宗谷は地領丸
地領丸それは後に宗谷と呼ばれる事になる船です!
●地領丸
三菱重工業長崎造船所のドッグがある香焼(こうやき)の地に最初の造船所が設立されたのは
明治35年の事でした.
この時の長浜鉄工所(松尾造船所)は日露戦争・第一次大戦を背景に事業を拡大しながらも
大正14年には閉鎖に追い込まれる事になります.
昭和11年,ガラスや缶詰などの事業を営む川南豊作という人物が廃工場を訪れます.
そこで松尾元社長の恩にむくいるために閉鎖以来12年間,手弁当で工場を守り続けてきた
吉田老人に出会います.
昭和の裏面史を駆け抜けた川南という特異な人物は心を動かされ,松尾孫八元社長を
顧問に復活させて新しい造船所を設立します.
技術も実績もありませんでしたが,鶴見造船所にいた技術者がレール運搬船の設計図面一式を
持参して戻って来ました.
軍隊に缶詰を納品していた関係から陸軍とのコネも十分でした.
当時南満州鉄道がソ連から北満州鉄道を買収,代金の一部を新造の砕氷船で渡すことになり,
その3隻の工事を川南が受注します.陸軍とのコネクションがものを言ったのです.
昭和13年にソ連船となる予定の「ボロチャベツ」が進水しますが,前年の支那事変勃発を
背景にソ連との砕氷船の契約は破棄される事態になりました.
そこで川南は辰馬汽船と共同で「辰南商船」を発足し,ボロチャベツは「地領丸」という
辰南の船として就航し,朝鮮や台湾の米,雑貨,樺太の木材,満州の大豆などの
物資輸送に携わることになります.
もともとがレール運搬船の図面で設計された砕氷船ですから操船が難しく評判の悪い船でしたが,
支那事変に際して使用してみると,その構造は舟艇や戦車,砲の輸送に適していることが
わかります.
●地領丸から宗谷、三無事件
昭和14年には帝国海軍が地領丸を買収し,東京の石川島造船所で大規模な改装を行います.
昭和15年6月4日,雑用艦兼測量を任務とする海軍特務艦「宗谷」が誕生しました.
砕氷能力を生かして北海道沿岸,樺太,千島列島の気象調査や測量を実施,
昭和16年にはサイパン島やトラック島にも派遣されます.
開戦後ラバウルを基地として任務を続ける宗谷は昭和18年1月に雷撃されて魚雷命中を蒙ります.
魚雷は「ゴツン」と音をたてて不発のまま突き刺さりました.
50隻にも及ぶ日本商船が一気に撃沈されたトラック島大空襲でも幸運に恵まれた宗谷は
生き残ります.そして終戦を迎えたのです.
これが運がいい船と言われる所以です。
戦後は復員船として活躍した後,昭和24年からは海上保安庁に所属,各地の灯台に補給物資を
送り届ける灯台補給船となり「海のサンタクロース」として親しまれます.
その後南極観測船となってからの活躍は周知の通りです.
「宗谷」の産みの親である川南豊作は戦後A級戦犯として逮捕されます.
さらに昭和36年,「無戦争」「無税」「無失業」の主張のもとで池田内閣の閣僚暗殺と自衛隊による
クーデターを企てた「三無事件」の主犯として,昭和39年の東京地裁で有罪の判決を受けました.
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