仙術の周辺
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明照法ー仙人になる法 1
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仙術・方術の宝典は葛供の『抱朴子』。そのなかに鏡で神に会う術を説いたものがある。題して明照(明鏡)術。映像をそのまま映し出すという鏡の働きは、古代の人々にとっては非常な驚きであったようで、鏡はさまざまな方術に使われてきた。魔物の真実の姿を映し出す「照魔鏡」がもっともよく知られているが、この明照(明鏡)法もやはり鏡を使った方術の一つ。明照法とは明鏡を覗くことで、未来を予知したり五臓を見る方法。またさらに、この方法を修練の手段とすることもある。まず鏡によって五臓を見るという術。漢の高祖は威陽宮に入り、宝物倉をぐるりと見て回ったが、金玉珍宝は言語を絶するすぱらしさであった。中に幅四尺、高さ五尺九寸の鏡があった。表も裏も鏡になっていた。人が何もせずに自分の映像を映すと逆転して映る。ところが手で心臓をなぜてから映すと、自分の胃や腸など五臓を歴然と見ることができる。内臓に疾患のある人が心臓を手でおおって映すと、病気の所在が分かる。もし女子に邪心があると、胆嚢がふくらみ心臓が動揺する。それで秦の始皇帝は、つねに後宮の女人を映し、胆嚢がふくらみ心臓が動揺する者はすぐに殺した(『西京雑記』巻三)。
「仙人になる法」のひとつは鏡を見ることで養生を行なう修行法。これは形状を存思することで長生することができるというもので、九寸の明鏡を用いて自分の顔を映して熟視し、已の身形をよく覚え込みいつも忘れないようにする。長く続けると身体の神が身体の中に安住するようになり、疾病が体に入ってこないという。これは五臓を見る方法でもあり、道教でいう五臓に住むという体内神を想像する方法である。「仙人になる法」の第一歩だ。
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明照法ー仙人になる法 2
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また鏡を用いて予知を行ない、さらに不老長寿にまで到達する例が『抱朴子』に書かれている。ある人が「将来の吉凶や安否や進退について、これを知れぱ身を保てるという方法はありますか」と抱朴子に聞いた。抱朴子が答えて言うには「こういう方法もある。九寸以上の明鏡を用いて自分自身を映し、存思(自分の体内を想像)すれば、七月七日の夕方に神仙の姿を見ることができる。男であったり女であったり老人であったり子供であったりする。一度この神仙を見た後は、心の内に千里も離れた場所の事や、これから起こる出来事が分かるようになる。明鏡を一枚あるいは二枚使う。これを日月鏡という。あるいは四枚の鏡を使う。これを四規鏡という。四規鏡を使うときには、前後左右に一つずつ置いて映す。四規を使うと現われる神は非常に多い。あるいは目が縦に付いていたり、龍や虎に乗っていたりする。色鮮やかな冠や衣服は、世の中の人とは違っている。これらの神はすべて図に記されているので、この道を修めようとする者は、まず会う可能性のある諸神の姓名や等級を暗記し、その衣冠を覚えておかなけれぱいけない。そうでなければ、突然神がやって来たときにその神を忘れているようなことになったり、驚き恐れてしまうことになり、神に危害を加えられる。この方法を行なおうと思う人は、静かで奥深い山林の中で行なうのがよい。余計なものは何も目に入らず、不要なものは何も聞こえないようであれば、この修行は必ず成功する。三童九女節寿君や、首が九つあり胴体が蛇である120人の役人がやって来てもじろじろ見てはいけない。問いかける者や怒鳴りつける者がいても、答えてはいけない。たとえ派手な侍従やカ士や鎧をまとった兵士を連れ、龍や虎に乗り、簾や太鼓の音も賑やかにやって来る者がいても、目を上げて話をしてはいけない。ただじっと老君の真形を念じ、老君の真形が現われれば立ち上がって拝礼を行なう。
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明照法ー仙人になる法 3
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抱朴子は、老君の真形をどのように想像すればよいかを次のように語る。老君、つまり老子のこと。姓は李、名はタン、字は伯陽、身長九尺、顔は黄色く、口は鳥のくちぱしのようにとがり、鼻が高く、眉は秀で、長さが五寸あり、耳は長さが七寸ある。額には三本の筋が上から下まで走り、足には八卦の形をした筋がある。老君は神亀を腰掛けにしている。その住まいは金楼玉堂であり、白銀で階段が造られている。五色の雲を衣服とし、幾重にもなった冠や鋭い剣を身につけ、黄童120人を従え、左に一二の青龍、右に二六の白虎、前に二四の朱雀、後ろに七二の玄武をはべらせ、前方には一二の窮奇(榊獣)、後方には三六の僻邪を従え、頭上には雷電がぴかぴかと輝く。このことは仙経の中に記されていることである。老君を見れば寿命が延び、心は日月のように明亮となり、分からないことがなくなる(『抱朴子・内篇』巻一五雑応篇)。抱朴子が述べる、このような修行法は、道教技法として後世にも伝えられていった。さまざまな方術を身につけ、神仙になる『雲笈七撰』巻四八「秘要訣法」の「老君明照法叙事」の修行法は、抱朴子のやり方ととてもよく似ている。この経典によると、明照法を行なうことによってさまざまな方術が身につくという。たとえば、分身の術、一瞬のうちに千里の彼方まで行く術、雲に乗り氷を踏む術、天地の間のどこにでも出没できる術などである。これらの方術を体得すると、次には神の姿を見ることができるようになる。さらに修行を積むと、未来を予見できるようになり、ついには神仙になれるという。明照法を行なうに当たっては、静かな部屋を用い、絶対になにかに驚いたりしてはいけないことが強調される。九寸の鏡を前後左右に四枚設置する「四規の法」を用い、自分自身から一尺五寸離して鏡を置く。このようにするとさまざまな神が現われ出てくる。この「老君明照法叙事」にはこの時現われる数十の神々の名と衣冠の色や容姿などが列挙されている。これらの神々を臥して存思しようとするなら前法のようにし、毎夕自分を見なければならない。そうすると、臥して二つの顔が相対して見つめ合っている様子や、自分と同じ形の二人の人が並んで座っているのを見るようになる。あるいは臥して眠っているときに、年は十五、六歳で立派な衣服を来ている好神童玉女が顔を真っ直ぐこちらに向け、再拝するのを見る。あるいは自分の耳許で「天下の吉凶、万事皆あらかじめ知っている」という話し声を聞く。あるいは壁の東に見えたり、壁の西に見えたりする。あるいは夜眠っているときに照鏡を夢にみる。あるいは返光で五臓が見える。こうして「仙人」の術を手に入れる。
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六通完通
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宋代以降の道教の内容は、主として二つの系統に分けられる。一つは金丹道関係のもので、精、気、神の三宝を人体中で練り上げることによって、不老不死の真胎を形成することをめざす。このような披法は、現在では気功の一分野として注目を集めている。もう一つは斎醸(さいしょう)と呼ぱれる大規模な儀式・祭祀から、治病、くじ“きう駆邪、祈雨、改運などを〔的とした呪術厳礼である。呪術の内容はきわめて多岐じゆもんごふにわたっており、用いられる呪文や護符の椰類にも多様なものがある。雷のカを呪術の力の源泉とし、雷部に所属する神将・神兵を便役して様々な目的を達成する特徴的な呪術が、北宋代末の頃からしだいに道教の伝統に取り入れられるようになった。
1. 凡人(ぼんじん)には見えぬものが見える(天眼通=てんがんつう) 2. 凡人には聞こえぬ声が聞こえる(天耳通=てんじつう) 3. 他人の心を見抜く(他心通=たしんつう) 4. 過去を知る(宿命通=しゅくめいつう) 5. 自分の思うことができる(如意通=にょいつう) 6.(他に「漏尽通」)
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禺(う)歩
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「禺(う)歩」とは道教における呪術的な歩き方のこと。その方法を初めて具体的に記したのは晋の葛洪が著わした『抱朴子一内篇』。仙人になるために服用する薬について述べた仙薬篇において、それを採集するとき次のようなステツプを踏まなければならないとしている。まず、左足を踏みだし、次に右足を左足の前にだし、さらに左足を右足にひきつけ、これで一歩。次に右足を踏みだし、左足を右足の前にだし、右足を左足にひきつけ、これで二歩。次に左足を踏みだし、右足を左足の前にだし、左足を右足にひきつけ、これで三歩。合計二丈一尺(一歩を七尺として三歩×七尺H二一尺とされている)で、足跡が九つ残ることになる。また同じく登渉篇にも、仙道を修めたり仙薬を練るために入山するにさいし、邪鬼を避けるための方法としてやはり「禺(う)歩」の方法が述べられている。その足の運び方は仙薬篇とやや異なるが、しかしその中で呪法をなす者はみなう歩を知らなけれぱならないとされ、あらゆる呪法の基礎と指摘されている。同篇ではまた、萬歩とともに呪文を唱えることが述べられ、その代表的なものとして「臨兵闘者皆陳列在前」の九字をあげている。
小説『西遊記』の中で孫悟空が行なう"踏斗〃、さらにば少数ヤオ民族の藩族が北斗七星を踏み行なう"走七星琵歩"も「う歩」を基盤としていると考えられている。日本においては、平安時代前期の寛平年間、藤原佐世が著わした漢籍目録『日本国見在書目録』の中に、五行家のジャンルとして『印書禺(う)歩』『玉女返閑』などの書籍名が記録されている。また室町時代に著わされた国語辞典『下学集』には、〃反閑は「禺(う)歩」とも言う"とあるので、両者は同じようなものと理解されていたことが知られる。これら「禺(う)歩」や反閏は陰陽道の呪法の中に取り入れられ、天皇の出御や貴人の外出のときに、邪気を払い、悪鬼を避け、安泰を祈るために、陰陽師によって行なわれていたことが、鎌倉時代の公家の日記『勘仲記』以降、諸処にみえている。反閑はとくに修験道でのものがよく知られており、またそれらが発展したものとして、相撲で踏まれる〃四股"、歌舞伎や人形浄瑠璃の〃六方〃をあげることができる。
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五嶽真形図
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中国の名山といえば,東嶽泰山(とうがくたいざん),南嶽衡山(なんがくこうざん),西嶽華山(せいがくかざん),中嶽崇山(ちゅうがくすうざん),北嶽恒山(ほくがくこうざん)の五山を指す。この五山の形を図(略)で表した霊符をいう。仙名あるものでなければ,授けられることがなかったという最も重んじられた符の一つだった。この図を身につけ,念じたり,土地に埋めたりするならば,病気平癒,子孫繁栄,長寿,除災,福を授けてくれるというありがたい符。 他にも入山する時,毒蛇や崖から落ちたりという事故からも身を守ってくれるお守りにもなる。
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仙人食・符呪
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仙人食伝説
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#コウゾ(楮)の赤い実を毎日飲むと、一年後には老人も若返り、さらに飲み続けると鬼神の姿をも見る事ができるという。
#仙人食は例えば●仙草 仙気の強い野草。アカザ、雪ノ下、スベリヒュウ、ハコベ、オオバコ、セリなど。●仙果 仙気の多い果物。胡桃、松実、腰果、乾葡萄、紅棗など。こういった山野に産する植物で、これらを「生食」する。なかでも「松」。「松食水飲」といい、松実、松葉、松脂を食し、水を飲む生活。列仙伝の一人王延は、9歳の時仙道に入り、生涯ただ松食水飲を押し通し、一切他のものを飲食しなかったと言われます。しかしそれは古代中国のお話。
#列仙伝の一人任子季は、茯苓を飲むこと18年にして、仙人玉女が目の前に現われ、仕えるようになった。突然に身を現し、突然に身を消す(神出鬼没)ができるようになり、食物を必要としなくなった。灸の傷も残らず、顔が玉のように光っていたという
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仙人伝説
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列仙伝
封 衡 ( Feng Heng
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封衡は,字(あざな)は君達,隴西(現在の甘粛省)の出身であった。幼い頃より老荘の思想を好み,修行に明け暮れ,秘法を求めて尋ね歩いていた。まず,黄連(根を薬として用いる)を50年間服用,その後,鳥鼠山(鳥の雄と鼠の雌が夫婦になって同じ穴に住んでいるので鳥鼠同穴山とも呼ばれている)に入って薬を採集し,朮(じゅつ)を百年間飲み続け,帰郷した時はどう見ても二十代しか見えなかったという。危篤の患者がいると聞けばどこへでも出かけ,薬草や鍼で治療をし,病を直した。 あらゆるすべての書を読破し,さらに魯女生に出会い,還丹(せんたん)の秘法と五嶽真形図(ごがくしんけいず)を伝授された。のちに,諸国の周遊をした際,山河の神々は伺候し,妖怪変化は逃げ去ったという。 封衡のこの人間ばなれした噂を疑った者が,矢や刀でつき刺してみたが,彼の身体を傷つけることはできなかった。いつも一頭の青牛に乗っていたが,彼の名を知っている人はいなかったので,青牛道士と呼ばれていた。魏の武帝が養生の秘訣を尋ねた時,”身体を動かし,食事は少なく労働は度を過ぎてもいけないし,節食は空腹すぎてもいけない。油濃いものや,酸味は鹹味をなるべくとらないようにせよ。思い悩むこと,喜怒哀楽の情を抑え,人と争わず,房事を慎む。そうすれば道に畿(ちか)し。聖人は春夏に陽気を養い,秋冬には陰気を養う。自然の根元に順応し,造化の妙理に契合するのである”と 常に二人の従者をつれ,一人は本箱を背負い,[容成養気術]十二巻,[墨子隠形法]一篇,[霊宝衛生法]一巻を所持。もう一人は薬箱をさげ,中には精製した水銀の結晶や黄連の粉末が入っていた。人間界にいたのは,およそに二百余年くらいで,後に玄丘(げんきゅう)山にこもり,その後誰も姿を見たものはいない。
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女仙列伝 魯女生 (
Lu Nu Sheng
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魯女生は,長楽(現在の河北省)の人であった。最初は胡麻や尢を主食とし,穀物を八十年余絶っていた。そのうちに若返り,顔色は桃の花のようであった。
一日に三百里も歩き,走れば鹿に追いつくことができた。歴代その姿を見られること三百余年だったという, ある日,崇高山(河南省,少林寺にある山)に薬を取りに行ったところ,ひとりの女性に会った。女性は,「われは三天太上の侍官であるぞ」と五嶽真形図を与え,その使い方も伝授してくれた。 魯女生は,ある朝,仙道が成就したということで友人に別れを告げ,華山(西安の東方にある)へ去っていった。それから五十年後知り合いの人が華山廟の前で白鹿に乗り,玉女三十人を従えた魯女生に会った。その時に郷里の友人によろしく伝えて下さいといったそうだ
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