父 竹内好の思い出

目次
関東ローム層   − 冬の風 − 

強い西風が吹くと、子どものころを思いだします。

武蔵野の冬は、きつい西風がよく吹きました。
ごーごーと吹き荒れ、木造の我が家はたえず小さな音をたてていました。
昭和三十年代のころは、まだアルミサッシの窓はなく、
赤茶色の細かな土が、木枠の窓の内側の桟に、幾層も積りました。

風の吹きやまない晩は、布団にもぐっても落ち着かず、耳は風の打ち鳴らす音を
聴いていました。



吉祥寺に越してまもないころ、まわりは空き地が多く、宅地用に掘り返された
盛り土も、あちこちに見られました。
近くには法政高校の広い野球グラウンドがあり、農家もあったので、
ひとたび風が吹き出すと、うずを巻いた土煙が、視界を黄色くしました。

外で遊んで帰ると、肌着の奥からザラザラと土がこぼれ、
布目に詰まった土は、洗濯の後、茶色のシミになりました。

小学校の遠足のお弁当が、あっという間に砂まぶしになり、
食べられなくなった悲しい思い出もあります。



母には毎日大仕事が待っていました。
洗濯と掃除です。

母の洗濯は、大きな金タライに、木製の洗濯板でした。
固形石鹸をぬり込んで、ゴシゴシとこするのです。
これで毎日、父とわたしたち兄妹三人と、父の義母と、母自身のものを
洗っていました。
泊まり込んでいくお客さんも多かったので、その分もありました。

義母は着物を着ていることが多く、洗う時は洗い張りをしなければ
なりませんでした。着物の全部の糸をほどいて一枚の布に戻し、
濡れた布をはり板に拡げて貼り付け、乾かす作業です。
乾いたら、また一針一針手縫いをして元の着物に仕立て直すのでした。
洗濯は母にとって大仕事でした。
何事も徹底してしないと気のすまない母は、洗濯ものをカタキのように、ゴシゴシとこすり込んでいました。

太い竹竿にようやく干し終えると、もうお昼に近くなっています。
そうして夕方、からりと乾いた洗濯ものを取り込めればよいのですが、
突然の風が、乾きかけの洗濯ものを土まみれにしてしまうこともたびたびでした。
「風ナンカ、大ッキライ!!!」
母の叫ぶ声が、今も耳に残っています。



母は朝夕のふき掃除も、欠かしませんでした。
床も棚もテーブルも、窓の桟ひとつひとつもていねいに、バケツの水を入れ替えてぬぐっていましたが、
それでも朝起きればテーブルに指文字が書け、
夕刻になれば部屋中がじゃりじゃりになりました。



北西向きの父の書斎は、この西風をもろに受けました。
まわりに遮る物がない中で、あたまひとつ高い仕事部屋の窓をめがけて、
風は吹きつけました。
窓辺には進駐軍払下げの大きな机があります。
父はその広い机の上や、本棚のまわりを、自ら雑巾がけをしました。
母の手を少しでも軽くするつもりだったのかもしれません。

父のふき掃除もとてもていねいで、終いによくすすがれた雑巾は、角をのばし
四角に整えられて、元の場所に干してありました。




年に一度、畳干しもありました。
舞い上がる関東ローム層の赤土は、畳の目深くに入り込みます。
お茶ガラや、濡れ新聞を撒いて掃くそうじでは、この土はとれません。
全部の畳を庭一面に出し、畳どうしを立て掛けて、
目の深く、ヘリの奥に入り込んだ土を思いきり叩き出すのです。
水を含む掃きそうじの湿気も逃すのです。
畳の下に敷かれた古新聞も、全部取り換えられました。

ズボンの裾をたくしあげ、頭にタオルをかぶり、手拭で口を覆った父が
先頭に立ってきびきびと働く姿を覚えています。



強い西風に巻き上げられる土ぼこりは、夏になると一転してベタベタ、ヌルヌルの
赤泥になりました。
このつづきは、またおはなしします。

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