2012年08月30日 22時30分20秒 posted by uruseiblog

イエスの教え VOL2

テーマ:ブログ

創価学会の皆様に読んでほしい記事です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10314832952.html
今の日本の謎を解く鍵となる人物


自分たちの組織がどんなルートで
友愛路線に進んだかを理解する手掛かりとなると思います。


あなた方の組織の傍や中にフリーメーソンがいるのです


今度は腸内バキューム状態です。
要するに真空状態に近くしての排泄妨害です。


気持ちが悪くなっても排泄はできないわけです。
食事をまともにしなくても異物を作り上げられて
ある意味拷問状態が続いています。


そして今日は金曜日、
しかも明日は満月です。


そして今日の夜から明日にかけて
すごい人間たちが集うので更なる拷問を今から覚悟しています。


色んな所にユダヤ教の影響が出ているようで、
しかも呪いや悪意に関してです。
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早朝の地震に関連して


昨日の記事を読んでおいて頂ければと思います。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11340819315.html
イエスの教えを正しく理解して。。


http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-306.html
被害報告


関連記事
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10942334250.html
不幸のブログ 恐怖の洗脳

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今は記事を書けているので、今現在最終の更新記事は
9月7日の続・宇宙の法則  テレパシー です


新しい記事を即効で公開しているので
残りは少しづつ後ろにずれしました。

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昨日は続編が書けるかどうか判らなかったので
「イエスの教えを正しく理解して。。」


というタイトルにしましたが今日はイエスの教えに変えておきます。


昨日と同様に、聖書の中の判りにくいかもしれない
イエスの言葉を引用してそれを解説してみます。


生命の科学、イエスの奥義理解者は
似たような解釈をしてくれると確信しています。


もちろん私よりも深く理解している方もいるでしょうが
その辺の粗があれば見逃してください。


暴れながらやっとの事で書き上げた記事です。


思考への協力には感謝しますが。。。

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さて、イエスにさわっていただこうとして、
人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。


ところが、弟子たちは彼らをしかった。


イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。


まことに、あなたがたに告げます。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません。」


そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。


イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、
御前にひざまずいて、尋ねた。


「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、
私は何をしたらよいでしょうか。」


イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。
尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。


戒めはあなたもよく知っているはずです。
『殺してはならない。偽証を立ててはならない。
欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」


すると、その人はイエスに言った。
「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」


イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。
「あなたには、欠けたことが一つあります。
帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。


そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」


すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。
なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。


イエスは、見回して、弟子たちに言われた。
「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」


弟子たちは、イエスのことばに驚いた。
しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。


「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」


弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。
「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」


イエスは、彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。
どんなことでも、神にはできるのです。」


ペテロがイエスにこう言い始めた。
「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」


イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。
わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、


その百倍を受けない者はありません。
今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、
後の世では永遠のいのちを受けます。


しかし、先の者があとになり、後の者が先になることが多いのです。」

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ここでのイエスキリストの話も
私達のような生命の科学、イエスの奥義の理解者であれば
大きな疑問を持つことなくその意味を理解できるかと思います。


私は覚醒者・理解者だけでなくて、その他の方をも想定して
イエスキリストの教えを理解してもらおうと思い
この記事を書いています。


それは私達を創造主の法に躓かせる要因に満ちたこの社会において
私達の中から一人でも多くの覚醒者が出て”父”の元へ帰り、
その生き方を変えるだけでなくて、


できるものなら一人でも多くの人に
其の真理を伝えて欲しいからです。


繰り返しになる箇所もありますし、
以前と比べて解釈が多少異なっているところも
あるかもしれませんが、


理解の妨害となるような
大きな間違いはないと思いますので


私のイエスキリストの言葉の解釈を
是非参考にして頂ければと思います。

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「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。


まことに、あなたがたに告げます。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません。」


イエスキリストは私達にとって大切なのは
子供の様になる事だと触れています。


そしてイエスが神の国と象徴した他の惑星への転生は、
子供のようにならないと叶わないとも触れているのです。


では私達大人と子供の違いは一体何なのでしょうか。


私達の社会では何も知らない子供よりも
社会経験の進んでいる大人の方が沢山の知識と経験を積んでいて
偉いのだという認識があります。


もちろんブラザーズ社会でも個人差こそあっても
年長で色んなことを学んでいる人間の方が
他人にものを教える事もできますし尊敬される事にもなります。


でも、私達の社会の中では其の成長にこそ
問題があるのだと思います。


経験を積むにしても知識を得るにしても
それが良いものでなければ、私達は成長するにつれて
心はどんどんと濁っていくことになります。


歳をとることが、大人に成ることが
良いことだとはいえないわけです。


例えば子供は体験が少ない事と、
物事の知識がないために、何事にも興味を示しますし
日常自分の周囲にアンテナを張り巡らせています。


それは何事にも疑問を感じ何事をも観察するという
そんな実態にも表れていると思います。


何を見ても「それが一体何であるか?」
現象を見れば、「どうしてそんな現象が起こるのか?」


子供達はそんな疑問で満ち溢れているはずです。


それに対して私達大人は全てを正しく答える事はできませんし、


私達もそんな生活環境の中で、自分が理解できていない事さえも
当たり前であると受け止めて生きる事になっています。


しかしイエスキリストが大人よりも子供の方が、
天の国に行く資質があると言っているのですから、
私達は歳をとるごとに心を濁している事になるのだと思います。


それはこの地球社会の誤った価値概念に囚われるようになるから。


そして心ばかりを意識の経路として使用する事で、
本来の私達の意識である魂を感じることが出来なくなるからです。


その意味では私達よりも子供の方が心の濁りも少ないし、
誤った価値観も持っていない事になりますし


魂を感じることも、イエスの触れていた、
「目で見て、耳で聞いて何かを悟ると」いう姿勢をも
持っていることになります。


組織的犯罪被害者であれば、
加害者と思しき人間の子供を見れば一目瞭然だと思います。


彼ら、幼少の子供達はどう見ても悪意などもっていません。


悪意もないし後ろめたさもない。


親と違って彼らの心は濁っていないのです。


そんな子供の様な意識にならないと、
私達は太陽系の他の惑星に、記憶を持って転生することは出来ない。


そうイエスは言っているのです。


そしてアダムスキーによればそれは学ぶ姿勢にもありました。


イエスの教えを聞いても、大人は既存の価値観にとらわれていて
そのためにイエスの教えを素直に受け入れる事が出来ないと思います。


当時の人間達であればユダヤ教という既成の概念がありましたし
その影響は強かったわけです。


それを先入観や自らの価値観として持っていれば
イエスの話を素直に受け入れる事も出来ないと思います。


結果、イエスに躓く人間も出てくる事になります。


それが何の先入観もない子供であれば
それをそのまま素直に受け入れる事も出来ます。


つまり子供のような素直な気持ちで
イエスの教えを受け入れ学ぶことが大切だと
イエスは同時に語っていたのだと思います。

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イエスキリストを慕う市民に、イエスは


「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。
尊い方は、神お一人のほかには、だれもありません。」


と諌めています。


現在はキリスト教社会の中で
イエスが神であるとか無いとか論争があり

異なる思想を持つ人間達を”サタン”だと指摘しあってもいるようです。


ただ、私達の視線からすれば、
殆どのキリスト教が独自の解釈を交えた
イエスの真意とは異なるものとなっているのですから


それでは殆どの人間がサタンとされてしまいます。


そうではなくて、イエスを神と認識しようとイエスを人と認識しようと


私達がするべきことは
イエスの真の教えを理解して魂を感じる努力をすること、
イエスが語っていた様に、創造主の御心を実践することだと思います。


形式事にばかり囚われるからそんな実質の伴わない事で
論争する事にもなるのではないでしょうか。


イエスの神性については、それが原因となって
聖書解釈に違いが出てくる事にもなりますが


創造主の法を理解しようとしている人間にとっては
彼らの争いは”目くそ鼻くそを笑う”様にしか見えませんし、


きっと真理に気がついてくれたクリスチャンは
皆そう認識してくれるだろうと思います。


ヨハネの福音書を私が引用しないのは、
それがイエスを美化し神聖化した人間達の手によって
編纂された事を知っているからです。


しかも時代は他の福音書よりもずいぶん後の事のようですし
其の記述内容が他の福音書と異なるのも、ある意味当たり前なのです。


そしてそれが正しいかどうかとなると、
私ははっきりとノーを出します。


イエスの奥義を伝えるに当たり、
イエスキリストの実態は神ではなくて
マスター(指導者)として理解されることになるはずだからです。


イエスキリストは尊いのは創造主一人だと言っています。


私達は他人を尊敬するのは良いのですが
神聖化しそれを拝んではいけないのです。


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ここではイエスを慕う一般市民が
イエスキリストに永遠の命を得る方法を尋ねています。


其の人間はいわゆるモーセの十戒に始まる
人間が必要とされる最低限の道徳をすべて守っていて


自分としては永遠の生へと進むにふさわしい生き方を
していると考えていたかもしれません。


しかしここでイエスは其の返答に対して
更なる注文を出しました。


一つは, 持っている財を売り払って
持っていない者に分け与えろと言うこと


そして自分に付いて来いと言うことでした。


私達が永遠の生を受けるための条件は、
既成の価値概念として人間の律法を守るだけでは足りません。


それを妨げるものとして
イエスキリストはお金の存在を意識していたのだと思います。


私達は神と富に同時に仕える事は出来ないと言うイエスの言葉は


お金が私達の社会の中での不平等や権力、
そしてエゴや欲を引き出す原因となる事を想定していて
それを警告したものだともいえます。


イエスが神の国と読んだ場所には
不平等もありませんし、権力も人間の階級も無ければ
人々は皆平等に、しかもエゴや欲を抑制して生きています。


そんなところに転生するにはそれ相応の資質が必要ですし、
其の一つとして魂を進化させるために


私達は魂の意識を感じて、
そこから感じた意志を実行する事が求められています。


其の時にやはり障害となるのはエゴであり欲であり
自分だけが可愛いという意識だと思います。


お金や無制限の所有制度が其の弊害になると感じ、
それを当時のユダヤ教パリサイ派と律法学者が


中心となっている社会が齎していることを認識し
イエスキリストは其の事を危惧していた。


だからこそ持っているものを全て売り払い
それを持たないものに与える事で
物への執着心を捨て、不平等を良しとしない意識へと改め


其の上で自分についてきて
指導を受ければ良いと告げたのだと思います。


もしも其の人間が財を投げ打ってイエスキリストについていけば
きっとイエスは責任もって彼の事を覚醒へと導いたのではないでしょうか。


地球の価値概念で一番大切とされる物を捨ててでも
永遠の生を求めようとする行為は
創造主の意志に叶う行為ですし、


それを実践した人間をイエスは見捨てなかったと思います。


ここでイエスは


「金持ちが神の国に入るよりは、
らくだが針の穴を通るほうがもっと易しい。」


と触れて、金持ちが神の国に入るのは
事実上不可能なのだと告げています。


其の前提の意識は、
金持ちになっている人間は富を独占しているようなものだから
平等意識を持ってはいないと言うことになりますし、


持っているものが持たないものに
知っているものが知らないものに与えるべきだと言う
創造主の意志からかけ離れている事になるからだと思います。


紙幣は印刷すればいくらでも作れますが、富は限られたものです。


特定の人間が多くの富として資源や土地などを所有すれば
当然其の恩恵にあずかれない人間達が出てくることになります。


其の人間達と富を独占している人間達の間には
平等は無いのです。


どんな人間に対しても平等に日を照らし、
雨を降らすと言う私達が当たり前と受け止めている
自然の法則を作り上げた創造主の下において


誰もが平等であると言う意志こそが其の大前提。


つまり特定の人間が其の社会において”幸せ”とされるものを独占することや、
それを受けれる人間と受けれない人間が出てくるような不平等な状態を
創造主は予定してはいないと言うことです。


頑張ったものが報われるのが民主主義自由主義社会だと言いますが
実際はそこでは人が人を押しのけての血肉の争いが起きています。


誰もが協力し合い調和して生きる事をこそ求めている
創造主の意識はそんなことを望んではいないわけです。


しかし私達は誤った価値観を幸せとして受けとめているために
そしてそれを実現してくれるお金と言うものに執着しているために、

今必要としているもの以上のお金と物を所有しようとしています。


予備など一切持たない人間や欠乏している人間もいる中でです。


イエスの社会は、人々は誰もが万人のために自分の労働をし
万人が同じように尊敬され

そして誰もが必要とするものを与えられる社会です。


其の上に明確な所有概念は彼らは持っていませんし、


彼らは精神性が高いので必要以上のものを
欲しがろうともしません。


創造主の意志に従って生きていれば
必要な物は其の時手に入ることも彼らは知っているのです。


多く持つ者が出てくれば持てない者が出てくる、
そして持っている者を羨む意識も出てきます。


そんな意識が人間社会をどんどんと
悪しき想念で満たす原因にもなりますし


一旦お金や財や権力を持つと
今度は手放したくないと言う欲も出てきます。


誰もが心を不快にしたくないのですから
それはお金を持った人間にしても同様です。


もちろんお金を持っていないからといって、
金持ちを羨んでいるような人間も
結果的には同様の事になります。


「私達は物やお金や富には執着してはいけない」
そんな意識をイエスは触れているのだと思います。


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「お金持ちは天国にいけない」と言う其の言葉に対して
当時の12使徒は驚いています。


おそらく彼らは

「お金持ちになることは神に祝福された事である」とでも


当時の宗教の中で先入観を植え付けられていたのだと思います。


それは今のこの社会の中でも似たような話を聞きます。


神に祝福されて信仰が強いから、
心の徳が高いからお金持ちになっていると言う話です。


もちろん現実はそんなことはありませんが


彼らがそんな意識を持っていればイエスの言葉に驚いて


「では一体どんな人間が救われる事になるのですか?」


と質問することにもなります。


ましてイエスに永遠の生が欲しいと訴えた人間は
当時の社会的の価値観で判断すれば
落ち度が無いように見えたのだと思います。


イエスの周囲に集まってきていた人間
とりわけイエスと共に暮らしていた人間の多くは
おそらくは貧しい人々や一般庶民だったのではないでしょうか。


彼らはもしかしたら自分達の事を蔑んでいたかもしれません。


自分達は信仰が足りないから今の立場
貧しい思いをするのだ、蔑められるのだとです。


ここでの12使徒に対するイエスの返答は
もしかしたら返事になっていないと感じる方も居るかと思います。


「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。
どんなことでも、神にはできるのです。」


人には出来ないけど神には出来るのであれば
「人間は誰も救われることは無い」という事になるのではないか?


そう受け止める事にも繋がります。


しかし、ここでイエスが”人”や”神”と言っているのは
人間と創造主のことではなくて、


私達の理解の範囲では
人間の持っている”心”と”魂”という二つの意識の経路の事だと
考えていただければ良いと思います。


肉体を持ってそれに囚われている私達は
意識の経路を心にばかり向けています。


心は心地良いことを望み、肉体に従いエゴと本能を満たそうとします。


つまり心に従えば、
例えば”貰う事”は嬉しくて”与えること”は不快かも知れませんし


富にしても増やすことは心地良くても
減らす事は不快なはずです。


そんな心の意識に従っていれば
私達はお金への執着から逃れることも出来ません。


しかし私達の魂はもともとが創造主の残留思念の分身です。


それは分かち合う平等の意識や平和の意識
他人への思いやりや理解や慈しみであふれているわけです。


私達がこれに従って生きる事が出来れば、


極端な話が自分の持っているものでも
自分が生きていくための最低限の物だけ残して
他人に分け与えることも出来ると思います。


イエスキリストにしてみれば、
”一切の余分は不要”と言う意識のようですが
そこまでは無理でも、私達はそれに近づくことは出来るわけです。


(使徒が出かけるときに、余分なものを持たないように教えています)


心の意識を持ってしては不可能でも、魂の意識を持ってすれば可能である、


「人間には無理でも神には出来る」


肉体を持った人間としてのエゴと欲だらけの”心”を持っては無理でも、
創造主の分身としての”魂”を持ってはそれが可能であると
イエスは言いたかったのではないでしょうか。


そしてこの後に


「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
その百倍を受けない者はありません。


今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、
後の世では永遠のいのちを受けます。」


と、今、自分についてきてくれている人間達への言葉が続き、


最後には


「しかし、先の者があとになり、後の者が先になることが多いのです。」


と締めています。



この”先の者”、”後の者”とは


この社会の中での人間の優先順位だと思います。


もっと言い換えれば社会的地位の上下のことであり


つまりはこの社会の中で偉いとされている人間が”先の者”で
卑しいとされている者が”後の者”です。


階級のあるような教会では、
偉い人ほど神の国に入るための列の先に並んでいる事になるでしょうし
末端の信者は一番最後に並ぶことになるのだとおもいます。


しかしそれは全てがこの社会の中での価値観に過ぎません。


イエスの教えを信じてイエスに付き添っていた人間の中には
酒税人や罪人がいたこともパリサイ派の人間が指摘しています。


そしてイエスは自分は罪人こそを救いに来たのだと言っていました。


イエスの”医者が必要なのは病人である”の例えは、


「医者を必要とするのは病を自覚した人間だ」と言う意味にも取れますし


つまりイエスは
「自分を罪人だと認識している人間をこそ救いに来たのだ」
と触れているのだと思います。


それは自分を罪人と認めている人間こそ
素直に心を入れ替えて創造主の法を受け入れることが出来るから、
そして自分の行動を悔い改めることが出来るからだと思います。


自らを善人だと思い込んでいる人間は反省などしません。


そしてそんな人間達は
”自覚の無い病人”のようなもので医者を必要としませんし


つまりはイエスの教えを必要とはしないのです。


この社会の中では、金持ちほど社会的に地位も高く
もしくは成功した素晴らしい人間だとされています


そして彼らは、この社会の中では
神の国に入るために前の方に並んでいる人間に
置き換える事が出来ます。


そして一方では貧しい人や蔑められた人間、
そして罪人であることを認識している人間は、
後ろの方に並んでいることになります。


しかし其の後ろの方に並んでいる人間ほど
反省意識もあれば悔い改める意識も持っているわけで、


結果的にはそんな人間こそが永遠の生へと進むことになるのですから


この社会の人間の順序においては
「後のものが先になる」


順列が後とされているものこそが先に天国に行く事になるわけです。


自分の罪を認識することの出来る人間ほど、
自分を罪深い人間だと考えることになるのでしょうし、


そんな人間は自分では罪が重いと感じている分だけ
列も後ろになると思います。


(実際は同じ罪でも自分を極悪人だと認識する人間と
自分を善人・義人だと認識する人間とが存在することもありえる訳です。)


しかし実際はそんな謙虚な意識の人間ほど
神の国は近いと言うこと。


自称善人は謙虚さが足りなく自分の罪を認識していないだけで
実はもっともっと罪深い場合もあるわけです。


そして権力や豊かさが社会的に評価されるのは
この社会の中においてだけだという事です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「わたしのために、また福音のために、
家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、


その百倍を受けない者はありません。
今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、
後の世では永遠のいのちを受けます。」


ここの一節に関しては、


イエスのため、福音のために
今の生活のしがらみをすべてを投げ捨てた人間は


この時代において苦難の中で”必要な最低限のもの”を手に入れて
後の世では”永遠の命”を手に入れるのだと理解すれば良いのではないでしょうか。


先日のアダムスキーの例え話の時にも触れたように、
迫害を受ける其の度合いが組織的犯罪被害者のごとく状況になれば


この社会の根幹がすでに汚染されているわけですから
最低限のものすら手に入れる事すらできないかもしれません。


しかしそんな中で迫害に耐え忍べば
人としての道を踏みはずさなければ、


(自業自得の批判を受けると言うのは迫害ではありえません)


私達は創造主にそれに報いてもらえる。


永遠の生へと進む事が出来るのだという事です。


単に被害を受けて腐っていたのではそれも叶わないと思いますが
少なくとも私の理解者は皆創造主の法を理解し、
それを実践する努力を勤めていると思います。


私にしても、今はこの地球社会の底辺の人間とされ
職も無く、社会的地位も無く、お金も無く暮らしていますが


そんな人間だからと言って、
天の国はそれを低い人間であり救われないとは判断しないのです。


この社会の価値観は時には真理とは逆さまに近いと思います。


それは私達が誤った事を正しいと信じて生きているからです。


しかし一旦私達がこの社会での生を終えれば、


私達を評価してくれるのは地球社会の価値観や地球の法則ではありません。


創造主の法則が私達を導きます。


私達は其のことを信じて
今を生き続けていけば良いのだと思います。


【あなたに無限の力の祝福がありますように】

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