ブログに書いた「葉隠」関連のエントリーをまとめました。(バックアップもかねて)
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葉隠1 葉隠2 葉隠3 葉隠4:斎藤佐渡の守 葉隠5:直江、小早川、鍋島 葉隠6:板垣信方 葉隠7:鍋島光茂 葉隠8:龍造寺四天王 葉隠9:すっころばした件について
ひまひまに岩波文庫版「葉隠」を読んでいる。ホントに読書時間がなくて、少しずつしか読めない。しかも、旧字体で読みづらい。ケド面白い。
「葉隠」は、江戸時代中期に、肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の口述をもとに書かれた、武士の心得を説いた書である。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という文言が有名だが、言葉がひとり歩きし、一般に、死の美学を説いた書だと勘違いされているかもしれない。
たしかに、佐賀県人である大隈重信からも「奇異なる書」とされているし、常朝の時代には既に殉死は禁止されていたのに、やたら殉死したがったり、「死に狂い」という語が頻出したりする。
けれども、おもしろい。これは、武士というサラリーマン社会のマナー本?という記述もある。
山本常朝さんは、気配りの人だったらしい。
・ものを言うときには、相手の気持ちを傷つけぬように、言葉を選んで言え。
・酒を飲み過ぎてはダメ。
・幸せのとき、用心するのは自慢とおごりだよ。
等、日常生活と仕事上の心得も、具体的に書いてある。
以下、少々引用。
「欠伸・くさめはするまじきと思へば一生せぬものなり」
訳:あくび、くしゃみは、するまいと思えば、一生しないものだよ。
「写し紅粉を懐中したるがよし。自然の時に、酔覚か寝起などは顔の色悪しき事あり。斯様の時、紅粉を出し、引きたるがよきなりと。」
訳:紅粉を持っていた方がいいよ。酔いが覚めた時や、寝起きの時、顔色が悪いことがある。そんな時に、紅粉を出して(頬に)引いたらいいよ。 08.8.30
「葉隠」聞書第一の2に、有名な「武士道といふは死ぬことと見つけたり」という一節がある。
これは、同114の「『武士道は死に狂いなり。一人の殺害を数十人してつかぬるもの』と、直茂公仰せられ候。本気にては大業はならず。気違いになりて死に狂いするまでなり。また武道に於いて分別できれば、はやおくるるなり。忠も孝も入らず、武士道に於いては死に狂いなり。この内に忠孝はおのずから籠もるべし。」にも通じる。
直茂公とは、佐賀藩祖・鍋島直茂のことである。
鍋島直茂は龍造寺隆信の従兄弟で義弟。隆信の重臣だったが、後年、龍造寺家の政権を引き継いだため、簒奪者とも言われる。
しかし、戦国時代、直茂は龍造寺軍の先陣を務め、自ら槍をとって戦う「死に狂い」の武将だったわけだ。 08.11.25
岩波文庫の「葉隠」上・中・下巻のうち、ようやく下巻を読み始めたところ。
「葉隠」は、主君、鍋島光茂の死とともに出家した山本常朝(やまもと・じょうちょう)の話を、田代陣基(たしろ・つらもと または たしろ・のぶもと の両説あり)が聞きとって記録したものだ。だから、章立ては「聞書」となっていて、序章の「夜陰の閑談」から「聞書十一」まで、十二章ある。今、「聞書八」を読書中。
旧字体に手こずって、読書ペースは結構遅い。
この「葉隠」がおもしろい。
「武士道とは何か」といった哲学的?な読み方や、当時の武士の考え方や社会を知る歴史資料としての読み方、葉隠精神を現代に応用するための読みもあるだろうけど、自分はもっと単純に「佐賀藩士列伝」として読んでいる。
山本常朝は、「近ごろの武士は、覚悟が足りん!」とか「軟弱だ!」と嘆いているが、「葉隠」に出てきた武士らは、平成人から見れば、十分血気盛んである。
例えば、隆慶一郎氏の「死ぬことと見つけたり」にも取り上げられていたエピソード。
斎藤佐渡守は、「米がなくなったので、年が越せない」というので、切腹しようとした。
「米がない→切腹」という発想に、まず驚く。
しかし、息子に「死ぬ気なら何でもできる」と止められる。そこで、「ケチな悪事をしたところでつまらん。どうせやるならでかいことを」と、親子で昼強盗をする。
そして、親子で昼強盗をする。
城に納められる年貢米を強奪したのだ。「その年貢米のなかに、自分たちのもらい分も含まれているから、先にもらう」というのが、彼らの言い分。
彼らには死罪が言い渡されるが、藩主の父、鍋島直茂が「いくさで手柄を立てた佐渡守が飢えたのは、自分の責任」と言ったので、死罪は免れ、米十石が下されることになった。
佐渡守は、直茂の死に際して、追腹を切る。
藩主・鍋島勝茂が止めても、聞く耳もたず。
ほかにも、
・家老・中野数馬の小小姓時代の悪童ぶり
・治水事業で知られる名家老、成富茂安が七度も浪人したこと
・舟に乗りこんだならずモノを、中野杢之助が斬ったこと
など。血なまぐさい話も多い。
山本常朝の見解もおもしろい。
「赤穂浪士は、敵討ちをぐずくずしすぎ。仇が死んでは、何もならん。さっさと討つべし!」
という。
「葉隠マンガ」を書きたいくらい面白かったけど、無理かな〜
自分、貧乏暇なしだから。 08.12.31
「葉隠」聞書第三の五二に出てきた斎藤佐渡守。
「武道勝れ度々の手柄仕り、直茂公別けて懇ろに召し使はれ候へども、世間不調法にて如睦の御奉公相成らず」と言われた男だ。
いくさで武功を立てたが、戦乱の世が去り、天下静謐の時代になると、藩役人に就けなかったらしい。
飢えたから切腹しようとしたが、息子に「卑劣なる業をしては活きては詮もなし。中々に大なる悪事なりとして死ぬは本望なり」と言って、息子と共に年貢米泥棒をした。結果、死罪になったが、直茂のとりなしで免れた。
この男を「今山の戦い」で発見!
大友宗麟は、肥前の龍造寺隆信を度々攻めている。宗麟自身は、高良山から動かなかったが、豊州三老は佐賀に来襲した。豊州三老というのは、戸次鑑連(立花道雪)、吉弘鑑理、臼杵鑑速のこと。
元亀元年(1570年)の戦いでは、豊州勢と、大友に味方した筑前、筑後、肥前の国人の軍は、八万だったとも言われている。その大軍が龍造寺の城を囲んだ。一方、龍造寺勢は五千。
龍造寺軍は、「桶狭間の戦い」の如き奇襲戦「今山の戦い」で、宗麟の甥(弟とも言われる)の親貞を討ち取る。起死回生の勝利だった。
もっとも、この「今山の戦い」は、史実としては疑問視されているらしいが。
斎藤杢左衛門は、「今山の戦い」で、敵将吉弘大蔵を討つ。
戦功をあげたので、「佐渡守」という官途名と所領をもらっている。
では、「葉隠」に書かれた「度々の手柄」のひとつは、かなりでっかい手柄だったわけだ。
隆慶一郎氏の「死ぬことと見つけたり」の主人公斎藤杢之助は、斎藤佐渡守の孫という設定。(隆氏は、佐渡守を杢右衛門としている。本当はどっちなのか、調べていない。)
蛇足だが、斎藤杢之助という名について。
斎藤佐渡守の息子は用之助。杢之助という名は、祖父の「杢」の字と、父の「之助」をくっつたけたものになっている。
また、「葉隠」には、武門の誉れ高い「中野家」のメンバーが度々出てくる。山本定朝自身も中野家の一員だし。そのなかに、中野杢之助という人物もいる。
「死ぬことと見つけたり」には中野求馬という人物が登場する。名門中野家に、家老相良求馬の名をあわせたものか。
聞書第十145を引用。
太閤秀吉公へ御伽の衆尋ね申され候は、「当時天下を取り申す器量の大名御座候や」と申され候えば、太閤御答に、「天下を取ることは大気・勇気・智恵なければならず。この三つを兼ねたる大名一人もなし。又小者には二つ宛兼ねたる者三人あり。上杉が直江山城、これは大気・勇気はあれども智恵かけ合はず。毛利が小早川隆景、これは大気・智恵はあれども勇気懸け合はず。龍造寺が鍋島飛騨、これは勇気・智恵はあれども大気なし。大名には、これほどの者もなし」と御申し候由。
「葉隠」のなかでも、結構有名な一段。
秀吉がいうには、
「天下を取るには、大気・勇気・智恵が必要。この三つをそなえた人物は、大名のなかにはひとりもいない。その家臣には、直江兼続、小早川隆景、鍋島直茂の三人がいる。しかし、直江には大気・勇気はあるが、智恵がない。小早川には大気・智恵はあるが、勇気がない。鍋島には勇気・智恵はあるが大気はない」
と。
このなかでもっとも有能な部下は、鍋島じゃないのか?
直江には智恵が欠けているそうだ…
大河ドラマ「風林火山」が再放送されているらしい。ケド、ウチでは見られない。
見られないとなると、見たくて仕方がない。
DVD買うかなー でも、高いしなー
今年の大河ドラマにはガッカリ度が高すぎて涙目なだけに、ますます「風林火山」が見たくなる。
というわけで、「風林火山」と「葉隠」の話である。
「風林火山」の3話「摩利支天の妻」で、詩歌に興じる武田晴信を諫めるために、板垣信方が詩歌を学び、歌を披露するというシーンがあった。つまり、同じ土俵に立ったわけだ。
「葉隠」に、板垣信方のこのエピソードが書かれている。
甲斐の話を、肥前佐嘉の「葉隠」に!
天文時代の話を享保時代の人が書いたのか!
と、感心してしまった。
(山本常朝は「甲陽軍鑑」は読んだという)
「葉隠」は、家老にまで出世し、主君を諫めて切腹することこそ武士の誉れ!としているので、板垣のエピソードははずせなかったことだろう。
では、以下に引用文を――
聞書第十155
板垣信方、外様に罷り在り候時、何とぞ信玄の傍に近寄り、諫を申し非義をさせ申さざる様に仕りたく存じ候へども、御前疎く候て、所存に任せず候處、信玄詩歌に心を寄せられ候と承りて、信方学問を勤め詩歌を仕ならひ、或時御前にて詩歌詠歌を仕り、御気に入り、その後所存の如く諫言を申し、忠節を尽くし申し候由。
さむき夜にはだかになりて寝たならば明くる朝はこごえ死ぬべし 聞書第五2(p31)
まるで中学生が詠んだような歌である。(失礼)
詠んだのは佐嘉鍋島藩二代藩主・鍋島光茂公。
光茂14歳のころの歌だから、中学生の歌というのもあながち間違いではない。
ふだん厚着だった光茂が、危急の時には厚着していては対処できなかろうと、ある極寒の夜薄綿と小袖ひとつで縁側に寝て風邪もひかなかった(「初期の鍋島佐賀藩」p156)ということがあった。得意になって歌を詠んだ大名家のおぼっちゃんが目に浮かぶようだ。
光茂の祖父・勝茂、曾祖父・直茂が数々の戦を経験した武人であったのに対し、如睦の世に生まれた光茂は和歌好きだった。14のころの光茂は、次代藩主としての文武の鍛錬を怠り和歌にうつつをぬかしていたので、勝茂はカチンときたらしい。
このころの光茂には奇行が多かったので、佐嘉藩主の後継問題でもめたが、無事藩主となった。が、江戸育ちの光茂が国に帰ると、武篇一辺倒の家臣に反発された。
と、こんな光茂だが、彼の文治政治は高く評価されている。
光茂は、幕府に先駆けて、追腹を禁じた。
だから、「葉隠」の語り手山本定朝は、追腹できずに出家した。
五人いるというのがデフォの龍造寺四天王。
成松信勝、江里口信常、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直の五人だ。
葉隠にも四天王のことが書かれていて、この場合は百武、木下、成松、江里口の四人。
あれ? 四人しかいないのに四天王だと!
聞書第六30
隆信公の御時、四天王と申したる武勇の士、百武志摩守、木下四郎兵衛、成松遠江守、江里口藤七兵衛なり。江里口の末は神代家中にこれある由。
いきなり原文から
聞書第五 71
光茂公御城御退出の時分、御長袴の裾を誰か御踏みかけ候に付て、すこし御つまづきき遊ばされ候。加賀守殿御覧候て御行き抜け、その人の長袴の裾をしかと御踏み候に付て、うつぶしに倒れ申され候由。
光茂公というのは、二代佐嘉藩主鍋島光茂のこと。
加賀守というのは、おそらく、家光時代に老中を務めた堀田正盛(ほったまさもり)のこと。
時代劇で見かける長袴、歩きにくそうだと思ったら、やっぱりすそを踏まれることもあるわけだ。むろん、自分で踏むこともあっただろう。
加賀守は、光茂のかわりに、すそを踏んづけてくれたわけだが、「大名のはかまのすそを踏むのは、武士にあるまじきこと」と義憤にかられたのか、遺恨を残さぬようにとの政治的配慮が働いたのか。
光茂は「すこし御つまづ」いただけなのに、加賀守にすそを踏まれた人は、「うつぶしに倒れ申され」とは。
光茂のすそを踏んだ人って、だれだったのだろう。ちょっと気の毒……
ちなみに、光茂の曾祖父、鍋島直茂も加賀守。