2013年01月10日 21時33分26秒 posted by uruseiblog

運命を生きる1&パウロの手紙 VOL3

テーマ:ブログ


賢明な兄弟姉妹に一応報告です。


あくまで警戒を促すためです。
実害を引き起こさせないためにこそ私達は
昨年同様に指摘し続けるのです。


明日は2013年1月11日ですが


カバラ数式でいう”9”悪魔の数字の日ですし、


”11日”というのも彼らには特別な日です。


明後日は新月で潮も満ちて来ます


条件が揃ってしまっているので
はっきりと触れることで彼らをの実害を起こさせないように
牽制しておきたいです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11401108028.html
NWO(新世界秩序)の焦り VOL19 カバラ秘術


今日は私への攻撃も強化されていましたし



先日夜中に地震が少ないと触れると



平成25年01月10日03時14分 気象庁発表
10日03時09分頃地震がありました。
震源地は兵庫県南西部 ( 北緯34.9度、東経134.6度)で震源の
深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は2.6と推定されます。
各地の震度は次の通りです。
なお、*印は気象庁以外の震度観測点についての情報です。


兵庫県  震度1  加古川市志方町*
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんな地震もありました。



被害激化している被害者がいるようです。


ユダヤ傀儡は何故に一番苦しむ方法で危害を加えてくるのか?


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
松田五月 @syoaho 6時間
前に外を歩いている時に突然呼吸困難にされた。
今、行われている拷問はそれに尾ひれを付け、
喘息では痰の位置を変えながらと成るので苦しい中私もその都度
変えなくてはならい辛い拷問と成っている。
こんなもの私で始まった訳は無く
今までどれ程の被害者がいるのかと思うと遣りきれない想いです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は大学時代そしてその後も延々と
自然を装ってやられていた身体攻撃です。


横隔膜と肺や呼吸器や擬似痰への連携プレイによる
呼吸への関与です。


横隔膜の圧迫は満腹状態と同じ状態を作り上げます。

その上に肺に薬品で擬似の痰をつくり呼吸機能を低下させる。


更に別の異物経由で若しくは腸の別の箇所からの電磁波を
有効に呼吸器に照射して呼吸機能をまとめて低下するようです。


地震の関係者が工作員に圧力をかけているようにも見えますし
被害者を消さないと最悪自分達の命が危ないのかもしれませんね。


多くの人間が気がついていなかっただけで
おそらくは私が生まれた頃には既に存在していたハイテク兵器。


当初はその機能は低かったでしょうが、
時期的には1957年が、沈黙の兵器による見えない戦争を
ユダヤが世界に向けて発信した年のようです。


その頃からの協力者達やその末裔、
更には元はヤクザのような人間が
そんな仕事に関わっているのだと思います。


彼らは仕事としてそれで対価を受けているような
人間達かもしれませんし
組織からの命令を受けている人間かもしれません。

---------------------------------------------------------

【運命を生きる1】


聖書のパウロの手紙と並行して
私達の運命に関して考える機会を提供したいと思います。


細切れに数回記事の冒頭に置きます。


少し前にはカルマの解消と、転生の法則について触れてみました。


創造主の法が、私達がカルマを解消するために、
罪を罪と認識することが出来るようになるための学習の機会を
次の生で与えるとすれば、


私達の人生におけるその生まれた環境や与えられた境遇は
一体どんな意味をもっているのか?


そんな事を考えていました。


私達が無自覚なだけで、私達の生まれた日は
それぞれ意味を持っていると思います。


風水で他人の運命を数学的に分析してくれる
風水士と呼ばれる人達がいます。


彼らの占いは占いと言うよりは
数術とか計算のようなものがその基本となっているようです。


人間の生まれた日時からその人間の運命とも言えるものを
計算して示してくれるようですが、
それはかなりの的中率を誇るとも言います。


風水とか奇門遁甲では私達を五行(木火土金水)に分け
その傾向を示した上で、
その大きな人生の流れを捉えてそれを提示してくれるようです。


占いは当たるも八卦当たらぬも八卦などと言いますが
風水での誕生日時の計算は単なる占いとは違うと思います。


あれはこの社会を取り巻く見えない法則を
数式で計測して示したもの、


つまり私達は生まれた時には、ある意味
既に運命がある程度決められているような存在だと言う事になると思います。


しかし、


「生まれた時に人生が決まっているなどおかしな話だ。」


「それでは人生の意味がない」


と言う事にはならないと思います。


運命と言っても道は一本ではないでしょうし、
それが運命の波だとすれば私達はその波から外れる事もできるからです。


しかしその波の正体が、もしも創造主の法だったら。。


私達はその波に乗り続けることで
自らの学ぶべき課題を果たしていく事になるのかもしれません。


先日もしつこく取り上げましたが、創造主の法はこの地球社会では
私達を覚醒へと誘導するために働くのだと思います。


イエスキリストが触れていた”父の想いは永遠の生”とあるように
私達社会の全ての人間を創造主の道へと誘導するためにです。


人としてあるべき姿を実践している天使達の社会とは異なり、
私達は創造主の法に目覚めていないのですから


進化と調和を求めるその法則は
私達にその法則を意識させる事から働きかけるはずです。


つまりは魂を私達に認識させることです。


私達は誰もが創造主の法に導かれていると言うことになります。


ただ、私達はそれを誰もが自覚していませんし
気がつくと導かれていくその流れを”運命”と呼んでいるのかもしれません。


ただ、その運命と言うものが存在していたとしても、
それは個人の努力なしに乗り続ける事ができる波ではなくて
あくまで大雑把な流れで私達を導くのが通常で、


その流れの中で必要な経験と学習を果たし
そこで何を学んでいくのかは私達個人の人間次第だと
いう事になるのではないかと想像していました。


創造主の法は常に私達に対して働きかけている。


そしてそれは私達を学習するように誘導している。


そして前世の行ないや心のあり方で
私達の学ぶべき内容が異なってくるのですし


例えばそのためのローテーションを大雑把な指針として、
その創造主の法則の下、エネルギーとして動いているものを利用して
効果的なところに私達が置かれることになり、


それが私達が生まれた環境であり、誕生した日だと言うことかもしれません。


私達の誕生日=私達の前の肉体が死んだ日
という事になりますし


私達は、その死の日まで創造主の法によって
決められている可能性もある事になります。


つまり今回の生の誕生日は
前世の課題を私達が果たすために最適な日と時間が選択され


私達はその時に生まれることで
学ぶべき事を学習しやすいタイミング、
そして学習の機会を得やすい場所へと導かれて来た事になります。


私達はその環境で学ぶべき体験をその流れの中で持ち続け
それによって自らのカルマを解消し
一方学ぶべきことを体験から学び続ける事になるのかもしれません。


もしもこれが現実であれば、
私達はその運命の波とも言えるものに無自覚の内に乗っていたり
そこから外れたりしながら今回の人生を送ってきた事になります。


そして例えば私達は運命の分岐点とも言える経験を
誰もが持っています。


その選択が私達を結果的に今の状態にまで誘導してきた。


そして波から外れるにしても
与えられた課題を十二分にこなして予定以上の学習を果たしたり


時には必要な学習を果たせないことで
その波からかけ離れることになるのかもしれませんが


”大雑把な進行方向”はおそらくは決まっていて、
その結果導かれる幅広い選択肢の先に
今の私達は存在しているのかもしれません。


更に創造主の法の下での覚醒のラインとしてグラフの波で例えれば


その波よりも上に存在していれば覚醒ライン
その下にあれば努力不足といった具合に分類されるのかもしれません。


私達は自分の人生を振り返る事で、その中の分岐点を見つめる事で
自分がこの生において与えられてきた課題を
見つめる事が出来るかもしれない。


そして自分が過去に作ってきたカルマを認識できるかもしれません。


悪しきカルマの影響や、学習できていない事柄に関しては
今の自分の心のエゴからも分析可能のはずです。


進化できていないと言う事は、改善されていないと言う事は
それを学んではいないと言う証拠だからです。


そんな私の想像を元に
今日はオカルト含めて自分の人生の分岐点となったことを
振り返ってみてほしいと思います。


今の自分を作り上げてきたのは
間違いなく自分のこの生での体験です。


自分の人生が大きく変わったかもしれない事柄や
それを導くことになった事柄、


それを取り巻く環境の変化含めて
それらが偶然ではなくて何らかの力の働きであるという可能性含めて
自分の人生を振り返ってみてほしいと思います。


ユダヤ教の秘儀ともされているカバラは、
時間によってその時に私達に影響を与えるエネルギーが異なる事を数式で分析して
それを利用していると言うのが私の主張でしたが、


それは私達を取り巻く見えないエネルギーであり
おそらくは創造主の法に関連するものだと思います。


それを味方にして上手く立ち振る舞うことで
彼らは自分達の人生を自分たちの想定どおりに
切り開いて来たのかもしれません。


私達はそんな秘儀を持ってはいませんが
少なからず自らを取り巻くそんな流れを意識すること
もしくは気がつく事が出来るかもしれません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


例えば私は自分の過去の人生の流れが
偶然ではないと確信するに至っていますし


自分が人生において興味を持ったことや
学んできた事が今現在自分にとって役立っていることを
過去にも記事で取り上げています。


私は運良く運命の波に乗り続ける事が出来たのかもしれないと
想像していました。


与えられた課題をこなし続けることが出来たと言う可能性です。


しかしそれは心が心地良いという人生では有り得ませんでしたし


以前にも触れた通りに
私は自分が達成しようと努めたこと
その全てにおいて挫折しているという現実もあります。


でも努力が報われなかった事自体も
もしかしたら運命だったと言う話にもなっていくのかと想像していました。


私はあらゆる挫折を繰り返して生きてきました。


ただ、その中で腐らなかったこと
その失敗だらけの人生の中で何かを学んできた事が
今の自分を培ったのかもしれません。


そしてそこで学んだことこそが
私への課題だったと言うことかもしれません。


私は北海道の北の果ての稚内の更に田舎の
曹洞宗の僧侶の家に初孫として生まれました。


私が生まれてまもなく、両親が父の浮気が原因で
離婚したために母親は再婚を強いられ


その後結婚した義理の父との兼ね合いもあり、
私は一時は祖父母の養子になる話もありました。


私の祖父は私が6歳の時に前立腺癌で亡くなりましたが
もしも祖父がそのとき生きていれば
そして長男だった叔父が当初の予定通り跡を次いでいれば


私はその後にそこで学び続け
そのお寺で僧侶になっていた可能性があります。


少なくとも幼少期の私は
「お坊さんになる」と言う意識でいましたし

祖母達も半ばそれを期待していたと思います。


幼少時に祖母と共に入院中の祖父に変わって檀家を回ったこともありますし
当時は般若信教も覚えていました。


私の一つ目の分岐点は
その時に祖父が亡くなったことと、叔父がお寺を次がなかった事で
一家が仏教と関わる事が無くなった事だと思います。


そして私が祖父母の養子となる事を
母親が拒んだ事でもあったかもしれません。


つまり私は今の状態がいずれにしても到達すべき場所であったとすれば
仏教徒からの覚醒へと導かれた可能性があったと言うことです。


もしかしたら今回の私の生における課題は
真理に覚醒する事だったのかもしれません。


私は幼少時代のみ仏教にふれることになりますが
それは知識として備わるものではありませんでした。


ただそんな環境で育っていた母や叔父や叔母そして
祖父母の影響をそこで大きく受けて育つ事にはなりました。


幼少時代に私に道徳を与えたのは
私の親族であり仏教で有ったという事です。


続く
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


【パウロの手紙VOL3】


今日はパウロの教えの中の
私が納得できない箇所を改竄の可能性のある箇所として紹介します。


イエスキリストの神聖に関しては、


イエスを美化することで多くの信者を得て
その人間達を永遠の命へと導こうとしたのが目的であれば
それは間違いではないと思います。


当時の社会ではそれがきっかけとなって
多くの人間が救われた可能性は否定できないからです。


しかし一方では後の世において、イエスの神聖化をめぐって
キリスト教内の解釈の違いにより派閥ができる事までは
天使達は予定してはいなかったと思います。


彼らにとって大切だったのは、
その時に誤った価値観へと導かれようとしていた人間達を
救済することだったはずだからです。


真理は私達の魂に共鳴しますし
そのために後の世においても延々と受け継がれることになった
イエスキリストの教えですが、


キリスト教が今の時代のような流れになることは、
それを教えたイエスキリストも予定してはいなかったと思います。


イエスの教えに人間の解釈が加わり
結果的に当初の教えとは違った多くの解釈がなされ
ここまで複雑になることも想定外だったと思います。


今ではユダヤ教徒の中のサタンの会派の人間達によって
作り上げられたキリスト教もありますし


既存のキリスト教がフリーメーソンによって
歪められつつあると言う実態もあります。


そこで人間の作り上げた戒律に囚われたり
形式に拘ると誤った方向へと導かれることになります。


私達が理解すべきはイエスキリストの想いです。


当時2000年前にイエスが現れた時に、


先祖から受け継いできた形式的な物事や、
旧約聖書に記述されている事だから
それは守らねばならぬと戒律や割礼のようなものを重んじ


つまりは記述を文字通り受け止め聖書にあることを守れば
それでその人間は義とみなされると言う風潮が蔓延っていて
それでは心のあり方をおざなりにしていると言うのがイエスの主張。


イエスキリストは聖書に記述されている事を
そっくりそのまま実行しろと言っていたわけではないはずです。


元々イエスキリストの時代に存在していたのは旧約聖書だけです。


イエスの重要な教えは新約聖書の福音書の
あちこちにちりばめられています。


そしてその趣旨は、大切な事は心のあり方であり、
教えの中から学ぶべきは額面通りの内容や形式ではなくて
事の本質であると言う事です。


形式ごとを形式的に守るだけでは私達の魂の進化はありません。


大切なのはイエスキリストの言っていたように
私達の心のあり方ですし、


その心の想いはそのまま想念として
私達の体を通じて表現されることにもなります。


つまりは信仰が強く魂からの意志を強く受け止める人間は
それを行動でも示すことになります。


勿論、心にもないことを表現してみせる
もしくは自分の心を偽って表現することも可能ですが
そんな人間をイエスは偽善者と言っていたはずです。


イエスキリストの教えの真髄は、
その心のあり方、教えの実質を理解すれば
それがいつの時代の人間に対しても通用する戒律であると言うこと。


安息日のように、奴隷や家畜を持たない時代の人間にとって
必ずしも必要とはいえない戒律を後生大事に持ち続けるのではなくて


その時代時代で正しい事と誤っていることは
変わっていく事にもなりますし


時代が変われば当然その時代の背景により
新しい問題も生じるはずです。


戒律を形式的に受け止めている人間においては
新しい問題に対しては判断基準を持たないことになりますが


イエスの教えを理解していれば
その判断基準は常に与えられることになります。


旧約聖書の時代の戒律に従っていた人間達は
時代が変わりその社会の風潮が変わったときに
そこで昔の戒律が適用できない事に気がついて


律法学者などを通して新たな人為的な戒律を
そこに設けることになります。


そして当時の律法学者などが作り上げていた戒律によって
新たな弊害が起こることを想定してイエスキリストはそれを批判した。


そして真の戒律は創造主の意志によって与えられる事を
説いたのです。


つまり何が正しくて何が間違っているかは、
創造主の意志に照らして判断すべきで
それはそのまま私達の心のあり方に関わるものであり


それは同時に私達の魂の進化をも齎す物である事を
私達に教えてくれたのだと言えます。


その心の戒律を適応すれば、
どの時代の問題に関しても何が正しくて何が間違っているかは
判断できるようになるはずです。


判断基準は、その行為が自分の魂の良心に照らして
正しいか正しくないか、


その行動の結果が万物に対しての奉仕となっているのか、
その想いはエゴから出てはいないかなど、
道徳心を持っていれば物事の良し悪しを判定する判断基準はいくらでもあるはずです。


そして一方、戒律として人間の手で制定されていなくても
その行為が創造主の意志に照らして誤っていればそれは罪です。


法律の網を潜り抜けて、それが人間の戒律で罪とされていないことで
その行為を実行しても自分は罪を犯してはいないと

自らを正当化しようという想いを持つようになるのは


人間が心を持って作り上げた戒律を形式的に守っているためです。


例えば組織的犯罪に照らして考えれば、
それが法律で規制されていようといまいと、


他人に対して危害を加えると言う行為は
創造主の法の元認められるわけがありません。


他人に危害を加える行為、他人を裁く行為は
少なくともイエスの教えの元では全ては罪だからです。


イエスキリストも「裁いてはいけない」と言っていたように
例え相手が極悪人であっても
それを裁くのは一応は人間が作り上げた法律でしょうし、


その後にはしっかりと創造主の法で裁かれることになります。


もっと付け加えておけば、
人間の法律によって定められた罰を受けたからと言って
その人間の罪の行為が創造主の法の下で赦免されたわけではないということ。


形式的にはその罪人は裁きを受けてそこで刑を執行されますが、
その人間が刑期を負えた後にも
悪しき想いを持ち続けその行為に対して反省をしていなければ、


この社会においては清算された事になっている罪でも
創造主の前において清算されてはいないことになります。


同様に人間が心の価値観を持って作り上げてきた戒律に抵触せず
この社会の中では罪とみなされる事がない行為であっても、


若しくはこの社会の中ではその罪がばれることがなく
刑を受けずに済まされたとしても


それが無罪放免と見なされるのは人間の社会の中においてであって

それは創造主の法の下においては当然罪であり


それに対して反省し意識を改善して学ぶことがなければ、
結果的には転生の法則の時、


個々の審判の時に置いて課題を受けるとか、魂を消すことになるとか、
何らかの働きかけを受ける事になるはずです。


全ては形式ではなくて実質である。


イエスキリストから私達が学ぶべきは
この事だと思います。


私達が学ぶべきはイエスの教えの具体例だけでなくて
そこから導き出す事ができる心のあり方と
思考の方法だと言うことです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ところでイエスキリストの神聖だけではなくて
聖書の中にはイエスの教えとは異なった記述を
他にも見ることができます。


自分を”人の子”とも繰り返し
神である事を否定していたイエスを


(私達は皆神の子ですがそれを語ることで
誤解を招くことを意識していた気がします)


神聖化した内容も改竄と言えますが、


それとは別の目的での改竄が入り込んでいる可能性です。


新約聖書を読むにあたっての注意事項として私が以前から触れているのは
その中に時代の支配者にとって都合の良い改竄が
紛れ込んでいると言う可能性です。


イエスキリストの教えは民衆を穏やかにするものです。


ユダヤ教時代の民が石打で他人を裁いたような意識を
イエスの教えを守っていた人間達は持たなかったと思います。


人間を穏やかにする思想としてイエスの教えをそのまま利用し
民衆の管理に利用したのが昔の権力者階級だったわけです。


時にはキリスト教を国教として
その教えを国内の民に浸透させる事にもなりました。


ただ、民衆を権力に対して従順にさせるために
彼らの手によって聖書の改竄が行われた可能性があります。


イエスの教えは権力者への服従など教えてはいません。


それどころか時の権力者であったパリサイ長老会や
律法学者含めてそれに対して批判的でありましたし


権力者に迫害されるであろう弟子や信者の事を
想定してはそれに耐えろと語っていたはずです。


そして神は誰にでも平等であり、
自分を小さくして誰にでも従う人間ほど
天の国では偉いのだというのがイエスの教えです。


イエスは人間の作り上げた権力など認めてはいなかったのです。


そして天使達が嫌っていたのは
堕天使ともいえる人間達が神や王を語り
民主を管理支配することでもあったはずです。


しかしパウロの手紙の中にはこんな記述もあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、
神によって立てられたものです。


したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。
そむいた人は自分の身にさばきを招きます。


支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。
権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。


そうすれば、支配者からほめられます。


それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。
しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。
彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。
彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。


ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、
良心のためにも、従うべきです。


同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。
彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「この社会の全ての権力が神が与えたもの」


とここではパウロが語っていることになっていますが


創造主の法の下では人間の一切の権限など認めてはいないはずです。


人間は誰もが平等に存在し、他人と自分との間には上下関係など存在せず、

むしろ心のあり方としては全ての人間が自分より偉いと思って
尊敬しなさいと言うのがイエスの教えでもあります。


特定の人間が権力を与えられそれに服従しなさいと言うのは
自分達の権力を正当化する権力者の立場に都合の良い内容で
創造主の法とは矛盾してもいます。


そして「権力者に逆らうと神の裁きを受ける」とまで触れています。


イエスの奥義を持って魂の価値観を語ったのであれば
勿論そんな価値観が湧き上がってくることもありませんし


イエスの教えの真髄を理解しているパウロが
そんなことを語るわけがないのです。


その上に権力者を神の下僕と称し
それのもつ武力による恐怖権力までをも正当化しています。


長い歴史の間にその内容が時には改竄され
時の権力者によって利用された可能性を認識しなければ
イエスの教えはそこでも捻じ曲げられてしまうことになります。


権力者はイエスの信者が抵抗した時や自分達の横暴をも正当化するためにも
ここでのパウロの言葉を引用すれば言いのです。


「聖書にはこう書いてある。
お前はクリスチャンでありながらそれに従わないのか」


とクリスチャンを誘導することも出来ます。


形式ではなくて、事の本質で捉える事のできる人間であれば
ここでのパウロの言葉に違和感を覚える事になるはずです。


しかし目を持って何事をも形式的に理解しようとする私達は
聖書の記述ひとつに惑わされ、


正しいイエスの教えから
離れてしまう可能性があると言うことになります。


時には比喩があり、時には言葉が足らず、
時には美化、時には改竄が存在する


そんなことを前提に聖書を読めば
そして文字通りの記述を額面どおり受け止めるのではなくて、
イエスの精神を正しく理解すれば


聖書の記述そのものを自分の価値観を持って理解するのではなくて
私達はイエスの教えの本質を理解し重視すべきであることも判る筈です。


そして私達がその想いを抱くようになれば
それは行動に現れることになります。


強い信仰が私達に魂の想いを強く感じさせるようになり
私達はそれを肉体を持って表現するのです。


私達は未だ、心と魂が分離した状態ですが
いつかその価値観は一体化し限りなく創造主に似る時が来ます。


課題を果たしながらイエスキリストの言っていた父との一体感、
それを目指して進化を続けてください。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

PR

コメント

[コメントをする]

コメント投稿

一緒にプレゼントも贈ろう!

気になるキーワード

    アメーバID登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト