2013年01月03日 22時00分29秒 posted by uruseiblog

イエスの教え VOL8

テーマ:ブログ


私の田舎に対して中規模の地震を引き起こしてくれたようです。


要するに私が早々と死なないので


「お前が生きているとお前に関わっている
ありとあらゆるものが不幸になるのだ」


と言うことを一般市民には自然現象に見える形で実践しては


私や工作員、更にはサタンの会派の人間達の実態に気がついている人間に
圧力をかけているのだと思います。

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平成25年01月03日20時19分 気象庁発表


03日20時14分頃地震がありました。
震源地は留萌地方中北部 ( 北緯44.8度、東経141.8度)で震源の
深さは約30km、地震の規模(マグニチュード)は4.7と推定されます。
各地の震度は次の通りです。
なお、*印は気象庁以外の震度観測点についての情報です。


北海道  震度3  上川中川町中川* 遠別町本町* 天塩町川口*
     震度2  剣淵町仲町* 音威子府村音威子府*
          幌加内町朱鞠内* 苫前町旭* 羽幌町南3条
          羽幌町焼尻 羽幌町南町* 初山別村有明
          初山別村初山別* 猿払村鬼志別* 豊富町西6条*
          幌延町宮園町* 興部町興部*
     震度1  北竜町竜西 沼田町沼田* 士別市東3条*
          名寄市西5条* 名寄市風連町* 下川町北町*
          美深町西町* 留萌市大町 留萌市幸町*
          増毛町見晴町* 増毛町岩尾* 小平町鬼鹿*
          小平町達布* 稚内市開運 稚内市沼川*
          浜頓別町クッチャロ* 中頓別町中頓別*
          宗谷枝幸町栄町* 宗谷枝幸町歌登東町*
          利尻富士町鬼脇


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北緯44.8度、東経141.8度で留萌でこそ震度が大きくなっていますが


留萌とありますがほぼ宗谷地方です。

ほぼ私の田舎直撃だと言えます。


稚内は北緯45度20分00秒東経141度45分00秒。


私の田舎の皆にはご迷惑をおかけしました。


稚内出身の自称イエスの使徒が
ユダヤ(サタン会派)の傀儡と戦っているために


私に関係のある稚内まで
不運を齎されることになっているようです。


つまりはそれを見せ付けることで私が”厄”であると導き


この世の一番の実害である人間達が、
自分達の嫌いな物を世の中の悪であると
誘導しているようなものだと思います。


恐らくは田舎では誰も私のブログなど
読んではないないと思いますが、


地震の民達の恐ろしい実態を理解して
誰もが創造主の法へと立ち返るきっかけにして頂ければ嬉しいです。


闇政府が日本に大きな地震をたくらんでいるとすれば
ここからその兆候が見えてくると思います。


http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/?LANG=ja


地震の起きている箇所の深さからどの様な地層が
狙われているかを推測することもできますし

地震頻発地域を把握することもできます。

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民族なのか宗教なのかイデオロギーや利権なのか
それともそれらの複合なのかは判りませんが
戦いを誘導する人間達がこの社会を乱し続けています。


彼らにとっては争いごとは必須で
結果的にそれを利用することで構成員を煽り
組織内部への不満のガス抜きをも図る事になりますし


其のやり口は世界の管理支配層と共通です。


彼らは無自覚の内に闇政府の価値観を
自らの価値観と受け入れてしまったのだと思います。


争そう意識、怒りの想念、そして不安や恐怖の想念といった感情は
エゴや私利私欲以外では一番利用されるものだと思います。


民族意識や宗教意識を持つ事、そしてそれに従って分割する事は
結果的には闇政府の協力をすることになっている。


其の事を絶対に忘れてはいけません。


自分達のためと思い込まされて実行している事が
結果的には闇政府の人間達に協力しているのかもしれない。。


政治思想や愛国思想一つとっても、
実はそれが人間同士の調和の妨害に利用されている可能性を
意識して欲しいと思います。


私達は民族や血や思想に拘って分裂意識を持ってはいけない。


私の兄弟姉妹たちは絶対に理解して実行しなければならない意識だと思います。


おそらくは私が触れるまでもないはずですが、
理解者に対しても更なる深い理解を求めたいです。


私達はいざとなれば、
この社会の中で生きる事を諦める選択もあります。


でもその決意と想いは絶対に報われることを信じてください。


今日は掲示板の書き込みにコメントをつけて
その後はイエスの言葉に関して
”マルコの福音書”からの言葉の続きです。

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341 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:16:36.67
>>338
いや、だからイエスが生きてたころは
イエスは洗礼者ヨハネのようなユダヤ教の予言者の一人で
エッセネ派みたいな感じだっただけだな
その頃はキリスト教なんか無い

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これはある意味正しいと思います。


イエスキリストはユダヤ教自体を批判したのではなくて
ユダヤ教徒を更なる段階へと導こうとした存在だからです。


そして時には自分の事を
預言者であるかのようにも表現しても居ました。


ただ、天使達の予定ではモーセの教えは
イエスキリストの手で更に上の段階まで
引き上げられることになっていたはずです。


既存の価値概念から離れられない人間達の古きユダヤ教と
イエスの元で進化したユダヤ教とに分かれたともいえます。


イエスの教えをキリスト教としたのは、
古きユダヤ教の教えと区別するためでしょうし
イエスの教えは多くのユダヤ人信者にも信仰されたはずです。


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342 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:27:05.18
そもそもイエスはユダヤ教のメシアのつもりだったんだから
キリスト教とか別の宗教になるのがおかしいのだがな
正確にはカトリックじゃ無くて人種問わず拓かれたユダヤ教が正しい

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ユダヤ教徒の意識を高めるためにも
預言通りに救世主キリストとしての役目を果たし
天使達のシナリオを実践したのがイエスキリストだと言えます。


それを救世主と認めた人間達と
既存価値概念からもイエスを救世主と認めたくなかった人間達に分かれたのが


キリスト教とユダヤ教とに分裂したきっかけであることは
私が触れるまでもありません。


選民思想を持っていることで独自の思想となっているのが
ユダヤ教でもありますが、


イエスキリストは第一にそれを排除して
あらゆる人間に対して民族の差のない救済を広報しました。


選民思想を持つ原因はモーセ時代の
”人間であった神”の存在のためです。


多くの民族達が神を従えていた時代があるはずですし
その神々は自分の民こそが神に選ばれたのだと
表現していたであろう事も想像がつきます。


もちろんその時の神々は自ら科学力を持って
奇跡を起こして見せる事で
民の信頼を得ていた人間達だと思います。


しかし、彼らは本当の神ではありませんでしたし
元々創造主は一人です。


本来の創造主は民族を差別などしませんし
創造主の法の元全ての人間は平等でもありました。


そんな意識を表現して、それを普及させようとしたのだと思います。

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343 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:31:22.89
パウロもペトロも他人に聞かれたら俺たちはユダヤ教だと言ったと思うぞ

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これに関しては何ともいえませんが、
当初はユダヤ教徒だった人間であり、後にイエスキリストという
指導者によって導かれたとは語ると想像します。

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344 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:35:23.59
キリスト教=人種問わず拓かれたエッセネ派みたいな修道生活宗教
カトリック=人種問わず拓かれたユダヤ教
こうなるな

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うまい表現でもありますが、


イエスは修道生活を勧めたのではなくて
明日のために今お金を稼ぐような俗世界の価値観から
離れることを勧めたのだと思います。


イエスキリストは本気で救われる可能性のある人間を
一気に転生へと導こうとしていたのだと私は想像しています。


その意味でも新約聖書として述べ伝えられている内容も
その当時の人間達を強く意識して表現していることも想像が出来ます。


イエスが懸念していたのは、その2000年前のユダヤ社会を放置することで
確実にその社会が創造主の意識と掛け離れたものへと変貌してしまう事だったはずです。


その中で意識を変えることの出来る人間の意識を変え
転生へと救い出すことと、


お金や財産所有がこの社会を変貌する前兆を感じ
それに対して対抗策を打つことでもあったと想像できます。


時の者支配者権力者の力は絶大でしたし
イエスの教えに従うことは時には命され危険にさらされることになりましたが


イエスキリストに従ってその教えを実践できた人間は
結果的には迫害を受けて寿命が短くなろうが
永遠の命を持った生へと進めたはずですから


その行動には十分の報酬も伴ったことになります。


俗世間から離れさせると言えば
通常は生活困難をも意味しそうですが、


創造主の法に従えば、
生活の糧は何とか与えられるという秩序を確信していた上での
一般市民への働きかけと言えます。


天使達の援助も想定できました。


パンの奇跡に関しては私はどんな方法だったのかは
想像できませんでしたが


これもイエスの神聖もしくは天使の協力の
なせる業だったはずです。


結果的にはイエスの創造主の法の広報活動を手伝う人間を公募しながら
創造主の法に人々が触れる事になるきっかけをつくり社会の改善に資したのが、


イエスとその教えを引き継いだ
人間達だったということではないでしょうか。


イエスキリストという正確な模範を目の前にして
その教えを実践していた多くの人間は
間違いなく記憶を持っての転生へと進んだはずです。


彼らは、傍目で既存の価値観を持っている人間が
彼らを見つめて感じていたような、
厭世的な人生を送ったわけではないはずです。


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345 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:41:27.96
 
残念ながら当時は宗教という概念がなかった。
 
ユダヤ教という言い方もなかったのだよ。

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これも正しいと思います。


宗教ではなくて元々は創造主の法で
私達のあるべき生き方を実践するものですし


他の思想と比べられるような機会があると
分類のためにユダヤ教とかキリスト教と呼ばれるようになり
それを意識する事になったはずです。

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346 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:48:48.67
とにかくイエスは完成されたユダヤ教のメシアだよ
ユダヤ教や東方との分裂なんかまったく望んでなかったと思うよ

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完成系のユダヤ教というよりはそれでもまだ未完成の
試作系の創造主の法と言う表現が正しいと思います。


元々が創造主の法は一つ、そしてイエスキリストにしてみれば
それを正しく学ぶことが出来るのは自分の教えだと言う自負はあったはずです。


ただ当時の人間であっても未だ創造主の法則を理解するには
能力的に不足していたと思います。


そこにはもっと多くの科学の進化が必要だったからです。


生命の科学に出てくるようなDNAの話や
物質の原子や素粒子の話、


そして三次元と四次元の話など
2000年前当時の人間にはまだまだ学ばねばならないことが
存在していました。


イエスキリストはその全てを当時の低い科学知識をもっている人間達に
説明することは出来なかったのです。


しかし悪意の無い全ての人間を
創造主の法へと導きたいと考えたはずですし、


人々が分離や誤った思想へと傾くことを望んでは居なかったことも
黙示録の前半の記述からも明らかです。


宗派に別れ分離を引き起こしたのは人間のエゴであり、
イエスの教えの解釈を誤りながら
自分こそが正しいと譲らなかった人間の為せる技だと思います。

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347 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 14:56:09.20
ユダヤ教えはキリスト教の「プロタイプ」のようなもの。

よってキリスト教成立以降・・・正確には十字架上の死の直後、「神殿の幕が切れた」時点で
「もう期限切れの定期券」のような存在。
こんなものだから分裂を望むもなにもない。

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そして以前から触れているように、これが結論だと思います。


ユダヤ教は、民族間でも殺し合いをしていたような野蛮な昔の人間を、
創造主の分身としての人間らしい思考にするために与えられた
人として基本的な教えで、


2000年前にそれを発展させて
更なる段階へと導こうとしたのがイエスキリスト。


天使達の転生の予言どおりに
救世主として現れ、従来のモーセの教えを進化させたのです。


そしてその教えの実態が理解されにくくなり
その後には特定の戒律やイエスの神聖などを争い派閥が出来上がっていたのが
今の多くのキリスト教の分派の歴史だといえます。


おそらくはキリスト教の悲劇は、
イエスの神の国の奥義でもある、創造主の法=生命の科学を理解して


心と魂と言う二つの意識の経路を理解することが出来る人間が
時の流れとともに居なくなってしまったことによる悲劇でもあると思います。


創造主の法へと到達した人間たちは
其の殆どがこの社会から卒業していったはずですし
目に囚われる私たちは結局は見えないものを理解できなかった。


そしてイエスの教えの内容を改ざんした人間や
イエスの教えを誤って解釈した人間達が


創造主の法を”キリスト教”としてその額面どおりの解釈を
推し進めることになってしまったわけです。


50年前に地球社会に公に紹介されるはずだった
生命の科学=創造主の法こそが彼らの教えの完成系。


つまりはモーセとその神の教え、
イエスの教え、そして創造主の法と、


天使達の教えは私達の進化に応じて
段階的に引き上げられていったと言うのが正しいはずです。


私達は自信を持って
創造主の法、生命の科学を学べばよいと言うことです。


私達が学んでいるのは普遍的真理である
創造主の法、全ての宗教の根底に存在している思想です。


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そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。


「あなたがたも知っているとおり、
異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、
また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。


しかし、あなたがたの間では、そうではありません。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。


あなたがたの間でひとの先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。


人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです

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12使徒が誰が一番偉いのかともめていた時や、
イエスキリストの右と左の座に付きたいと触れたときなどに


イエスキリストが大切なのは謙虚さであり
奉仕の心であると使徒たちに告げている内容です。


私達の社会での大きな勘違いは
他人に命令して権力をふるうことが出来る人間が
偉いと思い込んでいることです。


権力や地位や名誉が神から与えられたものであるような
誤った価値観を持つに至っているこの社会ならではの意識が


私達に神と言う物の存在と其の意志まで
誤ったイメージを持たせる原因になっていると思います。


聖書の中で記述されていたパウロの言葉にある

「全ての権力は神に与えられたものだから
従わなければならない」というのは


権力者達が市民を自分達に服従させるための
改竄だと言うのが私の主張です。


時にはローマ帝国のような大きな国の国教とされた教えが
支配者や権力者の地位や名誉を脅かすものであっては
彼らはそれを利用することが出来ません。


聖書に自分達の権力の正当性を付け足すことで
イエスの教えを信奉する人間に
誤った価値観まで植えつけたはずです。


元々のイエスの教えが既存の権力に批判的であったことを
考えればその矛盾に気がつくはずです。


その結果、キリスト教を信仰する人間は
権力に従わねばならないと言う風潮を
つくりあげる事も可能になったのだと思います。


権力や地位や名誉に対するイエスの想いは
この一節からも理解できるはずなのです。


イエスキリストは地球社会の中での権力や地位や名誉が
創造主によって与えられたものであるとは認識してはいません。


それは誤った価値観であるお金による豊かさや
力や暴力による圧力などがその起源だと思います。


創造主の法に従いそれを実践する人間達にしてみれば
万人は平等であり


その間に上下の関係や
主従の関係があってはならないことを
イエスキリストは当然だと考えていたはずです。


創造主の法の下では万物は神の元に平等だというのが
天使達の想いでもあります。


つまり神によって与えられた特別な権限を
持っている人間など存在しては居ないのです。


イエスキリストは当時の人間の理解を求め
信仰への信頼を得るために


時には自分が父なる神の権限を持って
一般市民を教えているかのような表現をしましたが


少なくとも其の大元の思想が正しいものなのですし、
人々を創造主の下へと導くための有効な手段と認識しての言動ですから
其の行為の動機は誤りではありません。


権力や名誉に弱い人間達を人間の権力にではなくて
創造主の法という神の権力へと導くために
そのような表現をすることはあっても


それはこの社会の”権力”という価値観を
正統と認めたわけではないのです。


現に「先のものが後になる」と語っては


この社会の権力者が
彼らの社会では評価されないと言うことを
明言しても居ました。


そしてこの社会の既存の価値概念である
偉いとか上であるとか言う意識を12使徒が持っていたため、


それが創造主の法の下では
存在しない価値概念であることを説明し
彼らを諌めたのだと思います。


天使達の中にも指導者は存在します。


それは神が決めたものでもなければ、
彼らが多数決で決めたものでも、社会趨勢が決めたものでもないはずです。


彼らの誰もに信頼を受けている人間が
自然と皆によって称えられる事になった。。


彼らは物事を正しく理解することができます。


人間相手であってもそれが自分達の指導者となるべきであることを
誰もが同様に感じ取ってそれをその人間に求めたのだと思います。


彼らは他人から多くを学ぶ存在ですし
彼らが多くを学べる相手を、
そして率先して他人に奉仕していた存在を、


皆が認めてそれを模範としているのだと想像できます。


そしてイエスキリストはそんな彼ら天使の指導者の一人です。


偉いと言っても、それは指揮官に例えても
司令室に閉じこもってはふんぞり返って他人に命令しているのではなくて、


自らが戦場の最前線に飛びこんでは
危険な状況の中を飛び回って居るような存在だといえます。


現にイエスキリストは危険な地球社会の中への転生を志願し
当時の権力者達の手によって処刑されることをも想定した上で
自らの教えを伝道し続けました。


地球の兄弟への奉仕のために
自らのその生における肉体を捧げたともいえます。


イエスキリストは他の誰よりも多くの奉仕を
身をもって実践して見せた人間なのです。


その意識の中心はやはり無償の奉仕であり
創造主の意志を実現すること。


波動の低い社会での転生は
自らの魂の退化をも齎しかねませんし、
その時は生命を延々と狙われる羽目になりました。


それを事前に想定しながらも、その中に自ら率先して飛び込んで
地球社会の私達に奉仕してくれた。


自らの犠牲の元に私達の進化に資してくれたのです。


そんな意識こそを私達は持つべきなのです。


この社会の権力や名誉や地位が何に基づいているかを
考えてみてください。


それは私達が培ってきた価値観に根ざしていることは
言うまでもないと思います。


権力を与えられればそれで他人を命令し服従させることが出来る。


地位や名誉があれば他人に崇拝され褒め称えられることになる。


更には権力や地位や名誉はお金とも結びつきます。


そしてそれらは結果的に私達の心のエゴを
心地良くするものに他なりません。


そしてピラミッド型の指揮命令系統に慣れ親しんでしまった私達は

自分達よりも上とされた人間に服従する事を正しいと思い込んでも居ます。


そして上に地位をあげることで、今度は自分が命令をできますし、
褒め称えられますし、心が心地よい想いをする事にもなります。


そして心の中でそんな願いと価値観を持っているがゆえに
権力者や名誉を持っているものを羨みながらも
それを崇拝しているのだと思います。


そして権力が神に与えられたものであるとしては
そんな誤った価値観を美化しては
人間を崇拝しているのが私達の社会なのです。


しかし私達はその価値観が、創造主の法の下では
通用しないことを理解しなければなりません。


イエスキリストが語っているように
誰よりも偉くなりたいと思えば
私達は自らを低くして他人に奉仕する意識を持たなければならない。。


そしてもっと言えば偉くなりたいと言う意識自体が
私達の心のエゴから出ているわけですし、


魂の進化を強く受け止めることになる人間は
偉いと思われたいなどという意識さえなくなるはずです。


そして結果的には進化が進み
その進んだ進化による高い意識を持った魂を
自然と尊敬してくれる人間が出てくることになるわけで


自分を高くする人間、
つまり自分を美化し、高く評価されたいと願う想いを持つ人間は
魂の進化は進みませんし


その意味では天使達の世界の中では立派だと看做される事もありませんし、
自分を低くして他人に無償の奉仕を続ける人間は
結果的に魂の進化を推し進め立派であると見てもらえることになるのだと思います。


つまりイエスが言っていた、
「天の国では自分を高くするものは低くされ
低くするものは高くされる」


と言う話にもつながってくるのだと思います。


マスターと言われる指導者達が
率先してこの地球社会に転生しては
創造主の法に導くための教えを私達の社会に与え続けたように


彼らの中の偉いとされている人間達、彼らに尊敬をされている人間達は皆
自らを低くしては他人に対して率先しては奉仕する人間だと言うことです。


傲慢さや横柄さに慣れ親しんでいる私達ですが
威張っている人間、虚勢をはって見せている人間が
見た目で尊敬されるこの社会は実はおかしな価値観を持っているに過ぎず


創造主の法の元では謙虚さこそが私達を進化へと導く
大切なものであると言うこと。


そして限りなく神に対しての理解が進んでいて
魂の進化が進んでいる人間ほど
天使達は尊敬の対象と言う意味で”偉い”と称したのだと思います。


そして創造主の意志を深く理解すればするほど
私達は奉仕せずには居られなくなるのではないでしょうか。


それは他人からの見返りを期待しない無償の奉仕、


イエスキリストの言っていた天の御国に宝を積む行為です。


【人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。】


その奇跡と称された業の数々、
そしてとてもためになる数々の例え話、


さらには知的な言動からも多くの人達をひきつけて
結果的には一部の人間達には奉仕され崇拝される事となった
イエスキリストではありますが


イエスキリストの奉仕はその命を持って実行されたのだと思います。


創造主の法に照らしても、人間の戒律に照らしても
何も罪を犯していない人間が


心無い、この社会の人間達の手によって
十字架に貼り付けられ殺されたことで、


そしてその後、復活(入れ替わりの法則)を果たして見せたことで、
イエスキリストを、神やその使いと信じるものが一気に増えて
その教えに従う人間達も増えたわけですから


イエスキリストは、
後にイエスの教えを信頼しその教えを実践し
記憶を持った転生を果たして行った人間達に対して
身をもって奉仕をしたことになります。


イエスキリストの奉仕は12使徒に対する教えではなくて、
身をもって、その命をもって創造主の法を広めたことにあるはずです。


何の罪にも問われないはずの人間が
誤った戒律や価値観を持った人間に
囚われてそしてその命を失う。


これはイエスにとっては当初の想像通りの展開だったにしても
誰もが苦しい思いや不快な思いを
率先して体験したいとは思いません。


それを逃げることなく体験し
その結果多くの人間達に自分を信頼させ、
結果多くの人間達を今までの生き方から立ち返らせることが出来た。


多くの人間達を罪から開放したのだと受け止めることが出来ます。


イエスキリストは命をもってこの社会の人間達に(後にイエスの教えに
従うことになって救われるに至る人間達)奉仕したことになります。


直接救われる事がなかった人間達にしても、
イエスキリストが社会に投げかけた影響のために
魂の消滅を防ぐことが出来た人も居たかもしれません。


創造主の意志からかけ離れつつあったものを
創造主の法則を意識させるきっかけになったかもしれません。


イエスの教えは当時の社会が
誤った方向へと進むことへの抑止力となったのです。


そしてそれを齎したのは、
イエスキリストの地球社会への無償の奉仕だったと言うことです。


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『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎となった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことでもある。』」


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これは以前、私が記事でも取り上げたことのある
聖書の中でイエスキリストが引用していた一節です。


ぶどう園の経営者が、あきれ果てた使用人を
どう処遇するのかという内容に関して
例え話で創造主の意志を厳しく表現し、


当時の権力層の人間を皮肉った話をした時の引用です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11153006971.html
真訳聖書 VOL24


http://ameblo.jp/uruseiblog/day-20120427.html
政治・被害・生命の科学



【家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎となった。】


「形式的な実体を作り上げた時には不要とされた物が、
その実体に本質的な命を吹き込んだ」


という意味だと私は説明しましたが、


その時イエスキリストが”見捨てた石”と表現したものは
イエスキリスト自身ですし、


その時に家を建てたとされた人間達は
当時のユダヤ教社会の支配者達です。


そしてここでの”家”は当時の社会風潮や価値観として
受け止めることも出来ます。


当時の権力者達は形式的なことを重んじ
実質の伴わない教えを社会の中に作り上げていて、
その中においてはイエスキリストは不要な存在でした。


彼らの作り上げる”家”にはイエスキリストの教えが
必要とされる場所が存在しては居なかったわけです。


しかしその社会の戒律に実質的なものを吹き込んだのは
イエスキリストの教えです。


イエスはここではその社会の行く末を予言していたとも言えます。


当時の人間の価値観や目を持っては理解できなかったイエスの教えが、
魂=神の意識を感じることのできた人間達によって理解され
形式で覆われていたユダヤ教社会に魂を吹き込んだ。


結果的にはそのように受け止めることも出来ると思います。


私達、自称イエスの使徒の教えも
この社会の中においては不要なものであり、
社会の見捨てた石のようなものです。


しかしそれは真理を持っていて
この社会に実質を与えることの出来るものでもあります。


私達はそんなイエスの想いを受け継いで
この社会の中の礎になることが出来ると思います。


それは人(心)には理解できなくても
神(魂)には理解できるはずです。


私達は屈強な岩の上に教会を立てて
創造主の法を述べ伝えていきましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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