遮那王について言えば、弁慶と同じように水干(すいかん)の白に人物デザイン的な意図があるのに加えて、さらに重要なのは顔を隠すようにかぶっている赤い紗(しゃ)のカツギです。
これは、鞍馬寺にあったものを和尚がくれたという設定で、決して女装しているということではありません。当時の概念では、元服前の人間というのは男でも女でもない、性別がはっきりしていない存在なので、女装する、ということ事態あり得ないことです。
重要なのは、女性のカツギをもっているというより、その赤という色です。
脚本上、弁慶が赤装束の禿(かむろ)と遮那王を間違えるという設定なので、その装置としての赤という意味合い。そして、そこに込められている皮肉としての赤の意味合いです。福原の清盛の赤、禿の赤とつながっていることで、そこにアイロニーを込めています。
清盛は時忠に、自分がいない間、都が気がかりであることをそれとなく告げる。ただし禿のような存在を使って、あたかも秘密警察のように平家に逆らう者、平家を悪く言う者をしめつけるように指図したかどうかは、脚本ではつまびらかにされていません。しかし時忠はそれが平家にとって正しい行いと信じて禿を京にはなちます。
赤のカツギをかぶっていたために、弁慶に禿と間違えられる遮那王。しかし、そのことによる2人の出会いが、ゆくゆく平家打倒の大きなチカラになっていくという皮肉。また、平家の象徴である赤をまとった禿は、清盛にたいして重大な過ちを犯すという皮肉。人物デザイン的には、この場合の、清盛の赤、遮那王の赤、禿の赤は、人の業の深さ、人生の皮肉さをつなぎ止める重要な色であり、「赤の皮肉」とはそのような意味合いを指しています。
遮那王(義経)を描くときに、水干(すいかん)姿というのは1つの伝統的な文脈ですね。今回の場合、その水干が源氏の白であること、かぶっているカツギが平家の赤であることが何より重要で、そのほかは遮那王や義経のパブリックイメージを踏襲しています。
ただ、裏話的なことを言えば、ポスターで遮那王がかぶっている桃色のカツギと、劇中で遮那王がかぶっている赤いカツギは同一のものです。ポスター撮影のときにはまだ、遮那王と弁慶が五条大橋で出会うところの脚本があがっていませんでした。脚本が出来上がってきて、「えっ、赤なの!」と(笑)。そのとき赤のカツギは手元になかったし、染める時間もない。そこでポスター撮影に使ったカツギを美術部に急きょお願いしてエアガンで赤くしました。これは本当に苦肉の策でしたね。しかし思いのほか良い出来になりまして、「あ、いざとなればこの方法もありますね」などと、またひとつ新しい技法を発見させていただいた次第です(笑)。