を延命させてきた大罪に気付いていない。だから在日を「洗脳犠牲者」と呼称している。
韓徳銖に騙され共犯者にされたことに気づき深く後悔し苦しんだ末、在日北送拉致犠牲者を救うため北軍政と朝総連の犯罪を糾弾するため戦った広島県出身の故呉貴星氏、新潟の張明秀氏を始め多くの朝総連の元幹部がいた。この勇気ある決断と行動を称えたい。非道な北軍政と朝総連と決別し、北送拉致犠牲者の救済運動を展開された元朝総連幹部がいたのである。その苦闘は筆舌に尽くし難い。朝総連の想像を絶する激しい弾圧の嵐が屈服せず、意志を貫いた事実を想う時、胸が張り裂け涙を抑えることはできない。
我が子を引き止められなかった父母が「アイゴー」と後悔の涙声を震わせ、そして他界された。姉や兄の無事を祈ることしかできず、涙する妹や弟達、そして人質となった北送拉致犠牲者の安否を気遣い朝総連の言いなり金と物資を渡さなければならない在日家族たち拉致犠牲者家族は洗脳犠牲者であった。だが子供たちを拉致された家族の心の痛みと怒りを抑えてよいのであろうか。これまでの北軍政と朝総連の大嘘が罷り通る時代は終わったのである。
「北送拉致」が開始された1959年当時、韓国の状況はどうであったのか、1960年4月26日、抗日独立運動闘士として輝かしい名声を誇った李承晩大統領もハワイに亡命し、韓国の国情は騒然となっていた。政治的混迷の中で民主党の張勉政権の第二共和制が成立したのも束の間、1961年5月16日、「軍事革命委員会」を率いてクーデターに成功した朴正熙政権が誕生した。
朴正熙政権が「革命公約」の中で認めているように国民生活は貧しく南侵後の韓国は食糧難が深刻で「ポリコゲ」が街頭に溢れていた。では北朝鮮はどうであったのかプロパガンダの大嘘宣伝であったが1957年からの経済発展第一次五ヵ年計画をスタートさせた北朝鮮は農業の集団化と商工業の国営化を終え「千里馬運動」の国民総動員方式により、60年代初頭は年平均20.3%という驚異的な経済成長を成し遂げるのに成功したと発表していた。
実に「北送拉致」が開始された50年代末には、北朝鮮の経済は韓国を完全に凌駕していたという見方が世界の大勢となっていたのである。韓国内で発表された論文(趙淳昇議員67年発表)では、1961年の南北の経済力の差は、北朝鮮の石炭産出量は韓国の2倍、発電量は5.7倍、製鉄量は16倍、肥料の生産量は10倍、セメント生産量は4.3倍と完全に水をあけられ、コメと麦の生産量でも農業国の韓国が北朝鮮に劣っていたと発表されていた。この時期の韓国は北朝鮮から「コメ支援」を受ける状況だという虚偽情報をプロパガンダが流していた。日本人も韓国人も在日も、この北軍政の出鱈目な大嘘を信じて疑わなかった。
当時の金成柱は「遠からず、わが人民は米の飯と肉入りのスープを食べ、絹の服を着てクジラの背中のような大きな瓦屋根の家で暮らすようになろう」と豪語していた。だが金成柱が豪語した経済発展は大嘘であった。現在の北朝鮮の悲劇の実情が証明している。
しかし当時は違っていた。このように「北送拉致」が始まった時期は、デマであっても、政治的にも経済的にも圧倒的に北朝鮮が輝いて見えた時期であった。韓国の肩を持つ者はおかしな奴、物好きな奴と思われる時代であった。
こんな状況下で民団の諸先輩は「北送拉致」反対に立ち上がったのである。民団の不思議な使命を感じると共に、北送反対運動に立ち上がった全員が民族の魂を守り、在日の歴史を創ってきた誇り高き精神の持ち主であった。
日本の諺で己の微力を顧みず大敵に立ち向うことを蟷螂(とうろう)のと謂(い)う。民団こそが在日と日本人妻ら家族の北送拉致に反対し、必死で活動を展開した「蟷螂の斧」であったと云いたい。民衆を虐げ殺戮してきた軍事独裁体制は必ず崩壊する。
いや消滅させねば人々は救われない。人々を虐待する北軍政が崩壊消滅する日は必ず訪れる。それは人類史が必ず証明する。
チョンヨンナム(鄭龍男)
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