ドラマをより深く楽しむためのまめ知識<ひと目でわかる大河ドラマ「平清盛」>はこちら→
当時の五条大橋については諸説あり、京には五条大橋はかかっていなかったという説もあります。私どもは二人の出会いのエッセンスは押さえつつも、川端や橋下に街並みを作って、このドラマなりの世界観で五条大橋を表現しています。
このドラマにも登場している藤原兼実(ふじわらのかねざね)の日記「玉葉」(ぎょくよう)に、承安2年(1172年)9月、「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」という文とともに宋から後白河法皇と清盛に贈り物が届けられ、これを兼実たち当時の貴族は、外交辞令に反する行為として、贈り物は受け取らず、返牒(へんちょう:返事)も出すべきではないと反発したとあります。
この記述と時代考証の先生の御意見をもとにドラマ化しました。「日本国王」という文言は、原文のまま使用しています。「日本国王」は当時の実質的な権力者・後白河法皇、「太政大臣」は平清盛を示していると解釈しております。
私どもは「玉葉」の内容に従い、「日本国王に賜ふ」という文面の「賜う」が、目上の人から目下の人に使う言葉であり、それが日本を見下した言い方であるということが理由で、当時の貴族たちが反発したと解釈して、そのようなシーンに致しました。
『平家物語』にその存在が記されています。 身寄りのない子どもたちを、髪をかむろ(おかっぱ頭の子ども特有の髪型)にして、赤い直垂を着せ、京の市中を見回りさせました。平家のことを悪くいうものがあれば、これを聴きだして、その家に乱入し、資財、雑具を没収し、当人をとらえて六波羅に突き出したとあります。内裏の中にも出入りしていたようです。
「禿」の衣装で、赤い羽をつけておりますが、これは創作です。
律令制(りつりょうせい)の下では、公的に「平家」「藤原家」など「家」(いえ)を名乗れるのは、三位(さんみ)以上の上流貴族、すなわち公卿(くぎょう)に限られていました。
清盛は1160年に正三位(しょうさんみ)となり、上流貴族の仲間入りを果たします。それ以降、清盛は急速な官位の昇進を果たし、政局を左右する政治勢力に成長していきます。ドラマでは第29回(7月22日放送)より、「平家」を使用しています。
今宵こそ 思ひ知らるれ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり
(意味)今宵の御葬送に参りあって、ほんとうに思い知らされるのです
亡き君に浅からぬ、ご縁があるわが身でありますことを
◎1156年 保元元年、高野山を下山した西行が、鳥羽上皇の葬送に参列した折に残した歌と言われています。(「山家集」より)
強訴とは、朝廷に不満を持った僧侶たちが要求を通すため、武装をして神輿(しんよ・みこし)を担いで訴える行為をいいます。当時の寺社(じしゃ)は、大きな経済力、武力をもった一大勢力でした。
彼らは自分たちの政治的要求を通すために、神輿を担ぎました。当時、神輿を傷つけると神罰が下ると信じられていたので、神輿を担いだ僧侶たちに対して、武士たちは手出しをすることができませんでした。せいぜい武力で脅して、彼らの暴走を防ぐことしかできなかったのです。ドラマよりさかのぼること約40年前の1095年、時の関白であった藤原師通(もろみち:藤原忠実(國村隼)の父)が比叡山の強訴を直接、武力で鎮圧した直後、急死してしまいました。それ以来、神輿に矢を放つことができなくなり、朝廷も武士も強訴を抑えることに苦慮し、寺社の発言力がますます高まることになったのです。
鎌倉時代中期に成立したと言われる「西行物語」という歌人・西行の出家から死までを描いた物語では、義清が出家を決意すべきか悩んでいた時に、幼いまな娘が袂(たもと)にまとわりついて離れなくなり、この愛着を断ち切らねば出家できないと思い、娘を縁側から蹴落としたと描かれています。義清の出家の動機や経緯については諸説あり、この物語の内容が、実際にあった話かどうかは分かってはおりません。なお、子どもを蹴飛ばしているようにみえますが、映像編集でそのようにしておりまして、実際にそのような行為は行っておりません。
『源平盛衰記』に義清と「申すも恐れある上﨟女房(じょうろうにょうぼう:身分高き女性)」との間に男女の関係があったとあり、また西行の恋の歌で「数ならぬ身」を嘆き、たった一度の逢瀬(おうせ)を思い出に出家をしたとあるところから、西行と璋子との間に男女の関係があったという説が生まれた、と言われています。
待賢門院璋子・研究の第一人者である大阪市立大学元教授の角田文衞氏は、著作『待賢門院璋子の生涯』において、西行の出家と待賢門院の出家に関連づけた学説を展開しており、そうした説をもとに想像力を加えてドラマ化いたしました。
九州・博多にある神崎荘(かんざきのしょう)の倉敷(くらしき)というところです。
平氏は、肥前(ひぜん・今の佐賀県)にある鳥羽院領の荘園(=鳥羽上皇が治める所領)・神崎荘(かんざきのしょう)の管理を任されていました。
神崎荘が交易を行なう拠点が博多の港にあり、平氏はその地を使って、中国(宋)との交易を行なっていたと考えられています。そこには倉庫が並んでいたことから、神崎荘・倉敷と呼ばれていました。
当時、博多は国の管理下に置かれ、大宰府(だざいふ)にその管理を任されていました。博多には外国人街があり、交易で大いににぎわっていたそうです。
ちなみに、「清盛紀行」で取りあげられた佐賀県神崎市は、平氏が管理を任されていた荘園・神崎荘があったところで、ドラマに出てくる神崎荘の倉敷(=商業地)は、博多にあった平氏の貿易拠点です。
日本での銭の使用は、奈良時代から平安時代中期までで、11世紀以降、歴史料から姿を消し、銭はまったく使用されていないと考えられています。
再び史料に登場するのが12世紀半ばの宋銭です。それまでは商取引に米・絹・布などの物品や現在の手形類似のもの(これで米や絹・布と交換できる)が使われていました。
宋銭はまず、博多に常駐する宋商を中心に形成された中国人街での使用からはじまり、そこに出入りする日本商人を伝わって、全国に広まっていったと考えられています。
当時、政治の実権を握っていた鳥羽上皇が発行した証書(しょうしょ)のことです。平氏の棟梁・忠盛は、貿易を独占的におこなうために、『院領・神崎荘における交易に大宰府が関与することを禁ず』という院宣を偽造して、大宰府(だざいふ=貿易を管理する役所)が介入することを禁じました。
考証を担当する先生の意見では、藤原氏、平氏、源氏など貴族や上流武家の子息で、まだ独立していない息子を「御曹司」(おんぞうし)と呼び、彼らよりさらに高貴な身分の子息を呼ぶときに「公達」(きんだち)を使うそうです。
栄華を極めた清盛を描いている「平家物語」の中では、平家の子息は「公達」と呼ばれ、源氏の子息は「九郎御曹司」(くろうおんぞうし)という呼び名に象徴されるように、御曹司と呼ばれています。
しかしながら、まだ青年期の清盛の段階では、平氏の家格(かかく)がそれほどまで高くないので、「御曹司」と呼ぶことにしました。ドラマの後半、清盛の出世に伴って平家の子息を「公達」と呼ぶことにしています。
原作はありません。脚本は藤本有紀さんのオリジナル作品です。
関連出版物としては、ドラマガイドブック、ノベライズ版「平清盛」が発売されています。
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ドラマの劇中音楽として、キース・エマーソン、グレッグ・レイク作曲、吉松隆編曲、東京フィルハーモニー演奏による「タルカス」という曲を使用しています。以前に「タルカス」を、音楽を担当する吉松隆さんが編曲したことがあり、作曲者の許可を頂いた上で、「平清盛」の中で劇中音楽として使用できることになりました。
法皇(ほうおう)・上皇及び天皇、さらに后(きさき:中宮・皇后など天皇の妻の総称)・女院(にょいん:天皇や上皇の側近くにいる妻や娘のうちから選ばれる)などを含む、この院政(いんせい)期特有の権力形態を「王家」と呼んでいます。
大河ドラマは専門家による時代考証に基づいて制作しています。
専門家によれば、平安末期から鎌倉期にかけての中世史研究の歴史・学術的分野では、当時の政治の中心にいた法皇・上皇を中心とする「家」を表現する上で、「王家」という用語が使われており、それに基づいて使用しています。
また、「王家」および藤原摂関家などの上流貴族や新興貴族などを含む、政治を司(つかさど)る人々全体を「朝廷(ちょうてい)」と呼んでいます。
今様(いまよう)という平安時代後期に流行した歌です。
メロディは現存していないので、音楽を担当している吉松さんが、雅楽(ががく)の香りを残しつつ、分かりやすくシンプルでありながら、微妙なゆらぎを持ち、繰り返しドラマの中で聴かされても飽きないものを目指して作曲しました。
詞は「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ ゆるがるれ」です。
意味についてはいくつかの解釈がありますが、このドラマでは「子どもが遊ぶときは、時の経つのも忘れて、夢中になる。子どもが遊ぶみたいに、夢中で生きたい」という意味で歌っております。
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