イエスの教え VOL6
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追加コメント
被害記事を書かないと被害は軽減されないようです。
こそこそと苛つきの誘導の照射も脳に続いています。
この人間たちのそばにいると脳汚染される一方で
私は無理やり魂にしがみついていますが
確実に波動の低下を齎されていると思います。
朝鮮・部落関係者?
公安利権関係者?
それとも創価学会?
八咫鳥の嘘つき工作員たちも一緒でしょうね。
そんな中の年配者有志とベテラン有志が中心になって
関与してきているようです。
夕方は胃腸を異物まみれの排泄物で詰めては顔を狙い撃ち。
最近は風貌攻撃が頭髪含めて進行中です。
(今日は頭髪がぼろぼろと抜けました)
性器攻撃も最近は随時頻繁にやられていますし
加害者達の人間性がそこに現れています。
今日は特別ゲストも来ているようで
なにやら機材を積み込んだトラックが
近くの駐車場に止められています。
異物を匂いの元にしたいようで
食べたものを腸内の異物と混ぜてはそれの排泄妨害です。
腸内の水分を蒸発したり、内容物を逆流させたり
腸を締め付けたりと凝りに凝っています。
今日は池袋に出てきましたが
年配者が大量に付きまといに参加。
匂いを嗅ぎに来て物足りなかったのか
今はその匂いの創作中の様でもあります。
憤りを感じましたので
近いうちに久しぶりに体臭に関しての
加害行為に触れてみたいと思います。
匂いの関与はこの人間たちの秘伝だと思います。
えげつない関与ですが
他人に薬品を吸わせることで食べ物の成分と混ぜて
いろいろな体臭を発生させることができるようです。
体臭で悩んでいる方は一度は絶食を数日試してみて
水を大量に飲んで、
それでも解消されないときは
この人間たちの関与を疑ったほうが良いかもしれません。
詳細は後日。
今日は外出して疲れた事もありますし、
脳汚染が続いていて精神性が下げられていますし
工作員がネットで嘘を垂れ流しては
私を挑発してもいます。
脳機能が低下していて
まともな記事を書き上げることが出来ていないので
記事の更新は書置きのものです。
P.M23:49
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以前から延々と考えていた一節が
何となく理解できたような気がするので
私なりの解釈を紹介したいと思います。
私もここに関しては確信はもてませんので
引用の解釈に併せて参考にしていただければと思います。
先日、その一節を検索にかけて
そこのHPのプロテスタントの牧師の記述に
ヒントを貰いました。
私はその方の解釈をそのまま引用するのではなくて
こんな解釈もあるのだと言うことで
独自の解釈を比較の上で紹介したいと思います。
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この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群集に話しだされた。
「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
でなかったら、何を見に行ったのですか。
柔らかい着物を着た人ですか。
柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。
でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。
そのとおり。だが、わたしが言いましょう。
預言者よりもすぐれた者をです。
この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
まことに、あなたがたに告げます。
女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。
しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。
そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
耳のある者は聞きなさい。
この時代は何にたとえたらよいでしょう。
市場にすわっている子どもたちのようです。
彼らは、他の子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、
人々は『あれは悪霊にとりつかれているのだ』と言い、
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、
『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。
でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」
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ここではまず、イエスキリストが
バプテスマのヨハネの事を褒め称え、
その存在こそが
『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』
という聖書の記述のその存在だと触れています。
バプテスマのヨハネは救世主ではありませんでしたが、
当時のユダヤ教の主流だったパリサイ派やサドカイ派とは一線を隔した
独自の創造主の教えを語っていた人間で、
しかもイエスキリストという救世主の到来を告げてもいましたし、
その教えの布教に先立ち、福音の道ならしをもしていた存在だと思います。
ヨハネは自分などイエスキリストの靴紐を結ぶ価値もないと
自分を蔑める事でイエスの事を褒め称えて見せていました。
そして自分のバプテスマは形式的なものであるが
イエスのバプテスマは精霊のバプテスマであると言っては
イエスが私達に真の覚醒を果たさせることの出来る存在であることを
示したのだと思います。
現にイエスキリストは、
このヨハネの手によってバプテスマを受けて見せましたし
イエスはこの人物を”預言者”と言われるような人間達と
同等以上の存在であることを認めていたのだと思います。
当時の地球社会の中では
一番精神性が高い存在であるとイエスは表現したのだと思います。
【バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。
そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。】
ここの記述が一つ目の問題です。
天の御国が激しく責められていると言うのは、
恐らくはその時代の趨勢の中で、既存の思想を持った人間達が、
「人々に本来あるべき意識を持たせて永遠の命へと導くその教えが
預言者などの手により人々へと伝わる機会を奪い続けている」
と言う例えではないでしょうか。
ここでの”天の御国”は、その言葉のとおり受け止めれば、
まるで激しく攻め立てている人間達が、
神の国を占領でもしている事になります。。
しかし勿論そんな意味ではなくて、
「攻め立てている人間達が人々から神の国を奪っている。。。」
「人々が神の国へと入っていく機会を奪っている。」
その様に解釈すればよいのだと思います。
つまりヨハネの伝導が始まって以来、既存の思想に拘る人間達が
ヨハネの伝えていた創造主の法、
もしくは永遠の生へと進むための人としてのあり方が、
多くの人間へと知らされることを妨害し続けてきた。。
簡潔に言えば「真理の普及が妨害され続けている」
と言う事の例えだと思います。
イエスの時代は人々にとって真理が伝わり難い時代であったと言うこと、
そしてそれゆえに神の国へと進む機会が多くの人間から奪われたのだと
解釈する事が出来るのではないでしょうか。
そしてそんな時代をイエスキリストは、
市場での特定の子供の様子に例えています。
実は私が理解できなかったのはこの一節です。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
市場で座りながら他の子供らにこんな言葉を投げかけている子供達を
イエスはその時代その物に例えているわけですから
ここでの表現が良い意味での引用ではないと想像はつきます。
私が参考とさせていただいた解釈を紹介します。
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ここでは耳のある者のように聞けない人たちのことが述べられるということが分かります。
イエス様に耳を傾けようとしない今の時代を、市場にすわっている子どもにたとえられました。
「市場にすわっている子ども」とは、親が市場で買い物をしている間、
すわって遊んでいる子どものことです。
彼らは皆で遊びたいと思って、笛で皆に呼びかけるが、
ほかの子どもたちは、笛を吹こうが、弔いの歌を歌おうが一切反応しなかった様子を、
イエス様はたとえにされました。
笛を吹いて踊るというのは「結婚式ごっこ」であり、
弔いの歌を歌うというのは「葬式ごっこ」を示しているようです。
結婚式は喜びであり、葬式は悲しみの場ですから、
両極端を示すことによって、どんなことをしてもだめだったことを、
イエス様はこのたとえを用いて表現されたのです。
また、人々の心はきまぐれなものであると、イエス様は話されました。
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最初にこの記述を読んだときには
なるほどとも考えたのですが
別の解釈も出来るのではないかと思います。
「笛吹けど踊らず」と言うのは
私達の社会では
激励したり発破をかけても手ごたえの無い様な状態の時に引用するので
それが私も解釈の前提となっていました。
そしてここではその通りの解釈でも意味が通ると思います。
ただ、子供達の言動をその時代の悪しき象徴としているわけですから、
この『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
と主張する子供達の言動は
悪しき習慣の例えであると考えるべきではないでしょうか。
まず、市場で座っている子供達は自分では何もすることなく
他人を傍観している人間と捉える事が出来ます。
彼らを他人を観察しては
それに批評を加えている存在であると認識すれば、ここでの
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
と言う言葉は他人への揶揄であることになります。
「お祝い事の席で君らは踊らなかった。
悔みごとの席で君らは悲しまなかった。
(自分はそれをきちんとしている)」
もっと砕けて言えば、
「めでたいことがあれば踊るのがあたりまえ、
弔いごとがあれば悲しむのが当たりまえ
しかし君達はそれをしなかった。」
このような解釈をすればこの一節の解釈は違ってくることになります。
つまり「祝い事では踊るのは慣習としては当たり前で
悲しい席では悲しむのが当たり前で
自分はそれを実行しているがあなた方はそれをしてはいない」
と、人間の価値観として当たりまえとされていること、
形式的なことを自らは実践していることを前提に
そうではない人間を批判的に取り上げていると
解釈することが出来ると思います。
そんな人間達は形式を守っていさえすれば自分達は義であり、
一方その形式ごとが出来ていない人間は
罪であると捉えることになります。
座って語っている子供達は自分は義であることを前提に
罪びとを批判している存在の象徴ともとれます。
更に、この子供達は市場で自らが買い物をしているわけでなく
傍観者として存在しています。
自分は何もせず他人を観察し批判していると捉えれば
それは自分の行いを棚に上げて
他人を揶揄している存在の象徴であるとも取れます。
別のイエスの言葉で言えば、
「自分の目の前の梁の存在に気がつかずに
相手の目の中の塵を取らせてくださいと言っている人間」
に表現できるのだと思います。
自分は形式ばった事だけをしっかりしている事で
自らを義と思い込み、
傍観者のごとく他人を観察しては粗を探している。
そんな存在に例えることが出来るのだと思います。
もっと悪く言えば努力している人間を、
何もしない人間が批判しているような
そんな話にも繋がってくるかもしれません。
いずれにしても、当時の形式重視の社会で
義とされていることを実行している自らを義と信じては
自分の心のあり方をおざなりにして
他人が形式ごとが出来ていないと罪と攻め立てながら
一方では他人の粗を探しているような
そんな社会風潮の例えではないでしょうか。
そんな人間はありとあらゆる事に関して
他人を揶揄することにもなります。
ここではヨハネが絶食をしても
イエスキリストがそれをせず食事をしていても
いずれも揶揄され責め立てられているという
具体例が記されています。
古き人間の戒律に縛り付けられ
真の創造主の法を理解しようとしない人間にとって
ヨハネやイエスのような聖人達は
批判の目で見つめて叩く対象でしかなかったのだともいえます。
当時の風潮は、まさにそんなものであると
イエスキリストは身をもって体感しこのように
表現したのではないでしょうか。
そして困ったことに、これは今の時代にも通じる意識です。
「自分は形式ごとは全て守っている、
人間の決めた戒律は全て守っている。
だから自分は義なのだ。善人なのだ」
と、自らの行いを一切省みず、他人を見ては粗ばかり探している
そんな人間達が現に存在しているからです。
しかしながら、創造主が義とされるものは
そんな形式ごとを守ることではなくて心のあり方であり、
それは私達が魂の経路から受け止める意識であり
それによって授かった知恵でもあります。
その事を実践していることで
私達は始めて創造主の前で義とされる。
その事をイエスキリストは当時の権力者階級の人間達への
皮肉を込めて触れたのではないでしょうか。
イエスと言う救世主の到来を予言し
その福音のための道ならしをした存在は首を刎ねられ
イエスキリストは十字架に貼り付けられて殺されたのですから
その時代の人間の意識も、そしてその時代の風潮と価値観も
更にはその時代の権力者であったパリサイ派の長老会の意識も
私達には想像することが出来ると思います。
自らが心に囚われていてそのために真の創造主の法を理解できず
真理を示されてもそれに共鳴することもなく
自分達の心の価値観と異なるものをひたすら批判するその意識は
今の時代の闇政府傀儡の意識にも繋がりますよね。
私達はそんな時代の中でイエスの真の教え
そして真の創造主の法へと導かれたのです。
それが如何に奇跡的なことかという事も
私は身をもって感じています。
天の御国はこの時代にも激しく責め立てられています。
それはイエスキリストの時代とは異なり
世界的な状況として現れています。
しかし一方世界中に溢れるイエスの使徒予備軍の数は
2000年間の時代とは比較にならないほど多いと思います。
彼らは真の創造主の法を目にする機会があれば良い。
敬虔なクリスチャンであれば後は創造主の法が
皆を導いて行ってくれることでしょう。
そして私達はそのきっかけになれるよう
残りの生を費やして行きましょう。
【貴方に無限の力の祝福がありますように】
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