創造主の意識 誰もが特別
テーマ:ブログ今日の記事は公開時間未定です。
現在の被害報告はこちらで公開です。
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-313.html
H24.11.21 A.M9:18
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この記事も理解者と覚醒者限定と言うことにします。
理解者というのは理解できそうな方や
その度努力をしてくれる方をも含みます。
ツイッターで質問してくれた方への返答をここでしますね。
私の独断と偏見ですが参考にして頂ければと思います。
質問は”涅槃”についてです。
諸行無常と諸法無我に関してはこちらで記事にしたことがあります。
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362816099.html
涅槃に関してはWIKIより抜粋すれば
涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。
しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、
すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。
その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。
また、涅槃は如来の死そのものを指す。
涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。
「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」
という意味で涅槃寂静といわれる。
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悟りと言われる状態が”煩悩”や”苦しみ”
から解放された状態だと認識して考えて見ます。
煩悩や苦しみの原因が何かを生命の科学に照らして考えれば、
まず、私達が経験から作り上げた既存の価値観や
私達の脳機能の本来持つ自己防衛的な意識が
心を甘やかしたがために、
外部から心が何かの刺激を受け止めた時に
それを不快と感じるその感覚が”苦しみ”だと言えると思います。
更にそんな心の価値観と、私達が生まれ持っている本能とが結びついて
作り上げた一切の欲求が煩悩だと思います。
それを全て消すと言うことは、つまり私達が生命の科学を学ぶ中で
心のエゴと本能を抑えるために努力している行為を
究極まで実現した状態になること。
つまりは一切の心の意識に囚われる事の無くなった状態であり
イエスキリストで言えば
「自分が為しているのではなくて父が私の体を持って為している」
と言っていた、まさにその状態を指し示しているのではないでしょうか。
創造主の分身でもある魂からの意識にのみ
従った状態になる事だと思います。
その時、私達は一切の心の負の想いを感じることなく
創造主の意識から与えられる想いのみによって行動する事になります。
つまりは涅槃寂静とは、
イエスやお釈迦様だからこそ可能であった、
限りなく心のエゴを抑えることで創造主の意志に従って行動している状態、
もしくは創造主の暖かい意識を感じ続けている状態と
説明できるのでは無いでしょうか。
残念ですが、私達が到達出来る領域では無いと思います。
一時的に心の暴走を抑える状態であれば、多くの方でも可能でしょうし、
その時には創造主の意志を閃きや想念として受け止め易いと思いますが
かと言って私達が、自分達の心の意識でなく創造主の意志だけで動けるかといえば
そこまではっきりと創造主の想いを受け止める事が出来る人は
この社会には居ないと思います。
天使達という進化した人間達の中で
更にマスター(指導者)でもあった高い意識を持った人間達だったからこそ
到達し得た領域であり、
悟りを目指している方には怒られそうですが、
創造主の法の落第生である地球社会の私達がそこに到達する事は
1万年早いという話になると思います。
私達は逆立ちしても聖人にはなる事は出来ません。
先ずはその域へと進むためのスタート地点に
立つ事こそが求められているはずです。
イエスキリストやお釈迦様のような太陽系のマスター達は
限りなく創造主に近づくために今でも進化の真っ最中でしょうし
意識は常に高いところにあるのだと思いますが
私達の悟りは、まず覚醒(真理に目覚めること)、
宇宙的覚醒(宇宙意識への覚醒)を目指す所から
始めなければならないと思います。
私達は背伸びをすることなく
身の丈のあったところから進んでいきましょう。
自尊心や過信は私達の進化の妨げにもなります。
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362816099.html
続・宇宙の法則番外編 釈迦の教え
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361245976.html
アプローチの違い 仏教と覚醒
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361455669.html
アプローチの違い 仏教と覚醒 後書き
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この記事も理解者と覚醒者限定と言うことにします。
理解者というのは理解できそうな方や
その度努力をしてくれる方をも含みます。
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私は特にスマップが好きだと言うわけではないのですが
この曲に関しては、妻が見ていたTVドラマの主題歌として
掛かっていた頃から良い曲だと感じていました。
詞も曲も素敵だと思います。
そしてこの詞の意味をかみ締めると
そこから受け止める事が出来るのは創造主の意志そのものです。
槇原さんの名曲ですが、
槇原さんもそんな意識をどこからか感じて受け止めて
この曲を作ったと言う事かもしれませんね。
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花屋の店先に並んだ
いろんな花をみていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争う事もしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1にならなくてもいい
もともと特別な Only one
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先日から書きかけの記事があるのですが、
その中でも創造主の意志に関連して
創造主が自らが作り上げた被創造物の
ありとあらゆる表現を見たがっていると言う話を
アダムスキーの引用で取り上げました。
私たちは誰もが独自の存在です。
まったく同じフォーム(形態)はこの世に二つと
存在していないとアダムスキーも触れていました。
異なった二つの物の接点に生命が生まれるという創造があり、
更にそこで生まれた創造物が更に二つ合わさって異なった生命を生む。
元の二つの生命のどちらにも似ていますが
そのどちらとも異なっている新たな生命は、
更にそれと同様に他の生命と結びついては
自分に似ているけれども異なった生命を生む。
それがこの宇宙空間では延々と
続けられているのだと言います。
万華鏡を除いた時にその中にちりばめられている
素材の散らばり方次第で、覗くたびにまったく異なった
模様が浮かび上がりあがりますが
それだって全く同じものを見る事は殆ど不可能であるように
万物は全てが異なっているのだと言うのが
アダムスキーの例え話です。
それを延々と繰り返せば例えばDNA情報にしても
クローンでも作り上げない限り全く同じ固体は存在しないことになりますし
似た物が在ったとしても、結局はDNAも異なるのですから
どこかは必ず異なっているわけでもありますし
見た目が似ていても持っている能力は異なるはずです。
つまり創造主の法則の下では
万物は全てが異なった表現として現れる事になるのです。
そして現に私達は誰もが自分の魂を通じて、
まったく別々のフォームとしての三次元の肉体を表現しています。
しかもその肉体を使用して
私達は様々な感情表現をも表す事になります。
喜怒哀楽といったものを中心にです。
私達は一人一人が異なっている上に
私達は自分をも幾つもの姿で表現する事も出来るのです。
創造主は私達人間に限らず、
その被創造物にバリエーションを与えることで
同じ創造主の魂を受けた分身である事を認識させるのと同時に、
自分が他人とは異なった一つの存在であることを
自覚させているのだと思います。
ただ、私達はそこで大きな間違いをしているのではないでしょうか。
ここの詞の中であるように、
私達は誰もがそれぞれを特有の存在として尊敬されるべき物だと言うのが
創造主の意志であり天使達の教えでもあります。
しかし現実社会での実態はそれとは異なり
私達はお互いが争い競っています。
誰もが異なった姿と能力を有し、
誰もが独自の一人だけの存在でありながら、
そのバリエーションをお互いが認める事が出来ないのです。
不思議な事に、一方では私達が共通意識を持つべき
思想的価値観に関してはバリエーションが認められ
誰もの価値観が正当化されるという不思議な現象もおきています。
バリエーションを認めるべき能力や才能が特定の価値基準で図られ画一化され、
本来それぞれが尊敬されるべき人間同士が、学問や仕事の場においても
差別や区別をつけられているのがこの社会の実態でもあります。
私達の個々の能力こそが創造主の想いの現れであり表現として尊重されるべきなのに
それに関しては価値基準が設けられ画一化される。
一方では誰もが持たねばならぬ創造主の意志という共通価値観は無視されて、
個別の真理こそが正しいかのように誘導されているあべこべな社会。
この社会はそんな所においても矛盾で満ちています。
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私達は誰もが別々の環境で生まれ、そこで育ち独自の体験をして
それぞれの人間が異なった学習をする事になります。
それは前世のカルマや私達の不勉強な分野を
私達に学ばせる機会を与えようと言う創造主の意志の産物でもありました。
私達は機械で作り上げられた製品ではないのですから
誰もが異なった体験をして異なった能力を持つ事にもなります。
その進化は魂に現れるのですから誰もが異なった魂を持つ事になります。
そして本当の意味での私達の”能力”は
環境や体験によって作り上げられると言う側面もありますし
前世以前の私達の進化が魂に現れた結果でもあるはずです。
そして私達の中には生まれたての魂や
何万年も繰り返し生まれている魂まで様々で、
誰もが全く同じ進化の過程にあるわけでもないのです。
勿論、その期間が短くても
大きな進化を果たしている魂もあるでしょうし
ゆっくりとした進化を続けている魂もあると思います。
しかし無限の時間の中では
そんな進化の速度を競争する必要などありません。
私達は時間が経過すれば何れは誰もが同じような進化へと進み
結果的には最終目標である創造主に限りなく似ていく事にもなるからです。
脳機能もどんどんと上昇し
その使用できる能力も増えていくことでしょうし
進化と転生の過程で、私達は脳機能を徐々に活性化させては
私達が未知能力と呼んでいるような能力を
最初はテレパシーのようなものから順に学び
使用可能にもなっていくのだと思います。
そしてその第一段階へと進むための進化を経験中なのが
この地球社会の私達だと言うことです。
今は未だ記憶を持っての転生へと進む事もできず
記憶を失ってはこの社会の中で転生を繰り返し続け
その中で創造主の転生の法則に導かれながら
自分が覚醒するため、進化するために必要な環境と経験を与えられ
学習している最中だといえます。
私達はこの一回の生で
全てを成就する存在では在りえないと言うことです。
そんな状態の私達は、当然過去からの経験の違いや転生回数の違い
学んだ事の差によって魂の進化にも差が出てくる事になります。
時には暴走して魂の進化を後退させることもあると思います。
しかしそんな私達を同一の価値基準で図って
それで評価する事が間違っています。
例えですが今、私と同じ48歳の”裕作”さんと言う方が居たとして
その方が10回の転生を繰り返してきた人だとします。
そして私が未だ3回目の転生の人間だったとします。
そして私がIQでも美術能力でも音楽でも体力でも運動神経でも
全ての面で裕作さんの足元に及ばなかったとします。
その時私は裕作さんを妬んだり羨んだりする必要があるでしょうか??
彼は私よりも7回も余分にこの社会で生を受けては
そこで創造主の法に導かれ学習を続けてきたわけです。
創造主の意志を理解していれば、転生の法則を理解していれば、
彼が私よりも遥かに進化した魂を持っていて
それが彼の能力に反映されていたとした時に
私はその人を羨む必要などないと思います。
私だって後七回転生すれば彼のように成れるかもしれません。
もしも私が人一倍出来が悪くて
人の倍も学ばなければいけないとしても
私は自分の人生が永遠である事を知っています。
人の倍時間を掛ければ結果的に彼らに追いつくこともできます。
結果的には同じところに到達する事が出来るのです。
運動会の百メートル競走を争っているのとはわけが違う
創造主の法に従って生きる進化の過程。
自由意志を持っているがゆえに
時には遠回りして寄り道しては無駄な時間を掛ける事もあるかもしれませんが
進む方向さえ間違わなければ
私だって裕作さんと同じところに何れは到達する事になるのです。
しかし私達は自分がこの人生一度だけを生きていると考えているからこそ
誤った価値観を持って他人と自分を比較してしまうのです。
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更に私達は日常的に感覚器官を持って好き嫌いを評価する傾向があり
それは私達が対象物を”理解”するためには使用されていません。
好き嫌いの評価は
そのまま私達の人間の評価にも繋がっているのが
この社会の実態です。
目や鼻や耳や口によって感じるその感覚で
自分達にとって好ましいものを高く評価し
そうではない者を低く評価するのが私達の社会。
そして困った事に私達の社会では
そんな感覚器官にとって好ましいとされる物が
多くの人々にちやほやされたり褒め称えられる事になるから
私達は時にはそんな他人を羨む事になるのだと思います。
そして私達の心のエゴは自分を高く評価されたいとか
自分を大きく見せたいといった意識をも持つ傾向があります。
私達が本当は持つべき意識は、恐らくはその進化した人間や
自分より特定の分野で高い能力を持っている人間を見つけたときに
それから学び学習する事なのだと思います。
先日の記事でもありましたが
私達は師となるものを学習の機会とすることが出来ます。
それは通常は創造主の意識です。
ただ、自分よりも優れた能力を持っている人間も
自分よりも特定の能力で劣っている人間も同様に創造主の現れです。
私達は他人から学ぶことも出来るのです。
誰もが異なる経験から学び続けているわけですし
得意な分野も不得意な分野も誰もが異なることになります。
この社会の学問とされていることを例にして説明すれば
(本当は進化して転生した後にはその多くは何の役にも立たないようですが)
数学が得意だけど英語が苦手な人間は、英語が得意な人間に英語を教わりながら
自分は数学を教えてあげる事で私達はお互いを高めあう事も出来ます。
しかしもしそこで私達の自尊心が暴れると、
自分が英語が苦手だと言う事を隠して
数学が得意な面だけを強調する事になるかもしれません。
その人間は英語を学ぶ機会を失うことになります。
その人間は謙虚さを持てなかったばかりに
英語を学び進化する機会を失うことになるのです。
私達は能力に関しても他人と比較して
そこに優越感を持ったり劣等感を持ってはいけないのです。
誰もが異なった進化の過程を異なった経験を元に生きている。
その結果の魂の進化は千差万別なのですし、
その魂の具現化される肉体は当然異なったものと
なっているはずだからです。
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人間誰もがコンプレックスを持つといいます。
それは肉体的な外見かも知れませんし
この社会で言われるところの判断基準による頭の能力かもしれません。
運動神経かも知れませんし、芸術的なものかもしれません。
性格かもしれません。
私であれば昔は良く短足と言われましたし
がに股と言われてもいました。
それに関しては足の長い方を見ては
少しばかり羨ましいと思っていました。
絵を描くと漫画になってしまい
クロッキーやデッサンでリアルな絵をかける方々を
羨ましいとも思いました。
人前で話すのが苦手だったので
小学校・中学校・高校と生徒会長を務めた友人を
すごいなと思って見てもいました。
でもそれは妬みやコンプレッスクと言うほどのものでは
ありませんでした。
あくまでそんな人間の、自分にはない能力を
素直に認める事が出来ていたみたいです。
こんな場合通常は、自分でも何か優れたものを持っていて
それでそこにプライドを持ちそうなものですが
残念ながら私には何も得意なものはありませんし
人より強い出た物は何一つないのです。
ただ私の場合は人並みはずれた向上心だけはありました。
羨んでも僻んでも仕方がない、
自分がそうなりたいのなら努力してやろうとです。
勿論、努力したからと言ってそれが報われるとは限りませんし
現に私は自分の努力は結果として目に見える形で報われたことは
一度としてありません。
でもその挫折で自分が他人を僻む様にもなりませんでしたし、
逆に自分を冷静な目で見る機会を得る事にもなったと思います。
「自分は大した人間ではない」
自分をその様に理解してそれを素直に受け入れることで
私が持っていたであろう自尊心も砕け散ったのだと想像しています。
その意味では私の努力は無駄ではなかったのです。
私の生活の中での努力は、現実社会の中ですぐに生かせたり
認めらる能力に繋がる事はありませんでしたが
私は自分の至らなさを理解することで不要なプライドを減らす事が出来ました。
つまりは魂の進化にはそれを役立たせる事が出来たからです。
考えて見ればこの社会の中では
誰もが自分の才能を正しく理解しているわけではないでしょうし、
その才能を正しく伸ばせているわけではないはずです。
先日の記事でもあったように、
私達はこの社会独自の価値観で杓子定規に図られて
その能力は学校の勉強で評価されているようなものだからです。
しかしそれは私達のあらゆる能力のホンの一面に過ぎません。
私達にはあらゆる能力があります。
物理的な腕力だって能力ですし、運動神経だってそうです。
同じ運動神経といっても
全てのスポーツが万能だと言う人間も居ないと思います。
学校の勉強にしても得意不得意があり、
しかも学校の勉強は私達の脳機能の
ほんの一部を特化して評価したに過ぎません。
この社会の評価基準ばかりに拘り進化しようと勤めると、
本来それぞれが持っている天性の才能が見えなくなりますし
それを伸ばす機会を完全に失う事になります。
考えて見てください。
学校の勉強が出来て東大に入った方は、それはそれで
左脳の特定の能力が発達しているのですし凄いと思いますが
その方がピカソのような絵をかけるとは限りませんし、
モーツアルトのような音楽を奏でる事が出来るわけでもありません。
200キロのバーベルを挙げることも出来ないでしょうし
(もちろん別の努力によって可能になることもありますが)
100メートルを9秒台で走ることも出来ないのです。
しかしこれらは間違いなく全てが私達の能力です。
自分の資質を理解せず特定の能力で強い出た人間を羨んでも
私達はそれを自分の進化に生かす事は出来ない。
それどころか他人を羨む気持ちが自分にコンプレックスをも
作り上げかねませんしそれは進化の妨害にもなると思います。
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私の好きなRPGゲームの中で
与えられた能力地を振り分けて
固有のキャラクターを作ると言う作業があります。
例えば20という能力値を
力や体力や魔力や信仰などに振り分けて
その能力に見合った戦士や魔法使いや僧侶と言った
キャラクターを作りあげるわけです。
戦士で在れば力や体力が必要ですし、
僧侶で在れば信仰心が必要とされます。
私達の能力はそれと同じような
バリエーションに富んだものだということです。
僧侶使いが力が弱いからと言って戦士を羨んでも仕方がないわけで、
どうしても戦士と同じように力が強くなりたければ
努力して力を持つ事に勤めればよいのです。
もちろんそれも進化だと思います。
しかし元々ゲームの僧侶であれば
戦士にはない他人を癒す能力を与えれらています。
そして戦士にしてみれば他人を癒せる僧侶が羨ましいかもしれません。
ゲームの中でもいろいろな能力を持った人間が存在していて
お互いが他のメンバーの能力をカバーすることで
そのパーティー全体が効果的に機能しています。
力で戦う人間が居ればそれを癒す人間も居て
役割分担が目的の達成を効率的にするわけです。
そしてゲームの中ではその中で
全ての人間が進化していくことになります。
本来在るべき人間の社会はその様なものだということです。
個々では皆が20と言う能力をそれぞれ別の資質として
持っているという過程でしたが
転生を繰り返している人間の中には30の能力を持っている人間も
居ることになります。
転生回数や独自の進化の速度のようなものが入り込んで
私達の社会の人間を多種多様な存在にしている。。。
そう考えれば他人と競ったり他人を羨むのではなくて
他人から学んだり他人と協力し合う事の方が、
自分の進化のためになるのだと言う事が見えてはこないでしょうか?
槇原さんが言っていたように
私達は誰もがたった一つの存在なのです。
私達のこの生での目的は、他人と比較して競争することではなくて
自分がその生での課題である進化を遂げること
つまりは自分の花を咲かす事だと言うことです。
この生での課題を果たすためにも
私達は地道な進化を続けていきましょう
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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P.S.
ここでの私達の努力は
自尊心や妬みや僻みを押さえ、
謙虚や尊敬や理解に置き換える事になるのだと思います。
肉の想いを、御霊の想いに変える事でです。
バラは派手な美しさに皆が魅了されますが
嫌いなバラには棘があるの例えのように
誰にとっても誰にとっても
完璧に感じるようなそんな人間は存在などしていません。
私達は進化の途中、しかも未だそのスタート地点にさえ
たどり着いたばかりだからです。
先は限りなく長いのですが
とりわけ私達が持ってはいけないのは
その外面に対しての差別意識です。
私は人種差別をする傾向の人間に
嫌悪感を持ちがちではありますがこれも私の至らなさです。
創造主の法の下では
誰もがあらゆる形態(フォーム)を
経験することになるからです。
地球社会であっても例えば人種は肌の色でも区別されたりしますし
それぞれの人種が得意や不得意としている能力もあります。
私達はその全ての形態を体験することになるのだと
天使達のマスターは語っていました。
私は今日本の中に日本人として生まれ育ち
黒髪で短足、ガニ股を体験しています。
でもこれだって体験なのです。
前世は黒人さんだったかも知れませんし
その前は白人さんだったかもしれません。
ありとあらゆる体験で物事を学ばそうとしている
創造主の法の転生の法則が、
私たちにありとあらゆる体験をする事を求めているのですし
それがそのまま私達の進化に繋がっていくのですから
私達はその学習の機会を素直に受け止めては
そこから何かを学ばなければならないのだと思います。
その学習の機会を無駄にする事で
私達は学びなおしをも命じられることになるかもしれません。
その生で与えられた課題から私達は逃げることは出来ないそうです。
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「人間が何かの理由で進歩を中断されたとき
本人は元の目的を完遂するために元の宇宙の教室(訳注=元の惑星)
で生まれねばなりません。
人間は学ぶ必要のあるレッスンまたは、
しなければならない奉仕からけっして逃げ出すことはできません。
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これはアダムスキーの妻の転生であるという
少女が金星でアダムスキーに語った言葉の一節です。
私達は誰もが課題を持って生まれてきていて
その課題から逃れることは出来ない。
しかもその課題が遂行されていなければ
その遂行のために再び同じような環境で生まれ変わることになる。。。
今の生の課題に気がついてそれをこなさないと
私達は次の生でも補習を受けることになるようですから
是が非でもそれに気がついて遂行して
進化の道へと進んでくださいね。
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続・宇宙の法則
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続・宇宙の法則 VOL2 輪廻と転生の法則
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続・宇宙の法則 VOL3 意識の経路
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続・宇宙の法則 VOL4 心とエゴ
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続・宇宙の法則 VOL5 想念とオカルト
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続・宇宙の法則 VOL6 イエスの奥義前編
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続・宇宙の法則 VOL7 イエスの奥義後編
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続・宇宙の法則 VOL8 引き寄せ・波動の法則と因果の法則
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続・宇宙の法則 VOL9 ”因”なるもの
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続・宇宙の法則 VOL10 元素とフォーム(形態)
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続・宇宙の法則 VOL11 細胞と想念