2013年03月27日 22時00分31秒 posted by uruseiblog

悪魔の意志と神の意志

テーマ:ブログ


今度は台湾でも大き目の地震があったようです。


27-MAR-2013 02:03:20 23.84 121.13 6.0 21 TAIWAN
27-MAR-2013 01:25:45 45.38 142.70 5.0 280 HOKKAIDO, JAPAN REGION


台湾中部で地震…台中などで強い揺れ、負傷者も発生
サーチナ 3月27日(水)16時52分配信


 台湾中部の南投県で27日午前10時3分(日本時間同日午前11時3分)、
マグニチュード6.5の地震が発生した。


今のところ、建物などへの被害はそれほど大きくないとされるが、
負傷者の発生が報告されている。(写真は「CNSPHOTO」提供)


 台湾中部の南投県で27日午前10時3分(日本時間同日午前11時3分)、
マグニチュード6.5の地震が発生した。


今のところ、建物などへの被害はそれほど大きくないとされるが、
負傷者の発生が報告されている。


 南投県消防局によると、所管地域から火災発生の通報が相次いだ。
走行中の自動車を落石が直撃し乗っていた人が負傷したり、


南投衛生局の天井板が落下して、
妊娠している女性と看護師が負傷するなどの被害が発生した。

いずれも命に別状はないという。

 写真は台中市の新民高等学校の図書館。


多くの書架が倒れるなどの被害が出た。
同地震では台湾全域でこれまで24人の負傷者が確認された。
うち1人は小学校教師で、骨折の重傷という。

 中国新聞社によると、福建省や上海市でも同地震の揺れを感じたという。
(編集担当:如月隼人)


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規模が大きくなかったことが幸いでした。


今度は台湾にも圧力をかけ始めたようにも見えます。


闇政府の人間はいつか自分で自分の首を絞めそうな人間ですね。


そんな人間達のために多くの人間が巻き添えにならないことを祈ります。


兄弟姉妹はしっかりとHAARPと見えないハイテク兵器を
見つめ続けて警告を発して行って欲しいです。


と言っても目立たないように、
そして特定されないように警戒しながらです。



台湾からの募金・救援物資に日本が感動「世界最高の民族」=台湾


【社会ニュース】 【この記事に対するコメント】 2011/03/24(木) 13:24


東北関東大震災の発生後、台湾で大規模な支援活動が展開され、
400トンの救援物資や40億円もの募金が寄せられたことに対し、


台湾NOWnewsはこのほど、「台湾の支援に対し、日本国民から
『台湾は世界最高の民族だ』などと称賛している」と伝えた。

環球時報が報じた。

■「【写真特集】東日本大震災」

  東北関東大震災による死者は24日正午現在で9700人、
行方不明者は1万6501人で、死者と行方不明者はあわせて2万6201人とった。


また、20万人以上の被災者が津波で家を失った。
1999年9月21日に2415人の死者をだした大地震を経験した台湾では、
被災地に向けて多くの募金や支援活動が行われている。


 台湾からの支援物資は22日に成田空港と羽田空港に到着し、
被災地に送られた。


台湾からの支援物資を配送した業者は、
「海外から寄せられた救援物資ではもっとも多い」と驚きをあらわにした。


  記事は、「台湾では支援活動を通じて15億台湾ドル
(約41億円)の義援金が集まり、


日本メディアやネットユーザーに大きな感動を与えた。
あるネットユーザーからは『台湾は世界最高の民族だ』と称賛の声があがった」と報じた。
(編集担当:畠山栄)

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昨日の引用コメントにも在った
日本に友好的な数少ない国である台湾が、偶然にも?標的となった気がして
正直腹立たしい気がしても居ます。


震災の時にもこれだけの支援をしてくれた事実を
私はまったく知りませんでした。


マスコミはしっかりと報道してくれたのでしょうね?


日本への批判と不満ばかりが聞こえてくる中で
近隣の中で唯一日本に対して
はっきりと好意を示してくれるこの国が


今後も日本社会にとっての良き理解者・隣人で
居てくれますように願います。

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北の果ての稚内・宗谷岬近くの震源地ながら
地震が計測されたのは青森だと言うので驚きです。


平成25年03月27日10時31分 気象庁発表
27日10時26分頃地震がありました。
震源地は宗谷東方沖 ( 北緯45.4度、東経142.7度)で、
震源の深さは約290km、地震の規模(マグニチュード)は4.8と推定されます

各地の震度は次の通りです。
なお、*印は気象庁以外の震度観測点についての情報です。


青森県  震度1  階上町道仏*

http://www.jma.go.jp/jp/quake/20130327103120395-271026.html

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震源地は290kmです。


どのような地層や経路をたどって
ここにゆれが現れたのか興味があります。


私がまだ生きていることが気に食わないのでしょう。


もう少しお待ちくださいね。


私の田舎に危害を加えないで下さいね。
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悪魔教と言う言葉を耳にする事があるかと思います。


私達は悪魔と言えば、
醜悪でいつも残酷な事をしている架空の生物を
想像する事になりがちです。


そして悪魔教と言われるとそんな存在を拝んでいる
とんでもない人間達であると勘違いをもします。


しかし悪魔と言われていた象徴は間違いなく人間的な存在です。


常に残忍でもありませんし、醜悪な姿をしているわけでもなく
単に姑息で狡猾で他人の心をエゴを利用しては
人を誤った方向へと誘導するような存在なのです。


聖書でイエスキリストが30日間の荒野の修行をした後に
悪魔が現れてイエスを試したと言われる話がありました。


それがもしも逸話でなく、天使達の芝居でもなく本当だったとしたら、
それはユダヤ教徒を後ろで管理していた人格神の関係者かもしれません。


イエスに向かって色々と試しごとをしますが
それは食欲をそそったり、物欲や名誉を誘導するものだった事も
聖書の記述から見て取れます。


つまりはイエスキリストは、
人間が心を持って惹かれ易い要因によって
悪魔に誘惑されたのだと認識できます。


そしてここでの悪魔の様に人間の心の欲をくすぐって特定の方向へと誘導し、
私達が本来あるべき意識を歪める存在こそが悪魔だと言えるはずです。


更にイエスキリストは、彼らユダヤ教徒の中の
長老会に従う側近のパリサイ人達を
サタンの会派といっては忌み嫌っても居ました。


その人間達のしている行為こそが偽善であり
私達の意識を心へと囚われるように誘導している行為である事に
気がついていたからです。


サタンと言っても彼らパリサイ派は
目に見えて悪い事をしていたわけではありません。


戒律を作り上げてそれを守って見せても居ました。


そして時には絶食をし、お祈りをして見せて
説教をする事もあったと思います。


ただ、問題はその表に見えている姿と
内面で持っている意識がかけ離れていた事。


つまりは彼らは偽善的な意識が強かったわけです。


そしてそんな実態こそが私達が悪魔と呼んでいる人間の
持っている資質、そのものだと理解すれば良いと思います。


彼らは心では神など信仰しては居なかったはずですし
(もちろん中には敬虔な信者も居たでしょうが)


その多くはユダヤ教を利用しては人間を管理し、
信者からのお布施や寄進で富を作り上げ、


自分達は神の使いであるとしては
人々から尊敬を受ける立場で居る事に甘んじていたと思います。


そんな人間達に従っているヘブライの民を
イエスはその誤った教えから開放しようとして、
創造主の法をパレスチナの地で語ったのだと思います。


10支族=失われたイスラエルの民のためにこそ
自分はやって来たのだというニュアンスの言葉の意味するものは


イエスがユダ王国と分裂後、自分達が遠方へと導いた残りの人間が
ユダ王国へと戻っていたために
それをも導こうとしていた事だと私は解釈しました。


古代イエスラエルの民は創造主の法によって
導かれていたらしい事もそこからも伺えますし、


ユダヤ教徒が信仰していた教えが
ヘブライの民のためにならないと判断したからこそ、
イエスはパリサイ派を批判したのだと思います。


そして彼らをサタンの会派と呼んだのです。


この社会での悪魔の原点は
古代の神々にとっての敵対する存在でありましたが、


創造主の法を語っていたイエスにしてみれば
サタンといわれた人間とそれに従う人間達こそが
悪魔だったのだと言うことになります。


サタンは元々は古代の神々を名乗った人間の
一人である可能性が高いのです。


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何故に、パリサイ派がイエスキリストに批判される事になったのか?


神の名の下、独自に都合の良い戒律を作り上げ
それを持って民の管理支配をしていた事も無関係ではありません。


彼らはモーセの神がそうであったように、
法律を利用しては民を縛りつけ市民を従属させながら、
一方では自分達の私服を肥やしていました。


制限のない所有財産の所有の認可、そして金貸し行為、


これらが時には一般市民から富を奪い、
人々を奴隷のような状態にまで陥れる事にもなります。


ましてイエスが言っていたように
神のために捧げたとされる財産は(コルバン)
例え親のためであっても再び使用する事を認めませんでしたし


神への貢物はそのまま
パリサイ派長老会の富とされたであろう事も
想像がつきます。


彼らは法律と神とを利用しては
自分達の財産を増やしていたような存在でもあるのです。


創造主の法では所有財産などと言うものは想定されていませんし、
すべての財や富は万人の手で平等に分かち合う事になります。


お釈迦様やイエスキリストが、
持っている者は持たない者へと与えなさいと言ったのは


決して偽善でも奇麗事でもなくて
創造主の法の下では、それが人として持つべき当たり前の意識だからです。


所有と言う概念が、持つものと持たないものを作り上げ
誰もが将来の暮らしを心配し意識する事で
蓄財と言う意識がうまれることになります。


だからイエスは明日のことは明日考えれば良いと言ったのです。


そして特定の人間が多くを所有すれば
一方では持てない人間が出てくるのは当たり前です。


その結果、富をめぐっての争いも起きますし、
富が権力と結びつくのであれば
今度は誰もが偉くなりたいとも考えるようになります。


しかし創造主の法の下では誰もが平等ですし、
争いは認められず存在すべきは調和であり理解です。


つまりパリサイ派の人間達の作り上げていた戒律と風潮は
そっくりそのまま私達の意識を魂から遠ざけては
心へと囚われさせる原因となっていたのです。


そして富と所有の象徴がお金でもありました。


これらは心の作り上げる誤った価値観の中心でもあります。


だからこそイエスは、
「私達は神と富との両方に仕える事はできない。」


と主張し、心の価値観の象徴であるお金や蓄財を批判し
私達は心のエゴに従うのではなくて
魂の意識に従うべきだと触れたのです。


心を惑わす人間、
心の欲を駆り立てたり私達を心へと縛り付ける人間やその教えを、
イエスキリストは批判したのだと理解できます。


そしてそんな戒律を作り上げて実行していた人間達を
サタンの会派と言っては批判したのです。


本来、私達人間は全員が創造主の分身です。


しかし創造主の法から
かけ離れた意識を持って人々を導いていた彼らを


「彼らは父から出たものではない」


とまで言ったイエス言葉からはその憤りが伺えます。


所有という概念とお金の存在は
この社会の人間達を心に執着させる存在であり


それに重き価値観をおいた人間達は
私達を創造主の法に躓かせる存在といえます。


だからこそイエスは彼らをサタンの会派と呼んだのだと思います。


そして元々”サタン”が人として存在していたとすれば
それはモーセの人格神同様の意識を持った人間だった事も想像がつくのです。


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悪魔と言われる存在を私達は勘違いしています。


何度も言うように、私達が悪魔と聞くと
すぐに醜悪で暴力的でいつも残忍な存在をイメージするのは


人間が想像できる最悪の存在を過去の人間達が具体的にイメージして表現し、
それを語り継いだものが現実の存在であるかのように
誤解しているからです。


象徴としての悪魔を作り上げたのは人間なのです。


私達人間の心が作り上げた、
私達の想像しうる最悪の存在を悪魔と言う存在に重ねることで
それを恐怖しているのが私達の社会の実態だと思います。


しかし悪魔の実態は単なる人間だと言う事です。


私は黙示録の書き込みからは
それが宇宙船でやってくるような存在であると想像しました。


彼らが悪魔とかサタンと読んでいた象徴は複数の人間です。


私達は、心に悪意を持って、他人に誤った価値観を植え付け
人々を心へと誘導するようなそんな存在こそを
悪魔と呼ぶべきです。


繰り返しの話になりますが
悪魔を伝説の存在として捉えてしまえば
私達の社会の人間など誰もが可愛く見えてしまうはずです。


前科10犯の殺人犯が居たとしても
悪魔にはかなうわけもありません。


しかし前科10犯の人間が限りなく人のあるべき意識から
かけ離れていることも私達には想像できます。


でもその人間だっていつも悪いことをしているわけではないでしょうし
もしかしたら老人や子供に親切だったかもしれないわけです。


私達は悪魔の存在をより醜悪とすることで
自分達を美化していることに気がつくべきです。


そして悪魔と言われる存在は行動的な悪というよりは
思想的な悪といって良いかもしれません。


他人に見える行動として悪徳を実践する存在ではなくて
心のあり方として悪意を持って生きている。


笑顔で笑いながら心の中では唾を吐いている
そんな意識の持ち主の方が限りなく
本来の悪魔のイメージに近いと思います。


映画オーメンのダミアンあたりは自らの手で悪事をも働きましたが
象徴としての悪魔はもっともっと狡猾で、自らの手を汚すことなく
他人を堕落させたり苦しめるようなそんな象徴でもあります。


悪魔と呼ばれる存在は時には”サタン”であったり
時には”ルシファー”だったりします。


そしてある民族が神と拝んでいる存在が
ある人間達には悪魔だったりもしている事は
古代の歴史からも明らかです。


私達が悪魔と呼んでいる存在は
自分達の持っている価値観とかけ離れた存在だといえます。


だとすれば、今心を持って暴走している私達にとっての悪魔は
その逆の意識を持っている創造主だと言う事にもなりかねません。


心を持って暴走している私達は自らの心の価値観で
”善と悪”を作り上げる事になりますし

その意識を持って万物を裁く事にもなります。


心の価値観が限りなく創造主の意識からかけ離れていると言う事になれば
当然私達が認識すべき真の悪魔といえる存在は
私達にとっては極悪ではなくなっているはずなのです。


私達の価値観がずれているのですから当たり前のことです。


まして先述の様に私達は醜悪で極悪非道で
情け容赦ない存在を悪魔という名の価値観に置き換えています。


だからこそ私達は、自分達が悪魔に限りなく
近づいている事に気がつかないのです。


と言う事は私達は悪魔を身近に意識した時でも
それを悪魔とは認識できない状態になっていると言うことです。


私達の意識は神よりも遥かにサタンに近い所にこそ
存在しているからです。


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悪魔教と言われると私達は恐ろしい儀式や呪術や
サバトをイメージします。


生贄を殺してはそこで血を巻き散らかしては
悪魔召還の儀式を行う。。


そんなイメージです。


勿論ここでの悪魔教に関しても噂として語られるに過ぎず、
時折狂気事件を起こすような教団もありますし
現実に存在していることは認めますが


言ってみればそんな誰の目から見ても異常といわれる
集団を悪魔教徒と認識するから
私達は悪魔教の存在に気がつくことができないのです。


言ってみれば私達を心の価値観へと誘導するような教えは
悪魔教といわれても仕方がないことになります。


「私の教えに従えば天国にいけますよ」と語りながら
私達を誤った心の価値観で暴走させるのであれば
それだって悪魔教です。


そして私はこの社会全体が
悪魔教徒言われる思想で満ちていると言っています。


自覚があろうとなかろうとこの社会の神様はサタンなのです。


更にこの社会には”悪魔の源泉”となっている存在を
直接信仰する人間達も居ます。


悪魔教とは言われませんが、その人間達が信仰しているのは
創造主の法を理解している人間からみれば悪魔です。


真のイエスの使徒にしてみれば、タルムードとトーラーを聖典とし
神官としての人間と独自の人格神を拝んでいる人間達は
悪魔の使徒に見えるはずです。


組織的犯罪でも見た目には
末端で暴れている人間が私達の社会にとって
悪魔に近いと言うことになるのかもしれませんが


本当の悪魔と言うのはもっと頭がよくずる賢い存在と言えます。


自らの手を汚すことなく他人をだまして利用したり
欲や恐怖で他人を操るような存在です。


言ってみれば見た目には行動も振舞いも善良な一般市民で、
中身の意識が創造主の法とはまったく逆な発想をしてる人間です。


そして世界秘密結社と呼ばれるフリーメーソン組織の神は
構成員には隠されていますが実はルシファーだといわれています。


光を主張しては自分達のきれいな側面を主張し
美化しているのもその特徴だと思います。


ルシファーは堕天使とも言われ
悪魔と言っても彼らには天使のごとく美化された存在でもあるようです。


そしてそのルシファーが堕天使と言われるのは
私達地球社会の人間と同様に
創造主の意識としての魂に従えない存在だから。。。


神の意識に従って生きる事を止めて
心に従って生きる事を選択した人間だからです。


それが実在の存在だとしても
彼らが今後拝まされる事になるのは神ではなくて人間なのです。


彼らの生きるための規範も人間の作り上げた価値観ですし
創造主の意志などは二の次で
真の創造主の存在も自分達がその分身である事も前提にはないはずです。
(最後には心に悪魔の神を持って生きていることにされそうですが)


そして人間が心を持って作り上げた価値観を正しいと信じ
それを実践して一度きりの人生を生きる事になる。


私達が悪魔として認識すべきは
人間を創造主の存在に躓かせ、
心に従う様に誘導する存在だといえます。


そんな人間達がこの社会の統一を目指しているのですし
その傀儡達はそんな実態をも理解せずに
自分達は選ばれた人間だとか、自分達はエリートであるとか


自分達は平和を実現しているのだと信じて
心を持っては暴れているのです。


選ばれた人間であると言われては
エリート意識を持たされては自分の心を心地良くしているわけですし


平和を実践していると言う名目を持てば、
自分達のしている行為もすべて正当化されます。


そんなまやかしにも気がつく事なく利用されてしまうほど
私達の社会の人間の意識は創造主とはずれているのですし


そんな、心にもない意識で他人を誘導し動かしている人間達が
創造主を信仰しているわけがありません。

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私達が如何に自分達が悪魔と化しているかに
気がついていない実態は、


例えば宗教の勧誘で断られると
相手を悪魔扱いする態度にも表れていると思います。


私や被害者である兄弟姉妹は
現実に心無い人間達に危害を加えられているわけですが
宗教勧誘の人間は単にそれを断られただけです。


しかし相手がそれを断った事で
相手の価値観が自分と異なる事を認識する事になりますし


自分は正しい価値観を持っているつもりですから
それに従わない相手は悪魔だと言う事になるのです。


しかし私達の価値観はすでに
本来あるべき姿からかけ離れています。


そんな価値観で他人を図れば
似たような価値観を持った人間だけが正義だと言う事になり
異なった価値観を悪魔と看做す事にもなるでしょう。


そしてこの社会は価値観が多様化しています。


自分にとっての悪魔が大勢居る事になりますが
その本人は自分が正しいと信じているから
自分が悪魔に近づいていても気がつく事もないのです。


神々の時代には、
土星という太陽系で一番進化した人間達の星が
悪魔の星扱いされました。


サタンと言われた人間達にしてみれば
土星や金星の人間は自分達とかけ離れた思想を持った人間ですし、
その価値観を認めては人間管理もできません。


だからこそ相手を悪魔扱いする発想にもなるのだと思います。


しかし現実には土星こそが
太陽系では一番創造主の意識に近い人間達が
住んでいる社会のようです。


指導者が誤った価値観を与えれば
そしてそれを自分の価値観として持てば
こんなあべこべな事がまかり通る事になる。


そしてそれは今もこの社会の中ではまかり通っているのです。


正義や平和を名目に自分達の価値観で
他人を裁いている人間達はその典型です。


そして勧誘を断った人間を悪魔扱いしたり
別の宗派や組織を悪魔使いするのも同様です。


そんな社会の中で自分こそが悪魔に近づきつつあると気がついて
自分自身を正しく見つめなおすことが出来たのが私達だと思います。


自分が罪深い存在であり
自分が過去にしてきたあらゆる行為の中の悪徳に気がついて


それを反省する事も同じ事を繰り返さないように
勤める事も私達にはできます。


それだけでも私達は他の人間達よりも進化したと言えるはずです。


多くの人間が未だに自分の事を善人や義人であると疑わず
その尺度で他人を裁き続けているからです。


例えイエスが再臨したとしても彼らの事を救うことは出来ないと思います。


彼らは罪人ではなくて善人だからです。


私達はイエスの言っていた「他人を裁くな」
と言う意味をも理解しました。


自分の心を持って作り上げた価値観をもって
万物を評価する事の間違いを学びました。


それだけでも他の人間よりは
私達は創造主の法に対する理解を増したのです。


そして自分は何でも知っていると勘違いしては
他人の話を聞こうとしない人間と違って、


私達は創造主の法に耳を傾けることも出来ました。


更には私達は自分達が何も知っては居なかった事をも理解しました。


そして謙虚さをも持てるようになったはずです。


自分を大きく見せようとか美化しようと言う意識もなくなっているかと思います。


それは私達には不要な物だと気がついたからです。


スペースブラザーズのマスターが言っていたように
私達は何も着飾る必要なく元々が完全な存在なのです。


私達の魂が創造主の分身である以上はです。


後はその分身としての魂の意識を出来るだけ表現する事こそが
私達にとっての正しいあり方であり、


着飾るのではなくて創造主の分身としての
ありのままの自分になれば良いと言う事にも気がつきました。


心に作り上げた欲や価値観も、
その実態を理解することで抑える術をも
持てるようになって来たかと思います。


欲深い心の意識を躾ける術をも理解したのです。


そしてこの社会の中で私達にとって一番の障害は
お金と財産の所有であると言う事、

強いては不平等に行き着く事にも気がつきました。


私達はこれらの意識だけでも
自分がこれ以上悪魔と化す事を止める事も出来たはずです。


この社会がごく普通の、悪意のない、
単に創造主に対しての理解のない社会であって
その広報が妨害されない環境であれば、


私達は創造主の法を皆に対して真理のかけらとして
述べ伝え事ともできます。


しかしこの社会の実態を見れば判る通り
この世は創造主の想いとは正反対の心のエゴを持って
作り上げられて来ました。


物質的豊かさに囚われて、一方では精神的な豊かさを捨てて
人間同士の暖かい交流もすべて競争や利用に置き換えられています。


幸せは自分の心のエゴが求める価値観を満たす事であり
万人の平穏でもありません。


そして私達だけでも理解すべきです。

心に似るものは悪魔へと変貌し
魂に似る事で神に似ることが出来ることをです。


イエスキリストが神々しく見えたのは
イエスキリストが限りなく神に似ていたからだといえます。


自らの肉体を持って父の想いを実行していたイエスのその姿こそが
遠い未来に私達が目指すことになるものであろうと言う事を
私達だけでも理解しましょう。


神の分身でもある魂を持ったイエスは
人間の肉体を持ちながらその神の意志を
魂から受けとめてそれをその肉体を持って表現していた。


そのときに受け止めた想いこそが聖霊と理解すれば、
三位一体とは創造主の意志を実践している人間だと受け止めることも出来ます。


私達は遠い未来には誰もがそんな存在になる事が出来る。


そして同時に私達は悪魔にもなることが出来る。


それを学んだことで私達は進化したのです。


地道な進化を地道な努力と共に
生ある限り続けていって下さい。


そして果てたその日に私達は天国に居るのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

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P.S.


思想ひとつとっても、私達は解釈し方で
それを創造主の法にも悪魔の戒律にも変えてしまうと思います。


例えばこれです。

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ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806年5月20日 - 1873年5月8日)は、
イギリスの哲学者にして経済学者であり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。
ベンサムの唱えた功利主義の擁護者。晩年は自ら社会主義者を名乗る。


政治哲学におけるミル


ミルの業績の中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。
ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。
ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。


ミルによれば、私たちの精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、
使わなければ衰えてしまう。


しかし、もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」
と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。


よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、
話せる状態(=自由)が必要なのである。


ここで、ミルの功利主義はその提唱者であるベンサムとはたもとを分かつ。


簡単に述べると、ミルの功利主義は、快楽について、
ベンサムが唱えた量的なものよりも質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。
それは次のミルの有名な言葉で表されている。


ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、
また社会(国家)が個人に対して行使する権力の道徳的に正当な限界について述べている。
『自由論』の中でも取り分け有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。


「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、
好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。


この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。


リバタリアンという言葉が定義するものは広いが、
通常は危害を加えない行為は合法化されるべきだという考え(=「危害の原理」)を含む。


現代において、この「危害の原理」を基盤に幾人かのリバタリアンが
合法化されることを支持するものとしては
売春や現在非合法の薬物も含めた薬物使用がある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達の自由は政府や権力によって縛られるべきではなくて
それは他人に迷惑をかけない限り体験の機会として
認められるべきであると言う発想です。


そしてここでは精神的な快楽を肯定しています。


私達は他人との関係において他人に制約されるべき存在ではありませんし
ここでもあるように、自らが精神や道徳を使う機会を与えれらるべきなのです。


しかしここにも問題があります。


私達の精神が心地良いと感じる事は
その個々の人間によって異なるわけで、


もしも単にこの思想を額面どおり正しいとして受け止めれば
心の価値観に縛られた心地良さをも肯定する事になります。


しかし、私達にとってあるべき姿は
自由意志を用いて他人の迷惑とならないあらゆる体験をし続け


その中で心が心地良いと感じる事ではなくて
自分の進化にとって大切だと認識できた事、


もしくはその体験から学べた事を
戒律としてもって実践していく事です。


その動機や意識は万物への奉仕となっているはずです。


「全ての事はしても良いのです。しかしすべてのことが有益であるとは限りません。
全ての事はしても良いのです。しかしすべての事が徳を高めるとは限りません」


パウロのこの言葉は、私達はあらゆる体験の中から
自分の意志で自らの進化にとって有益な事と有害無益な事を
選別すべきだと言う事を意識していると想像しました。


アダムスキーは、私達は失敗を恐れずに
あらゆる事を体験すべきだと語って居たはずです。


だからこそ私達は生命の科学を学ぶ時にも
当初は形式ばった戒律は不要で


それは魂の意識の存在と創造主の存在を理解すると言う
たった二つからスタートする事にもなりました。


ありとあらゆる事を体験して
その事が自分にとって有益なのか無益や有害なのか
そしてそれによって自分にどんな影響が与えられるのか


その体験から何かを学んで
時にはそこから戒律を見つける事にもなります。


そんな繰り返しで私達は進化していくのです。


勿論明らかに悪いと認められる行為を
体験する必要はありません。


麻薬や覚せい剤などや明らかに自分の肉体にとって害ある行為や、
善良な一般市民の迷惑になるような行為はご法度ですし
それは道徳としても私達は理解できます。


しかし何事も自分の体験の中で理解したことこそが
私達にとって生きた知識となりますし
その行為の実質的意味をも理解する事につながる筈です。


悪魔と言われる存在は精神的快楽を求めてよいと言われれば
今の自分の心が心地良いと感じる事を
正しいとして生きる事になります。


ミルの主張を額面通りに受け止めて実行すれば
心が心地良いあらゆる価値観が正当化されるからです。


つまりは結局は個人個人の価値観が
特定の快楽を肯定したり否定したりする事にもなります。


そして私達にとってのその尺度となる価値観は
極力創造主の意識から出たものでなければならないわけです。


つまり大切なのは結局はその意志が心のエゴの動機に基づくのか
魂の意志に基づくのかと言う事だと思います。


私達には体験の中で培った創造主の想いを尺度として
”精神的快楽”を認識する事が出来ます。


それは心が心地良さを感じるのではありませんし、
創造主の予定している奉仕が実行出来た事への喜びかもしれません。


他人が幸せになる事や人の笑顔を見ることかもしれません。


そんな話が今は奇麗事に思えても、
私達の価値観は間違いなく地道に代わっていく物です。


きっと次の生では今世で執着していたような事柄に
まるで興味が無くなった自分に驚く事になるのだと思います。

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