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どの選挙制度が最適か - J.S.ミルの「代議制統治論」から
マスコミ報道でも、ほんの少しだが、「一票の格差」について厳密な区割りにすると、議員が東名阪だけになってしまうという懸念の声が出され始めた。一票の格差をなくせという主張は正論で常識だが、地方の議員が減ることによって、地方がますます衰退するという指摘も常識だ。選挙制度については、これが絶対というものはなく、どれも一長一短があり、すなわち熟慮とフィードバックで調整を図り、よりベターなものに仕上げていくという方法を選ぶ態度が必要だろう。その点、今回の議論では、地方の弊害があまりに無視されすぎていて、「一人一票」の原理主義が怒濤のごとく司法とマスコミによって扇動され、厳密な区割りの徹底こそが真の民主主義で絶対的正義だと喧伝されている。デメリットが捨象されている。そして、その運動の旗を振っている連中の素顔を見ると、小泉構造改革の主役だった毒々しい面々ばかりという不気味な事実に気づく。ここに、危険で奇妙な政治の臭いを嗅ぎつけない人間はいないだろう。支配者側の動機と欺瞞がある。相反する常識と常識を秤にかけること、矛盾する二つの制度上の利益を比較衡量して、妥当な線引きを慎重に図ること、こうした姿勢が、今回の司法判断とマスコミの議論では見られない。本来、それをするのが司法であり、法曹家の使命ではないのか。弁護士のバッジには秤が彫られている。法の女神テミスは片手に天秤を持っている。第一東京弁護士会はHPで、「法の本質はバランスにあり」と言っている。


相反する二つの原理や利害のバランスをとるのが、まさしく司法の任務なのだ。国民の投票権を平等にすることは当然だが、それによって生じる弊害、その制度判断によって失われる利益も秤の一方にかけなくてはいけない。両方を丁寧に衡量しなくてはいけない。地方から代表たる議員が減ることは、地方に住む者の声が国会に届きにくくなる事態を意味する。政策、予算において地方のウエイトが軽くなる不利に直結する。TPP参加が推進され、農林水産業を担う地方に打撃が与えられようとしているとき、「一票の格差」で追い討ちをかけるのは、到底、女神テミスの化身がとるべき権利調整ではない。その観点に立てば、今回の司法判断とマスコミの言論攻勢は、政治的にきわめて反動的な性格を持つもので、地方を切り捨てる意図が露骨に現れた新自由主義の政治そのものだ。3/29の報ステに出演した片山善衛が、都市と地方の格差の問題に言及し、一つのソリューションを提案していた。衆院は厳密に区割りをして、参院を米国の上院のように地方代表の原理で選出するという案だ。バランスの取れた良識的な見解と言えるだろう。伊藤真も、せめてこの程度のことは言わないといけないはずだが、「一人一票実現国民会議」は単に「一票の格差」を言い、憲法違反を喚くだけで、片山善衛レベルの配慮すらない。どう考えても非常識に見える。

ネットの一部では、小選挙区制を廃止して全国一本の比例代表制にすべきだという意見も出ている。これも一つのソリューションであり、現行の並立制で区割りを司法に従って厳密にした21増21減案や、そこからさらに比例定数を削減させる朝日や民主党の案よりは、ずっとよい結果を導く制度だと言えるだろう。が、この案も完璧というわけではない。それでは、私自身は選挙制度をどうすればよいと考えているかと言うと、漠然と、「政治改革」以前の中選挙区制に戻すのがいいと思っている。理由については、他の案を圧倒できるほどの自信はない。「一票の格差」の正論の前に、制度論として説得力を欠くことも承知している。敢えて言えば、春秋時代に生きた孔子が、周代の徳治を理想として仰ぎ、周礼に即くことを説いて回った心境と同じだろうか。私は、山口二郎の「政治改革」を憎悪している。あの過誤が今日の日本の破滅と悲惨をもたらした張本人だ断ずる。だから、政治は「政治改革」以前に戻らなくてはいけない。その信念があり、そこから、何か新しい制度設計の可能性を考えるよりも、過去の伝統に復古した方がいいと確信するのである。「政治改革」によって1991年に小選挙区制が導入されるまで、戦後の中選挙区制は半世紀もずっと変更なく続けられていた。そして何より、この時代の日本の政治が、最も真の民主主義に近い像を提供していた。孔子の周代が私にとっての1970年代だ。

この中選挙区制の時代、選挙はマスコミの影響力で決まるものではなかった。選挙区の地域が独立した政治空間であり、それぞれがユニークな特色を持ち、そして国民の政治への関心が高く、各政党の運動員が熱心で、投票率も高かった。そして、何より政治の結果がよかった。所得倍増、福祉国家、平和外交、アジア諸国からの尊敬。小選挙区制になって以降、政治がもたらす結果は悪いものばかりだ。経済の長期低迷、格差と貧困の拡大、官僚の腐敗と堕落、対米盲従、近隣外交の破壊。これは偶然だと言えるだろうか。政治のシステムと無関係の社会現象だと言えるだろうか。私はそうは思わない。J.S.ミルの『代議制統治論』(岩波文庫、水田洋訳)を読んでいると、第二章の「すぐれた統治形態の基準」の中に、次のような記述がある。「総じて統治というものは、一つの手段にすぎないのだから、手段の適格性は、目的に適合しているかどうかにたよらざるを得ない(略)」(P.35)。選挙制度も手段であり、手段の是非論においては、それが目的をどれほどよく実現するのかが検討されなくてはならないのであって、手段そのものを目的化する思考で制度を考えるべきではないのである。「政治改革」以降の小選挙区制と過去の中選挙区制を白いネコと黒いネコとして比較したとき、どちらのネコがネズミをよく捕獲したかは歴然で、そこに議論の余地はない。それは、理論ではなくて経験がわれわれに教える真実である。中選挙区制の方が優秀な代表を選び、憲法が理想とする民主主義をはるかによく機能させていた。

ミルは次のようにも言っている。「代議合議体の本来の任務は(中略)政府を監視し統制することである。すなわち、その諸行為に公開性の光をあて、だれかが疑問に思うすべての行為について、十分な説明と弁明をさせ、断罪されるべきことがあれば非難し、また、政府を構成している人々が、その信託を悪用したり、国民の熟慮された意向と矛盾するやり方でその信託に対応するならば、彼らを免職(中略)することである」(P.138-139)。この指摘は、民主主義の統治機構の一般論だが、われわれにとってきわめて重要な啓示でもある。「政治改革」以降、本当に国会の官僚への監視能力が衰えた。官僚が政治家と一体となり、司法およびマスコミと結託して巨大権力となり、国民は官僚の暴慢と独善を抑えることができなくなった。中選挙区制の時代と小選挙区制の時代を比較して私が論じた上の「結果の事実」について、外交や安保の問題については、右翼が口を尖らせて異議を言うかも知れないが、経世済民や国民の福利の問題については、右翼の中でも半ばは同意だろう。だが、官僚の腐敗堕落については、誰も反論を返す者はいないのではないか。「政治改革」の前と後を較べて、大きく変わったのは、官僚に対する国民の評価と認識である。嘗ては、国民は官僚を優秀だと認め、その行政手腕を信頼していた。政策も予算も、安心して官僚に任せて委ねていた。官僚は国益を守り、国民経済と国民生活を守っていると思っていた。現在は違う。マスコミに対する評価も、アカデミーに対する評価も変わった。エリートがマイナス・シンボルに転じたのは「政治改革」を起点としている。

私の主張は、選挙制度だけを中選挙区制に戻せばいいというものではないし、制度としての中選挙区制が真の民主主義に最も近いという認識でもない。単なる制度論を言っているのではない。変わるべき、戻るべきなのは、制度だけでなく人間であり、有権者も、政治家も、政党も、そっくり「政治改革」以前の70年代に帰る必要があると言っている。だから、孔子的だ。失われた黄金郷があり、二度とそこに帰れないというペシミズムを含意した回帰論であり、現実的には困難という前提の上での理想論である。人の生き方や考え方を変えないといけないし、もっと言えば、元の中選挙区制に戻して、一票の格差の問題が起きないように、人口の再配分(都市から地方への人口移動)をしなくてはいけない。そうして経済社会が回って、再び都市圏に人口が集中することがないように、地方で人が暮らせる経済システムが実現されてなくてはいけない。経済のグローバル化が進行する中で、人は自然に便益を求めて都市に集中するようになり、資本はそれを促し、人が過疎地に暮らすことをコストとして認めなくなる。新自由主義のエコノミストである飯田泰之は、まだまだ集中が足りないと言い、東京はまだ2倍くらい人を増やす余地が十分あると言っていた。地方を捨てて早く東京に出て来いと、地方住民を日本経済のお荷物扱いにして言っていた。東京で生まれ、東京の私立中高を出た飯田泰之や霞ヶ関の官僚は、このような発想を平気でするのであり、地方を切り捨てるべきコストとして政策を立案する。

「政治改革」以降に生まれた新しい政党は、基本的にこうしたネオリベ発想の政策が持論であり、それがためにTPPも止めることができなかった。私の考え方は彼らとは根本的に異なっていて、現在の道県制を重視し、司馬遼太郎が説いたように、地方の独自性を尊重し、その文化的多様性を日本の強みにするべきだというものだ。いわゆる第2次産業や第3次産業について、それが何も都市部に集中して配置されなくてはならない理由や必然性はない。そのような経済合理性はない。工場が地方にあってよいし、本社の事務所が地方にあって何の不都合もない。高速の交通と通信のシステムで列島全土を結べばよいだけだ。であるなら、政治は国土の均衡的発展を目指すべきで、東京への一極集中を避けるべきである。戦後、中選挙区制が施行された時点の、各都道府県の人口バランスに戻すように、経済を組み立て直すべきであり、都市部の歪な人口密集をやめ、都市と農村のアンバランスを是正するのが正しいあり方だ。人は自然に近いところで子育てをすべきで、先祖の墓に近いところで人生の最期を迎えるべきだ。1970年代、大平正芳の頃は「定住圏構想」という政策があり、地方に住む者にも都会と文化的差別がないようにしようという思想があった。今、こんな話を持ち出すのは、まさに浦島太郞だが、土地バブルのときに首都機能移転構想が起きたように、いずれまた日本人も反省のときを迎えるものと思いたい。


by thessalonike5 | 2013-04-01 23:30 | Trackback(1) | Comments(3)
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Tracked from NY多層金魚 = Con.. at 2013-04-01 22:55
タイトル : まちがいなく4丁目 / 友だちについて Positive..
 この稿は、ボブ・ディランの65年の名作、Positively 4th Street の一曲にしぼって書く。実に美しく優しい曲想のうえに、友人に対する「妥協しない辛辣な敵意」をつづったとされているが、ぼくなりに聴き込んだかぎり、言葉の激しさと反比例して、ディランの果てしない優しさのみが表現されている気がしてならない。どこの国で生活していても、人びとは最初優しく近づいてきて、もともと深い関係の友人同志だったんだ、というようなことを言う。だが、次にあったとき、君はすでに「勝ち組」を目指していること......more
Commented by かまどがま at 2013-04-01 19:55 x
予算の削減を目指す時、地方議会でも議員の数を減らすという発想はそもそも民主主義を軽く考えているのではないでしょうか。
少数意見を尊重するためには議員の数を減らすことは致命的です、予算が足りないのなら、議員定数は減らさずに、議員報酬を減らせば済むことです。

議員は本来はビジネスではないのだから。
Commented by J.S.ミル at 2013-04-01 20:11 x
中選挙区制のルーツは、伊藤博文が導入した「大選挙区制」のようですね。J.S.ミルが「代議制統治論」で推奨しているヘア式比例代表を念頭に、つくられたようです。

https://sites.google.com/site/japanstv/chusenkyo/nontransfer

一部の「政治学者」が、中選挙区制は派閥の弊害とか言ってますが、おっしゃるように、小選挙区比例代表並立制の制度の弊害よりよっぽどマシだと思います。あの頃は、政治学者とマスコミの「政治改革のキャンペーン」に騙されてしまいました。
Commented by たこすけ at 2013-04-02 00:00 x
こんばんわ。
いつも楽しみに拝見させて頂いております。

ここのサイト主様があまりにも気の毒なので、
どうか拡散支援させて下さい。

http://blog.goo.ne.jp/toip_hokkaido/e/6d677ffe9b3a52084377c993405b2b73

真摯な市民の意見に対して、こんな不誠実な回答をする議員。
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