『すべての民の御母のメッセージ』(エンデルレ書店)を読みました。
困りました。ほとほと困りました。懊悩しました。
しかし結論としては、「これほど私の信仰を混乱させるものは、その『これほど混乱させる』ということをもって、じゅうぶん疑いに値する」というところでしょうか。
ズッコケないで下さい。「貴方が混乱するのは貴方のことだろう」と言わないで下さい。これは真面目に考えるべきことだと思います。
これほどまでに信者の心を悩ませる事態を、私はとうとう憎み始めました!(笑)
果たして聖母はこんな混乱を御自分の信者にもたらすものでしょうか?
以下、「婦人」の怪しい言葉集。
(これらの言葉はすべて第二バチカン公会議の少し手前の時期において「婦人」の口から発せられたということに注意すべきかと思います。)
「それにしても、教会の内部は大きく変えられなければなりません。聖職者はこの時代に合うように現代的に、しかし正しく・・・良い霊によって養成されなければなりません。」
「時代にかなった、より現代的で社会的な、より良い養成方法が必要です。」
「これは、消えなければならない古い霊です!」
よりによって第二バチカン公会議を間近に控えたこの時期に、聖母がこんな危険な促しをするでしょうか? 仮に第二バチカン公会議の本来の姿はよいものだとしても、今私達はそれを発端とするあまりに多くの弊害を見ています。聖母がそれを予見できなかったということはないでしょう。そんな危険な会議の手前で、聖母が「現代的にせよ」「大きく変えよ」などという言い方をするものでしょうか?
また「消えなければならない "古い霊" 」とは何でしょう? 聖母が果たしてそれまでの教会のある部分を「古い」という言い方をするでしょうか? しかも「霊」が古いと? たとえ「精神」や「手法」が古いと言うことがあったとしても、公教会の「霊」が古いなどと聖母が言うことがあるでしょうか? 公教会は聖霊に導かれて来たのではなかったでしょうか? 修道精神も位階制度も聖霊によってこそ導かれて来たというのが、私達の教会のもっともベーシックな共通認識の筈です。この土台なくて公教会はあり得ませんでした。ですから公教会の中に存在していた「霊」が「古い」と言うことは、それを導いた聖霊の導き方が「古い」と言っていることになります。 聖霊と言えば至聖なる聖三位の第三位格です。それに対して聖母がこんなうかうかとした無神経な発言をなさるものでしょうか? ちょっとこの婦人の感覚はおかしいのではないでしょうか?
「階級は互いにもっと歩み寄らねばなりません。『愛』が第一の掟ではありませんか。」
第二バチカン公会議を境に、いわば「歩み寄り」の精神(思想)によって、司教は教皇に、司祭は司教に、従わなくなったのではないでしょうか? 規律が乱れたのではないでしょうか?
「愛」が主のお定めになった聖なる規則 --- 位階制度や典礼・秘跡の執行の仕方という、聖寵の流れる筋道 --- を曲げるのなら、それは「愛」ではなく「悪」です。 --- どこにでも「愛」をペタペタ貼るのはやめて下さい。
「教えは正しいのです。しかし規則は変えることができ、また変えるべきです。」
「時代に合った改革を迫りなさい!」
「細かい点にいたるまでその改革を実行しなさい。」
エキュメニズム宣言に聞こえます。本来のエキュメニズムに見るべきものがあったとしても、後の世における多大の弊害をはっきりと見ている筈の聖母がこんなことを言うでしょうか? やはりその時期に聖母が言うべきことは「改革を実行しなさい」ではなく「改革に警戒しなさい」ではなかったでしょうか?
「彼らが御子を知っているかどうかにかかわらず、わたしたちが彼らの世話をします。」 (「彼ら」とは人類のことです。)
そんなことを言うんなら、今迄の宣教の歴史は何だったんでしょう。聖フランシスコ・ザベリオの苦労は何だったんだ。「告げ知らせる」ことなくして人類を救えるものなら、もっと前にそうしてくれ。
「神学はわが子の事柄に道を譲らなければならないということを、あなたは分かっていますね?」
荘厳に定義されたものもか?
この発言はやはりこの婦人の無神経さ、軽率さを暴露していると思います。確かに私達にとって御子は至上の御存在でありますから、うかうかすると婦人のこの言葉に「はい、その通りです」と言ってしまいそうになります(神秘的な体験の渦中にある幻視者ならなおさらです)。しかしよく考えてみれば、この婦人の言葉通りだとすると、今迄聖霊は神学を正しく導いて来なかった、あるいは導いては来たけれども今やその導きは「古く」「無効」である、ということになります。神学は主の事柄です。重大な、荘厳な問題です。それを神ならぬお立場の聖母が、また謙遜の鑑でもあられる聖母が、このように簡単な態度をもって語るものでしょうか?
しかし、「神学はわが子の事柄に道を譲らなければならない」、この単純な言い方は確かに力を持っています。多くの人が騙されて「はい」と言ってしまいそうです。 --- 要注意!
「ただ、人びとを善へ、キリストへと導きなさい。ほかの小さな事柄は問題ではありません。」
聖ピオ十世司祭兄弟会などは、さぞかし「小さな事柄」にこだわり過ぎの人達なんでしょうね。
「創造主を知ることがどんなに簡単であるかを人びとに教えなさい。」
主は「狭い門」「私を通してでなければ」と言わなかったでしょうか?
「真理!」
婦人はしばしば「真理!」と強調するが、私は「真理」という標語を愛するためにカトリック教会に来たのではありません。このプチ宗教遍歴者である私は!
「単純な心で真理を愛しなさい」というだけで事が済むのなら、何も苦労は要りません。異教徒だって「真理」を愛していると言います。しかし「真理」それだけで済むのなら三位一体の神は要りません。
ニューエイジ・ムーブメントの中で「神」を見つけるのは、婦人のおっしゃる通りとても簡単でした! 「安心するがよい。人は水が低きに流れるように時が来れば神に至るのだ」と教えられたものです。あるいは「愛しなさい。するとそこに神がある。そこが天国だ」と。実に「簡単な真理」です。
「全世界のキリスト教徒はひとつの群れとならなければなりません。」
「一致しなさい!」
それは分かるが、一体何において? 「真理」と「愛」と「平和」においてか? カトリック教会固有の属性を排除したところにおいても、とにかく何でも「一致」していれば尊いというのか?
「十字架上のイエズス・キリストとともに、この近代的な世の中に身をおくように試みなさい。」
修道院でのひたすら隠れて働き祈る生活の価値について、婦人よ、コメントをお願いします。それは「古い霊」とおっしゃいますか?
「御父と御子と聖霊は、今、神の教会を大きくなさりたいのです。」
それは分かるが、「ほかの小さな事柄」を無視してですか? あ、違った、「小さな事柄にいたるまで改革を実行しつつ」でしたか?
「世界を統治しているのは、思想以外のなにものでもないではありませんか。」
先程まで「霊、聖霊」とおっしゃっていたのに、今度は「思想」? しかも「以外のなにものでもない」? それは聖母の言い方としては似つかわしくないように思われる。聖母が私達を励ます時、「思想闘争」へと励ますのだろうか? 「それ以外にあり得ないのです」というような完全な強調をもって?
私は、聖母にとっては何時の時代においても「祈り」「犠牲」が第一義だと思うのですが。聖母が「祈り」よりも「近代的手法」「思想」を重要視さなることは --- あるいは仮にも重要視なさっているような表現をお使いになることは --- 絶対にないことだと思うのですが。
「霊的な事柄に関しても、迅速に、近代的方法をもって行動しなくてはなりません。」
確かに聖コルベはジャーナリスティックな手法を用いました。私達もファチマについて黙していてはいけません。しかし、やはりこれは目に映じる事柄に捕われがちな人間にこそ相応しい発想ではないでしょうか。聖母が率先して言うことでしょうか?
この婦人においては「近代的手法」を強調することと修道精神などを「古い霊」と呼ぶこととが呼応している(イコールである)ような気がします。
「御子とわたしは天国で再び完全に一つとなっています。」
「御子が苦しまれたと同じだけ、『人の子』の母としてわたしも苦しみました。」
主と「完全に一つ」? それは度の過ぎたる表現ではあるまいか。聖母は「イエズスと同じだけ」お苦しみになったのだろうか? それは言葉の厳密な意味においてはやはりあり得ないのではなかろうか? では、聖母には、御子と御自分との関係を述べるにおいて言葉を正確に使おうという良識がないということだろうか? また、よしんばそれが事実だとしても、聖母御自身の口からこれが言われるだろうか? ちょっと「はしたない」のではないか? 私はまだ荘厳に宣言されてはいないという聖母の『共贖者』という称号がこのように極端な意味合いのものだったなら、まったく同意できない。「イエズスと私は同じ背丈です」と言うのだったら。
「ためらってはなりません! わたしは一度たりとも躊躇したことはありませんでした。」
聖母は受胎告知の場面で、イエズスはゲッセマニの園で、ひとつもためらうことがなかったのか? 聖母にとって、御父の御心はそれほどまでに、何時も、常に、明々白々だったのか? 大したもんだ。しかしそれはありそうもない。それにそもそも人間高度になるほど物事の不確かさや複雑さを感じるものだし、それ故ためらいもし、よく見極めようとするものではないか?
婦人は幻視者を煽り行動させるために、ひどい出鱈目、大嘘を吐いているのではないだろうか?
「単純な信仰を見いだすよう努めなさい。」
確かに主も「このような幼子のようでなければ」と言った。しかしこのことは神学を排除しない。「幼子」は真理の一面を突いた美しい喩えだ。しかし私達の教会は「純真な者」だけでは成り立たない。
「婦人は警告するように指を立てて動かしながら言われます」
「婦人はにっこりとして言われます」
現代的なジェスチャーに思われる。聖母は何時からこのように気さくな婦人になったのか?
「婦人はいつも先を行きました。」
「受胎告知の際、すでにわたしは共贖者でした。」
だから、聖母に似つかわしくない言葉だって。自分で言うなよ。
読めば確かに圧倒されそうになります。この幻視者イーダ・ペアデマンは確かに「天国的」なようなヴィジョンを見たに違いありません。見ただけでなく、それにすっぽり包まれたのでしょう。でも、それが確かに本当の「天国」であるかの保証はありません。悪魔が天国的な空間と映像を作れないとは誰も言えません。否、悪魔は闇ばかりではない、光も作るし、聖母の香り --- 薔薇の香り --- だって容易に作れる、と私は思います。もともとは天使ですから。また、この「すべての民の御母」を信じている人達は、これを信ずる理由として「的中した予言」「数多くの回心と和解」「癒しや聖母の特別なご保護の体験」などということをあげていますが、しかしこれらも考慮に入れるべきではないと思います。誰が「未来を正確に予測できるのは神だけだ」と決めたのでしょうか? 悪魔は人間の病の一つも癒せないのでしょうか? 人間の心をハッピーに広々と拡げるような「光」(もちろん本当の神の光ではありません!)を照射することができないのでしょうか?(私にも経験がありますが、ニューエイジの神は人間の心をとてもハッピーに寛大にさせます。) 霊的な存在を甘く見てはいけない。イルミナティが「ray(光)」とか「force(力)」とか言うように、悪魔は極めて強い諸力(知恵も含む)を持っています。
しかしまた、その婦人の「説明」にもかなりの説得力があると言わなければなりません。伝統主義的な信仰の持ち主も思わず喜ぶようなことも、たくさんたくさん強調されて出て来ます。おそろしく混合されています。そして強調点を巧妙にずらしていると思います。私もしばしの間、「ここにまったく新しい、より希望に溢れた形の信仰が開示されているのかも知れない」という気持ちになりました。私達の時代はそれを熱望するにはピッタリの、とても酷くて不安も充満している時代ですから。
つまりは、私は、これはやはり悪魔だと思います。どなたかの祈りに支えられたのかも知れませんが、お蔭様でそれと確定しました。
どうしてこのような善意の人に見える人(幻視者イーダ・ペアデマン)が悪魔に騙されることになり得るのか、何故それを天主様がお許しになるのか、私には分かりませんが。
伝統主義的に熱心な人、聖母信心が篤い人を、めちゃくちゃに混乱させる内容を持っていると思います。
そして、始めに戻りましょう。見れば見るほど、「すべての民の御母」の御絵は美しくありません。私は、こういうことは偶然ではないと思うのです。そう、決して偶然ではありません!(最近の聖品売り場に並ぶ聖母の御像の美しくないこと! あれでは買いたくありませんて! きっと買わせたくないのでしょう。)
やはり人間は意外と始めの印象を大事にするべきなのかも知れませんね。つまり祈りの中の「かつてマリアであられた」という部分に誰しもが受ける奇異な感じだとか、御絵が美しく見えないことだとか。頭でなく「感じ」が大事かも知れません。
結局やはり、彼らは人間からできるだけ「マリア」という名前を呼ぶ機会を奪いたかったのでしょう。また「イエズスの御母」を「全人類の御母」に置き変えたかったのでしょう。あるいは聖母信心の篤い信者のことが憎いので、「そうか、そんなに聖母が好きなのか。では、お前らのために聖母をイエズスと同列にしてやろう。ほとんど女神だ。文句はあるまい。しかも私は知らず知らずの内にそのように持っていくのだ」とか思って、私達の信仰を変質させたかったのかも知れません。
しかしとにかく・・・こんなに煩悶して時間もエネルギーも大幅に取られる前に、私は次のような姿勢を取らなければならなかったのだろうと思います。
わたしの立場は「わかりません」「分からないでも構いません」「あまり関心がありません」「これは信仰の中心ではありません」です。エネルギーをこういう問題に費やしてしまうのは、悪魔のわなにかかることかもしれません。他にしなければならないことがたくさんあるからです。(成相明人神父様)
今度こそ、私は預言の類はルルド、ファチマで充分です!
大天使聖ミカエル、戦いにおいて我らを護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え!
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