地方紙 『 福島民友 』 より
大熊町 大野地区です。
双葉町 上鳥羽 地区です。
【 日本政府 】 と 【 東電 】 の、
「 データ 後出し 作戦 」 には、うんざりですが、
この数値は、
【 ベント作業 】 を 始めた 3月 12日 のもの です。
その日の 午前 10時に、
【 ベント作業 】 は、行われました。
ライフラインが絶たれ、
住民は、まだ、何も 知らされていない 「 時 」 です。
当日は、「 地震 」 以外の情報は、
入っていませんでした。
その日の夜は、
単に、
「 3 ㎞ 圏内は、避難してください 」 と言われたそうです。
そして、
翌日の 3月 12 日 ( 午前 6時 ) に、
「 避難指示が、10㎞ に拡大されました 」 と、
みんなが避難していた中学校で 知らされました。
それからが、
「 避難の開始 」 でした。
しかし、
情報もないまま、憶測 ( 原発 危機 ? )だけで、
みなさまは、先を争って町を出ようとします。
案の定、
大渋滞 が、起こりました。
しかも、
「 ガソリンとのメーター 」 との闘い も、ありました。
みんながみんな、
ガソリンを 「 FULL 」 に しているわけでは ありません。
「 歩いた方が早い 」 くらいの 渋滞の中で、
日本政府は、
午前 10時 に、
非情な 【 ベント作業 】 を行った のです。
あの時、至近距離の町に、
「 どれだけの人々が いたのか 」 を、
日本政府 は、
「 把握していた 」 のでしょうか ?
それとも、
「 見殺し 」 だったのでしょうか ?
ちなみに、
【 原発 】 から 3.5㎞ に 勤務していた 「 わたくしの夫 」 は、
翌日の、午前11時 30分 に帰宅しました。
夫は、
みんなが誘導される 「 山道の 35号線 」 を 通らずに、
津波の爪痕が凄まじい 国道 6号線を
敢えて通って来ました。
だから、
他の方々よりも、早く帰宅できたのかもしれません。
大部分の方々は、
中通り ( 盆地 ) へと、誘導されていきました。
放射能が 流れていくことが
確実に 分かっていた 「 方向 」 へ ・・・。