2013年01月02日 21時43分09秒 posted by uruseiblog

イエスの教え VOL7

テーマ:ブログ

お知らせ


今日の記事は夜になると思います。


ユダヤの民(ユダヤ思想に囚われた人間達)の手による
首筋から延髄もしくは小脳付近への刺激と痛みが止みません。


思考能力妨害も続いていますし、寝ているときは
脳汚染が続きます。


私が普段持たないようにしている意識を増幅したり
ハイテク利用での脳への攻撃が止みません。


胃腸への関与もはじまりました。


憎しみや戦いの本能を満たしている人間には
正月も関係ないようです。


彼らは目的のためには手段を選ばないことを
誤りであるとは理解できない人間達でもあります。


一方では私のために正月の時間をも
費やす羽目になっている人たちも居ます。


申し訳なく思います。


人間の資質が大きく分かれては争うことになるのが
これからのこの社会の見えない実態となるのかもしれません。


争うと言っても、彼ら闇政府やタルムード思想に
価値観を迎合している人間と物理的に戦ってはいけません。


私達は想いで彼らと対峙して行かなければならないと思います。


彼らと同じステージで戦う事で、
社会は争いと戦いと恐怖心に満たされて
創造主の法に触れることになるのを危惧しています。


P.M12:01
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今は異物まみれとなった排泄物を利用しての顔面への攻撃。


おそらくは多くの日本の人間が無自覚でやられている
顔を太らせたり浮腫ませられる関与です。


顔が必要以上に太らされているのは彼らの予定通りでしょうが
目を浮腫ませられる事で別人に変貌しそうです。


顔に思い入れがあるであろう人間達は
当初の関与は広宣部の人間が中心で、
民族系の人間が多いことに気がついていましたが


今はユダの民の嫌がらせなのか、それとも以前同様なのか。。。


彼らは私に物を食べさせたくないと思いますし、
「食べると顔を攻撃するよ」と言っているのかもしれません。


人間が作り上げたハイテクであろうが
それを他人に危害を加えることで使用し続ける。


科学が進歩したと言っても
人間の意識が退化していればこんな事も
当たり前になってしまうのでしょうね。


私の顔を修復してくれている人達も実は居るのです。


そうでなければ今頃は私はまったく別人の顔へと
変貌させられていたのだと想像しています。


一方では人に良い効果を齎す人間が居れば
危害を加え続ける人間も居る。


結局は科学力は使用する人間の意識次第で
人を幸せにも不幸にもすることになるのです。


私を取り巻くユダヤ傀儡の複数組織には
どうやら出番の順番があって、


私を記事などでユダヤに触れさせる事で
その直の傀儡達が出てくるように私を挑発しては
誘導しているような人間達が居るようです。


馬鹿な私はそれに気がつきながらも
その挑発に乗っているようなものです。


兄弟姉妹と理解者の皆は、正月をいかがお過ごしでしょうか?


私は無理やり正月と言う、世界中の多くの人が
喜びや安らぎに覆われているであろうその時間を
共有させて貰おうと勤めています。


ただ、ここ数日間ずっと精神汚染が激しかったこともあり
昼間3時ごろまでは最悪の気分でした。


その後回復させてくれた人間達が居るので
今書ける記事を連ねることでその恩返しとします。


と言っても理解して貰わなければ何の役に立つことも出来ませんが、
私の独断と偏見だと思わないで
その内容を吟味しては理解していただければと思います。


額面どおりに言葉を受け止めると
それは理解の妨げになります。


とりわけ自分よりも遥かに脳の回転が高い
イエスキリストの言葉を


自分が発するその言葉と同じ意味だと認識することは
理解の妨げになります。


私達は人間と関わる時もその上辺しか見えませんし、
言葉や活字も文字通りしか受け止められなくなっています。


思考能力を落とした人達には例え話や
比喩すら理解されないかもしれません。


しかし私達は自分達がそんな状況に置かれている事を認識して、
その前提であらゆるものを分析し理解するよう勤めることが
求められているのです。


過去に私が記事で取り上げた内容のダイジェストになりがちですが
今日は”マルコの福音書”より、イエスキリストの言葉の引用です。


私はその側面しか捉えることは出来ていないと思いますが
ぜひ参考にして頂いて、


自分でもその内容から
含まれたイエスの真意を理解しようと勤めてみてください。


もちろん聖書を読みながらです。


もっていない方はこちらでも。


http://blogs.yahoo.co.jp/jusus_christ_no1

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「安息日は人間のために設けられたのです。
人間が安息日のために造られたのではありません。


人の子は安息日にも主です。」

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イエスキリストは、例えば戒律と言うものは
私達の生活改善や精神状態をよりよくするためにこそ
設けられるべきものであって、


最初に作り上げられ存在していた戒律を、守るための存在が必要とされて、
人間が作られたわけではないという事に触れています。


形式を重視しそれを守ることを自分達の戒律としていた人達に
「事の本質を重視しなさい」と言う意味含めて
イエスキリストが語っている内容でもあると思います。


安息日を設けてその日には何もするなと言うのは、


私達が労働に囚われて精神的にも肉体的にも
ゆとりがなくなってしまう事を危惧し、
私達一般庶民の事を考えて与えられた戒律と受け止めることができます。


もちろん創造主が「週に一日は休みなさい」

と言う意識を持っているわけではなくて
それを与えたのも天使達だと思います。


忙しさは私達が心を意識する機会を奪うことにもなります。


主人が自ら働らき続けていると
家畜や奴隷であれば増して休むことが出来ないことにもなります。


少なくともモーセの戒律が与えられた当時のユダヤ社会では
家畜以外には奴隷もいたのです。


そしてその戒律は神のために与えられたものではなくて
人間や家畜のためにこそ有効であったはずです。


それは形式ではなくて実質です。


しかしその戒律の実質が失われ
形式ばかりが受け継がれることになった結果


安息日には何をしてもいけないという意識だけが
形だけの戒律として延々と引き継がれ、
ユダヤ教徒やクリスチャンの一部の中の習慣とされてもいきました。


戒律一つとっても、それは実質的な意味を考え
物事の本質に立ち返って理解されるべきで


その事の実質を理解しないで形式だけに囚われると
本末転倒な事すら起こることになります。


時には人として誤っている行為が正しいとされる事にもなるのです。


2000年前のユダヤ教徒は、安息日であることを重視して
その日に病人を癒したイエスキリストを批判的に見ていました。


彼らが事の本質を理解せず、
形式に囚われていた事の良い例だと思います。


ブログでも繰り返し触れましたが、


極端な事をいえば、死にそうな急病人がいても、
その日が安息日であれば医師はその患者を治療しないことが
正しいとされる事になります。


人のあるべき意識を守り改善するためにために設けられた安息日が
いつの間にか神の命令であるとか、
神を奉る日と誤って解釈され、実質を見失ったためです。


私達の世界には法律と言うものがありますが、
法律は私達を裁くために設けられるのではなくて
私達の暮らしを改善するためにこそ利用すべきもので


私達人間がそれに振り回されるのであってはいけない
と言う話にもつながって来ます。


そして困ったことにその人間の戒律を作り上げてきたのは
イエスキリストが批判していた当時の”律法学者”の
流れを汲んでいるような人間達です。


ここでの”主”と言うのは、安息日と人間との主従関係を語ったもので、
人間のためにこそ安息日が存在しているのであって


実質よりも形式が重視されて人間が安息日に振り回されるのは
おかしいと言う話に繋がってくるのだと思います。

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「人から出るもの、これが、人を汚すのです。


内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、

姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、


これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

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イエスキリストが想いに関して触れているとして紹介した箇所です。


ここでもイエスキリストは形式ではなくて実質の大切さを主張しています。


聖書を読んだ方には判るかと思いますが、
手を洗ってから食事をしない事に対して批判的な視線を向けた人間に対して
イエスが物事の本質の重要性を語っている箇所です。


手を洗って食事をすると言う習慣を守りながらも
心のあり方を大切にしていない人間達を見本として、


「洗っていない手で食事をしても人を汚すことはない、
人を汚すのはその想いなのだ」


と言うことを語っています。


私達は過去からの人間の作り上げてきた習慣を
形式的に戒律として後生大事にする傾向がありますが


実質の伴っていない戒律を守り続けたところで
私達の進化には伴わない。。。


手を洗って物を食べたところで心は清くなりませんし
性格が悪くなるわけでもありませんし
汚れた手で物を食べようが他人に危害を加えることにはなりません。


(現代であればノロウイルスにかかっては痛い目にあったり
他人に感染させるという可能性はありますが)


しかし誤った意識で他人を見つめる行為やそれに伴い裁く行為、
私達の心無い想いはそのまま自分の心や魂に、
更には他人へも影響を与える事になります。


実質的な悪影響を考えれば
手を洗って物を食べると言う行為に代表されるよう
形式ごとを守ることを重んじて、


それが出来ていないと言って他人を批判する行為、罰する行為の方が、
私達にとっては実質的な罪ですし、


表には見せなくても腹の中で悪しき想いを持つ行為は
そのまま私達の精神状態にとって悪しき影響をもたらします。


さらにはエネルギーを持った想いである想念の存在は
他人にも影響を与えることになります。


形式ごとを重視して実質をおろそかにすることが
結果的には私達に悪影響を多く及ぼすことになるのです。


私達覚醒者にしてみれば、
ここでの心の悪しき想いはそのまま”負の想念”につながる話でした。


パウロが言っていた肉の想い、
私達の心が得てして持っていて、発することになる心のエゴの意識。


それこそが人間を汚染するのだとイエスは教えてくれているのです。

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それから、イエスは群集を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。


「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。


いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。


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「自分を捨て」というのは”既存の価値観を捨てる”とか
”心のエゴを捨てる”と言う意味と理解できますし


「十字架を背負う」とは”信仰のために命をかける”くらいの
強い意志や覚悟を持って、という意味だと思います。


この俗世間の中で自分の命の保身を保つために
正しいと確信できる行為を実践しない人間や
明らかに間違っていると認識できる行為に手を貸す人間は、


そして例え一時生きながらえても
いつかは結果的に私達の本質である魂を失うことになり、


イエスの真の教えである創造主の法に従い
正しい教えを広報することに資する人間は永遠の命を得る
と言う話に続いています。


私達が永遠の命を得ようと思えば広報が必要だと言う意味ではなくて、


創造主の法の理解が進んでいない社会において
そこの改善を齎そうと意識すれば
覚醒者はその広報を求められることになりますし、


多くの人間が誤った生き方を選択している社会の中では、
私達は創造主の求める「兄弟達を自分の元へと導け」という意識を受け止め、


人々に真理を語ることで理解を求めようと行動することに
なるのだと思います。


おそらくこの社会の誰もが創造主の法に従うようになれば、
私達も天使達の世界のように、


一つ一つの行動が自らの進化に資するように
創造主の法によって導かれる事を意識することになるのでしょうね。


しかし私達の社会の場合はそれ以前の特別な状態なので、


結果的には私達覚醒者にとっての全体への奉仕は、
”創造主の法の広報による全体の意識の改善”と言う
形を求められることになるのではないでしょうか。


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イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。
「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、
私は何をしたらよいでしょうか。」


イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。
尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。


戒めはあなたもよく知っているはずです。
『殺してはならない。偽証を立ててはならない。
欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」


すると、その人はイエスに言った。
「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」


イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。
「あなたには、欠けたことが一つあります。


帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」


すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。
なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。


イエスは、見回して、弟子たちに言われた。
「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」


弟子たちは、イエスのことばに驚いた。
しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。


「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。


「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」


弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。
「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」


イエスは、彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。
どんなことでも、神にはできるのです。」

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今でもそうでしょうが、お金や権力を持っている人間こそが、
そして着飾って立派なことを語っている人間こそが神の前にも地位が高く、


天国へと進む順番が存在しているとすれば、
その順番も彼らこそが前の方であると言うのが
当時の一般市民の意識だったと思います。


偉い人達は神によってその高い地位や名誉を受けたと認識する意識が
この社会では横行しているからです。


現に2000年前の彼らの社会で神を説いていた人間達は
社会的地位も高く裕福な人間だったはずです。


地位の高い人間、社会的地位の高い人間そしてお金持ちや権力者は、
庶民にしてみれば神と同様に尊い存在だと認識されていた可能性が高いのです。


そんな環境の中で、
人間の戒律とモーゼの戒律をすべて守っている、人が良く見える金持ちでさえ
そのままでは天国にいけないとするイエスの教えに12使徒達は驚きます。


「では一体どんな人間なら天国にいけるのか?」とです。


イエスキリストはその金持ちの持っている
お金への執着心に気がついていたのだと思います。


その人間は決して悪人ではありません。


しかしいくら両親を敬い、人に親切にして
10戒を守っていても、


それは他人への奉仕の気持ちの上にとっている行動とも限りません。


例えば律法を犯すことで、その人間は刑罰を受け
不快な想いをすることになります。


家族と不仲になることで環境的にも不快な要素を作ることにもなります。


それらを戒律として守ったとしても
それはその個人が心に不快な思いをさせたくは無いと言う想いから
そのような行動をとる事もありえます。


つまりは現代風に言えば
「金持ち喧嘩せず」です。


その人間は他人に対して無償の奉仕を実践していたわけでなくて
単に今自分の置かれている立場を保つためにも
心が不快な想いをしなくて済むためにも


当時のユダヤ教の戒律を守っていたとも居えるのです。


しかもその人間は創造主に対する実質的な奉仕は何もしてはいません。


彼が人間の戒律を守り、罪を犯さずに済んだのは
すべては彼が恵まれた環境に生まれたために
人間の律法の中では罪を犯さずに済んだとも受け止めることが出来ます。


それはその人間の魂の資質とは無関係です。


もちろん金を持っていて尚且つ悪どい人間も居ますし
それに比べれば彼は普通の人間にも見えます。


少なくともこの社会の中の価値基準で言えば
その人間は義とされるはずです。


しかしその人間は自分がこの社会で義とされることを聞いたのではなく


”天の国で義とされること”
”永遠の命を手に入れる方法”


をイエスキリストに尋ねたのです。


そこは地球社会のほとんどの人間が入ることの出来ない場所です。


それを実践するためには私達は心のエゴを持って
生きるのではなくて
魂の意識を感じてそれを実践することを求められていることは
私達の理解しているとおりです。


その人間は心のエゴに従うのではなくて
魂に従って奉仕を実践しなければなりません。


しかし、その人間の生活はお金の上に守られていて
心のエゴからは開放されておらず、


現にそれを捨てて自分について来なさいといわれた時に
そのお金持ちはうなだれてイエスの元から去っていきました。


永遠の命を欲しいと願いながらも
彼はお金への執着心を捨てる事はできなかったのです。


まるで、お金が十分にあることで
目新しい価値のあるものを欲しいと所望した金持ちが、


それを手に入れるには全財産が必要で
その上に労働まで強いられることになることを
嫌ったと受け止めることも出来ます。


持つものが豊かになることができて
一方では持つものと持たない物との間で
はっきりと明暗の差が出ることになるのが私達の社会におけるお金ですが


創造主の法の元であれば誰もが物を平等に受け取り
平等に生きていくことを求められることになりますし
お金持ちは自分が出来る範囲でそれを実践すべきですし


永遠の命を手に入れる事こそを真に願うなら
イエスキリストの言葉に従うべきだったはずです。


もしもそのお金持ちが創造主の意識に
立ち返ることができるのならば、


真にイエスの教えを信じて社会の中での心の不快感を覚悟してでも
永遠の命を欲しいと願うならば、


心のエゴを捨ててそのお金と決別して
イエスキリストに従う事も選択できたはずです。


しかしその人間はそれができませんでした。


つまりは彼が人間として持っている心のエゴが
彼が天国に入る事を妨げたことになります。


しかし私達は人間として心を持っているのと同時に
創造主の意識を魂として持っている存在です。


人間としての心のエゴに従うのではなくて、
創造主の分身としての神の意識に従えば
彼は天国に行くことができたわけです。


エゴを持っている人間の心を持っては出来ないことが、
創造主の意識を持っている私達の魂にはできる。


心=人間には出来なくても
私達の中の神聖である魂=神には出来るのです。


お金持ちを批判したと言うよりは
「心の持っている世間一般的な既存の価値観に囚われて
それを捨てられない人間は永遠の生へと進むことは難しい。」


真摯に永遠の国に入る方法を尋ねてきた人間に対して
その想いに答えるためにも

イエスキリストは彼がなすべきことを語ったのだと思います。


イエスに天国を”狭き門”と言わせたその理由は、
その状態にまで心を変えることが出来る人間が少ないからですし、


イエスキリストはお金持ちを差別したわけでもなければ
親切に限りなく確実に記憶を持っての転生へと進むことの出来る方法を提示してあげたのに
その人間はそれを実行することが出来なかったという事です。


しかし現在の自分の生活に拘り縛り付けられて
その価値観や財産や地位や名誉を捨てることが出来ないのが
私達の中の多くの人間ですし、


増して名誉や権力やお金を沢山持つことの心地よさを知ってしまった人間は
そこから離れることになる心の不快さを
我慢することも出来ないと言うのが実態だと思います。


だからこそ元々がお金が無い人間や
権力や名誉とは無縁の存在ほどイエスの教えを受け入れ易かった。


元々が体験していない心地良さを
はじめから持っていないのですから、


心の価値観と決別する時に、捨て去るものも少なくて済みますし
その時に感じる不快感も少なくて済むからです。


初めから魂にはそんな垢がついていない人間は
心の価値観やエゴを捨てることが容易なのです。


地球社会の中の順列では先に並んでいる人間ほど、
その心に染み付いた名誉や権力や富と言った垢をとり除くことが大変なので
結果的には天国へと進むことが難しいことになる。。。


永遠の命を受けるために列になって並ぶとすれば
その優先順位は後になる。。。


地球社会では先に居るはずのものが、天国では後になり
地球社会では後とされているものが先になるという
価値観の矛盾が起こることになるのです。


しかしこれは真理です。


私達の社会が創造主の法とはかけ離れた価値観を持って
作り上げられている社会だからです。


私達は正しいことと間違っていることを
正しく認識することも出来ないような
そんな環境に慣れ親しんでいて


自分が持っている価値観、世間一般的な価値観を
正しいと思い込んで生きている。


私達が永遠の生と言われる記憶を持っての転生へと進むためには
私達はその既存の価値観を捨てて


魂から与えられる新しい価値観を
受け入れて生きていかなければなりません。


そしてそれは十人十色の価値観ではなくて
誰もが同じように受け止めることになる共通認識。


それこそが創造主の意志です。


天国へと進みたい人もいれば
次に生まれ変わることになっても
刺激的なこの社会が良いと言う人も居ると思います。


少なからず私達は真の人間の進化と言う意味で
記憶を持っての転生を選択したのですから


この社会の中でどんな不快な思いをしようとも
意志を捻じ曲げられることなく
創造主の意志を実践するように努力し続けていきましょう。


上の続きの一節です。
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ペテロがイエスにこう言い始めた。


「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」


イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。
わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
その百倍を受けない者はありません。


今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、
後の世では永遠のいのちを受けます。


しかし、先の者があとになり、後の者が先になることが多いのです。」


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苦しみに耐えて強い意志を持ち続けたことの代償が永遠の命であれば
それは決して報酬として小さなものではないと思います。


しかも私達は他の兄弟姉妹に
覚醒のきっかけをも提示する事も出来るのです。


私達はこの社会の中で末席について、皆に対して奉仕できるような
そんな意識を持てるように勤めていきましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.


私には転生にあたり心のエゴを持っての願いがあります。


それはオーソンさん(イエスの転生)とアダムスキーさん(ヨハネの転生)
と直接会って一言で良いので労って貰いたいということ。


それが私の選んだ道とは言っても
私が体験して来た事は、一言では説明できないくらい
茨の道だったと思います。


資質の足りない私が背負いきれないほどの荷物を
背負わされて生きてきた事を
すべて理解してくれているのは天使達だけだと思うからです。


ありとあらゆる嫌がらせや運命操作、
親族や友人への見える関与に見えない関与含めて
そして私の人格や人間性を陥れるあらゆる工作、


その上で精神状態や脳機能まで私は奪われ続けて来ました。


それを全て見て認識しているであろう人達に
一言同情?理解?の言葉を貰いたい。


私のささやかなエゴの想いです。


皆も私と同じような心の欲を持っても
決して大きな罪にはならないと思います。


自分が頑張るための動機には良いかもしれません。


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