2013年01月11日 21時27分27秒 posted by uruseiblog

運命を生きる2・パウロの手紙VOL4

テーマ:ブログ

追加コメント


挑発もしくはマインドコントロールを受けている気分ですが
それに乗ってやろうと思います。


少し前まで一箇所だった近所の建築現場が
先日から二箇所になったようです。


おかげで昼間から低周波の振動による影響を
強く受ける羽目になっています。


近所に二箇所同時で工事機械を動かしては低周波の発生。


低周波の共振を丁度私のアパート周辺で引き起こし
その影響を私に与えてきます。


同和部落関係か朝鮮部落関係かは不明ですが
公安利権や民族組織などの関係者である可能性もあります。


集団ストーカー利権関係者には違いありません。


電磁波の悪影響を認めない事になっている日本ですから
やりたい方題する事ができます。


そして法律は改正されない。


制限値が人体に大きく影響を与える事が出来る
とても甘いものなのにそれを規制する事も無いのです。


規制すれば利用できなくなりますし
それをこれからも使用し続けたい人間達には
都合が悪い事になります。


どうも建設関係者などには
ハイテク・電磁波攻撃に加害者と化している組織が多いようですが、
これも地震利権と関係するのでしょうか?


それとも建設関係者の振りをして
ハイテク攻撃が目的の人間達でしょうか?


インフラ整備のためか政府の公共事業予算もアップしましたし、
地震さまさまではないでしょうか。
ハイテク兵器は破壊需要を生み出す悪魔の兵器です。


P.M.15:53

--------------------------------------------------



一応この記事は参考に読んでおいてくださいね。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11182629834.html
転生の法則と入れ替わりの法則


地球の法則の恐らくは最大目標となるであろう科学力ですね。

すでに存在しているかそれとも研究中かは不明です。


想念と言えば組織的犯罪の加害者達は
間違いなく負の想念の塊だと思います。


勿論自分達が騙されていることに気が付いて
意識を変えてくれた方々は別です。


そんな人たちは眠っている一般市民よりも
覚醒する可能性が高いかもしれません。


誤りを誤りと気が付く事が出来たわけですし
そのきっかけは地球社会の実態を知ったため、
私にかかわる人間であれば創造主の法に感じるところが
あったからだと想像できるからです。


そうでなくて未だに被害者に噛み付いているような人間達は
恐らくは負の想念の意識の塊だとおもいます。
(洗脳されていれば想念以前の問題です。
彼らは半ばロボットですから)


心が肉体全体に染み込んだ負の想念で動くようになれば
暴走はとまる事もないでしょう。


他人を憎む、
他人を羨む、
他人を逆恨みする、


自分を美化する、
自分の事を偉大だと思う、


そして争いを好み戦いを好み

更には欲や権力や圧力で動かされる。


負の想い、私達が捨てなければならない
あらゆるものを持っています。


パウロ風に表現すれば
”弱いもので蒔かれ”そのままの状態が続いている、
もしくは心のエゴの虜となっているようなものです。


イエスキリストを憎むこの社会の支配者である
ユダヤ教パリサイ派長老会サンヘドリンの
作り上げてきた社会の戒律に馴染んで


その上でタルムード的な思想で生きているのですから
当たり前かもしれません。


私達はそんな人間と意識を併せてはいけません。


これだけ組織的犯罪被害が公になっても
最後まで残っているような人間は
組織の汚れ役を務めてそれに染まったような人間や


心がすっかり既存の価値観で
こびりついたような人間だと思います。


何よりもお金や欲や保身や
自分の心を満たす事が大切な人間なのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【運命を生きる2】


私達が運命と言われる波に乗っている可能性を示す話として
アダムスキーが金星に滞在した時に出会った
アダムスキーの元妻の転生だという少女の話があります。


「私達人間は誰もが課題を課されて生きていて
その課題から私達は逃げることが出来ない」


と言う話でした。


つまり私達が学ぶべきこととして与えられたその課題は
例え私達がその課題をこなすことなくその生を終えても
課題をこなすことなく自殺したり事故で死ぬことがあっても


その課題は私達がこなすことが出来るまで
課され続けて、消えてなくなることは無いと言うことになります。


それを前提に考えれば
その生において私達がどんな生き方をしようとも
その課題に関しては絶対に体験させられる羽目になるのだと思います。


例えば前世に置いて裕福でお金の価値を良くも悪くも正しく理解できず
放蕩し、それを他人に分け与えることなく独占し
それをもって自堕落三昧な事をしていた人間がいたとして、


創造主の法がその人間に対して質素、若しくは
お金の弊害に関して教えようとしたならば、
貧しい人間の立場を教えようとしたならば、


次の生におけるその人間はいくら頑張っても
お金には縁の無い生活を送ることになるかもしれないわけです。


その人間に与えられた課題が社会の底辺で暮らしている人間の
苦労を知ることであれば、その人間は次の生では
社会の底辺と言う立場を経験することになるのでしょうし


私達はその運命からは逃れることは出来ないと言うことになります。


勿論ここで必要なのはそれを体験するだけではなくて
そこから学ぶことです。


あくまで創造主の法は私達に課題を与えるために
体験の機会を齎そうとするものであって


そこから学ぶことが出来るかどうかは
私達の意識にかかってくるからです。


しかし中には心の暴走を引き起こし
貧しい思いに耐え切れず、犯罪に手を染めてしまうような
人間もいるかもしれません。


その人間はその貧しさの体験から学ぶことが出来なかったのです。


ただ、この社会は人間が暴走していますので
創造主の予定していた通りの環境が齎されるとは限らないとも思います。


創造主の法は学ぶ人間の生をも脅かすような環境は
用意などしていないはずですし


創造主の法に従えば私達は食に困って飢える事も
本来無いはずですが、それがこの社会では起きているからです。


それは創造主の意志ではなくて
人間の作り上げた誤った価値観や権力者が作り上げてきた
社会にこそ歪があるのだと思います。


話を戻せば、私達はその課題からは逃げ出すことが出来ないのですから


どんな生き方をしようとも
この人生で必ず体験させられることが存在することになります。


それを運命だとすれば、
私達はその運命を乗り越えていかなければならない存在だと
表現できるかもしれません。


そしてこの生でそれを学ぶことが出来ない上に更なるカルマを作り上げると、
次の生ではそれをも課されることになります。


学ぶべきことを学べない状態を積み重ねると
先の生では私達は課題だらけの人生となるのかもしれません。


殆どの課題は私達の心にとって不快なものでしょうし、
その人生は山あり谷なしの
茨の道を歩くことになるかも知れないわけです。


しかし私達が自分の置かれた環境に腐ることなくその中で学ぶべき課題を学び、
それをもって心の価値観を変えることが出来れば
私達は進化へと近づくことになる。


そんな話へと繋がっていきます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

脱線しておけば、私達の趣味思考は
私達にとって必要な知識や学習の機会である可能性があります。


私はありとあらゆる娯楽を楽しみましたが
その殆どがおそらくは私にとっての”体験”だったのだと想像しています。


時代を考えてみても自分が生まれてから発達した文化がその殆どですし、
初めて関わるような事ばかりで楽しくて惹かれるような
そんな物ばかりだったかもしれません。


私の場合娯楽に関していえば、
特に目に訴える物、視覚という三次元の感覚器を重視した
情報が私にとっての一番娯楽の対象だったようです。


映画、TV,本、ゲーム、パチンコ、競馬、


これらはとにかく目からの楽しい刺激だったと思います。


その上に凝り性であった私はそれらの興味を
沢山、長く更に深く追求する傾向もありました。


一方知識欲が強かったようで
嫌いであったはずの学校の勉強含めて
あらゆる事に興味を持っていたようです。


私は文学全集や小説そして漫画など
あらゆる活字文明に興味を持ち続けた人間でもありました。


CIAやUFOの話、さらには予言や幽霊、
その他ありとあらゆるオカルトと言われるもの含め
若いころは隅から隅まで読んでいた人間です。


つまりオカルトに関しては誰にも負けないような
雑学を持っていたことになります。


一方では本来左脳に特化したような人間であったのを、
読書がそれを助けて右脳機能を活性化させてくれたとも考えています。


そして知識欲は読書と身を持っての体験で満たされました。


私はとにかく活動的な人間でした。


真の知識を得るならば専門書と百科事典でも調べればよいのでしょうが
娯楽と受け止め、楽しみながら得たものを知識としていた気がします。


一方では興味が強かったものに関しては
百科事典とにらめっこする機会もありました。


昆虫図鑑や植物図鑑、更には星座です。


でもそんな堅苦しい物からでなくても
例えば時には漫画からでも知識を得ることはありますし


それが全て正しいかどうかはともかく
ありとあらゆる知識を詰め込んでいたような気がしています。


自分にとって必要な雑学と一般教養は
結果的には身につく事にはなりましたし


物事の判断材料としての知識の基礎は
結果からすれば娯楽と学校の知識で備えた事になります。


おかげで誤った価値観もしっかりと受け止める事になり
一時はユダヤ政策の申し子状態でも有った事は
以前にも触れたとおりです。


脱線すると、日本の古代史に嵌った事も(日本史ではありません)
時々記事の中で触れる様に私達の日本人のルーツとしての
ヘブライ文明との兼ね合い含めて理解するきっかけとなっていますし
(私は近代日本史には興味がなくて
それよりは世界史に興味を持っていた人間でもありました。)


私もおそらくは古代イスラエルの民の末裔の血を引いていると
想像しています。


勿論それはユダヤ人などという意識はありませんし、
古代イスラエルと古代ユダに分かれた時から
両者は本来は別物となったのだと認識しています。


私の想像では先に救われ創造主の法へと導かれたのは
アッシリアに滅ぼされ離散する事になる10の支族の方で、
彼らはユダ王国と決別しました。


その後この地に導かれた時にはすでに”神道”を持っていたようですが
それは創造主の法の理解の反映だと思います。


民族争いをしなくてすむ場所に祖先を誘導したのは
天使達だと思います。

(後にユダ族の人間がパレスチナに離散していた一部の
イスラエルの民をも従えて日本に入ったのが秦氏)


そして一方のユダ王国に縛られていた同胞達を助けるためにも
イエスキリストはパレスチナに君臨しユダの民を導いた。


イエスが一番救いたかったのは
ユダ王国に残された一般のヘブライ人達だったのかもしれません。


いまから思えば、
自分の受けた生に関してその血に興味を持つためではなくて
おそらくは私は聖書とキリスト教を学ぶために、


そしてユダヤ人と言われる
ヘブライ文明で袂を分かつ事になった人間達を理解するために
日本の古代史を追求したのかもしれません。


そしてそれは日ユ同祖論というだけでなくて
今では闇政府と化してしまった人間達の
実態を理解する事にも役立ったと思います。


もちろん詰め込んだ知識のその多くは
後に正しいものとそうでないものへと選別される事にもなりましたが、


多くの知識を得ることで情報分析のための基礎と
していたのだと認識しています。


これは私の学習の機会の一環でもあったと認識しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
脱線ついでに
参考に私のお気に入りの著書を紹介します。


小説の作家は、夏目漱石、ドストエフスキー、太宰治
近代では、筒井康孝、阿刀田高、赤川次郎、水野良、

凝り性の私は片っ端から読むふける羽目にもなりました。


日ユ同祖論に関してのお勧めは

ヨセフ・アイデルバーグ 大和民族はユダヤ人だった


日ユ同祖論の中で一番誤りが少ない内容だと認識しています。


年配のユダヤ人の著書ですが
新刊を発行する予定の年にその出版前に死んでしまったと言う
いわくもあります。


(その後最近になってそれが出版されましたが
内容に改ざんの可能性が高いです)


ユダヤ人と言っても間違って欲しくないのは
元々はヘブライ民族であり


それが二つに分かれたと言う過去があること。


そして両者の別れた真の理由は恐らくは王による圧制と
宗教の違いにあったはずだと言う事です。


バール神の話は参考程度に。
この地にやってきた人間達は創造主の法を学んでいたはずです。


先住民の縄文人(此方も近い血統)と同化し
神との橋渡し役としての天皇(古代イスラエル王国王族末裔)
を中心に皆が栄えた国だったと思います。


私が古代史にあまり触れないのは
血統や民族にこだわる事が愚かだと理解しているからです。


選民思想の原因にもなります。


現在のユダヤ人と言われる人間は母方血統を重んじてますが
日本特有の遺伝子は父方血統での遺伝だと思います。


その上に根底の思想が創造主の法とユダヤ教、

両者がかけ離れていくのは当然です。


しかしこの国の神道と道徳は消えつつあります。


それを私達が創造主の法で復活させるのです。


勿論そこには民族思想など存在してはいません。


続く
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10596704147.html
遺伝子は語る VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10596757564.html
遺伝子は語る VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10597935561.html
遺伝子は語る VOL3


http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/d2b5cb4eacc25828e3a1ae0050e43020
日ユ同祖論は真実か
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/7957cf6a020a41651b5d1b502447750a
日本人の原点
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/d4210fc012d74e97465c8b62be9f5128
日本人の血・旧約聖書の民
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/d63be19b33c64eb8afb5aac68179b697
日本人の血・旧約聖書の民 探求者アイデルバーグ
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/4038fc14187d3028f5aefe3d09604ac2
日本人の血・旧約聖書の民 800年の壁
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11295636410.html
日本人の血・旧約聖書の民 バイブルランド日本
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/74fe0560860bb2a02a921c62ac51a71a
新コーヒーブレイクVOL2 神と悪魔のチェスゲーム
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

話は飛びますが、実は今日、
自分が昔演奏していた事があるマンドリンの曲を
CDやテープで聞いていました。


私は一時ではありますが大学時代にマンドリンクラブに所属し
二度のコンサートを体験しています。


自分ひとりでギターを弾いていて味わえないものを
バンド活動で味わう事になりますが


それでも味わう事の出来ない
もっと深い調和の感動をそこから感じていた事を思い出します。


味気ないパートや地味なパートを勤めている時でも
それが全体での演奏となると
その味気ない音がとても映えるのです。


アダムスキーが四つの感覚器官をバイオリンの弦として例えて
そこでのハーモニーを語っていたように


マスターが花々の調和をオーケストラに例えていたように
一人では得られない感動がそこにはありました。


私は経済的な事情でアルバイトを強いられる事になり
クラブ活動を断念しましたが、
そこでの体験は今でも私の宝となっています。


その時代の事を思い出していたら
私は大学時代には数人の同胞に出会っていると思います。


全国各地から集う学校でもありましたが
学年上の同い年の先輩達に今ではそれを感じます。


そんな人達も覚醒してくれているのだろうかと
そんな想像をしていましたが

今では私は誰とも交流できません。


私の魂が惹かれる人間は
覚醒者予備軍の可能性がとても高いからです。


(念のために触れて置けば、
異性に心で惹かれるのとは違う感覚です。
そして男女無差別です)


闇政府の目の敵にされる事請け合いですね。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【パウロの手紙VOL4】


パウロの手紙の内容の多くは当時の一般大衆の、
しかも信仰の弱いとされていた人間達に対して
与えられたものだと思います。


パウロの言葉の中でも

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、
御霊に属する人に対するようには話すことができないで、
肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。


私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。
あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。


あなたがたは、まだ肉に属しているからです。


あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、
あなたがたは肉に属しているのではありませんか


そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

と表現されているように、創造主の法をイエスの奥義、
つまりは魂の経路を意識してそこから創造主の意志を引き出すことが
出来る人間は多くはなかったために


パウロは幼子に対するように
流動食を与えるように語っているのだと触れています。


イエスの教えを理解するのは
容易なものではなかったと言うことです。


恐らくは私達、兄弟姉妹覚醒者同士が交流することが出来れば
そこでは天使達の社会に近い
エゴを排除した交流も可能となると想像していますが


現実にこの社会の心を持って生きている人間同士は
どうしても争いやねたみから離れることが出来ません。


複数に人間が集えばそこで必ず意見の食い違いや諍いが
起こることになります。


そしてパウロは自分の弟子の中のそんな様子を見て
彼らには未だ創造主の法が理解できていないと実感したわけです。


ここでの幼子と言うのはイエスキリストの言っていた
”心が純粋な存在”と言う意味ではなくて、
私達が子供に対して持ちがちな意識である”未熟”という意味での引用です。


そのためにパウロの手紙の内容の多くは、
創造主の法の全体ではなくて、


創造主の法を意識できない人間達に対して、


モーセの時代の戒律では与えられてはいないが
私達の実行すべき事であるとして
その時代背景にあわせた具体的な行動としての戒律が表現されています。


勿論それらはパウロが自分の魂から受け止めた、
正しいとか正しくないと言う事を表現したものでしょうし
時には誰にでも当てはまったわけでもないかもしれません。


しかし自ら創造主の戒律を受けとめることの出来ない
弟子達にしてみれば、


例えモーセの時代同様に
それが明文化され戒律として実行されたとしても
意識の改善には資したのだと思います。


パウロの手紙は、このように
時代背景を考えながら読んで頂ければ良い物で


私達は個々の戒律の様な話よりも、パウロが幼子達に
創造主の法を理解させようと勤めていた箇所に関して
取り上げて読んでいくのが良いと思います。


イエスキリストが使徒達に語ったであろう、
魂と心という二つの経路、


もっと言えば三次元的な世界と四次元的な世界の話は
パウロの手紙の中からも確認できます。


その内容を当時の弟子達は地道に理解を
深めたのだと思いますが、
私達現代の人間が読むと意味不明な記述となっています。


勿論私達兄弟姉妹が読むと
それは何を言っているかは理解できますが
一応私の解釈で少し触れておきたいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、
麦やそのほかの穀物の種粒です。


しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、
おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

種は成長する事で自分の姿を表現すると言う事の例えだと思います。


私達の魂を種に例える事で、
創造主はその魂に体としての三次元のフォームを与えてくれたと
解釈してくれば後の記述も判りやすいと思います。


つまり、四次元では種として存在している私達の魂が、
三次元では元素を使用して肉体として表現されていると解釈できます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、
鳥の肉もあり、魚の肉もあります。


また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、
天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、

太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。


個々の星によって栄光が違います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

理解者・覚醒者兄弟姉妹であれば理解できるかと思いますが、
これは創造主がありとあらゆるフォーム(形態)を作り上げた
と言う事を語っているわけで、


”栄光”と書かれているところは
”表現”とか”形態”とか”性質”と読みかえればその意味が判ります。


肉とあるのは私達の肉体であり三次元でのフォームを意味します。


三次元における肉体と呼ばれるものであっても
人間と言うフォームが存在し、獣と言われるフォームが存在し、
鳥と言われるフォームが存在し、魚と言われるフォームが存在する。


その形態は様々だということです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11014121674.html
宇宙の法則  VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11010770220.html
宇宙の法則VOL3


そして”天の体”とは四次元における私達の魂としての実態ですし
”地上の体”とは三次元における私達の肉体としての実態の事です。


ここでの”天”と”地”は”四次元”と”三次元”と分類すると
判りやすいと思いますが、


時には天国=天上の他の惑星を示していることもあります。


それが私達の理解を妨害していることを後に述べます。


天と呼ばれる大気圏外には
太陽と言う存在もあれば月という存在もあれば
星と言う存在もある。


個々の星によってその性質は異なり
その現われは異なるのだとパウロは説明しています。


ここでパウロが触れているのは
創造主の作り上げた各種のフォームの話だと思います。


三次元においては万物が元素・原子で構成されていて
金星のマスターは
「神様は元素の最高の使い手だ」と表現していました。


それらはすべてが神の表現であり、

四次元における残像思念としての創造主の想いが

三次元空間で元素を使用して表現されていると言うことです。


フォームには似ているものもあるけれども
その全ては異なっているのだと言うのが
アダムスキーの話でもありました。


その三次元における体を持った私達は、それを魂の器として持つことで
生命と私達が呼んでいるものを吹き込まれている存在だと言うことです。


先述の様に、創造主は四次元における魂と言う種を
三次元において肉体として表現して与えてくれたのだと
パウロは表現しているのだと思います。


私達の肉体は魂を入れるためのフォームであり
同時にその魂を表現した姿なのだと言うことです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

死者の復活もこれと同じです。
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、


卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、


弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、


血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。


血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
当初の三つの表現はすべて同じ内容を
言葉を変えて言い表したものに過ぎません。


朽ちるもの、卑しいもの、弱いものは
三次元的実態としての私達の肉体ですし
それを司っている私達の脳であり心のことです。


朽ちないもの、栄光のあるもの、強いものとは
言うまでもなく私達の本質である魂の事。


私達は当初は肉体という血肉を持つ体として生まれ


心の影響を受け弱いものとして、
本能に踊らされる卑しいものとして、


そして三次元におけるいつか朽ち果てる運命のものとして
存在することになりますが、


私達がその自分の実態に気が付くことで
私達は永遠を感じ朽ちないもの、


創造主の法によって強きもの、


更にはその想いを纏ったものへと変わっていくのだと
パウロは説明しています。


【血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる】


肉体を持って心を持って生きている状態で生まれ、


その後覚醒を持って魂の意識から受け止めた
創造主の想いを表現する存在へと生まれ変わる
と理解して頂ければ良いと思います。


朽ちるのは心を持って生きている存在で
朽ちないのは魂を持って生きている存在だという意味です。


イエスキリストもアダムスキーも
私達を死んでいると例えていましたが、


私達は肉体を司る心に対してこそ死ぬ努力をし、
魂からの意識を表現する存在として生まれかわらなければならない。


少なくとも”イエスに有る”と思っている人間は
そうではなければならないとパウロは語っているのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、
最後のアダムは、生かす御霊となりました。


最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。
御霊のものはあとに来るのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最後のアダム。。。とあるところは
私には理解不能です。


恐らくは当初はアダムは善悪の知識の木の実を食べたことからも
当初は心を持って生きる存在となったが、


最後には他人を生かすことの出来る存在へと
変貌したと言うことではないでしょうか。


最初に血肉がありと言うのは
最初に私達が意識する事になるのは肉体であり
それを司る心だと言うことで、


御霊のものは後から来るというのは、
私達は後に御霊=魂を感じ取れる存在になると解釈できます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、
第二の人は天から出た者です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここでの表現は上の一節の繰り返しです。


私達はこの地球という三次元空間で
元素と言う材料で肉体として作られた者ですが、


もう一つの自分、真の自分は
四次元空間の創造主の分身である魂だと
解釈することになります。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、
天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

土で作られたものは土に似ていると言うのは

物質で作り上げられたものはすべて物質としての
性質と形態を持っていると言う事の表現で、


四次元的な存在である魂は、皆、想いとしてのエネルギーとして
存在していると解釈できます。


四次元空間の素材は創造主の想いのエネルギーだからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、
天上のかたちをも持つのです。


兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。
血肉のからだは神の国を相続できません。
朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私達は肉体という三次元の物質的フォームを持つと同時に、
一方では想念の塊というフォームをもっている。


つまりは私達は三次元の肉体を司る心を持っているのと同時に
神の表現としての魂を持っているのだと解釈できます。


【血肉の体を持つものは神の国を相続できません。】


パウロのこの辺の言い回しが、
まるで私達が死んで霊魂になって天国に入ることになるという
誤解を引き起こさせた元だと想像していました。


”天”と”地”と表現した時に

それは四次元と三次元という分類のほかに
”天空”とこの”地上”という分類が出来ると言う話をしましたが


ここで神の国そして天と表現されているのは
イエスキリストが私達に天国だと指し示された
金星や他の太陽系の惑星をさすことになります。


私達の地上から見た時の天の国です。


天というのを四次元的な物とだけ受け止める事になると
天の国は霊界となってしまいますが、
そうではない事は私達であれば理解できます。


魂の進化を止めて霊界に行って神様の横で寝ていたい人達が
そんな希望を持って生きていく事を止めませんが


イエスが「貴方たちのために部屋を用意する」
と言っていた部屋の有る場所は
天空高くの他の惑星のことです。


それはこの社会と比較すれば、
それこそ天国と表現するのが適当な社会でしょうし


地獄というのはそのまま私達の暮らす地球社会を
示すことも出来るかもしれません。


記憶を持って転生できた人間はこの社会と比べると
遥かに魂の安らぎを感じることの出来る場所で暮らせることになりますが


記憶を失ってこの社会に転生する人間は
今よりも精神環境の悪化したこの地球社会で
再び暮らすことになるのですから


それはまさに天国と地獄と言えるかもしれません。


そして私達の地球社会の常識では、
天空の惑星に人間は存在しないと言うことになっているために


”天”といった時の解釈が、
まとめて神の国=霊界となっているために


私達はここでも聖書の正しい理解を
妨げられることになっているのです。


肉体を持たずして
精神の進化を果たすことが出来るわけもありませんし


私達のような未熟な人間が
そのまま創造主の横に行くことが出来ると考えることは、
私達がおごり高ぶっていることの証拠でもあります。


私達にはそんな価値などないのです。


人間としての第一歩も実はまだ踏み出していないことに気が付かず
自分が創造主の側で安らぎを与えられるような存在だと
考えることは私達の傲慢です。


神から最もかけ離れた私達が
神の意志を感じることも出来ないで
その意志と正反対のことを繰り広げているのに
どうして神の御許にいくことができるのでしょうか。


私達が神から相続するのは”永遠の命”です。


それは心に囚われて記憶を失っての転生では
感じることの出来ない意識であり


肉体を変えながら記憶の継続を通じて
私達は永遠を感じることになります。


【血肉の体を持つものは神の国を相続できません。】


と言うのは心を持って生きている人間は
永遠の生、記憶を持っての転生を果たすことは出来ないと理解すべきです。


【朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。】


心を持って暴走している私達は
いずれ魂をも朽ち果てさせてしまうことになる存在です。


朽ち果てる運命の、永遠を示すことの出来ない存在は
永遠を相続することは出来ないとパウロが言っています。


私達は天国と地獄の概念を取り違えてしまったために
イエスの復活も死者の土からの復活であると勘違いしています。


勿論、当時の天使達が当時の人間達に理解させるためなのか
私達に誤解させるような表現をした事もまちがいありません。


しかし地球社会の中だけを自分達の世界としていて、
しかもその中で心を持って暴走していた人間達に


天使達は四次元という異質な世界と、他の惑星という別社会の
二つも同時に教えようとしたために


私達はそれを混同してしまい
今のような誤った価値概念を持つに至ったのだと思います。


彼らは太陽系や宇宙を理解している人間達ではなく、
同時に三次元とか四次元を理解できる存在でもありませんでした。


「心の暴走をやめて魂と言う自分の実態に気が付けば、
未来には良いことがある」
と勧誘することが精一杯だったのではないでしょうか。


しかし今現在の私達は2000年前とは異なります。


未認識と言っても四次元を知識として知っていますし
太陽系に他の惑星があることも知っています。


もしも50年前にその実態が明らかにされていれば
私達は聖書の不可思議な記述をすべて正しく
理解することが出来たのだと思います。


最後に取り上げるのは創造主の法を理解しようとする人間に対しての
心がけをパウロが述べている内容です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すべてのことは、してもよいのです。
しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。
すべてのことは、してもよいのです。


しかし、すべてのことが徳を高めるとは限りません。


だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パウロはここで全ての事はしても構わないと触れています。
勿論、初めから悪いと判っている事をも
しても構わないと言っているわけではありません。


ありとあらゆる事を経験しなさいと言っていると認識すれば
アダムスキーの生命の科学にも繋がってくる話です。


そしてその行為が全て私達の魂の進化にとって
有益とは限らないとも触れています。


勿論私達はそれを自ら判断していくことになります。


それは自分の魂の進化を導く行為であるのか?


一つの判断基準です。


更にパウロは続けています。

自分の利益を求めないで他人の利益を心がけなさいとです。


これは言うまでもなく他人への奉仕
つまりは万物への奉仕を語っています。


その前節と併せると、
「自分の利益をエゴをもって行動するのではなくて
万物にとっての奉仕となる事をしなさい」


という話になってくると思います。


体験の中から学び魂を進化させ続ける。


万物に奉仕する事を心がける。


これは私達が学んでいる創造主の法に他なりません。


パウロが形式としての戒律ではなくて
心のあり方としての創造主の法を理解して実践していた
何よりの証拠だと思います。


パウロの手紙は後世の人間がそれを引用して
勝手に聖書の聖典としたものであって


当初から聖書に編纂されることなどパウロ自身は
意識などしていなかったでしょうし、


そのために当時ひらめきで大雑把に語った内容が
そのまま現在では額面どおり受け止められる事になるなど、
弊害も多いのだと思います。


それが後に経典となり
それを学ぶ人間が大量に出てくる事を意識していれば、
パウロの記述も随分と変わることになったと想像できます。


当時の弟子達はその言葉に疑問を感じれば
すぐにパウロに手紙で尋ねることも出来ました。


そんな意識もパウロの中にはあったのではないでしょうか。


私達はそんな背景まで考えることができれば、
細かい間違いを突っ込んだり、


矛盾を指摘したり、言葉の意味を誤解することなく
聖書を見つめることが出来ると思います。


私達は他人の立場に立って、
更には見えないその時代背景まで見るように勤めることで
深く聖書を理解することが出来ました。


全ては創造主の法の導きだと思いませんか?


私達は進化し続けています。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.

自分に都合の良い解釈をしたり
自分にとって都合の良い箇所だけを引用して
それを理解した気になってはいけないことは言うまでもありません。


私達は聖書の中から
その根底にある創造主の法の体系こそを理解しなければ
ならないと思います。


覚醒者兄弟姉妹は勿論、
今は未だ理解レベルの人であっても


そして敬虔なクリスチャンがここを見る機会があっても
きっと理解を深めてくれると思います。


サタン思想の人間に甚振られながら
皆の理解を深めるきっかけになればと頑張っています。

PR

コメント

[コメントをする]

コメント投稿

一緒にプレゼントも贈ろう!

気になるキーワード

    アメーバID登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト