2005年    
  11月09日(水)
「すべての民の御母」

「すべての民の御母」はちょっと・・と思います。
(以下、ここは限られた人しか見ていないので気楽に書きますが・・)

初めて「すべての民の御母」のサイトを読んでみました。(今まで敬遠していたのは、「すべての民の御母」の絵が、何となく聖母にそぐわない、軽い感じがしたからです。少女漫画のテイストというか。)

で、内容を読んでみましたが、やっぱり嫌悪感を感じてしまったのです。
教会の真理(御聖体、ロザリオ、犠牲など)を織り交ぜてはいますが、やはりしっくりこないと思うのは、私の堅い頭のせいでしょうか?

聖母はおっしゃったそうです。「この祈りは、忙しい現代人のための短い祈りです」と。
何だか笑ってしまいまいした。
聖母がそんなことをおっしゃるでしょうか? つまり、現代人の忙しさというものに、それほどの御同情と御理解をお向けになるものでしょうか? つまり、私達の謂うところの「忙しさ」は、そもそも神様の御同情を惹く体のものでしょうか? ・・・本当に?
ロザリオを5連祈るのに、人はどのくらいの時間を要するでしょう。30分? 祈りにその程度の時間さえ取れない人というのは、いるのでしょうか? そうして、この質問に対して「はい、それは私です」と手をあげるような、そのような精神の人の便宜を図って、聖母がより短い祈りを提案なさる、などということが、本当にあるのでしょうか?
そのような祈りの提案によって聖母がロザリオの祈りの必要(の強調)を少しでも薄めるようなことが、あり得るのでしょうか?
それに、そもそも短い祈りというのなら、不思議のメダイのお祈りとか、何より天使祝詞があるではありませんか。
変だねぇ・・

そのサイトの管理人さんはこう書いています。
「確かにマリアが無原罪の御宿りであり、そうあり続けるのは真実です。しかし、すでに説明したように、聖母は全く違うことを問題にしていらっしゃるのです。聖母は、すべての民の婦人として全キリスト教一致を目指す気遣いゆえに、ほとんどカトリックの信者によってのみ使用され理解される『無原罪の御宿り』という言葉を意識的に避けられたのです。プロテスタント各派に属する何億もの兄弟姉妹は、『無原罪の御宿り』という言葉が入っているような祈りを受け入れたりはしないでしょう。ましてや他の宗教の信者ならば尚更でしょう。しかし、イエスの御母が『かつてマリアであられた』という事実ならば、『誰にでも』祈りながら認めることができます。」

何だか口当たりのよいような、また同時によくわからない説明ですが。
聖母がカトリックのカトリック的であるところの特質を改変なさるということはあるでしょうか?
聖母がすべての人間の救われを熱望されていることは間違いありませんが、それは天主御自ら建てられた教会の「唯一、聖、公、使徒承伝」を少しでも崩すことによってでしょうか?
そのような方法によって人間が救われれば、それでよいです。それは間違いありません。でも、それはあり得るでしょうか? 聖母のイメージを「神の御母」から「すべての民の御母」「すべての民の婦人(!)」にシフトさせることで、実際少しでも人間を救う力が増すのでしょうか?
それは、あまりに「人間的」な発想ではないでしょうか?

この幻視者に現われた「婦人」は、人間にとっての言語イメージの効力を買っていなさるようです。それもあまり格調高くない、「野に下った」と言いたくなるような次元において。聖母も世間的プロパガンダの力をお学びになったというわけでしょうか?
そんな、人間に通りのよい言葉やイメージを提案なさるなどという小細工的なことを、この期に及んで聖母がなさるでしょうか? 言葉をちょこっと変えることで人間が救われるなら、とうの昔に救われているでしょう。
聖母のことを「すべての民の御母」と規定することによって、その「御母」に祈りを捧げる人が増えたとしても、最終的には公教会に入らなければ救われないのだとしたら、遅かれ早かれ彼らは「神の御母」「無原罪の御宿り」「聖母の被昇天」など諸々の真理や聖母の称号と対決しなければならないでしょう。そこで改めて一悶着するわけでしょうか? 元の木阿弥じゃないか。
それとも、「すべての民の御母」に祈る過程で、彼らは真理に目を開かされるお恵みを頂くというわけでしょうか? つまり、そういう推移を想定した上で、救いの導入においては一部の真理(「無原罪の御宿り」など)を隠すのも有効だというのでしょうか? それなら、イスラム教徒の救いのために、イエズス様が唯一の救い主だということを良心的に一時伏せましょうか? 彼らが彼らにとって「預言者の一人」であるところのイエズス様に祈る過程で、おいおい本当の真理に目を開かされ、救われていくために。
神様はそんな裏口入学(?)みたいなことを人間にさせるのでしょうか? 聖母は神が作られた堂々として立派な「表門」を、「状況的に見て少々実際的でない」として、裏にお隠しになるのでしょうか?
それとも、公教会に導かれることを待たずして、その「すべての民の御母」に祈ったその時点において即時に、霊魂に大きなお恵みを頂けるのでしょうか? しかしそうだとしても、「イエズス」を離れた「普遍的な御母」というイメージが、人類にとってどんなインパクトを持っているというのでしょうか? つまりは単なる「母神」なら日本人には天照大神がありますし(性別はないという説もありますが)、インド人にもそれなりの母なる神があるでしょう。だから、「すべての人類の母です」と言われたって、彼らはそれほど関心を示さないことでしょう。聖母の魅力を削いだ上に大して効果もないでしょう。
また、圧倒的な無神論的な潮流に対して、「私はすべての民の母です」と言うだけではいかにも弱い。日本人の多くは言います、「ああ、宗教か。お告げなのか」。
プロテスタントの人達にしても、そう簡単ではないと思います。彼らにとって、マリア様を「神の御母」として受け取ることと「人類全体の母」として受け取ることとの間に、実際それほどの差異があるというのでしょう。彼らはこう言いませんか?「神が間違いなくマリアを人類すべての母とお定めになったのですか? ゴルゴタの丘で、主は人間的な言い方をしたばかりでなく、神秘的にそうお定めになったのですか? マリアは本当に私達に恵みを分配する権威を、神から与えられたのですか?・・・私達は確信できません」と。

公教会は自然徳よりも超自然徳を重視する、とどこかで読みました。そうなんだろうと思います。
確かに神の御子は地上にお下りになりましたけれど、でもただヒューマンな平和運動をするためにお下りになったのではありません。
公教会を通して来る救いの力は、あくまで「神的」な通路を通って私達を訪れるものだと思います。小手先の言語操作によってではありません。私達の生き方や祈りや犠牲が充分だったら、神はプロテスタントに改宗のお恵みを注ぐことなど訳はないに違いありません。
だから、聖母だって、人類を救う為に「神の御母」から「婦人」にお降りになることなど、必要ない、あり得ないことだと、私は思います。
そうしたところで人類の救いにはならないだろうからです。「救いの筋道」が違うだろうからです。聖母のお姿をヒューマンな次元に落とすことではなく、公教会が教える通りに「神の御母」「無原罪の御宿り」「主の共贖者」「恵みの最大の仲介者」「救いの鍵」「黙示録に預言された婦人」として、宣言し、称揚し、賛美することに、神の御光が輝き、聖霊もお働きになるだろうからです。

また、ちょっと考えまするに、聖母が御自らずずいと前に進み出て、「これから私を『すべての民の御母』という称号をもって呼んで下さい」などと要請なさることはあるのでしょうか? それは聖母の慎ましさに反するような気がしますが。
聖母御自ら「私を『無原罪の御宿り』と呼んで下さい」とおっしゃったでしょうか?
聖母は御子の権能の継承者がお決めになることを、慎ましく「お受けになる」方ではないでしょうか?

この「婦人」が本当にマリア様だったら、私は大変なことになりますが(笑)
しかし、「かつてマリアであったが、今はすべての民の御母」と呼ばせようとすることに効果あり、などと、 魂も頭脳も神様に近いマリア様が、果たしてお考えになるでしょうか???
マリア様はすでに充分、人類の心の中で「いと清き御母」のイメージがあります。2000年の昔から堆積してきたそのイメージは、すでにどっしりと重いのです。そうしてそれは「イエズス様」と分ち難いものとしてあります。今更無味無臭の、イエズス様と切り離され独立したような「普遍的な御母」を強調することに、一体どんな新たな効果を期待できるというのでしょうか? 否、むしろ、仮にでも一時でも、イエズス様から独立したようなイメージを人類に抱かせることは、完全な弊害ですらあるのではないでしょうか?

何だかぐちゃぐちゃ書いてしまいましたが・・・私は、啓示された他の祈り言葉も「小手先の言語操作」であるなどと言うつもりはありません。まさか!
つまりは、「すべての民の御母」の祈り言葉が私達の教会の信仰のかたちに一致していないように思われる、ということが、すべてです。

また偉そうに書いてしまいました。調子こいてしまいました。
しかし私は白状しますが、今だに祈りが抜ける日があります。「祈る時間がありません」と言う人より悪いかも知れません。


  11月12日(土)
「すべての民の御母」その2

先日はブザマなところをお見せしましたが(私はそんなもんす)、ここで軽くまとめ。

やっぱりどうしても「すべての民の御母」は好きになれませんね。あくまで「個人的意見」ですが。
何だかマリア様が主の家(公教会)の外に歩み出てしまって、主の家から離れた広い野原かどこかで「私はあなたがたすべての母なのです」と、愛深く両手をひろげて人類を招いているような、そんな感じを受けますね。
愛深いから、それでいいのでしょうか? マリア様は全人類を自分の子供として燃える愛をもって愛していらっしゃるから、それでいい、それもあり得る、のでしょうか?
しかしその祈りは、信仰のない者を、また他宗教の者達をも、「すべての民の御母」の許へのみでなく、必ず公教会に導くものなのでしょうか?
そうなのかも知れませんが。
とにかく理屈で追って行っても、なかなか・・。
それでも、もう少し進めましょう。

「この祈りの許にひとつの共同体ができるでしょう」と「すべての民の御母」がおっしゃったそうです。「共同体」と。普通、マリア様はそのようなことを言うでしょうか?
ルルドでは、聖母はベルナデッタに「ここに御聖堂を建てるように上の人に言いなさい」とおっしゃいました。だから、「共同体ができるでしょう」も、そんなに不自然ではないのかな?
でも、マリア様のお言葉としては、「この祈りの精神に、すべての公教会信者の心を集めなければなりません」という方が自然なような気もします。(そうも言ってるのかも知れませんが。)
そして、この予言が出てから60年。「共同体」はできているでしょうか? 一握りの共感者が活動を続けているだけではないでしょうか? それはマリア様の「要望」「希望」ではなく、「予言」すなわち「断言」であった筈なのに。

「新しい時代を迎えるにあたって、この祈りが必要」ともおっしゃっているそうです。「新しい時代」か。どう新しいのでしょう。何でも「新しい時代」と言ってしまえば、人にその進路を変えさせるに適当(好都合、もっともらしい)ということでしょうか。
「新しい時代! 新しい時代の幕開け!」

でも、本当に新しい時代(黙示録の時代? マリア様の救いの御手がいよいよ強力に、全世界的に現われ、認められる時代?)であったら、どうしましょう。私は聖霊に逆らう罪を犯しているわけですか? うう・・。
やっぱり、理屈で追って行っても分かりませんね。というか、理屈に従って行けば、私達は説得させられそうになります。「かつてマリアであった」という部分についても、初め感覚的にはとても抵抗感があるものの、「説明」を聞き続けているうちに「そうなのかなぁ」というぐらいには動かされてしまいます。

なんか華々しいですよね。つまり、私達公教会信者がこの祈りを続ければ、罪人も、信仰を持たない者も、他宗教の者も、聖霊を受けるんですって! 「新しい聖霊降臨の時代」が来るんですって! 飛びつきたくなるようなお話ですね! 誰も反対できない!
しかし、すべての人の為に祈る精神は、今迄だってあったじゃないですか。ファチマの祈りとか。いや、ファチマ以前にだって、公教会の伝統の中に、全人類のために祈る精神はあったじゃないですか。当たり前。それが我らの主の精神だから。

これまで聖母がおっしゃっていたのは、「ロザリオを通して公教会の中で聖母が勝利を収めたなら、その時人類に平和の時代が訪れるでしょう」というニュアンスのことではなかったかなぁ・・。何時も「公教会」と共にあった。何時も「主の御母」であった。
しかし「すべての民の御母」では、いったんは「イエズス」とも「公教会」とも離れたところで、全人類に向かって「私はあなた方の母ですよー。あなたはイエズスのことも公教会のことも知らないかも知れません。でも、まず私があなたの母であることを知って下さい」と言っているかのようです。この「まず」がとても気になるんですよねー。順番が違うんじゃないかと。マリア様は、人類がイエズス様のことはひとまず置いて、「まず始めに」御自分のことを認識するように、お望みになるでしょうか? そういうアピールのしかた、する?

「すべての民の御母」の御絵。マリア様のまわりに沢山の羊がいます。それはちょっと変なのではないでしょうか?
マリア様は恵みの仲介者です。そしてマリア様は謙遜な方ですから、神に極めて近いとしても教会の秩序を重んじなさるような気がします。つまり、私がちょっと気になるのは、この御絵においては、マリア様が直接人類(羊の群れ)を司牧なさっているように見えることです。これって教義的に変ではないですか? (マリア様が男性で、司祭なら、問題ないのかも知れないけど。あ、そこの女性、怒らないで。)
また、この絵のマリア様は、あの「ダヴィンチ・コード」で注目されたレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」のように、頭上に光輪もなければ十二の星もない。聖母の栄光を示す如何なる冠もないんですね。ルルドやファチマの聖母の面影がない。あらゆる「伝統」との繋がりがない。ここで質問です。聖母を公教会の公教会的な信仰をもって愛しているあなたが、もし絵筆を取って聖母の御姿を描きなさいと言われた場合、あなたは「すべての民の御母」の御絵のような、あのような形で彼女を描きたいと思いますか? --- 私なら嫌ですね。
確かに背後に十字架を背負っており、手からは光が出ているようです。でも全体としては普通の婦人に見える。優しく、そしてちょっと気さくな婦人に見える。衣装も簡単で、カジュアルでさえあるかも知れない。その結果、「聖母です」と言われなければ誰だか分からない! --- そう思いませんか?
表情にしても、ラ・サレット、ルルド、ファチマ、その何処においても聖母は人類のために深刻であられたのに、ここではかなり楽観的になられたかのようです。(たかが絵か?)
まあ、この絵は幻視者が見たままを絵にしたのでしょうが、でも、それでも同じです。とにかく奇妙なほど、この御絵には「公教会の匂い」がしませんね。確かにこれなら、どんな人にも抵抗はないでしょう。でも、聖母が御自ら本当にそのような方向性を望まれたのか、私には疑問ですね。いくら全人類のためとはいえ、聖母が主によって与えられた御自身の栄光を示す装いとか、イエズスの聖なる公教会が荘厳に定めた称号とかを、捨てたり脇に置いたりするとは思えません。(捨ててはいないのかも知れませんが。)
聖母がベルナデッタの前で「私は無原罪の御宿りです」とおっしゃった時、御手を合わせ天を仰ぎ、どんなに敬虔な様子で、深い感謝を神に捧げつつ言われたことか。

またこんなにつべこべ書いちゃった(笑)
何気なしにそのサイトの内容を読んでしまったが最後、こげなことになってしまい・・。
でも、私の中では、もうこのことは終わりにします。

「すべての民の御母」は秋田ともリンクしているそうですね。つまりその御絵を元に秋田の聖母像が作られたという意味で。ただその意味で。
私が間違っていたら、聖母よ、許し給え・・。


  11月21日(月)
お蔭様で確定

『すべての民の御母のメッセージ』(エンデルレ書店)を読みました。

困りました。ほとほと困りました。懊悩しました。
しかし結論としては、「これほど私の信仰を混乱させるものは、その『これほど混乱させる』ということをもって、じゅうぶん疑いに値する」というところでしょうか。
ズッコケないで下さい。「貴方が混乱するのは貴方のことだろう」と言わないで下さい。これは真面目に考えるべきことだと思います。
これほどまでに信者の心を悩ませる事態を、私はとうとう憎み始めました!(笑)
果たして聖母はこんな混乱を御自分の信者にもたらすものでしょうか?
 

以下、「婦人」の怪しい言葉集。
(これらの言葉はすべて第二バチカン公会議の少し手前の時期において「婦人」の口から発せられたということに注意すべきかと思います。)

「それにしても、教会の内部は大きく変えられなければなりません。聖職者はこの時代に合うように現代的に、しかし正しく・・・良い霊によって養成されなければなりません。」
「時代にかなった、より現代的で社会的な、より良い養成方法が必要です。」
「これは、消えなければならない古い霊です!」

よりによって第二バチカン公会議を間近に控えたこの時期に、聖母がこんな危険な促しをするでしょうか? 仮に第二バチカン公会議の本来の姿はよいものだとしても、今私達はそれを発端とするあまりに多くの弊害を見ています。聖母がそれを予見できなかったということはないでしょう。そんな危険な会議の手前で、聖母が「現代的にせよ」「大きく変えよ」などという言い方をするものでしょうか?
また「消えなければならない "古い霊" 」とは何でしょう? 聖母が果たしてそれまでの教会のある部分を「古い」という言い方をするでしょうか? しかも「霊」が古いと? たとえ「精神」や「手法」が古いと言うことがあったとしても、公教会の「霊」が古いなどと聖母が言うことがあるでしょうか? 公教会は聖霊に導かれて来たのではなかったでしょうか? 修道精神も位階制度も聖霊によってこそ導かれて来たというのが、私達の教会のもっともベーシックな共通認識の筈です。この土台なくて公教会はあり得ませんでした。ですから公教会の中に存在していた「霊」が「古い」と言うことは、それを導いた聖霊の導き方が「古い」と言っていることになります。 聖霊と言えば至聖なる聖三位の第三位格です。それに対して聖母がこんなうかうかとした無神経な発言をなさるものでしょうか? ちょっとこの婦人の感覚はおかしいのではないでしょうか?

「階級は互いにもっと歩み寄らねばなりません。『愛』が第一の掟ではありませんか。」

第二バチカン公会議を境に、いわば「歩み寄り」の精神(思想)によって、司教は教皇に、司祭は司教に、従わなくなったのではないでしょうか? 規律が乱れたのではないでしょうか?
「愛」が主のお定めになった聖なる規則 --- 位階制度や典礼・秘跡の執行の仕方という、聖寵の流れる筋道 --- を曲げるのなら、それは「愛」ではなく「悪」です。 --- どこにでも「愛」をペタペタ貼るのはやめて下さい。

「教えは正しいのです。しかし規則は変えることができ、また変えるべきです。」
「時代に合った改革を迫りなさい!」
「細かい点にいたるまでその改革を実行しなさい。」

エキュメニズム宣言に聞こえます。本来のエキュメニズムに見るべきものがあったとしても、後の世における多大の弊害をはっきりと見ている筈の聖母がこんなことを言うでしょうか? やはりその時期に聖母が言うべきことは「改革を実行しなさい」ではなく「改革に警戒しなさい」ではなかったでしょうか?

「彼らが御子を知っているかどうかにかかわらず、わたしたちが彼らの世話をします。」 (「彼ら」とは人類のことです。)

そんなことを言うんなら、今迄の宣教の歴史は何だったんでしょう。聖フランシスコ・ザベリオの苦労は何だったんだ。「告げ知らせる」ことなくして人類を救えるものなら、もっと前にそうしてくれ。

「神学はわが子の事柄に道を譲らなければならないということを、あなたは分かっていますね?」

荘厳に定義されたものもか?
この発言はやはりこの婦人の無神経さ、軽率さを暴露していると思います。確かに私達にとって御子は至上の御存在でありますから、うかうかすると婦人のこの言葉に「はい、その通りです」と言ってしまいそうになります(神秘的な体験の渦中にある幻視者ならなおさらです)。しかしよく考えてみれば、この婦人の言葉通りだとすると、今迄聖霊は神学を正しく導いて来なかった、あるいは導いては来たけれども今やその導きは「古く」「無効」である、ということになります。神学は主の事柄です。重大な、荘厳な問題です。それを神ならぬお立場の聖母が、また謙遜の鑑でもあられる聖母が、このように簡単な態度をもって語るものでしょうか?
しかし、「神学はわが子の事柄に道を譲らなければならない」、この単純な言い方は確かに力を持っています。多くの人が騙されて「はい」と言ってしまいそうです。 --- 要注意!

「ただ、人びとを善へ、キリストへと導きなさい。ほかの小さな事柄は問題ではありません。」

聖ピオ十世司祭兄弟会などは、さぞかし「小さな事柄」にこだわり過ぎの人達なんでしょうね。

「創造主を知ることがどんなに簡単であるかを人びとに教えなさい。」

主は「狭い門」「私を通してでなければ」と言わなかったでしょうか?

「真理!」

婦人はしばしば「真理!」と強調するが、私は「真理」という標語を愛するためにカトリック教会に来たのではありません。このプチ宗教遍歴者である私は!
「単純な心で真理を愛しなさい」というだけで事が済むのなら、何も苦労は要りません。異教徒だって「真理」を愛していると言います。しかし「真理」それだけで済むのなら三位一体の神は要りません。
ニューエイジ・ムーブメントの中で「神」を見つけるのは、婦人のおっしゃる通りとても簡単でした! 「安心するがよい。人は水が低きに流れるように時が来れば神に至るのだ」と教えられたものです。あるいは「愛しなさい。するとそこに神がある。そこが天国だ」と。実に「簡単な真理」です。

「全世界のキリスト教徒はひとつの群れとならなければなりません。」
「一致しなさい!」

それは分かるが、一体何において? 「真理」と「愛」と「平和」においてか? カトリック教会固有の属性を排除したところにおいても、とにかく何でも「一致」していれば尊いというのか?

「十字架上のイエズス・キリストとともに、この近代的な世の中に身をおくように試みなさい。」

修道院でのひたすら隠れて働き祈る生活の価値について、婦人よ、コメントをお願いします。それは「古い霊」とおっしゃいますか?

「御父と御子と聖霊は、今、神の教会を大きくなさりたいのです。」

それは分かるが、「ほかの小さな事柄」を無視してですか? あ、違った、「小さな事柄にいたるまで改革を実行しつつ」でしたか?

「世界を統治しているのは、思想以外のなにものでもないではありませんか。」

先程まで「霊、聖霊」とおっしゃっていたのに、今度は「思想」? しかも「以外のなにものでもない」? それは聖母の言い方としては似つかわしくないように思われる。聖母が私達を励ます時、「思想闘争」へと励ますのだろうか? 「それ以外にあり得ないのです」というような完全な強調をもって?
私は、聖母にとっては何時の時代においても「祈り」「犠牲」が第一義だと思うのですが。聖母が「祈り」よりも「近代的手法」「思想」を重要視さなることは --- あるいは仮にも重要視なさっているような表現をお使いになることは --- 絶対にないことだと思うのですが。

「霊的な事柄に関しても、迅速に、近代的方法をもって行動しなくてはなりません。」

確かに聖コルベはジャーナリスティックな手法を用いました。私達もファチマについて黙していてはいけません。しかし、やはりこれは目に映じる事柄に捕われがちな人間にこそ相応しい発想ではないでしょうか。聖母が率先して言うことでしょうか?
この婦人においては「近代的手法」を強調することと修道精神などを「古い霊」と呼ぶこととが呼応している(イコールである)ような気がします。

「御子とわたしは天国で再び完全に一つとなっています。」
「御子が苦しまれたと同じだけ、『人の子』の母としてわたしも苦しみました。」

主と「完全に一つ」? それは度の過ぎたる表現ではあるまいか。聖母は「イエズスと同じだけ」お苦しみになったのだろうか? それは言葉の厳密な意味においてはやはりあり得ないのではなかろうか? では、聖母には、御子と御自分との関係を述べるにおいて言葉を正確に使おうという良識がないということだろうか? また、よしんばそれが事実だとしても、聖母御自身の口からこれが言われるだろうか? ちょっと「はしたない」のではないか? 私はまだ荘厳に宣言されてはいないという聖母の『共贖者』という称号がこのように極端な意味合いのものだったなら、まったく同意できない。「イエズスと私は同じ背丈です」と言うのだったら。

「ためらってはなりません! わたしは一度たりとも躊躇したことはありませんでした。」

聖母は受胎告知の場面で、イエズスはゲッセマニの園で、ひとつもためらうことがなかったのか? 聖母にとって、御父の御心はそれほどまでに、何時も、常に、明々白々だったのか? 大したもんだ。しかしそれはありそうもない。それにそもそも人間高度になるほど物事の不確かさや複雑さを感じるものだし、それ故ためらいもし、よく見極めようとするものではないか?
婦人は幻視者を煽り行動させるために、ひどい出鱈目、大嘘を吐いているのではないだろうか?

「単純な信仰を見いだすよう努めなさい。」

確かに主も「このような幼子のようでなければ」と言った。しかしこのことは神学を排除しない。「幼子」は真理の一面を突いた美しい喩えだ。しかし私達の教会は「純真な者」だけでは成り立たない。

「婦人は警告するように指を立てて動かしながら言われます」
「婦人はにっこりとして言われます」

現代的なジェスチャーに思われる。聖母は何時からこのように気さくな婦人になったのか?

「婦人はいつも先を行きました。」
「受胎告知の際、すでにわたしは共贖者でした。」

だから、聖母に似つかわしくない言葉だって。自分で言うなよ。
 

読めば確かに圧倒されそうになります。この幻視者イーダ・ペアデマンは確かに「天国的」なようなヴィジョンを見たに違いありません。見ただけでなく、それにすっぽり包まれたのでしょう。でも、それが確かに本当の「天国」であるかの保証はありません。悪魔が天国的な空間と映像を作れないとは誰も言えません。否、悪魔は闇ばかりではない、光も作るし、聖母の香り --- 薔薇の香り --- だって容易に作れる、と私は思います。もともとは天使ですから。また、この「すべての民の御母」を信じている人達は、これを信ずる理由として「的中した予言」「数多くの回心と和解」「癒しや聖母の特別なご保護の体験」などということをあげていますが、しかしこれらも考慮に入れるべきではないと思います。誰が「未来を正確に予測できるのは神だけだ」と決めたのでしょうか? 悪魔は人間の病の一つも癒せないのでしょうか? 人間の心をハッピーに広々と拡げるような「光」(もちろん本当の神の光ではありません!)を照射することができないのでしょうか?(私にも経験がありますが、ニューエイジの神は人間の心をとてもハッピーに寛大にさせます。) 霊的な存在を甘く見てはいけない。イルミナティが「ray(光)」とか「force(力)」とか言うように、悪魔は極めて強い諸力(知恵も含む)を持っています。
しかしまた、その婦人の「説明」にもかなりの説得力があると言わなければなりません。伝統主義的な信仰の持ち主も思わず喜ぶようなことも、たくさんたくさん強調されて出て来ます。おそろしく混合されています。そして強調点を巧妙にずらしていると思います。私もしばしの間、「ここにまったく新しい、より希望に溢れた形の信仰が開示されているのかも知れない」という気持ちになりました。私達の時代はそれを熱望するにはピッタリの、とても酷くて不安も充満している時代ですから。

つまりは、私は、これはやはり悪魔だと思います。どなたかの祈りに支えられたのかも知れませんが、お蔭様でそれと確定しました。
どうしてこのような善意の人に見える人(幻視者イーダ・ペアデマン)が悪魔に騙されることになり得るのか、何故それを天主様がお許しになるのか、私には分かりませんが。
伝統主義的に熱心な人、聖母信心が篤い人を、めちゃくちゃに混乱させる内容を持っていると思います。

そして、始めに戻りましょう。見れば見るほど、「すべての民の御母」の御絵は美しくありません。私は、こういうことは偶然ではないと思うのです。そう、決して偶然ではありません!(最近の聖品売り場に並ぶ聖母の御像の美しくないこと! あれでは買いたくありませんて! きっと買わせたくないのでしょう。)
やはり人間は意外と始めの印象を大事にするべきなのかも知れませんね。つまり祈りの中の「かつてマリアであられた」という部分に誰しもが受ける奇異な感じだとか、御絵が美しく見えないことだとか。頭でなく「感じ」が大事かも知れません。

結局やはり、彼らは人間からできるだけ「マリア」という名前を呼ぶ機会を奪いたかったのでしょう。また「イエズスの御母」を「全人類の御母」に置き変えたかったのでしょう。あるいは聖母信心の篤い信者のことが憎いので、「そうか、そんなに聖母が好きなのか。では、お前らのために聖母をイエズスと同列にしてやろう。ほとんど女神だ。文句はあるまい。しかも私は知らず知らずの内にそのように持っていくのだ」とか思って、私達の信仰を変質させたかったのかも知れません。

しかしとにかく・・・こんなに煩悶して時間もエネルギーも大幅に取られる前に、私は次のような姿勢を取らなければならなかったのだろうと思います。

わたしの立場は「わかりません」「分からないでも構いません」「あまり関心がありません」「これは信仰の中心ではありません」です。エネルギーをこういう問題に費やしてしまうのは、悪魔のわなにかかることかもしれません。他にしなければならないことがたくさんあるからです。(成相明人神父様)

今度こそ、私は預言の類はルルド、ファチマで充分です!

大天使聖ミカエル、戦いにおいて我らを護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え!

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