普遍的真理 VOL16
テーマ:ブログ脳の回転の事情で
記事の更新が遅れました。
HAARPが今回は微妙ですがやはり動いていました。
それに併せるように関係者達が暴れているのだと思います。
私が一番怖いと思ったのは常軌を逸した人間の意識です。
それを身をもって体験している最中です。
大阪の西成地区では
トラックの暴走がありましたね。。。
のろしが上がっている状態は現在も続いていて
おそらくは又、中規模地震と共に終了するのでしょう。
最近はユダヤ傀儡工作員達はやりたい放題です。
本当は工作員語録でやり返したい気持ちもありますが
この人間達は自分のしている事は正しいつもりかもしれませんし
何よりも自分が可愛くて保身に余念がないようなので
決して自らの罪を認める事も無いでしょう。
この社会の戒律では法に触れなければ
そして証拠が無ければその行為は罪とはならないからです。
そしてそんな地球の法則に従っているからこそ
私のことが煙たいのだと言う事もよく理解できます。
異物を嫌い下剤を飲むと、
それが気に入らないと下の人間が天井を叩いてきます。
朝から晩まで腸内は大量のゲル状もしくは固形化した
異物で満たされ続けているようなものです。
とりわけ夕方から夜間・早朝にかけてです。
昨日は夜間の協力者も再び来ていました。
不快な思いを脳と腸に延々と受け続け
その時間が長いことから
結果は生き地獄状態と化しつつあります。
夕方には口を開くと怒りの化身と化しそうな状態になるので
そうならないためにも出来るだけ室内での
”独り言”(勿論盗聴されていること前提での)は避けています。
昨晩は胃腸の異物の貼り付けが激しく、その後妙な照射線の影響で、
脳が壊されるかと思うほど気持ちが悪くなり、
具合の悪い状態で寝いりました。
神経過敏にさせられたり
挑発により苛つかされる事も頻繁です。
挑発されながらそれに耐えるのですが
我慢できずに不満をぶちまけると攻撃はさらに激化します。
下品な攻撃もあって
夜中に尿道への攻撃を受け、
その後は延々と尿漏れの誘導です。
息苦しかったり不快な思いをし続けていますが
かろうじて魂にしがみついています。
援護してくれる人間もいますが、
実質的には”孤独”である事を自覚しながら
”騙されている振り”をもし続ける事にもなっています。
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今日で”ローマ人への手紙”の引用は終わります。
今までイエスの奥義=生命の科学を意識して
その独自の解釈を進めてきましたが
何か発見はありましたでしょうか。
聖書のイエスの言葉と使徒の手紙は
イエスの奥義無しには正しい理解が出来ないと言う事を
皆に理解してもらいたくて引用し続けてきましたが
覚醒者はおそらくは私のコメント抜きに
すでに同じ様な事を感じ取ってくれていたのではないでしょうか。
そして今では多くの方が、イエスの教えとその奥義を
正しく理解してくれたのでは無いかと期待しています。
今回は”食”に関してパウロが触れている内容を取り上げます。
私達覚醒者と予備軍は
それを大きな戒律とする必要はありませんが
食に関しても
「酒に酔ってはいけない」と取り上げられている事を
「酒を飲んではいけない」と解釈したり
誤った戒律を作り上げる事無いように注意して下さい。
覚醒者は自らが”印象”を持って自らに
戒律を課し続けていく事になります。
それは永遠の作業です。
ただ、スタート地点を出たばかりの私達には
本当は食などよりももっと大切な持つべき戒律が
たくさん存在していて、そちらこそが大切なのですが
現実には、この食に関しても
多くの組織が独自の戒律を持っては争っていますので
それに踊らされる事の無いようにして頂きたいと思い取り上げて見ました。
そして自らの持っている”食”に関する戒律に囚われている人間は、
この記事を読まないで下さい。
理解できない上に
怒りを増す事になりかねないからです。
私の目的は理解者の覚醒と
覚醒者の深い理解のきっかけとなる事です。
私の記事を読んで怒りの想念を出される事は
本意ではないのです。
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ローマ人への手紙 15章
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あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。
その意見をさばいてはいけません。
何でも食べてよいと信じている人もいますが、
弱い人は野菜よりほかには食べません。
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、
食べない人も食べる人をさばいてはいけません。
神がその人を受け入れてくださったからです。
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”信仰の弱い人が野菜しか食べない”と言うのは、
肉を食べることで精がついて姦淫に走ってしまうとか
身体に精がついてしまうことで
余計に心に囚われがちになり魂=精神が感じられなくなるとか、
そのような状態を避けたいと考え
野菜しか食べない人間がいると言う事を
取り上げているのだと思います。
精進料理なるものに肉やニンニクのような
精がつくと言われる物を使用しないのは
煩悩を少しでも避けるためだともいわれていますが
似たような話だと思います。
そしてここでは、肉を食べても神の意志を実践できる人が
肉を食べない人を”資質が低い”と軽んじてはならないし
自分が肉食を自らの中で罪と判断し自らは食べないからと言って
肉を食べる人間を”罪である”と批判してはいけないと
パウロが言っているのだと思います。
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貴方は一体だれなので、他人のしもべを裁くのですか。
しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。
このしもべは立つのです。
なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、
どの日も同じだと考える人もいます。
それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
日を守る人は、主のために守っています。
食べる人は、主のために食べています。
なぜなら、神に感謝しているからです。
食べない人も、主のために食べないのであって、
神に感謝しているのです。
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【ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが。。】
ここは安息日に関してのあり方と考え方に触れていると思います。
「安息日を設けてその日を休んだり絶食している人間も
特別な日を設けないで普通に食べている人間も
どちらも神を意識して神の意志を実行しているのだから、
どちらも神に感謝しているのだから、
創造主の前において両者に差はないのだ」
と言うことを言っていると思います。
これは日々の生活の中で安息日を重んじていた
ユダヤ教徒などを意識して触れている内容で、
一方が正しいとか間違っていると言う問題ではないと言うことに
触れているのではないでしょうか。
人格神に、「安息日を設けてその日は何もしてはいけない」と言われ
それをひたすら守っていた人間達の慣習に譲歩しながらも、
一方ではそれとは無縁な人間にも配慮した発言だと思います。
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私たちの中で誰一人として、自分のために生きている者はなく、
また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、
もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、
死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、
その主となるために、死んで、また生きられたのです。
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生命の科学で私達が学んだのは、
私達は創造主の意志を実現するために
万物の調和を図る事が求められている存在だと言う事と、
同時に私達は限りなく創造主に近づくことを期待されている
存在であると言うことでした。
そして私達に命を与えるのも、
その命を奪うのも創造主の法です。
つまり極端に言えば、私達は神の意志によって生きていて
神の意志によって死ぬと言う事になります。
私達は創造主の意識の分身を魂として持っているわけですから
それを強く感じれば感じるほど
その行動は神の意志を実現しようと勤めるように変貌していくわけで
その事には何の抵抗も無いはずです。
心を持って、創造主の意志であると考えていることを
無理やり実践するのではなくて、
魂=精神を持ってそこから直接感じる意志を
心に書き換えながらそれを実践していくのが私達の生き方だからです。
そして創造主が実現しようとしているものこそ
私達にとっての本当の天国である事も
生命の科学の理解者・覚醒者は意識する事になるはずです。
この社会はそこから遥かにかけ離れたところにあります。
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それなのに、なぜ、貴方は自分の兄弟を侮るのですか。
私達は皆、神の裁きの座に立つようになるのです。
次のように書かれているからです。
「主は言われる。私は生きている。
全てのひざは、わたしの前にひざまずき、
全ての舌は、神を褒め称える。」
こういう訳ですから、私たちは、
各々自分の事を神の御前に申し開きすることになります。
ですから、私達は、もはや互いに裁き合う事のないようにしましょう。
いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、
躓きになる物を置かないように決心しなさい。
主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、
それ自体で汚れているものは何一つないということです。
ただ、これは汚れていると認める人にとっては、
それは汚れたものなのです。
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ここで神を讃えている一文は
旧約聖書の引用だと思います。
神が私達に服従して欲しいと願っているとは思えませんが、
私達が創造主を信頼し尊敬することで
その意志を実践することを奨励しているのだと思います。
自分の意識が神の分身であると認識すれば
創造主を父と慕うことが有ってもそれを侮蔑するわけがないのです。
【ただ、これは汚れていると認める人にとっては、
それは汚れたものなのです。】
それは人間が心を持って裁いた(評価した、善悪と判断した)
物だと言う事の例えだと思います。
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もし、食べ物の事で、貴方の兄弟が心を痛めているなら、
貴方はもはや愛によって行動しているのではありません。
キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、
貴方の食べ物の事で、滅ぼさないでください。
ですから、貴方がたが良いとしている事がらによって、
そしられないようにしなさい。
なぜなら、神の国は飲み食いの事ではなく、
義と平和と聖霊による喜びだからです。
このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、
また人々にも認められるのです。
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義と平和と聖霊による喜びとありますが、
義と平和は創造主の意識から発するものであり
ここでの精霊は勿論創造主の意識もしくは
人間から発せられるプラスの想念だと思います。
(真のプラスの想念と言うのは楽観思考が生み出すものではなくて
魂からわきあがる意識だと言う事を指摘しておきます。
パウロは、自分が正しいと信じて
それが創造主の意志であると信じていることに関して
他人から中傷を受けて
それを思い悩むようなことは良くないと
触れているのだと思います。
おそらくは菜食と肉食の事で手紙の受け取り主が悩んでいて、
それに対してパウロが回答したコメントではないでしょうか。
例えば自らが断食をしている人間は
断食をしない人間を責め立てるかも知れません。
肉食を自らの罪と判断した人間が
肉食をする人間を責め立てるかもしれません。
一方ではそんな意識を感じることなく
断食をしないで肉食をする人もいるわけです。
その事に関して断食を決行し肉食を禁止している人間から
批判を受けて悩むことはないと言う話だと思います。
特定の人間が断食や肉食禁止が正しいと魂の経路から感じたのだとしても
それはその時点のその人間に対しての
大きな真理であったかも知れないわけです。
精が有り余っていて血気盛んになりがちな人間であれば
精神=魂を感じるために最初に課されるのは
その状態を改善することになるはずです。
その人間は自らの魂から肉食を止めろという印象を
受けることもあるかもしれません。
食べる量を減らせと感じる事になるかもしれません。
その事によってその時点の自分の意識が改善され
それが結果的には本人のためになります。
そしてもしかしたら
その後も自らに魂から感じた多くの戒律を課していく中で
戒律としての肉食禁止の優先順位が
後に回されるような事になっていくかもしれません。
一方元々が血気盛んでもなくて
通常の肉体状態を保っている人間であれば
精神を感じるために肉食禁止よりも優先的に
自らに課さねばならない戒律が存在してくるはずです。
それは肉ではなくて、
もしかしたら過度の飲酒や他の習慣かもしれません。
その人間にとっての重い罪はそちらになるのです。
私達が実践すべき事は、
形式に拘り誰もが同様に与えられた戒律を守ることではなくて
私達個人個人にとっての精神の進化を齎ために、
今自分がすべきことを認識しそれを実践することです。
それが結果的にはすべての人間が課される事だったとしても、
自らがその事に気がついて、それを意識してない人間にとっては
その行為を実践していないことは罪ではない。
パウロはそのことを言いたかったのだと思います。
現にこの下の章に
「疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。
なぜなら、それが信仰から出ていないからです。」
という一節があります。
私の先述の主張はその事を説明できるはずです。
肉食であれば、
「肉食が自らの精神にとって良くないと感じている人間が肉を食べれば
それは自分にとっての罪になる」と言う例えで、
それは個々の人間が自らに対して課すべき戒律であって
決して他人に対してそれを強要すべき物ではないということです。
個人が創造主の意識から安息日を必要と感じたのであれば
それを実行すれば良いわけで、
それは他人に押し付けるものではないのです。
元々が旧約聖書のモーセの神は人格を持った人間ですし
その安息日を重視する趣旨の一つに、
「主人が休まず働いていたら家畜も使用人も
休まず働かねばならなくなる」という一節もあったはずです。
家畜や使用人を労わると言う実質的な意味をも兼ねているのが
安息日の意味ではなかったのでしょうか。
そして大切なのは事の本質であり形式ではない。
そしてその本質を理解している人間と
理解していない人間がいる。
そんなすべてを一緒くたに評価すべきではないと言うことを
パウロは告げているのだと思います。
そして大体がイエスキリストは
私達は他人を裁いてはいけないと言っています。
創造主でも聖人でもない只の人間である私達には
他人を裁く権利などありませんし
裁いてはいけないのです。
(裁き=評価=善悪の判断が分裂を招く)
良くも悪くも正しく認識する事が
私達には大切だと言う事を生命の科学でも学んできたはずです。
私達を裁くのは創造主の法だけなのです。
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そういうわけですから、私達は、平和に役立つことと、
お互いの霊的成長に役立つ事とを追い求めましょう。
食べ物のことで神の御業を破壊してはいけません。
全ての物は清いのです。
しかし、それを食べて人につまづきを与えるような
人の場合は、悪いのです。
肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、
そのほか兄弟のつまづきになることをしないのは良いことなのです。
あなたの持っている信仰は、
神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。
自分が、良いと認めていることによって、
さばかれない人は幸福です。
しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。
なぜなら、それが信仰から出ていないからです。
信仰から出ていないことは、みな罪です。
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食べるものに関してはパウロの意見に100%賛成です。
私達は創造主が与えられた万物を
有効利用する事が認められているのだと思います。
それは資源や動物・植物に至ってもです。
創造主が人間に対して
他の全てのものを支配すると言う権利と、
万物を調和させると言う義務を与えているからです。
と言っても人間が自然や動物を
虐待して良いという意味にはなりませんし
無益な殺生は認められません。
万物のフォームで人間が一番進化が進んでいると言う話を
マスターがしていました。
元素レベルでそれを考えても、
人として使用された元素こそが
一番の進化を遂げたものとなっているわけです。
植物と動物と人間は
それぞれが魂という面での進化を繰り返しながら
一方では三次元では
元素レベルでの物質の進化が進んでいると言うことです。
元素は単体で存在するよりも有機物として存在することのほうが
進化していると言えますし
植物として利用されているよりも
動物として利用された状態の方が進化なのかもしれません。
マスターは人間として構成されている元素こそが
最大の進化を遂げているとも言っていました。
そして元素は一方ではあらゆるフォームを体験すると言う意味での
進化をも続けていることになります。
必ず滅んでいくこの器としての肉体ばかりに囚われるから、
野菜以外のものは食べてはいけないような
そんな発想にもなるのだと思います
物理的見地からすれば
私達の世界で進化し続けているのは元素であり
器の進化のためのDNA情報です。
一方では私達は自分達の実態としての魂の進化を
続けている最中ですし、
結果的には三次元社会においても
四次元社会においても創造主の世界は
進化し続けていることになります。
この次元での肉体は一時の仮の住まいに過ぎず、
しかも万物は繰り返し滅亡と創造の過程にあります。
一つのフォームが人間ですが
私達はその肉体を永遠に維持して進化し続けることは出来ませんし
実質的に半ば永遠に進化しているのは、
その人間の肉体を司っている細胞を構成している元素であり
人間と言うフォームを維持するための
遺伝子情報としてのDNAが肉体の崩壊後も
受け継がれていっているのです。
色々なフォームへと変化していく元素レベルでの進化を理解できれば
フォームに拘ることの愚かさを理解することになりますし
一方では、私達が万物の援助なしでは
生きてはいけない存在だと言うことにも気がつくと思います。
人間が人間を殺傷するというのは創造主の予定にありませんし
人間が万物の支配者を認められていると言っても
同時に万物への慈しみを求められている人間が
無益な殺生をすることが認められるわけでもありません。
そして私達には殺生を忌み嫌う意識も有ります。
動物が殺されるときには負の想念を発することでしょう。
むやみに生き物を殺生する事を
創造主は望むわけはありませんし、
それは樹木や昆虫であっても同じだと思います。
しかし私達が他の動植物を食べて生きていく事は
創造主が当初から予定されていた事であり
私達は何らかのフォームを必ず利用する存在なのだと思います。
植物であっても魚介類であっても動物であってもです。
そしてその全てが創造主の意識を魂として持っている存在なのですから、
血の赤い生き物は殺して食べてはいけなくて
植物や血の赤くない生き物は殺して食べてよいと言うことにも
ならないはずです。
私達は他の生命体の援助無くして存在することはできないのです。
そして私達はそれを運命付けられているのだと思います。
動物を殺してはいけないけど
植物は良いという事にはならないことも私達なら理解できます。
共に同じ創造主の意識を受けた存在だからです。
ただ、この社会の中での肉食が否定されるとすれば、
多くの食肉とされる動物が恐怖を持って殺され続けていると言うことです。
そしてその想念が
肉にも反映されていると言うことだと思います。
肉食動物を食べてはいけないとブラザーズや
アダムスキーが触れていたのは
肉食動物は他の生命体の負の想念を体内に宿す可能性の高い
存在だからだと思います。
餌となった動物は殺されるときに
恐怖を覚えることになるからです。
そして人間に恐怖を持って殺された動物も
その負の想念を胎内に宿し
それを食べた人間はその影響を受けることにもなります。
この社会の肉食の一番の弊害は
肉とされた動物が負の想念を宿したままで
死んでいくことではないでしょうか。
ブラザーズは基本的には菜食だと言いますが
時には十分な肉を食べると言う話でもありました。
彼らは動物を安楽死させているのだと思います。
そして勿論必要以上の無益な殺生は避けているはずです。
更に彼らは自らの肉体としてのフォームを維持するために
その必要な栄養分を補給するために
”食べている”こともアダムスキーの著書から読み取れます。
彼らにとっての食の本質は、十分な栄養を補給し
肉体を健全に維持するためであると言うことです。
健全な肉体を持つことが
そのまま精神=魂への経路を
確保し続けることにも繋がるのだと思います。
更にこの社会では、菜食をしている人間よりは
肉食の人間のほうが短気であるとか
精力をもてあます事があるように、
肉体を持っているが故の本能に
私達は踊らされることにもなります。
精神が強い人間であればそれを物ともしないかもしれませんが
そうでない人間は諸に影響を受けることになります。
そして肉食に関しても、
その行為が自分にとって良いかどうかを自ら感じ取り、
それに従うべきだとパウロが触れているのだと思います。
【肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、
そのほか兄弟のつまづきになる事をしないのは良いことなのです】
肉食や酒が躓きになるならそれをしない事は正しいと
パウロは言っているのだと思います。
少量の酒でも人が変わる人間もいますし
酒を飲んで凶暴になる人間もいます。
そんな人間にとっては飲酒は間違いなく罪になるからです。
酒を飲んではいけないのではなくて
酒に酔ってはいけないとパウロは触れてたはずです。
【しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。】
自分の精神が食べてはいけないと言っている人がそれを食べるなら
それは自分の精神に対して罪だと言っているのだと思います。
食べ物に関してはコリント人への手紙の中でも
こんな記述がありました。
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しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。
ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため
偶像にささげた肉として食べ、
それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。
しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。
食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
ただ、あなたがたのこの権利が、
弱い人の躓きとならないように、気をつけなさい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
食べ物自体が私達を神に近づけるのではなくて
結局は信仰(魂=精神で神を感じること)の強さなのですが
人によっては時には肉食がそれを妨げることがある事をパウロは認めて、
それを意識したコメントをしているのだと思います。
しかし戒律を作りそれを守ることはあくまで形式的な物です。
(そして私達の場合は戒律は魂から齎される事になります。)
”事の本質”は私達の魂の進化であり、
食と言うものはその中で大きな位置を占めるものではない事は
私達覚醒者こそが一番理解しているはずです。
肉食をしている覚醒者もいると思いますし、
一方では自らに厳しい食の戒律を持っていても
まったく覚醒できていない人間達も現に大勢いるからです。
大切なことは形式ではなくて
それが個々の人間に対して何を齎すのかという事で、
その結果、精神進化にとって妨げと感じる人間は
それを自らの戒めとすれば良いわけで
他人にそれを押し付けるものではないと言うことです。
肉食をすることが信仰の弱い(精神を感じにくい)
人間の信仰の妨げになるのであれば
それは注意し無ければならないということになりますし
一方ではそれが信仰の妨げとならない人間にとっては
本人が精神の妨げと認識しない限り
それは罪ではないということになります。
そしてパウロは更に触れています。
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ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、
私は今後いっさい肉をたべません。
それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。
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恐らくは自分(パウロ)が肉を食べることによって
キリストの教えを疑う人間が出てきたり、
自分(パウロ)に倣って肉食をする人間が
精神を感じにくい状態になり、信仰に躓く事も考えられますし
それを避けるためにも自分は肉を食べないと
触れているのだと思います。
個人的には極端な肉食に走ったりしなければ
食べ物に関しては特に問題はないと思いますが、
この社会での食肉制度が残酷であり
それを良くないと感じている方々が
それを食べないのは良いことだと思いますし、
食べても信仰の妨げにならない方であれば
それも罪では無いと判断します。
殺傷自体が罪であるとか事の本質を説明できずに
偽善的な戒律を持つ方は
魚も植物も食べる事が出来ないはずです。
生物は全て同様に創造主の魂の分身としての生命を持っているのであって
その命には大小の差は無いからです。
想念の観点に拠らず食に戒律を設けている人間達は、
人間の作り上げた価値観を形式的に守っているに過ぎず
そこには何の精神的な進化も齎される事はないと思います。
以前に私が記事の中で取り上げた
アダムスキーが殺生に関してマスターとのやり取りの場面を引用します。
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他の惑星から来たこの偉大な指導者の言うことは
すべて明際に理解したが、一つの疑問が私の心に浮かんできた。
彼らは──もし殺すとすれば──
食物を求めての”殺し”をどのように見ているのだろうかと思ってみた。
また果物や野菜の消費さえもどのように考えているのだろうか?
というのは、これらも自分自身の表現の形をもって生きているからだ。
すると例によって私は何も言わないのに答が返ってきた。
「これには別に不合理なものはありません、友よ。
あなたがチサの葉を食べるとそれはあなたの一部分になりますね?
その結果、そのときからチサの葉は
あなたと一緒に物事を体験し始めるのです。
したがってあなたが実際に行なった事は、
一つの物をあなた自身の形に変形したことです。
もしあなたが食べなければ、そのチサの葉は成熟し、
種を生じてふたたび同種族を増加させますが、
それだけの体験で終わるかもしれません。
しかしあなたに役立つことによって、
あなたを通じてより高い貢献をするように高められることになります。
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ここでは元素レベルの説明ではなくて
判りやすいように”例え”で説明してくれていますが
全ての元素はより高尚なものへと
進化していくべき存在だと言うことを
ブラザーズは理解しているのです。
覚醒すら体験できない私達が
食と言う魂の覚醒にとって然程重要といえないものにこだわり
宗教ごとに独自の戒律を設けてはそれを守ることを
美徳としているのはご存知のとおりです。
しかしその美徳を守っている人間の中に
一体どれだけの覚醒者が存在しているのかと言うことです。
自らの食を完全なものだと考えて
それを他人に強要しようとする人間、
自らの戒律を尺度として他人を裁く人間達。
そんな人間達が食に規範を設けているということになれば
それが実質的には何の役にも立っていないことは
考えれば判るはずです。
大切なのは事の本質、
そして私達にとっての事の本質は
人間の作り上げた戒律を形式的に守り、
そんな自分に満足することではなくて
私達の魂の進化を続けていくことである事を理解し、
私達覚醒者はそのことを皆に知らせていけば良いのだと思います。
【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】
私達が暗黒を消すために警戒すべきは
”食”ではなくて分割や争いを引き起こしている
自分達の意識である事を
是非皆に伝えて行ってほしいと思います。
肉食の真の平和主義者がいたとして
菜食の好戦主義者がいたとして
私達覚醒者に近いのは一体どちらなのか?
考えるまでも無いと思います。
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P.S.
私が以前に食に関して触れた記事で
今回のマスターの言葉を引用しているのがこれです。
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11027180903.html
宇宙の法則 VOL11
困った事に多くの人間達は食に関しての
戒律一つとっても争いのネタとしています。
悟りや覚醒といわれる物の”本質”を理解しておらず
わき道ばかりにそれては議論を繰り返し
自分達がわき道にそれている自覚すらないのです。
加害行為に関する影響を無視する事を前提で、
私が感じている食に関しての”印象”に触れれば
アダムスキーが言っていたように
何事も極端に走ってはいけないらしいと言う事です。
暴飲暴食は良くないと言うのは言うまでもありませんが
食の偏りもいけないと思います。
私は最近に関しては野菜とパンが主食になってますが
時には肉を食べる事もあります。
私は、アダムスキーが良くないと言っていた鶏肉が
肉の中では一番好きなので戸惑っていますが
今のところ自分に対しての印象で
それを止めろという意識は感じていません。
と言うよりは、
それほど頻繁に食べないからだと思います。
そして菓子類で糖分を頻繁に補給するようにしています。
私に関しては基本的に菜食を続けている時のほうが
精神状態は良いと思います。
ただし、野菜だけを食べていたのでは
時には糖分や資質が不足します。
両者は脳のエネルギーになったり
脳細胞の維持のために必要なようです。
野菜ばかりを続けている事で
時々妙に脂質がとりたくなり
そんな時は野菜のテンプラを食べる事で
満たされているものがあると思います。
妊婦が酸っぱい物を欲しがるのは
子供を作り上げる元素の補給だと言う話ですが
私達は何かを食べたいと言う閃きには
従うべきだと思います。
勿論頻繁に肉食をしている人間がそれが習慣になっていて
「今日も肉を食べたい」と考えるのとは意味が違って
肉体が必要としている成分を
脳が欲しがっている可能性があるからです。
昼間は脳ばかりを使っている事もあり
糖分が常に欲しくなります。
近年、糖尿病増加と言う話に脅かされ
糖質カットといっては糖分の摂取を抑えている人間もいるかと思いますが
確か”糖質コルチコイド”のような成分が
忍耐力強化や苦痛の抑制物質となっているはずですし
もしかしたらそれが不足する事で
怒り易くなったり忍耐力が不足したり
鬱になる可能性も想像しています。
一方、糖分の不足により
思考回路がとまる事もありますし
脳機能低下を防ぐためには糖分も必須だと思います。
私のように、主食で炭水化物をしっかり取れない方は
何らかの形で補給すべきです。
日本中に糖尿病を促進する薬品が撒かれている可能性もありますし、
それを誘導する電磁波の関与が存在していると思いますが
私であれば脳を優先してしまいます。
(糖尿病モドキを引き起こされての
失明誘導には警戒してください)
それから私のように頻繁に腸の中を空にする事は
体内の毒素を吐き出すためにもお勧めします。
とりわけ被害者は私同様に
体内に薬品に塗れた排泄物を滞留させている可能性もあります。
一般市民にしても滞留便の存在は雑菌やウイルス繁殖や、
不健康そして体臭の元にもなります。
断食と言う手段は難しいかたでも、
時には下剤のような手段を使用してでも
腸内を清掃する事をお勧めします。
その時は水分も大量に摂取してください。
食ではありませんが、
精神=魂を感じるために大切だと思うのは睡眠です。
十分な睡眠を続けて寝不足にならないように、
心がけて欲しいです。
被害者にとっては難しいかと思いますが
それでも睡眠によって脳が休まると言う事実は
忘れないで欲しいです。
精神=魂は
脳がバランス良く機能するときにこそ
私達に強くひらめきを起こすはずです。
私個人では少量のアルコールは○で深酒は×です。
これは今現在の自分に存在している
ストレスとの関係だと思います。
他のことでそれが発散されている方であれば
飲酒する必要も無いでしょうし
近年は飲酒自体も
悪徳とみなされる時代になりつつあります。
この社会が禁じようとする事の中には
実は私達の精神にとって良い事が混ざっていると言う事には
常に意識して欲しいと思います。
彼らは私達を覚醒させたくないのですから。
ちなみに私が好むけれども
それが癌の原因とされていることと言えば
喫煙、飲酒、コーヒーです。
不思議な事に私の好む事、
もしくは今の状態を維持するために脳が必要としている事は
すべてがこの社会では悪い事のようです。
きっとストレス発散や覚醒促進に有効なのでしょうね。
一方、タバコと反応して癌促進を誘導する薬品
更には先日も騒がれていたアセトアルデヒド(酒と反応します)ふくめて
喫煙と飲酒には外部からの危険が一杯の可能性を指摘して置きます。
何事も偏見や贔屓目でなく
現状を把握して正しく理解する事が
私達には大切だと思います。
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