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2013.03.27
最速から最遅まで読書技術のABCを速度順に並べてみたー新入生におくるその3
リアルワールドで書物を手にする方法(というか習慣)について先に述べた。
ネットを使って学術情報にアクセスする最初の一歩は、例えばどのようであるかについても触れた。
当面必要なものはいま目の前にある、としよう。
次は読む話をしなくてはならない。
といっても今回取り上げるのは、いつもように、ささやかなものである。
一体に読書の巧者は様々な速度で読む。速くも読むし遅くも読む。
たとえば、そこに書いてあることの大半がすでに親しんだ知識であれば、自分が知っていることとどこかに違いはないかだけに注意するから、かなりの部分は読み飛ばしてよい。
今読もうとしているのが、自分を一旦壊して組立て直さなくてはならないような容易ならざる一冊であれば、当然に歩みは遅くなる。
読書の速度は(読みの深さその他と同様に)、読み手の能力によるのでなく、また書物の性質だけによるのでもなく、読み手と書物の関係で決まる。
だから1冊の中、1篇の中でも、読書の速度は変化する。
読書速度の変化は、大抵は無意識に行われるものだけれど、読むことをハードワークのように考える人は、少し意識的にやってもいい。
ママチャリではきつい坂道も、ギアチェンジできる自転車に乗り換えればいくらか楽に進めるだろう。
読書のギアチェンジにも、それに似たご利益がある。
具体的には、誰が何を読むかに応じて決まることだから、両極端や代表的な場面を例にして、最速の読みから最遅の読みまでどのような広がりがあるかを示すだけしかできないが、読書技術と呼ばれるものの大半はこの範囲に収まるはずである。
転読=flipping
転読は最高速の読書法である。大抵は1冊1分もかからない。
元々は、巻物仕立ての経を転がしながら目をとおすことから出た言葉だが、その後、折り本を用い、表裏の表紙を両方の手で支え、経巻を右または左に傾けながら本文の紙をぱらぱらと一方へ落とすやり方を言うようになった。
現代でも、大般若経600巻を転読する法要が禅宗や真言宗の寺院では毎年行われている。
我々が通常手にする書物は、竹簡に糸を通して束ねたものでも、パピルスの巻物(ロトゥルス)でもなく、紙を重ねて片方の端で綴じた冊子状のものである。これをコデックス(Codex)という。
コデックスについては、転がしても、ばらばら落としても、ページは進まないから、必然的にパラパラとページをめくることになる。
パラパラマンガをflip book(John Barnes Linnetが1868年に特許)ということから、コデックスに対する転読をflippingと呼ぶ。
読書の儀礼的効果に関心のない読書家には、転読はせいぜい(古書店の買取りの際になされるように)落丁やページの破れや汚れを発見することぐらいにしか利用価値がないように見える。
しかし我々が手にする綴じた本の場合は、別の意義が追加される。
転読は、その書物と出会った最初から、手元にある限り最後まで使用し続ける読書技術であり、また他すべての読書技術を下支えするものである。
なぜならページをめくらぬ限り、コデックス(綴じられた本)は1ページだって読むことができないからだ。
たとえば、その本を一旦読み終えた後、自分に必要な情報がその本の中にあることを思い出したとしよう。
本を手に取り必要なものを引き出そうとするとき、我々はほとんど意識することなく転読を使っている。
巻物などのより以前の形態に比べて、綴じた本(コデックス)は、任意の箇所を引き出しやすい、つまりランダムアクセス性が高い、といわれる※。
※ 現存する最古のコデックスは、ブリティッシュ・ライブラリーが所蔵するコプト語訳聖書(オンラインで読むことができる)だが、キリスト教が世界宗教として展開し得た一因は、ランダムアクセスできる書物を聖典として中心に据えたことにあるとも言われる。聖書は教会に、歴史的にも、存在論的にも先行する。聖書を持たない教会は教会ではないからだ。
神殿と国を破壊され、世界に散らばったユダヤ教徒は、口伝とすることで持ち運べ、再解釈することで変化する状況に適応する律法を信仰の中心に据えるしかなかった。
キリスト教は、ユダヤ教の伝統の中から、律法とそれが順序づける価値体系を組み替えることで生まれ、その革命を、書物として持ち運べ、ランダムアクセスできることで変化する状況に適応する、綴じた本(コデックス)としての聖典に定着することで完成した。
メディアに記憶された音楽や映像は、そこに流れる時間どおりにシーケンシャルに体験することしかできない。
ひとつの口から語られる言葉や物語もそうだ。言語の線状性に沿ってそれらを写し取るためだけなら、巻かれ広げられる巻子本でも、朗読の録音テープでも構わない。
綴じた本(コデックス)はしかし、それ以上のものである。順番に読むこともできるが、好きな箇所を好きな順に開き読むこともできる。
綴じた本(コデックス)の登場は、幾度か生じた書物における革命のひとつだった。
読書の対象側でランダムアクセスを担保するのが綴じた本(コーデックス)という形態だとすれば、読書主体=読み手の側でランダムアクセスを可能とするのが転読の技術である。
どれだけ念入りに再利用可能なように印をつけ、付箋を貼り、自家製の索引をつくり、必要箇所を抜書きした書物についても、やはり同様のことを行うことになる。以前に読んだときには見過ごしていた部分が必要になる場合があるからだ。
今のあなたは、以前その本を読んだ時のあなたではない。書物は変わらないが、読み手は(それを取り巻く世界は)変わる。だからこそ、書物を手元に置き、繰り返し読むことに価値がある。
目にもとまらぬ速さでページをめくっても、何も受け取ることはないように思えるが、それが真実だとしたら誰も以前読んだ箇所を探し出せないことになる。
手にしたばかりの本と、読み込んだ本とでは、転読から感じるものがわずかでも違っていることに気付くだろう。
だから最初に手にした後、そして何らかの読みを行った後に、くりかえし転読を行うべきである。
それは書物と読み手の関係が変化したかどうかを計るものでもある。
走読=scanning
転読の際に、後に残る印を残していけば、走読scanningがはじまる。
(1)まず小さな紙切れを5~10枚程度(増減してよいが、枚数は最初に決めておく)用意する。
速度の点からいうと、この段階ではポストイットでない方がいい。
(2)転読よりは速度を落としても構わないが、止まらずページをどんどんめくっていく。慣れないうちは見開き2ページあたり1~2秒でもよい。
(3)ページをめくりながら、気になったページや目を引いたページがあるかもしれない。
しかしこの段階ではそこで立ち止まらず、引続きページをめくっていく。
ただ、あとで戻ってこれるように紙切れを放り込んでおく。
貼り付ける時間が惜しいので、糊が着いていないものの方がよい。
(4)300ページの本だと見開き2ページあたり2秒かけたとして最大で5分ほどかかる
(5)最後まで行ったが、最初に用意した紙切れが残っている場合は、上記の作業を繰り返す。最初からはじめてもいいし、どこか気になる箇所からはじめてもいい。
いずれにしろ2度目は1度目ほどの時間はかからないだろう。
(5)手元に紙切れがなくなったら、紙切れを放り込んだページを開き、気になったところはどこだったのか、目がとまったのは何かを確かめるためだけに読み。
どこだか分かった場合はマーカーなどで印をつけるか、ポストイットなどを貼りこむ。
(6)紙切れを挟んだすべての箇所に印をつけたら、もう一度、それらのページを読む。理解できない場合は、前後を(特に前を)読む。
予読(下読)=Preview
これからどのような読み方をするにせよ、予読はあなたを助けるだろう。
というのも予読は、それ以降の読みを再読に近づけるからである。
誰しも、再読するときは、はじめて読む時よりも、速度は速く、理解も深い。
ネタバレが読書の楽しみを減じる物語を読む以外の場合には、できるだけ早く、再読の段階に進むのが望ましい。
しかし二度以上読むことは、一度だけ読むよりも、時間がかかる。
そこで一度目の読みを簡易化して、読書の合計時間を短くするために下見の読みが行われる。
抽象的に言えば、予読は、その書物について〈仮説〉をつくることである。
具体的には、目次を見て、序文その他を読み、索引があればこれも参考にして、書物の形式と概要をつかんでいく作業が主となる。
書物が扱う分野の知識にすでに親しんでいたり、同じ分野の書を読んだことがあれば、目次を一通り眺めるだけでも、少なくない手がかりを得るだろう。
すでに読んだ類書と比較して、どの部分が共通しどの部分が違っているか(構成はどうか?取り扱われるトピック?)に注意を向けるだけでも、これから読もうとする書物のどの部分をどのように読むかが違ってくる。当然、他の書物が扱っていないトピックを取り上げた部分は読み飛ばすべきではないだろうし、類書がそろって扱う部分にこの本独自のアプローチがなされていないかも確認すべきだろう。
予読(Preview)は技術というより習慣づけるべきものだ。
自分が取り組むテーマについて複数の文献に当たるのは普通のことだが、こうした状況では予読は特に役に立つ。
極端にいえば、予読しないと10の文献を読むのに単純に10倍の時間がかかる。予読すればその時間を2~3倍にまで圧縮できる。
しかし初めて触れる分野の場合、中身を読む前に目次を眺めても、それだけでは頭に残りにくい。
周辺情報がなく骨子だけ与えられても、理解も記憶も、うまく働かない。
結びつけるべき内容を未だ取り入れておらず、目次をそのように構成した理由も分からないことが多い。
まして、その分野になじみがなく、不明な専門用語が目次にいくつも登場する場合はなおさらである。
こうした場合は、情報を豊富化する方が効率がよい。
各章、各節の一部を目次の解説として利用する。
各章の書き出しは印象深く書かれている(はずだ)し、各章末はその章のまとめが行われていることが多い。
必要ならば、辞書をつかって目次に現れる不明語を確認したり、索引をつかって本文中に説明を与えている箇所をつまみ読みする。
この作業を丁寧に行うなら、章立てを問いに変換する作業を行う。
最低限、これらの問いに対する答えを得れば(スキャニング、アクティブ・リーディング)、その書物の概要をつかんだことになるだろう。
章立てを問いに変換することはまた、内容に関与した情報処理を行うことで、内容理解のための下慣らしとなり、自己関与を高めることで、理解にも記憶にもプラスに働く。
長大で複雑な構成をもつテキストを相手にしているときは、目次を抜書きして、変換後の問いも書き出すなど、面倒がらず外部記憶の助けを借りた方が、結局早く済む。
こうして書物についての〈仮説〉をつくる。
不可欠な問いは次のようなものになるだろう。
この書物は
(1)何について書かれたものであるか?(テーマ)
(2)テーマについてどういうことを主張するのか?
(3)主張を根拠付けるのにどういったやり方(アプローチ)をとっているのか?
慣れないうちは丁寧にやる必要があるから、(書き出すなどすると)平気で数十分かかる。
しかし自分の必要に照らして、この本のどこが本当に読むべき箇所かを知るためにも、この作業は必要となる。
最初から1ページずつ読むやり方しか知らず、最初の数十ページで挫折したり時間切れになってしまう人には特に必要だろう。
作業自体に慣れ(そのためにはそれほど時間がかからない)、また何度か同じジャンルの本を読んだ後なら、転読+αの時間で(すなわち数分で)できるようになる。
誰でも訓練なしにできる→スピードと理解度の両方を高める読書の方法 読書猿Classic: between / beyond readers

1冊を1枚にする技術 読書猿Classic: between / beyond readers

黙読 Silent Reading
書物は様々な速度で読むことができるし、また様々な速度で読むべきである、というのが今回の趣旨だが、その前提になる〈読書速度の自由〉が獲得されたのは、書物と読書の長い歴史の中でいえば、ごく近日の出来事である。
長い間、本を読むことは、音読することに他ならなかった※。
読むことは、声を出して他人にも自分にも聞かせる社会的行為だった。
私が何をどのように読んでいるかは、それに耳を傾ける周囲の人たちにオープンにされていた。秘して知らせない、孤独のうちに立てこもる読み方(黙読)には、非難の目が向けられた。
聞く人たちを置いてけぼりにするほど速く読むことはできず、まして拾い読みや飛ばし読みすることは不誠実な行為だった(古典音楽の演奏家たちが、楽曲を独自の解釈で演奏することはできるが、部分部分を切離し手前勝手に〈編集〉することは許されないように)。
書物は、グーテンベルグらによる活版印刷の普及発展の後も、私有することができるのは富裕な人々だけだった。何より普通教育が人口の大部分に及んで識字率を底上げしない限り、書物の市場も大幅な拡大は見込めなかった。
産業革命を背景に印刷の機械化が最も早く進んだイギリスでも、事態は遅々として進まなかった。
書籍が高額であることを前提に、貸本を中心にした流通が成立していた。19世紀に書かれたフィクションのうち8割は貸本のために書かれた。全国に店舗展開した大手貸本業者は、書籍市場出版社から見れば大口の購入者であり、出版と作家に大きな影響力を行使した。
ディケンズらが活躍した19世紀半ばでさえ、書物は家庭単位で借りるものであり、読書とは一家がそろって楽しむ家族的娯楽であった。
昭和に登場したラジオやテレビ放送を、お茶の間で一家がそろって楽しんだ時代を知る人なら、その様子が想像できるかもしれない。
家の主人や学校へ通う長男といった家庭内における識字者が朗読を受持ち、文字を読めない者(幼少の者から、若い頃学校へ通わなかった老年者まで)を含めて家族全員がそれに耳を済ませた。
家族朗読で消費されるのは、家族みんなで楽しめる物語であった。分かりやすく起伏に富んだ筋、勧善懲悪的な道徳性と予定調和的なハッピーエンドが幅を利かせた。
俗悪なリアリズムや、まず殺人ありきの推理小説(イギリスでは端的にクライムノベルといわれた)は、多くの人々が書物を私有でき、かつ共同体的紐帯から個人の解放が進む中、読書を一人で(Reading Alone)楽しむことができる時代を待たなければならなかった。
貸本の普及を前提にした書籍流通と値段設定のおかげで、読書を個人の孤独な楽しみに変えるような、書物の価格革命はなかなか生じなかった。
綴じた本(コデックス)がシーケンシャルな語りからランダムアクセスへの解放を内包していたように(無論、このランダムアクセスは読むことができる者=聖職者に独占された訳だが)、音読(Reading Aloud)に対する孤読(Reading Alone)もまた解放的契機を含んでいた。
音楽や動画を鑑賞する際、我々は今でも演奏の速度や動画が持つ時間の流れに沿わなくてはならない。
一人で声を出さずに読むのなら、朗読や他の鑑賞者(朗読に耳を傾けるもの)を待たず、発声器官の限界(300字~数百字/分)の限界に従う必要もなかった。
人はこうして、誰はばかりなく、思い思いの速度と順序と解釈でもって、書物と付き合うことができるようになったのである。
もちろん現在でも、読書の音読的呪縛は消え去った訳ではない。
多くの人々にとって物語を読むことが読書経験の大半を形成することから、語りの秩序に従順であることが正しい読み方であると信じられている。
読み飛ばしに罪悪感を感じ、1ページ目から順にしか読まない人は、あまりに多い。
黙読 Silent Readingという、読むことの静かな革命。
音読 Reading Aloud
黙読を引き立たせるために罵った音読の特徴はしかし、そのまま長所でもある。
声を出すことで側にいる者にも当人がどのように読んでいるかを知ることができること、そして他人が着いていけないほどのスピードが出せないことは、指導者(コーチ)によるフォローアップが容易なことにつながり、即座に矯正・指導することを可能とした。
たとえば日本の近世における学習・教育(武家の学校や漢学塾から寺子屋まで)で主たる教授法であった素読・白読は、書物の意味・内容の理解に先んじて、文字を音声化し、繰り返し音読させるものだった。
上記の教育機関では初歩の生徒のために素読席が設けられており、素読の個人指導を担当する教師役がいた。彼はテキスト(『論語』『孟子』『大学』『中庸』のいわゆる四書)を手本として読み上げて聞かせ、それを生徒に真似させ、繰り返し唱えさせて、やがて手本も外部記憶に頼ることなく暗唱させて、間違いがあれば訂正した。音読は、耳と口を用いてより多くの身体感覚を動員し、加えて社会的方略をも用いた学習法だった。
こうして幼若の初学者は、テキストの意味内容を深く考えることなく、ただ口調のおもしろさに応じて暗唱し、読了する。段階が進んで、やがてその内容が講じられる時には、テキストそのものが頭脳に、というより身体に刻み込まれているのである。
この方法は漢文だけでなく、たとえば緒方洪庵が大坂に開いた適々斎塾(適塾)では、オランダ文典2冊の素読および原書の写本・会読という教授法で、大村益次郎,橋本左内,福沢諭吉ら外国語運用能力を生かして活躍する多数の人材を輩出した。
さらに日本に特殊な方法ではなく、西欧においても19世紀なかばころまでの学校の授業形態は、もっぱら暗唱させることだった。キリスト教の教義問答、祈りの文句、聖書、ラテン語の名句や名演説などを暗唱させていた。
素読や暗唱法は、古典原典の文をその身につけて、いかなるときにでもこれを用いることができるようにする。こうして反射的・自動的に出力されるまでに植えつけられた大量のフレーズ・ストックが思考の実弾となるのであり、分野を問わず知的営為に加わる者の間でコミュニケーションの基底となる(漢文とラテン語が東西の知識人たちに与えた影響を想起せよ)。
教養は、ゆるい乱読の成れの果てではなく、何らかの身体的トレーニングを基礎したものなのである。
意味の理解抜きに記憶・暗唱するこうしたアプローチは、児童の〈発達〉に基礎を置いた(暗記に理解を、反復訓練に自発性を対峙させる)近代的な教育観(そして近代の学校)では基本的に否定されたが、実際には様々な場面で生き延びた(日本で誰しも経験するのは掛け算の九九だろう)。
暗記中心の同時代の学校を非難しスポーツでもさせた方がましだと断じたモンテーニュ(彼の教育思想はルソーを介して近代的な教育観に大きな影響を与えた)ですら、その主著『随想録』は自ら集めた名句の抜書きに加えたコメントから成長したものだった。
抜書きという習慣/人文学の形稽古 その4 読書猿Classic: between / beyond readers

読書猿Classic 叫ぶ英会話!音読が想像以上に凄い6つの理由 Read Aloud!!

判読 translating
我々の読書のデフォルトモードは、一語一語の意味にこだわらず読んでいく《流読》である。
このように流して読まないと1冊読むのにくたくたになってしまって、とても続けられない。
ベストセラーが生まれる、概ね1000円台で価格設定された書籍は薄利多売を前提としていて、中学2年レベルの日本語読解力があれば読めるようにチューニングされている。
こうした価格設定の書籍は、知識の流通過程でいえば、最下流に位置する。まだ何と言えばいいのか表現の定まらないところから始まって、何度も表現が試みられ、知識として定着し、普及し、まとめたり言い直したりを繰り返した後の、そのまた後で、わかりやすくまとめられたものとして、そうした書籍は登場する。
ここ数年内に新たに得られた(とされる)知見から、もう数千年間繰り返された思想までが仲良く書棚に並ぶ。
これらの書物が分かりやすいのは、著者や編集者やデザイナーが意を尽くして表現を噛み砕き、文字をゆったりと組み、図版やイラストをふんだんに差し込んでいるからではない。
あなたが既に知っていることしか書いてないからだ。
しかし絶望するのは早い。
世界には、あなたを読者と想定して書かれた書物だけが存在するのではない。
あなたが知らないことを知らせる書物、あなたが知らない何かにならなければ読めない書物は存在する。
それもたくさん、絶望的なまでにたくさんある。
そうした書物は恐ろしく読みにくい。
訳が分かるように解釈し続けなければ、前に進めない書物だ。
舗装された読書の周回コースを出て、走った者もあまりないオフロードを行くためには、《流読》という読書の自然状態(これもまた人工的に獲得された自然なのだが)を抜け出て、わかりにくい文字や言葉や文章を、前後左右の関係などから推し量り、他の書物とも付き合わせつつ解していく判読(translating)に進む必要がある。
旧式の語学学習法として指弾された文法訳読法は、元々は判読のためのトレーニングだった。古典語を対象に行われたものを(だから初等段階の音読・暗唱を前提にしている)、外国語に振り向けたのである。
いずれも母語のように自然には理解し得ない言葉に組み付き格闘するものだった。
一語一語の意味にこだわり、一文一文の意義を相互拘束的な関係から類推していく作業は疲れる。何より、進まない。
経験ある読書家も、まだ読まざる書物の多さを思うと心が千千乱れ、一句一節に拘泥する愚かさを呪う。
しかし我々は、たった一人で読んでいるのではない。
ページを繰る隣に誰もいなくても、その書物を読むのは、たいていの場合、あなただけではない(世界でたった一冊の書物は、あなたがその作者でもないかぎり手元にある確率は小さいから)。
同じ書物を読む人は遠くにいる。
同時代になくとも、過去にいる。
彼らのすべてではないにせよ、多くの読書家は読んだ跡を残している。
注釈書という形のこともあれば、原テキストに書き入れた者もある。
失われることも多いが、しかしその書物があなたの手元に来ることができたのは、すでに何人もの人がそれを読み継いできたからに他ならない。
書籍の編集や販売に携わる人から聞いた話では、注の多い書籍は「流れが損なわれる」などという、黙読以前的な理由から人気がないそうだ。
だが車輪の再発明をしないために、註釈を読み、そして自ら註釈を書け。
何よりも未来に、それを読み返すあなたのために。
時を隔てた自身は、他人であることを知るべきだ。
舗装された書物がほとんど存在しない時代には、読むことは言葉の原野を行くこととほとんど同義だった。
そして読書のハードランを経験した者には、あらゆる書物が胸襟をゆるめ歓迎する。
自分のために書かれた訳ではないテキストを攻略する読解の3ステップ 読書猿Classic: between / beyond readers

ネットを使って学術情報にアクセスする最初の一歩は、例えばどのようであるかについても触れた。
当面必要なものはいま目の前にある、としよう。
次は読む話をしなくてはならない。
といっても今回取り上げるのは、いつもように、ささやかなものである。
一体に読書の巧者は様々な速度で読む。速くも読むし遅くも読む。
たとえば、そこに書いてあることの大半がすでに親しんだ知識であれば、自分が知っていることとどこかに違いはないかだけに注意するから、かなりの部分は読み飛ばしてよい。
今読もうとしているのが、自分を一旦壊して組立て直さなくてはならないような容易ならざる一冊であれば、当然に歩みは遅くなる。
読書の速度は(読みの深さその他と同様に)、読み手の能力によるのでなく、また書物の性質だけによるのでもなく、読み手と書物の関係で決まる。
だから1冊の中、1篇の中でも、読書の速度は変化する。
読書速度の変化は、大抵は無意識に行われるものだけれど、読むことをハードワークのように考える人は、少し意識的にやってもいい。
ママチャリではきつい坂道も、ギアチェンジできる自転車に乗り換えればいくらか楽に進めるだろう。
読書のギアチェンジにも、それに似たご利益がある。
具体的には、誰が何を読むかに応じて決まることだから、両極端や代表的な場面を例にして、最速の読みから最遅の読みまでどのような広がりがあるかを示すだけしかできないが、読書技術と呼ばれるものの大半はこの範囲に収まるはずである。
転読=flipping
転読は最高速の読書法である。大抵は1冊1分もかからない。
元々は、巻物仕立ての経を転がしながら目をとおすことから出た言葉だが、その後、折り本を用い、表裏の表紙を両方の手で支え、経巻を右または左に傾けながら本文の紙をぱらぱらと一方へ落とすやり方を言うようになった。
現代でも、大般若経600巻を転読する法要が禅宗や真言宗の寺院では毎年行われている。
我々が通常手にする書物は、竹簡に糸を通して束ねたものでも、パピルスの巻物(ロトゥルス)でもなく、紙を重ねて片方の端で綴じた冊子状のものである。これをコデックス(Codex)という。
コデックスについては、転がしても、ばらばら落としても、ページは進まないから、必然的にパラパラとページをめくることになる。
パラパラマンガをflip book(John Barnes Linnetが1868年に特許)ということから、コデックスに対する転読をflippingと呼ぶ。
読書の儀礼的効果に関心のない読書家には、転読はせいぜい(古書店の買取りの際になされるように)落丁やページの破れや汚れを発見することぐらいにしか利用価値がないように見える。
しかし我々が手にする綴じた本の場合は、別の意義が追加される。
転読は、その書物と出会った最初から、手元にある限り最後まで使用し続ける読書技術であり、また他すべての読書技術を下支えするものである。
なぜならページをめくらぬ限り、コデックス(綴じられた本)は1ページだって読むことができないからだ。
たとえば、その本を一旦読み終えた後、自分に必要な情報がその本の中にあることを思い出したとしよう。
本を手に取り必要なものを引き出そうとするとき、我々はほとんど意識することなく転読を使っている。
巻物などのより以前の形態に比べて、綴じた本(コデックス)は、任意の箇所を引き出しやすい、つまりランダムアクセス性が高い、といわれる※。
※ 現存する最古のコデックスは、ブリティッシュ・ライブラリーが所蔵するコプト語訳聖書(オンラインで読むことができる)だが、キリスト教が世界宗教として展開し得た一因は、ランダムアクセスできる書物を聖典として中心に据えたことにあるとも言われる。聖書は教会に、歴史的にも、存在論的にも先行する。聖書を持たない教会は教会ではないからだ。
神殿と国を破壊され、世界に散らばったユダヤ教徒は、口伝とすることで持ち運べ、再解釈することで変化する状況に適応する律法を信仰の中心に据えるしかなかった。
キリスト教は、ユダヤ教の伝統の中から、律法とそれが順序づける価値体系を組み替えることで生まれ、その革命を、書物として持ち運べ、ランダムアクセスできることで変化する状況に適応する、綴じた本(コデックス)としての聖典に定着することで完成した。
メディアに記憶された音楽や映像は、そこに流れる時間どおりにシーケンシャルに体験することしかできない。
ひとつの口から語られる言葉や物語もそうだ。言語の線状性に沿ってそれらを写し取るためだけなら、巻かれ広げられる巻子本でも、朗読の録音テープでも構わない。
綴じた本(コデックス)はしかし、それ以上のものである。順番に読むこともできるが、好きな箇所を好きな順に開き読むこともできる。
綴じた本(コデックス)の登場は、幾度か生じた書物における革命のひとつだった。
読書の対象側でランダムアクセスを担保するのが綴じた本(コーデックス)という形態だとすれば、読書主体=読み手の側でランダムアクセスを可能とするのが転読の技術である。
どれだけ念入りに再利用可能なように印をつけ、付箋を貼り、自家製の索引をつくり、必要箇所を抜書きした書物についても、やはり同様のことを行うことになる。以前に読んだときには見過ごしていた部分が必要になる場合があるからだ。
今のあなたは、以前その本を読んだ時のあなたではない。書物は変わらないが、読み手は(それを取り巻く世界は)変わる。だからこそ、書物を手元に置き、繰り返し読むことに価値がある。
目にもとまらぬ速さでページをめくっても、何も受け取ることはないように思えるが、それが真実だとしたら誰も以前読んだ箇所を探し出せないことになる。
手にしたばかりの本と、読み込んだ本とでは、転読から感じるものがわずかでも違っていることに気付くだろう。
だから最初に手にした後、そして何らかの読みを行った後に、くりかえし転読を行うべきである。
それは書物と読み手の関係が変化したかどうかを計るものでもある。
走読=scanning
転読の際に、後に残る印を残していけば、走読scanningがはじまる。
(1)まず小さな紙切れを5~10枚程度(増減してよいが、枚数は最初に決めておく)用意する。
速度の点からいうと、この段階ではポストイットでない方がいい。
(2)転読よりは速度を落としても構わないが、止まらずページをどんどんめくっていく。慣れないうちは見開き2ページあたり1~2秒でもよい。
(3)ページをめくりながら、気になったページや目を引いたページがあるかもしれない。
しかしこの段階ではそこで立ち止まらず、引続きページをめくっていく。
ただ、あとで戻ってこれるように紙切れを放り込んでおく。
貼り付ける時間が惜しいので、糊が着いていないものの方がよい。
(4)300ページの本だと見開き2ページあたり2秒かけたとして最大で5分ほどかかる
(5)最後まで行ったが、最初に用意した紙切れが残っている場合は、上記の作業を繰り返す。最初からはじめてもいいし、どこか気になる箇所からはじめてもいい。
いずれにしろ2度目は1度目ほどの時間はかからないだろう。
(5)手元に紙切れがなくなったら、紙切れを放り込んだページを開き、気になったところはどこだったのか、目がとまったのは何かを確かめるためだけに読み。
どこだか分かった場合はマーカーなどで印をつけるか、ポストイットなどを貼りこむ。
(6)紙切れを挟んだすべての箇所に印をつけたら、もう一度、それらのページを読む。理解できない場合は、前後を(特に前を)読む。
予読(下読)=Preview
これからどのような読み方をするにせよ、予読はあなたを助けるだろう。
というのも予読は、それ以降の読みを再読に近づけるからである。
誰しも、再読するときは、はじめて読む時よりも、速度は速く、理解も深い。
ネタバレが読書の楽しみを減じる物語を読む以外の場合には、できるだけ早く、再読の段階に進むのが望ましい。
しかし二度以上読むことは、一度だけ読むよりも、時間がかかる。
そこで一度目の読みを簡易化して、読書の合計時間を短くするために下見の読みが行われる。
抽象的に言えば、予読は、その書物について〈仮説〉をつくることである。
具体的には、目次を見て、序文その他を読み、索引があればこれも参考にして、書物の形式と概要をつかんでいく作業が主となる。
書物が扱う分野の知識にすでに親しんでいたり、同じ分野の書を読んだことがあれば、目次を一通り眺めるだけでも、少なくない手がかりを得るだろう。
すでに読んだ類書と比較して、どの部分が共通しどの部分が違っているか(構成はどうか?取り扱われるトピック?)に注意を向けるだけでも、これから読もうとする書物のどの部分をどのように読むかが違ってくる。当然、他の書物が扱っていないトピックを取り上げた部分は読み飛ばすべきではないだろうし、類書がそろって扱う部分にこの本独自のアプローチがなされていないかも確認すべきだろう。
予読(Preview)は技術というより習慣づけるべきものだ。
自分が取り組むテーマについて複数の文献に当たるのは普通のことだが、こうした状況では予読は特に役に立つ。
極端にいえば、予読しないと10の文献を読むのに単純に10倍の時間がかかる。予読すればその時間を2~3倍にまで圧縮できる。
しかし初めて触れる分野の場合、中身を読む前に目次を眺めても、それだけでは頭に残りにくい。
周辺情報がなく骨子だけ与えられても、理解も記憶も、うまく働かない。
結びつけるべき内容を未だ取り入れておらず、目次をそのように構成した理由も分からないことが多い。
まして、その分野になじみがなく、不明な専門用語が目次にいくつも登場する場合はなおさらである。
こうした場合は、情報を豊富化する方が効率がよい。
各章、各節の一部を目次の解説として利用する。
各章の書き出しは印象深く書かれている(はずだ)し、各章末はその章のまとめが行われていることが多い。
必要ならば、辞書をつかって目次に現れる不明語を確認したり、索引をつかって本文中に説明を与えている箇所をつまみ読みする。
この作業を丁寧に行うなら、章立てを問いに変換する作業を行う。
最低限、これらの問いに対する答えを得れば(スキャニング、アクティブ・リーディング)、その書物の概要をつかんだことになるだろう。
章立てを問いに変換することはまた、内容に関与した情報処理を行うことで、内容理解のための下慣らしとなり、自己関与を高めることで、理解にも記憶にもプラスに働く。
長大で複雑な構成をもつテキストを相手にしているときは、目次を抜書きして、変換後の問いも書き出すなど、面倒がらず外部記憶の助けを借りた方が、結局早く済む。
こうして書物についての〈仮説〉をつくる。
不可欠な問いは次のようなものになるだろう。
この書物は
(1)何について書かれたものであるか?(テーマ)
(2)テーマについてどういうことを主張するのか?
(3)主張を根拠付けるのにどういったやり方(アプローチ)をとっているのか?
慣れないうちは丁寧にやる必要があるから、(書き出すなどすると)平気で数十分かかる。
しかし自分の必要に照らして、この本のどこが本当に読むべき箇所かを知るためにも、この作業は必要となる。
最初から1ページずつ読むやり方しか知らず、最初の数十ページで挫折したり時間切れになってしまう人には特に必要だろう。
作業自体に慣れ(そのためにはそれほど時間がかからない)、また何度か同じジャンルの本を読んだ後なら、転読+αの時間で(すなわち数分で)できるようになる。
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黙読 Silent Reading
書物は様々な速度で読むことができるし、また様々な速度で読むべきである、というのが今回の趣旨だが、その前提になる〈読書速度の自由〉が獲得されたのは、書物と読書の長い歴史の中でいえば、ごく近日の出来事である。
長い間、本を読むことは、音読することに他ならなかった※。
読むことは、声を出して他人にも自分にも聞かせる社会的行為だった。
私が何をどのように読んでいるかは、それに耳を傾ける周囲の人たちにオープンにされていた。秘して知らせない、孤独のうちに立てこもる読み方(黙読)には、非難の目が向けられた。
聞く人たちを置いてけぼりにするほど速く読むことはできず、まして拾い読みや飛ばし読みすることは不誠実な行為だった(古典音楽の演奏家たちが、楽曲を独自の解釈で演奏することはできるが、部分部分を切離し手前勝手に〈編集〉することは許されないように)。
書物は、グーテンベルグらによる活版印刷の普及発展の後も、私有することができるのは富裕な人々だけだった。何より普通教育が人口の大部分に及んで識字率を底上げしない限り、書物の市場も大幅な拡大は見込めなかった。
産業革命を背景に印刷の機械化が最も早く進んだイギリスでも、事態は遅々として進まなかった。
書籍が高額であることを前提に、貸本を中心にした流通が成立していた。19世紀に書かれたフィクションのうち8割は貸本のために書かれた。全国に店舗展開した大手貸本業者は、書籍市場出版社から見れば大口の購入者であり、出版と作家に大きな影響力を行使した。
ディケンズらが活躍した19世紀半ばでさえ、書物は家庭単位で借りるものであり、読書とは一家がそろって楽しむ家族的娯楽であった。
昭和に登場したラジオやテレビ放送を、お茶の間で一家がそろって楽しんだ時代を知る人なら、その様子が想像できるかもしれない。
家の主人や学校へ通う長男といった家庭内における識字者が朗読を受持ち、文字を読めない者(幼少の者から、若い頃学校へ通わなかった老年者まで)を含めて家族全員がそれに耳を済ませた。
家族朗読で消費されるのは、家族みんなで楽しめる物語であった。分かりやすく起伏に富んだ筋、勧善懲悪的な道徳性と予定調和的なハッピーエンドが幅を利かせた。
俗悪なリアリズムや、まず殺人ありきの推理小説(イギリスでは端的にクライムノベルといわれた)は、多くの人々が書物を私有でき、かつ共同体的紐帯から個人の解放が進む中、読書を一人で(Reading Alone)楽しむことができる時代を待たなければならなかった。
貸本の普及を前提にした書籍流通と値段設定のおかげで、読書を個人の孤独な楽しみに変えるような、書物の価格革命はなかなか生じなかった。
綴じた本(コデックス)がシーケンシャルな語りからランダムアクセスへの解放を内包していたように(無論、このランダムアクセスは読むことができる者=聖職者に独占された訳だが)、音読(Reading Aloud)に対する孤読(Reading Alone)もまた解放的契機を含んでいた。
音楽や動画を鑑賞する際、我々は今でも演奏の速度や動画が持つ時間の流れに沿わなくてはならない。
一人で声を出さずに読むのなら、朗読や他の鑑賞者(朗読に耳を傾けるもの)を待たず、発声器官の限界(300字~数百字/分)の限界に従う必要もなかった。
人はこうして、誰はばかりなく、思い思いの速度と順序と解釈でもって、書物と付き合うことができるようになったのである。
もちろん現在でも、読書の音読的呪縛は消え去った訳ではない。
多くの人々にとって物語を読むことが読書経験の大半を形成することから、語りの秩序に従順であることが正しい読み方であると信じられている。
読み飛ばしに罪悪感を感じ、1ページ目から順にしか読まない人は、あまりに多い。
黙読 Silent Readingという、読むことの静かな革命。
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音読 Reading Aloud
黙読を引き立たせるために罵った音読の特徴はしかし、そのまま長所でもある。
声を出すことで側にいる者にも当人がどのように読んでいるかを知ることができること、そして他人が着いていけないほどのスピードが出せないことは、指導者(コーチ)によるフォローアップが容易なことにつながり、即座に矯正・指導することを可能とした。
たとえば日本の近世における学習・教育(武家の学校や漢学塾から寺子屋まで)で主たる教授法であった素読・白読は、書物の意味・内容の理解に先んじて、文字を音声化し、繰り返し音読させるものだった。
上記の教育機関では初歩の生徒のために素読席が設けられており、素読の個人指導を担当する教師役がいた。彼はテキスト(『論語』『孟子』『大学』『中庸』のいわゆる四書)を手本として読み上げて聞かせ、それを生徒に真似させ、繰り返し唱えさせて、やがて手本も外部記憶に頼ることなく暗唱させて、間違いがあれば訂正した。音読は、耳と口を用いてより多くの身体感覚を動員し、加えて社会的方略をも用いた学習法だった。
こうして幼若の初学者は、テキストの意味内容を深く考えることなく、ただ口調のおもしろさに応じて暗唱し、読了する。段階が進んで、やがてその内容が講じられる時には、テキストそのものが頭脳に、というより身体に刻み込まれているのである。
この方法は漢文だけでなく、たとえば緒方洪庵が大坂に開いた適々斎塾(適塾)では、オランダ文典2冊の素読および原書の写本・会読という教授法で、大村益次郎,橋本左内,福沢諭吉ら外国語運用能力を生かして活躍する多数の人材を輩出した。
さらに日本に特殊な方法ではなく、西欧においても19世紀なかばころまでの学校の授業形態は、もっぱら暗唱させることだった。キリスト教の教義問答、祈りの文句、聖書、ラテン語の名句や名演説などを暗唱させていた。
素読や暗唱法は、古典原典の文をその身につけて、いかなるときにでもこれを用いることができるようにする。こうして反射的・自動的に出力されるまでに植えつけられた大量のフレーズ・ストックが思考の実弾となるのであり、分野を問わず知的営為に加わる者の間でコミュニケーションの基底となる(漢文とラテン語が東西の知識人たちに与えた影響を想起せよ)。
教養は、ゆるい乱読の成れの果てではなく、何らかの身体的トレーニングを基礎したものなのである。
意味の理解抜きに記憶・暗唱するこうしたアプローチは、児童の〈発達〉に基礎を置いた(暗記に理解を、反復訓練に自発性を対峙させる)近代的な教育観(そして近代の学校)では基本的に否定されたが、実際には様々な場面で生き延びた(日本で誰しも経験するのは掛け算の九九だろう)。
暗記中心の同時代の学校を非難しスポーツでもさせた方がましだと断じたモンテーニュ(彼の教育思想はルソーを介して近代的な教育観に大きな影響を与えた)ですら、その主著『随想録』は自ら集めた名句の抜書きに加えたコメントから成長したものだった。
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判読 translating
我々の読書のデフォルトモードは、一語一語の意味にこだわらず読んでいく《流読》である。
このように流して読まないと1冊読むのにくたくたになってしまって、とても続けられない。
ベストセラーが生まれる、概ね1000円台で価格設定された書籍は薄利多売を前提としていて、中学2年レベルの日本語読解力があれば読めるようにチューニングされている。
こうした価格設定の書籍は、知識の流通過程でいえば、最下流に位置する。まだ何と言えばいいのか表現の定まらないところから始まって、何度も表現が試みられ、知識として定着し、普及し、まとめたり言い直したりを繰り返した後の、そのまた後で、わかりやすくまとめられたものとして、そうした書籍は登場する。
ここ数年内に新たに得られた(とされる)知見から、もう数千年間繰り返された思想までが仲良く書棚に並ぶ。
これらの書物が分かりやすいのは、著者や編集者やデザイナーが意を尽くして表現を噛み砕き、文字をゆったりと組み、図版やイラストをふんだんに差し込んでいるからではない。
あなたが既に知っていることしか書いてないからだ。
しかし絶望するのは早い。
世界には、あなたを読者と想定して書かれた書物だけが存在するのではない。
あなたが知らないことを知らせる書物、あなたが知らない何かにならなければ読めない書物は存在する。
それもたくさん、絶望的なまでにたくさんある。
そうした書物は恐ろしく読みにくい。
訳が分かるように解釈し続けなければ、前に進めない書物だ。
舗装された読書の周回コースを出て、走った者もあまりないオフロードを行くためには、《流読》という読書の自然状態(これもまた人工的に獲得された自然なのだが)を抜け出て、わかりにくい文字や言葉や文章を、前後左右の関係などから推し量り、他の書物とも付き合わせつつ解していく判読(translating)に進む必要がある。
旧式の語学学習法として指弾された文法訳読法は、元々は判読のためのトレーニングだった。古典語を対象に行われたものを(だから初等段階の音読・暗唱を前提にしている)、外国語に振り向けたのである。
いずれも母語のように自然には理解し得ない言葉に組み付き格闘するものだった。
一語一語の意味にこだわり、一文一文の意義を相互拘束的な関係から類推していく作業は疲れる。何より、進まない。
経験ある読書家も、まだ読まざる書物の多さを思うと心が千千乱れ、一句一節に拘泥する愚かさを呪う。
しかし我々は、たった一人で読んでいるのではない。
ページを繰る隣に誰もいなくても、その書物を読むのは、たいていの場合、あなただけではない(世界でたった一冊の書物は、あなたがその作者でもないかぎり手元にある確率は小さいから)。
同じ書物を読む人は遠くにいる。
同時代になくとも、過去にいる。
彼らのすべてではないにせよ、多くの読書家は読んだ跡を残している。
注釈書という形のこともあれば、原テキストに書き入れた者もある。
失われることも多いが、しかしその書物があなたの手元に来ることができたのは、すでに何人もの人がそれを読み継いできたからに他ならない。
書籍の編集や販売に携わる人から聞いた話では、注の多い書籍は「流れが損なわれる」などという、黙読以前的な理由から人気がないそうだ。
だが車輪の再発明をしないために、註釈を読み、そして自ら註釈を書け。
何よりも未来に、それを読み返すあなたのために。
時を隔てた自身は、他人であることを知るべきだ。
舗装された書物がほとんど存在しない時代には、読むことは言葉の原野を行くこととほとんど同義だった。
そして読書のハードランを経験した者には、あらゆる書物が胸襟をゆるめ歓迎する。
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