2012年10月01日 22時30分50秒 posted by uruseiblog

生命の科学 復習と応用 VOL2

テーマ:ブログ


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今日もキリスト教のスレッドで見かけたコメントを少し引用して

生命の科学と宇宙の法則に触れたいと思います。


少しだけ理解が進んだ内容があったので最初に触れてみます。


昨日記事でも取り上げた二元性の話です。


二元論と言う言葉は私は嫌いなので二元性としておきます。
(論とあるので仮説を前提としているような印象があるので)


アダムスキーが父性原理と母性原理という創造の二面性で
私達の意識を説明してくれていました。


昨日の記事で少し触れた四次元的、想念的、魂的なものを司るのが父性原理で
三次元での存在、詳しく言えばフォーム(形態)
を司るのが母性原理と言う話でした。


そこで、異なった二つのものが”創造”を導くと言う話を
三次元の現象面で触れました。


ただ、二つの”別の次元の働きによる力”から
更なる物が作り上げられるという事で、


私達の生命を説明する事もできるようです。


私達の肉体としてのフォームは、
私達が三次元と呼んでいる世界の中で
元素を使用しては作り上げられている事は間違いありません。


これが三次元の母性原理の現れでした。


一方では私達の”魂”は間違いなく四次元を司る父性の原理の現れです。


そしてその両者の交わりとして存在するのが
私達が”心”と呼んでいるもう一つの意識の経路だと言うことです。


つまり”肉体”と言うフォームが存在し、”魂”と言う私達の実態があり、
実はその両者の交わるところに
私達が”心”と呼んでいる脳機能が存在していると言う話です。


確かにこの心と言う機能は、
実質的に脳と言う物質的な側面を持っている一方で、


それが”想う”行為は間違いなく精神的側面の現われで、
この機関は三次元と四次元の両面を兼ね備えていると言えます。


そして昨日私が触れた”放蕩息子が父の元に帰る”行為は
実は二面で現す事ができて、


心が、両親である父性原理と母性原理に従う時に、


心は魂と歩調をあわせることになりますし、
その事で私達の意識は創造主の意志を反映させることが
できるようにもなります。


心と魂を併せて利用し、心の価値観を魂の意志に置き換える事です。


このことをイエスキリストは”父の元に帰る”と表現しました。


一方では私達の心と魂を併せるように使用する事によって
私達の魂の進化が始まるのは
以前から私が繰り返し説明してきたとおりです。


その時に私達の肉体には一体何がおきるのか?


生命の科学で学んだように私達はそれがきっかけとなり、
時には未使用だった脳の領域を使用する事になったり、


一方では新しい脳細胞を作り上げるような
身体的変化をも齎される事になるのです。


魂が私達という肉体を具現化している大元の想念なのですから
魂が変化すれば肉体も進化するのだと説明したと思います。


つまり肉体では脳と言う物理的機能の進化が起こることになります。


つまりこの時の進化は、”母の元に帰った”、と表現しても良いような
そんな話になってくるわけです。


アダムスキーは、
「私達がすべきことは
心を孝行息子・孝行娘にすることだ」


とても見事な例え話をしてくれていました。


私達の二元論と言っているものは
実際は分離して存在するのではなくて、


私達がマインドとか心と呼んでいる脳機能において

三次元と四次元が交わっている。。。


そう説明されれば、想いを引き起こしながらも
肉体的機能を持っている脳の実態を、上手に説明することもできます。


そして更に、アダムスキーが以前に触れていた
三位一体の話を思い出してください。


三位一体はキリスト教の概念ではありません。


これも元々は彼ブラザーズ達の知識・思想でもあり、
”二元論”といわれる思想とも関係があるのではないでしょうか。


キリスト教世界では”三位一体”といえば
イエスの神聖を示すために使用されています。


父なる神、精霊なる神、イエスと言う肉体を持った神


です。


しかし実際の意味はそれとは違うと言うことでした。


私達の魂は創造主の意識の分身、
エネルギーの分身として存在します。


これは私達が四次元と呼んでいる世界の
創造主の残像思念の一部と認識すればよいと想います。


それは元々が創造主の意識の分身ですから
その意志は創造主の物です。


”魂”はそのまま父性原理の”父”
もしくは”父の分身”として理解できます。


一方では、この地球と言う三次元社会の中で
生まれたイエスキリストの肉体は、


他の人間と同様にフォームを母性原理により与えられた
存在と認識することもできます。


そして先ほどの考え方でいえば
その魂と肉体の接点に”心”と言う脳が司る機能が生じることになります。


そして魂という創造主の意識と、
肉体と言う人間としてのイエスの実体、
更には心というイエスの自我が一体となって機能する。


その事を三位一体と受け止めるのが良いのかもしれません。


私は以前は 創造主、魂、肉体の三つで
三位一体を説明していましたが
それよりもこちらのほうがより真理に近いかもしれません。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11059663896.html
皆がイエスとヨハネの承継者


父なる神の意識は”魂”で、人間なるイエスは”肉体”で


その”心”に対して働きかける魂からの意識としてのエネルギーを
”精霊”と受け止めて解釈すれば、
聖書の内容も判りやすいのではないかという話になります。


イエスキリストは人間の肉体を持ちながら
創造主の意識を魂から十分に引き出しては
その価値観で心を置き換えながら、


自分の意志でそれを語っていたと認識する事が出来ます。


これはそのまま”イエスの神の国の奥義”に繋がる話でもあります。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11301379416.html
聖書のイエスキリストの奥義 改
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329829392.html
続・宇宙の法則 VOL6 イエスの奥義前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11330640319.html
続・宇宙の法則 VOL7 イエスの奥義後編


”精霊”と言うのは創造主の意志の私達の心への働きかけであり、
同時に私達の魂そのものでもあると思います。
(聖書を内容的に解釈するとそう受け止める事が出来ます)


創造主の意志と繋がった状態で存在している魂は
創造主の意識の分身であり、精霊(御霊)なのだと思います。


人の子としてのイエスが自分の心を持って
魂の意志、もしくは魂へと注がれる創造主の意識を
フルに表現して見せた。


その状態が三位一体の意味するものだと
アダムスキーが触れていたわけです。


人間は肉体と言うフォームだけで
生きているわけでないことは誰もが知っています。


肉体機能が正常でも、細胞が正常でも
魂が離れたときに私達は生命を失うことになります。


そしてもしも私達が人間の細胞を、
そっくりそのまま作り上げたとしても
そこに生命を吹き込むことは出来ません。


それが意味しているのは、
人間は生命を作り上げることは出来ないと言う事。


魂をフォームに吹き込むのは創造主の法だと言うことです。


父性原理と母性原理の接点に私達人間が存在している。


三次元と四次元という、二元的なものは
独立して存在しているのではなくて


私達の脳機能、心で接点を持っていると説明することが
出来るのかもしれません。


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829 :神も仏も名無しさん:2012/09/30(日) 02:37:36.57 ID
>>820
地球は実在だが、神は「非実在」「空想・妄想の産物」。従って、定義
が少しでも変われば、その内容も変わる。

いい年して、いい加減で妄想から眼を覚ましてください。
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妄想というのは一体何のか?


妄想というものは思考の下に生まれます。


その思考をしている時のその”想い”という物の存在を認識すれば、


そしてその想いである”想念”が、エネルギーを持って存在している
目に見えないものである事を認識すれば、


想いの世界、想念の世界が存在することも
認めざるを得ないはずです。


四次元社会は思考の世界でもあります。


私達は思考するたびに四次元空間からエネルギーを受け止めて、
それを三次元社会に想念という形に変換しては
ばら撒いている存在でした。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329172018.html
続・宇宙の法則 VOL5 想念とオカルト


何か行動をしようとした時にも私達は思考します。


足を前に出そうと思ったときには
すでに私達は思考しているのです。


そして私達は思考なしには生きていられない存在だと
アダムスキーも説明していました。


私達に肉体的なエネルギーを与えているものは
食物だけではないのです。


私達が魂から受け止めているそのエネルギーを
想念として発しながら私達は生きている。


私達は無自覚のうちに想念を当たり一面に
ばら撒きながら暮らしているのです。


そして魂の意識からかけ離れた人間ほど
そのエネルギーを受け止め難くなる。


つまり思いは弱くなるはずです。


気力たっぷりの人間や活力たっぷりの人間は
単に肉体的、物理的なエネルギーが体に溜まっているわけではなくて


そんな想いのエネルギーが行動の力の源にもなっています。


一番顕著なのは、例えば怒りのエネルギーです。


これが時には私達に強い活力を与えることがあるのは
誰もが経験済みだと思います。


それは肉体のエネルギーではなくて
想いのエネルギーが私達に活力を与えているのだと思います。


負の想念を巻き散らかす行為は
他人にも影響を与えるので人間をも通じて社会に悪影響を与えますが


少なくとも怒りを感じた時に爆発的に湧き上がるエネルギーは
そのように理解できます。


そして想念の具体例は”呪い”でもありましたが


創造主の意識からかけ離れ
魂を感じることの出来ない人間の想いが強いわけがありません。


想いは時には人をも殺すとアダムスキーは言っていました。


しかしそれほど強い念を持っている人間は
この社会の中でも創造主の意識とかけ離れていない一部の人間。


それゆえに呪うという意識など持たないでしょう。


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831 :Johannes:2012/09/30(日) 02:41:59.81 ID
自由意思(それは自我意識に由来する)は最終的には消滅する.
何故なら自我は仮設されているに過ぎない.
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これは正しいと思います。


自由意志は心の延長として存在しているのではないでしょうか。


しかしそれは時には自分を客観的に見つめるものですし

心で作り上げた複数の価値観を並べては選択する事が出来ますし


魂の意識を感じる人間であれば
心の意識と魂の意識との選択をする事も出来ます。。


そして私達が通常”自我”と呼んでいる物は心の機能ですし、
生命の科学では魂を”真の自我”として分けて説明しています。


自我と自由意志が脳機能だとすれば、


この方の言うとおり自由意志と自我は
肉体の崩壊により消滅する事になると思います。


(自由意志が魂の延長にあれば話は違ってきますが
その辺に関しては私は確信をもてないのです)


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832 :John:2012/09/30(日) 02:42:38.52 ID
>>829
これは実在かどうかの問題ではないんですね。
物理法則を「神」とするなら、それは存在するわけです。
同様に、存在の原因性を「神」とするなら、それは存在します。


それを貴方が「神」と呼ぶか呼ばないかは関係ありませんし、
貴方が別のものを「神」と呼ぶかどうかも関係ありません

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魂を認識する事が出来ない私達は
目による視覚に囚われて、姿形を認識することを前提として
物の存在を認めることになります。


つまり神がいるのであれば、
それはどんな姿をしているのかそれを認識できなければ
存在を認めることも出来ないと言う話にも繋がってきます。


一方創造主は私達の想像を超えた存在です。


次元の話もよく耳しますが
私は三次元と四次元は理解できても
他の多次元は理解できませんし認識することも出来ません。


創造主がどんな次元の存在なのかも想像できませんし、
もしかたらこの創造物の空間の外に実体があるのかもしれません。


その姿も実体も容易には認識することは出来ないのです。


しかしこの空間にも四次元的思考の世界にも
間違いなく何らかの人知を超えた意識が
存在していることだけは認識できます。


私達はそんな法則と意識を
創造主だと認識すればよいのだと思います。


記事で取り上げているように、
天使達は創造主を人間の姿として捉えています。


それも私達の社会が良く描くような老人ではなくて
若者の姿としてです。


しかもそれが男性面と女性面を併せ持った
存在として表現されていて

とても美しい絵であったという話でもありました。


そして彼らは家庭の中にもそんな絵を飾ってあるそうです。
(もちろんそれを拝んでいるわけではありません。)


しかし創造主の姿を認識してそれを絵にしていると言うことは
進化の進んだ人間の意識で感じる創造主は
人の姿をしていると言うことを髣髴させます。


そして彼らが地球社会に伝えてくれた創造主の話と言えば
創世記の中の「神は自分に似せて人間を作られた」と言う話です。


創造主は人の姿をしていると言うのではなくて


もしかしたら本当に
私達人間が創造主の姿を象って作り上げられた可能性が
あると言うことです。

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833 :Sara:2012/09/30(日) 02:43:44.45 ID:
>>827
ですからこの世はサタンに支配されています。
置かれた環境により悪を選択せざるを得ない 人間についても神はご存知です。
ですが逆もあります。劣悪な中でも美しい心を持っている人も。
不思議ですね。全てのことを相はたらきて善に変えてくださる神に信頼するしかないです


835 :John:2012/09/30(日) 02:46:52.08 ID:
>>833
支配されていると見るかどうかは、その人の認識にすぎないと思います。


838 :Sara:2012/09/30(日) 02:49:35.05 ID
>>835
そうですか?そこは見解を異にしますね。


843 :John:2012/09/30(日) 03:06:24.20 ID:
>>838
貴方は自分自身が、サタンに支配されていると思いますか?
また、貴方の周りの人は、サタンに支配されていると思いますか?


844 :Sara:2012/09/30(日) 03:10:59.37 ID
>>843
ああ。そういう意味にとったのですね。そうじゃないです

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私達は心のエゴに従って生きる事を当たり前と誘導されています。


それを創造主の意識からかけ離れているという実態に置き換えれば
私達はサタンに支配されていると例える事も出来ます。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11277297856.html
私達はアンチクリスト?


もちろんサタンと言うのは
私達が創造主の意志にそむいているその姿の
象徴だと受け止めてください。


そしてその意識が地球社会に蔓延していると考えれば
この社会はその負の想念に支配されているともいえますし


その意味では私達が影響を受け続けているのは悪しき想念、
つまりは私達の地球の神は悪魔だとも表現できると思います。


全ては比喩であり、実際にそんなことになっていると言う
意味ではありません。


しかし私達が当たり前として受けとめている全ての環境が
創造主の意識からかけ離れる原因となっているようなものですし


その事を考えれば
私達は悪魔に誘惑されやすい過酷な環境での生活を
強いられている存在でもあると思います。


人間は環境に適応しやすい生物でもあるからです。


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837 :シモン・エピノイア ◆/bVPRrlaFM :2012/09/30(日) 02:48:30.18 ID
 
 >>833

 この種の議論の終着駅はいつもそこなんですよ。
 神は全ての要因を公平に顧慮し判断なさる、と。
神の絶対性に逃げ込まれると、論理が通用しない世界なだけに
 反論不可能だ。結局、平行線で終わるんですよ

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創造主が万物に対して平等な取り扱いをしていることは
イエスキリストも聖書で強調していました。


私達は自然の恩恵含めて誰もが平等に
創造主の法則の影響を受けていると言う実体があります。


悪人だからと言って必ずしも不幸に見舞われるわけではない。


良い人だからと言って幸せになれるわけでもない。


そこからも創造主が個々の人間に対して
区分して働きかけているわけではない事も明らかです。


私達に対して働きかけているのは今現在の創造主の意志ではなくて
残像思念としての創造主の法則です。


【神の絶対性に逃げ込まれると、論理が通用しない世界】


この宇宙以外の世界があったとした時に
そこで創造主が万能であるかどうかは別として、


この”宇宙空間”と私達が認識している社会の中では
それを作り上げた存在が万能なのは当たり前です。


そしてその法則が創造主の意志のままに
存在していることも何の不思議もありません。


私達が二次元の創造主となれば
それと同じことが言えるのは明らかです。
(絵を描く行為です)


論理が展開されるために必要な認識が
双方異なっているのであれば


そこでは論理の展開がかみ合うこともないのは
説明するまでもありません。


例えば魂の実体を認識出来る人間、認めることが出来る人間と
それを認めない人間が討論しても、


元々の持っている知識も前提条件も異なるのですから
平行線になるに決まっています。


”価値観”というものは良くも悪くも、
人間が感覚器官を通じて認識したものを
経験や体験を元にして持つことになるものですから


お互い同じ”事象”を体験可能であると言う前提がありますし
その事で意見討論は出来ます。


例えが悪いのですが、具体例で説明すれば


今揃って目撃している女性を評して
「あの人綺麗だね」


「そうかな。。」


と同じ体験と認識から論争はできます。


その論争は個人の価値観や意識の違いを
反映する事になると思います。


しかしこの創造主の問題になると
”価値観”という物を評価しあうのではなくて


それを自分の感覚器を持って
認識できるのか出来ないのかと言う違いが
前提として存在しています。


ツチノコをいると信じてそれを捕まえようとしている人間と、
その存在を認めていない人間とでは


ツチノコの話をしても、
話は噛み合う事もありません。
(ツチノコに関しての存否は私には判りませんが)


共通認識が出来ないものを討論する事は難しい。


認識できる人間と認識できない人間が
同じ土俵で話し合っても
水掛け論になるのは当たり前ではないでしょうか。


創造主と魂とに関しては、
ある人にとってはそれを認識し理解している事が
その人にとっての”真理”なのですし、


ある人にとっては感じることが出来ないことが”真理”だからです。


勿論、普遍的な”真理”は一つです。


創造主の意志、そして魂を共通認識できないからこそ
私達人間は混乱していると言うことを忘れてはいけないと思います。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11356040716.html
神を認識する魂と言う器官


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掲示板でもどこかの工作員らしき人間が、
まるで自分が2000年前に生きていて
その記憶を持っているかのように嘘をついています。


私はイエスキリストを神聖化する気はありませんし、


例えば両替商を神殿から追い出した一節などを引用して
イエスの行為を批判したり
イエスを「熱いところがある」と批評することは


ある意味正しい理解だと思いますが


根も葉もない事を取り上げて
イエスの人間性を陥れることで


イエスが語っていた創造主の法まで貶めるような
そんな言動には強く反応します。


それは他人を創造主の法に躓かせる行為だからです。


イエスが一番罪深いと言っていたその行為を
未だにし続けている人間がいます。


キリストが嫌いな人間だとすれば
ユダヤ教徒やフリーメーソン関係者かもしれません。


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859 :神も仏も名無しさん:2012/09/30(日) 09:25:51.13 ID
イエスは普通に超人的で完璧な人間だっただけ。

筋骨隆々の絶世の美男子で大飯ぐらいで大酒のみ、神懸ったサヴァン能力の

塊のような男でしかも両刀使いのバイセクシュアル

その意味でヨハネは彼にもっとも愛された。

新約聖書がギリシャ語で書かれていたというのは妙味のあること。

なぜならイエスこそはユダヤ人の中に突然変異として生まれた

「最も理想的なギリシャ人男性の典型」だったのだから。
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この人間はイエスキリストがユダヤ人であったことすら
事実として認めたくないようです。


ギリシア人であると断定しています。


イエスに関しては諸説ありますが
”ユダヤの王”と称されて処刑されたわけですし
イエスがユダヤ人でないのにユダヤを語るわけもありません。


(パリサイ派が黙っているわけがないのです)


しかもこの人間はイエスを性的倒錯者であるような誘導までしていますし
ついでにヨハネをも侮蔑しています。


私にしてみれば自分のマスター(指導者)である
オーソンさんとアダムスキーをまとめて批判されている気分ですね。


現実にはイエスの妻は
マグダラのマリアだったかもしれないと言う話もありますし、
(イエスは人の過去の罪にはこだわらないでしょうし)


イエスは自分が創造主の法を語る人間として
性的なものを排除していた可能性もあります。


イエスキリストは聖書の中で
離婚を否定的に語らえてる場面があります。


男と女は神が一つに結びつけたものであり
それを引き離してはいけないと言う趣旨です。


創造主が男というフォームと女と言うフォームを作り上げたのは
更なる生命を作り上げるためと言う役割だけでなくて

そこに何かの補完作用をも想定している可能性を感じます。


創造主が男性面と女性面の両方を持った存在として
現されていたという話がその事を彷彿させるのです。


例えば創造主が本来自分の持っている二面性を
男性と女性にそれぞれ別の物として分け与えたという可能性です。


つまり人は男と女と言う二つが合わさることで
神性を強く持つことになる。。。などと言う事はないでしょうか。


私は自分の人生での大きな転機は
やはり妻と出会った事だと感じています。


自分が持っていない意識を持っている。


私に不足している
”忍耐”や”理解”と言った意識は私は妻から学んだと思います。
(残念ながら妻は私の理解者ではありませんが)


人は他人から多く学べることもありますが


得てして他人との間に壁を作ったり、
自分と言う存在を立派に見せようとすることから
素直にそれを学ぶことが出来ません。


しかし夫婦と言う関係になると何も飾る必要もありませんし
壁を作る必要もありません。


自分を一番素直に表現できるのも、
相手の言葉を一番素直に受け止めることが出来るのも、
本当は夫婦と言う人間関係ではないでしょうか。


私は7年間交際した後に妻と結ばれました。


お互い全てを理解しあった上での結婚でした。


昨年で結婚20周年でしたが、
少なくとも7年前ぐらいまでは
仮面などかぶることもない、傍目にもとても仲の良い夫婦でした。


自分一人では悟ることの出来なかったものを、
もしかしたら私はもう一人の人間から授かったのかも知れないと
今では感じています。


勿論、結婚と言う形式によらず、
そのような人間関係にある男女が
相互を補完するかもしれないと言うのが私の想像です。


それぞれ別の役割を与えられた男性と女性だと思いますが、


今では男女平等と言う名の下に
その役割分担も壊れてきているようですし


その事が家庭崩壊の大きな原因にもなっていて
そのままこの社会の精神的な乱れの原因になっているように感じています。


同性愛の蔓延と言い、離婚率の急増といい、
全ては私達があるべき人の姿から離れてしまっている事が
原因となっている。


そんな気がします。


私達は他人からも学ぶ事が出来る。


そのためには見栄や虚栄心は大きな妨害となりそうです。


学ぶべき事が創造主の意志に繋がる意識なのですから
学ぶ側も創造主の意志を持たなければならないのでしょうね。


私達が学ぶべきは結局は創造主の意識なのだと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


P.S.


イエスキリストが一言で隣人への愛として例えたのが
創造主の意識全般。


私達はそんな意識を全身から発して生きる事が出来るよう
勤める事になるのですよね。


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最後にはユダヤと戦いたいと
室内で宣言し、


それに協力している人間達に関与しないように
お願いしていたのですが


その影響が出ているのか
堂々と思考妨害や苛つき照射含めた関与が
続いています。


工作員が魂の消滅の話を恐れているのか
嘘の転生の法則をでっち上げていたので紹介します。


自分を納得させているのか
ユダヤ傀儡仲間を騙しているのかは不明ですが。


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379 :神も仏も名無しさん:2012/09/30(日) 19:57:04.11 ID


永遠の命の秘密は西暦2000年循環説です
みなぎる命のもと
今はユリウス歴57年
当時の人々はキリストのことを全く信用しませんでした
同じパターンを毎回毎回ご苦労様であります


wikiの仏教の項目因果論
また個々の生に対しては業の積み重ねによる次の生、すなわち
輪廻転生を論じ、
世間の生き方を脱して涅槃を明かさない限り、
あらゆる生命は無限にこの輪廻を続けるという
これに対する答えが西暦2000年循環説です

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WIKIなど誰もが追加したり削除できる事は知られていますね。


2000年きっかり期間を計り、
魂が消えたりするようなスケジュールが存在している?


私の知っている転生の法則では、
あくまで創造主の意識をかけ離れてから15回程度の転生後に
魂は消滅すると説明したわけで、


一回の人生を65年程度と仮定すれば
ちょうど1000年程度になると説明しただけです。


結局は魂のバッテリー切れということですから
個人差もあるでしょうし


誰もが一律に規制される事など有り得ないと思います。


15回の転生の途中でバッテリーチャージが出来ていれば
そこから15回程度の転生と言う話にもなりますし


もしかしたらこの世には
数万年地球の中で転生を続けている人間も
いる可能性もあるわけです。


この人間が主張したいのは今はユリウス暦の57年だから
あと1943年間は魂を消す事はないと言いたいのでしょうが、


自己や関係者の気休めにしかならないと思います。


嘘や気休めで仲間を騙しても
その結果を直撃される人間の事を考えれば
真理を伝えてあげるのが親切ではないでしょうか?


それとも地球社会の癌の告知と同じで
真実を知らないほうが幸せだと感じる人も多いのでしょうか???


正しくはこちらです。

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次のように言う人があります。
「この地球と同様に他の諸惑星でも人間がどんどん生まれるならば、
宇宙はまもなく超満員になるのではないか」と。


答は「ノウ」です。


永遠の生命を得る可能性を示さない人は
除去されるという法則があるのです。

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地球の人口の急増で地球社会が
人で満員になると言う事はおそらくはなくて、


増えると言う事は許容力がまだ残っている、


もしくはそんな余裕がないのに
新しい魂が新たに作り上げられていると言うのであれば


今度は消え行く魂が大量に存在している可能性を
示唆する事になります。


しっかりとどこかで調整されるはずです。


私が一時想像していたのは地球規模の惨事が想定されていて
それに備えて大量の新規の魂が生まれてきた可能性です。


殆どの人間が創造主の意識からかけ離れているこの社会では
多くの人間が死ぬ事になって、その時に魂を消したとしても、


そして多くの人間が、他の地球レベルの惑星に
集団疎開することになっても、


(多くの人間が大量に亡くなれば
地球での出産ではそれを補えません。)


残りの魂が再建を果たし、
それ以外の魂もいつか再び地球社会に戻ってくる。


そんな可能性です。


例え、元天使(太陽系の他の惑星からの魂)でも
地球社会に落ちてきたのであれば
魂を消す事もあるでしょうし、


私達だって今回の生で魂が消えないと言う保障はありません。


「涅槃を明かさない限り永遠に生きられる」という思想は
悪人にこそ都合の良いものとなります。


そんな嘘をでっち上げて
実態を怖がるぐらいであれば
最初から意識を変えれば良いのだと思います。


イエスキリストはその気になれば
すぐにでも人間は変われると言っていました。


結局はその人間の意志の強さが物を言うのではないでしょうか。


魂が消えそうだった人間が
いきなり永遠の生へと進む事は無理かもしれませんが


少なくとも魂の消滅を間逃れて
次の転生では今回の生よりも精神の進化のために恵まれた環境で
生まれ変わる事は有り得ると思います。


自分の心にとって心地良い価値観、実践が楽な思想、


自分にとって都合の良い教えに迎合しないで
自分の心に厳しくしておけば、


「備えあれば憂いなし」ではありませんが
余計な心配をする必要もなくなるのですが

心に従い楽に走る人間が少なくないのだと想像しています。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11320208573.html
最後の審判と転生の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11276315693.html
私達は滅び行く魂の持ち主


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11354468175.html
イエスの教え VOL6

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11365227921.html
地球の運命? プロローグ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11365229377.html
地球の運命? 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11364404299.html
指導者の導きと共に進化する
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11363884269.html
進化する天使の教えと逆行する地球環境

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11360311709.html
お知らせと カバラ災害情報

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