2013-04-01 02:07:55

とうごう薬局

テーマ:ブログ
2013年3月31日、とうごう薬局は閉店しました。


この二ヶ月は、とにかく悩むことも凹むことも多く、
この数日は、何度も何度も二年前のことを思い出した。


2011年3月11日に東日本大震災がおき、


先陣きって有志を集め、支援活動を開始したひとがいた。

そのメンバーに加わった私は3月21日に初めて被災地入りしました。


車からあふれんばかりに物資を詰め込み、
朝方に用意したおにぎりをもって。


仙台手前のインターでトイレにいったときに驚きと同様を隠せなかった。


外観は何事もなかった、中に入ったら当たり前の日常はそこにはなかった。


水が流れないため、水洗トイレの便器には、考えられないくらい便が重なっていた。


和式だけでなく洋式も便座の高さ以上に便が重なっていた。


日本で初めて、通常じゃないことを体感してからは二日間しんじがたい光景ばかりをみた。


どこにいっても真っ暗な夜を初めて体験した。

暖房をつけてダウンジャケットをきても車の中は寒くて全然眠れなかった。


被災された方々は、どんな思いで屋根も囲いもないとこで過ごされたのだろうと、その思いは計り知れなかった。


初めていった被災地は、ガソリンの問題で宮城の石巻、多賀城、福島いわきに留まった。

そこから次々にピストン輸送でみんなで物資を届けた。


私が岩手に入ったのは4月9日だった。


ナビは当てにならない、道なき道をいき、もはやどこにいるかなんてわからなかった。


橋は落ち、道はくずれ、陸前高田は
一面瓦礫の山だった。


大槌では火事があり、走っても走っても町が焼け焦げ、色のない世界で、時が止まってるように思えた。

山田では、至る所に書かれた大きな赤い丸の印の意味を知ることになった。


日本がこんな状態に陥っていることがしんじがたかった。


被災地にいくときは、東京からご飯をもっていき、お腹がすいたらそれをたべ、お風呂には入れない日々をすごした。

被災地の方々にくらべれば、そんなことはなんっとも感じなかった。


東京ではひたすらに、情報をかきあつめた。


薬局をやり始めるきっかけになったのは陸前高田の高田病院にいったことだった。


病院は被災したため公民館を病院として使用していた。

物資をもっていくと、混雑の中にホワイトボードがあった。
そこには、薬を受け取っていない患者様の名前がずらりと書かれていた。


当初、薬の流通が滞り、診察できてもすぐに薬を患者様に渡すことができず、数日後に薬を取りにくるよう告げられていた。

しかし被災して履物もなく、雪もちらつくくらい寒い中、瓦礫の山を移動手段がないから歩いて片道一時間かけてやっとこさ病院まで辿り着いた方々にとったら、数日後に来ることすら苦難だった現状があった。


なんとか薬を渡せないだろうか。
病状の悪化をなんとか防ぎたい。
足がない方々の足になれないだろうか。


そんな思いがきっかけで。

医薬品を合法的な形で提供できるように薬局があればいいなあと。


陸前高田に9つあった薬局は全て流されてしまったこともあり、
困ってる方々の手となり足となり、何かできることはないかと考えた。


実行にうつしたのは支援活動団体のリーダーであり、後に薬局をつくった富山さんだった。


陸前高田出身の観光大使の方にお会いし相談したら、
是非自分の土地をつかってやってほしいとの返答があり、
高田病院の院長先生と4月25日にお話をし、
急展開で薬局開局が具体化した。


薬局をひらくなんて、全く想像もしてなかったしまさか現実になるとは予想してなかったけど、とにかくがむしゃらになって手続きに走り回った。

土地の農地転用などがありだいぶ遅れながらも2011年7月20日に、プレハブで薬局が建った。


まわりにはなんにもないなか、薬局が始まった。

地域の薬剤師会からは、処方箋一枚が減るから迷惑なことをするなといわれた。

それでも困ってる方々がいたから、やれた。


自分の家もそのままに、引っ越す場所もなく、
陸前高田の宿を借りて暮らした。

食べ物を買う場所がなく、ご飯を食べることに苦労した。

不手際もありながら始まった薬局だったけど、東京で一緒に仕事をしてた薬剤師と事務さんを連れてきて、みんなで一生懸命やった。

お客様がいないときは、仮設まわりをした。

休みの日には、物資を持って仮設をまわって青空いちをした。

少しずつ、患者様のお役に立てるようになっていった。

2011年9月の終わりには薬剤師会から要請があり大船渡で薬局をやれないかと言われた。

小児科の門前薬局がなくなってしまうため、できる薬局をさがしてると。

調剤は大変なのに売上が少ないから誰も手を挙げなかったから、最終手段として話がまわってきた。


被災地で困ってることならやりましょうと、話を受けることになり、10月は開局の手続きに走り回ってなんとか間に合わせて11月にとうごう薬局大船渡店をオープンさせた。



なんとかかんとかやり繰りして今までやってきた。



しかし陸前高田でやってた薬剤師さんが東京へ帰ることとなり、かわりの薬剤師さんが見つからず、最後の最後まで粘ったけど、薬局をしめることになってしまった。



彼は私の大学の先輩にもあたり、一番最初に声をかけて東京から来てくれた薬剤師さんで、4月から夢を叶えるために専門学校へ通うこととなった。


ここへ来たからこそ、諦めた夢をもう一度叶えたいと思い、諦める人生はもうやめようって決めたと、決意は固かった。


一年前から薬剤師を探してきたけど、どうしても見つけることができなかった。

高田の薬局を開いたことは、とっても特別なことであり、私の人生の中でもものすごく大きな出来事だった。

閉める選択肢なんて今まで一度も考えたことなかった。


自分の家族を無くしたような、そんな気持ち。


たくさんの方々に、私が高田にきて薬局やってよ、っていわれた。


私もそうしたい思いでいっぱいだった。


けれど、地域全体のことを考えたら、それだけでは、だめなこともたくさんあった。


大船渡の薬局を無責任に放棄することもできなかった。

どうしたらよいかわからなくて苦しかった。


申し訳ない気持ちと悔しい気持ちと情けない気持ちでいっぱいで。


どうにもならないこともあると思うと力不足だなと感じた。


今日新幹線のホームで東京へ帰っていく薬剤師を社員みんなで見送ったあとは、涙がボロボロ出た。


寂しいけど本当に感謝している。
彼がいなかったら、ここまでやってこれなかった。
後任が決まるまでは残ってほしかったけど、止める権利は私にはないし、
彼にとっても人生の大きな転機となったことは、とっても嬉しいし、やり抜いてほしいと思った。


場所を提供してくれた方々、薬局を利用して下さった方々、地域住民の方々、薬局を支えてくれた事務さん、薬局を訪れてくれたボランティアの方々、地域の薬剤師会、病院、診療所、先生方、ボランティアメンバー、友人、恋人、家族、社長、

本当にいろんな人が支えてくれて成り立っていたことに心から感謝しています。

ご迷惑をおかけした方々がいることは事実で、やりきれない思いもありますが、薬局としてだけじゃなく、あの空間がだいすきで安らげる場所だったとおっしゃってくださる方々がたくさんいて本当に必要とされ愛された薬局だったんだと感じることもできました。


形はちがうとしても地域の方々のニーズに応えていける役割は今後も続けていきたい。

薬局も、薬剤師さんがきてなんとかまた復活できることを祈って。


明日からリハビリ部門には新入社員が増えますし、
私はまだまだ岩手県民でいることですし、気持ちを新たに前向きにいこうと思います。
本当に皆さんありがとうございました。
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コメント

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1 ■無題

とうごう薬局さんなくなっちゃうんですか?
竹駒という町に薬局が出来て
とっても便利でした!
なくなるのは寂しいですが・・・・
今まで本当にお世話になりました♪

2 ■はい…

>*apoko*さん
薬局としては機能できなくなっちゃいましたが…


建物はまだあるしっ!
また新しいことやれるようになったら告知します。本当にありがとうございました。今後もよろしくお願いいたします!

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