東北(山形)で生まれて、関西に住んでいる。
親戚、友人のほとんどは、関東から東北に住んでいる。
当時の記録はとっていないが、集めた新聞の切り抜きや記憶を頼りに、振り返ってみる。
震災のとき、関西では軽い揺れを感じた程度であった。東北で大きな地震があったというニュースを耳にした。
姉と甥が受験のため、宮城県仙台市に電車で向かっていた。一駅手前の北仙台駅で被災。
後で聞いた話では、2階のプラットホームが大揺れに揺れて、立っていられず、しゃがみこんで揺れがおさまるのを待ったとのこと。そのままバスで泊まる予定のホテルへ。しばらく手の震えが止まらなかったという。停電の真っ暗な中、1階ロビーに宿泊客が集められる。従業員が1人1枚の掛布団を配ってくれた。
近くの自家発電の病院以外は、周辺は暗闇。ホテルのラジオを聞きながら、眠れない夜を過ごす。電源がなくなるのを心配して、必要なこと以外はメールしないとの連絡が入る。
東北全域で停電。
東北の冬の厳しさは、関西の人にはなかなかわかりづらいが、暖をとるものがない状態は、かなり過酷である。
突き刺すような寒さと凍えるような手足に感覚が麻痺してくる。
冷たい体育館での寝泊りは、乳幼児や高齢者、障害者には過酷過ぎた。
東北の主要な道路が寸断。電車など交通機関使えず。そして、福島の原発爆発。
仙台港使えず、精油工場炎上で、ガソリンも灯油も入手出来ない。全ての物流が止まった。
なんとか入ってきた灯油やガソリンを求めて、朝早くから5時間以上待つこともあったとのことである。
避難地域拡大。迷走する中央政府。決断出来ない行政。
東北は、要塞のような山々に囲まれているため、玄関口の福島ルートが使えなければ、裏玄関口ルートの山形経由北陸ルートか、山形空港、
秋田空港、青森経由北海道ルートしかない。
山形県は、倒壊家屋も少なく、停電も翌日には復旧。原発事故から避難してきた人たちが、関東か西へ移動手段を求めて、山形のバスターミナルはかつてないほどの人で行列状態であったとのこと。移動したくてもガソリンがなく移動出来ない人も大勢いた。
知人から、原発や放射能についての海外の情報サイトを教えてもらう。
原発は予断を許さない状況であったが、東北各地で卒業式が決行。
ある県に問い合わせると、文部科学省から何も連絡がないので行いますとのことであった。
物流が止まって、スーパーから生鮮食品がみるみるなくなっていった。
東北は田んぼや畑をしている家が多く、自給自足が比較的出来ている。足りないものがあれば、近所の人が持って来てくれたりで共助の精神が息づいているため、親戚や友人に聞いても食料品はなんとか足りたようである。日用品が品薄になっていったとのことで、湯たんぽが重宝されたらしい。
福島や宮城から避難してくる人が日ましに増え、特に山形は、福島から近く、多くの避難者を受け入れた。 山形県が被災地への物流拠点、人材派遣拠点となった。
<読売新聞/山形版(2011年3月16日~18日)>
読売新聞/山形版(2011年3月16日)
読売新聞/山形版(2011年3月17日)
読売新聞/山形版(2011年3月18日)
当初、受け入れ側の行政も県民も、困惑状態だったようで、避難者と受け入れ側の県民とのトラブルなどもあったということだ。 2年目の現在、最も多くの居住する避難者を受け入れ、避難者向け情報サイトの立ち上げ、支援相談窓口、住居借り上げ支援、行政とNPO との協働体制の構築など、走りながら作りあげていったようだ。
<山形県HP/避難者支援サイト>
http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/fukkou/lifeline/hinansha.html
東日本大震災は、原発の状況や被災者救援の輸送車優先のため、当初、ボランティアが入ることは規制された。各地でボランティアセンター
が立ち上がったのが、3月下旬。全国の社会福祉協議会から宮城、福島、岩手へ職員が派遣される。各地の社協職員はよく頑張っていた。
滋賀県内の社会福祉協議会は、宮城県の被害の大きい南三陸へ支援。
関西広域連合では、滋賀県は、福島県の支援担当となり、県職員が派遣される。嘉田知事は、福島県の避難者の県内受け入れを現地で表明。
滋賀県行政と県社協はそれぞれ別の県の支援にあたり、横の連携はなかったようだ。
5月の連休に東北への帰郷を決める。災害ボランティアは初めてなので、現地に迷惑をかけず、自己完結するための情報収集する。
被災各地の状況(2011年4月12日)
被災地の各市で情報HPが立ち上がっていた。宮城県には多くのボランティアが行くことは予測出来た。
福島県の相馬市と南相馬市では、支援物資不足とボランティア不足で呼びかけが発信されていた。
支援物資の受け入れ/南相馬市(2011年4月)
ボランティアのお願い/南相馬市(2011年4月)
南相馬市に行くことを決意する。