池田内閣の転覆図った三無事件
大物元軍人や自衛隊にも働きかけ
計画全容記した“篠田メモ”闇の中
いつものように長崎県警察本部の捜査一課、交通課、防犯課を回って最後に外事課をのぞいた。課長補佐席に2、3の幹部が額を集めて何かヒソヒソ話をしている。私が現れたのに気付くと「何でもないよ」といったふうをしてみんな自分の席に戻り、だんまりを決め込んだ。
臭い!と感じ、すかさずデスクの上の書類を盗み見した。「厳原署、拳銃暴発、けが」の文字が見える。おかしい!「拳銃暴発でけが」の報告なら捜査一課か防犯課のはずなのに、外事課になぜ? 昭和36(1961)年12月12日、全国一斉に警察が摘発を始めた「三無事件」の捜査が進行中の出来事である。
この事件では、もうひとつ、知られざる大きなハプニングがあった。警察が一斉摘発を始める前日の11日、海上保安庁が突如、三無事件に関連する密貿易事件に手を入れたのである。この1件がなければ警察の12日の一斉捜索はもっと後になっていただろうし、三無事件はもっと意外な展開を見せたのは間違いない。
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「海上保安庁はけさ(11日朝)川南工業社長川南豊作ら2人を関税法違反容疑で指名手配しました‥‥」――ラジオが放送した。
川南は警察が三無事件の首謀者としてマーク、3カ月前から追っかけている人物。川南を海保が逮捕するようなことになれば、警察にとっては懸命の努力が水の泡になってしまう。警視庁公安部はあわてた。すぐ海保に連絡、協力を求めた。が、その時は三無事件のことには触れなかった。
その時点では警察の捜査はまだ不十分で、摘発の機は熟していなかった。トンビに油揚げをさらわれるような事態は絶対に避けねばならない。海保が密貿易事件に着手した翌日、警察は急きょ全国一斉に摘発に乗り出した。
新しい年が明け、警察の捜査が一段落したある日、長崎県警察本部の某幹部がこぼした。
「われわれとしては川南らをもっと泳がせていたかった。満を持してテログループを一網打尽にしたかった。悔しいってないね。何も知らない海保に捜査を邪魔されたのだ」
12日付新聞夕刊をめくってみる。一面トップ扱い。当然だろう。逮捕者の顔写真は13人全員を載せている。だが、記事は事件の表面をなぞっただけ。具体的な事件の核心部分には触れていない。某新聞の概要を採録してみる。
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池田勇人内閣の転覆を図っていた旧陸士59、60期生を中心とする「国史会グループ」の13人が警視庁公安部に逮捕された。
安保闘争以後の日本の現状に不満を持ち、池田内閣打倒を計画していた国史会グループを内偵していた警視庁公安部は12日朝、千葉、福岡、長崎3県警本部と協力、元川南工業社長の川南豊作容疑者(59)ら13人を殺人予備、銃刀不法所持の疑いで逮捕するとともに32カ所を捜索、ライフル銃3丁、鉄かぶと300個、ガスマスク150個などを押収した。
国史会グループは表面上は「日本の歴史を研究し、時局問題を討議する」と称し会合を重ねていたが、安保闘争、破壊防止法をめぐる国内情勢の緊迫化に乗じて扇動化。東京都内、千葉、長崎などの同志とひそかに連絡、池田内閣の打倒を企てた。川南容疑者は資金面を担当、一味は拳銃などの入手工作を行っていた。
グループは川南容疑者が主張する無税、無戦、無失業の三無主義に共鳴、現政府では共産革命を押さえられないと自衛隊を利用してクーデターを起こす計画だった。
この記事のほかには作家大宅壮一氏、右翼の大物児玉誉士夫氏らの談話と簡単な捜査経緯などを報じている。
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逮捕者のうち、川南豊作は戦時中、長崎港外の香焼島に造船所を造り、一時、建造量日本一を誇った男。級戦犯東条英機の長男を自宅に引き受けるほど、東条とは近かった。中心的な存在だった篠田英悟は元飛行兵、小池一臣は陸士出、村山格之と三上卓は五・一五事件に連座した人物である。
川南一派は知人などを介して元大物軍人、政界人、自衛隊、警察にまで接触、巧妙に工作活動をしていた。大物軍人で逮捕されたのは桜井徳太郎中将。源田実・空軍司令大佐(真珠湾攻撃の飛行隊長)、辻政信陸軍中佐なども川南の身辺で見え隠れする。
事件の陣頭指揮を取ったのは、捜査のベテランで熱血漢として全国に名をはせた警視庁公安部長の秦野章氏。当時の警視総監はこれまた切れ者の原文兵衛氏だった。
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クーデター計画の拠点の一つが長崎港外の香焼島だった。そこの所轄警察は大浦警察署で、すぐ前には長崎海上保安部があった。冒頭で触れた「拳銃暴発事故の報告書」の一件で端緒を得た私は、以来、大浦署と香焼島に頻繁に足を運んだ。
香焼島には身分を隠して潜入。住民になりすまして人の集まっている場所へ割り込み、何を話し合っているのか耳をそばだてて回り歩いた。一味の武器入手先だった韓国へは東京本社社会部から飛び、取材に駆け回った。しかし、実のある情報はほとんど得ることはできなかった。
捜査がヤマ場を過ぎようとしていた昭和37(1962)年1月下旬。いつものように大浦署へ行き、署長室に入った。H署長はいすに深々と腰を下ろし、書類に目を通していた。何げなく机の上を見ると、大学ノートが無造作に置いてある。ちょっとめくって驚いた。というより、極秘情報を見て興奮のあまり胸の高まりを覚えた。事件の中心人物の1人、篠田英悟のメモである。警察が捜索で入手したものだ。
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とっさにカメラを構えて表紙、1枚目、2枚目…と接写した。署長は見て見ぬふりをしている。小声でたった一言「わたしゃ、知らんよ」。ある程度撮り終わり署長室を出て支局へ急いだ。「三無事件取材の締めくくりとして何とかまとめたい」、そうした思いから2、3日がかりで長文のものを書き上げた。
ところが、である。記事をほとんど書き上げた時、H署長から支局に電話が入った。「捜査は終結に近づいたけれど、あの『篠田メモ』を報道するのはよしてくれないか。あの内容が長崎から漏れたとなると、私が漏らしたとすぐ分かってしまう。『篠田メモ』の存在を知っているのは全国の検察、警察の中でも数人しかいないのだから。そうなると私は‥‥」と言うのである。
「考えさせてください」と答えて電話を切った。「篠田メモ」には実に克明に「謀議」の内容が書かれていた。話し合いの日時、場所、集まった人物の名前はもちろんのこと、誰がどう発言したか、何をどう決めたか…など、びっしり。
(1)決起は全閣僚が出席している国会開会日とする(2)国会正面から中核隊が突入する(3)池田勇人首相ら閣僚全員を射殺する(4)臨時革命政府の首相には川南豊作(桜井徳太郎だったかもしれないが記憶があいまい)が就く−など、克明に記入されている。日を追ってクーデター計画が具体化していったのが手に取るように分かる。
警察の発表は「池田内閣の打倒を企て…」としているだけで、具体的な計画の内容や謀議の細かい点には触れていなかったのである。警察の証拠書類としては第一級品である。
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話は少し戻るが、署長からの電話についてはかなり悩んだ。自らの功名心にかられてH署長の意思を無視するか、署長の立場、気持ちをくんで提稿をあきらめるか、ずいぶんと悩んだ末、結局は提稿を思いとどまった。だから「彼らがどのようにして政府転覆を成功させようとしたか」についての詳しい報道はなされずじまいである。
三無主義が誕生したのは昭和34年(1959)年である。そして彼らが具体的な工作活動を始めたのはそれから2年後。警察が不穏な動きをつかんだのは、彼らが動き始めた直後だった。しかし、警察としては、その段階では雲をつかむような話で、クーデター計画だという確たる証拠はつかんでいなかった。
海上保安庁が昭和36(1961)年12月11日に密貿易の摘発を開始、早くから内偵していた警察が海保の摘発着手を知ってあわてて川南らの逮捕に踏み切ったのがその翌日の12日。機が熟するのを待たずに急いで摘発せざるを得なかった警察の捜査は昭和37年3月まで続くことになる。
警察の捜査が長期にわたったのは、初動の段階で証拠不足だったからである。追っかけ、追っかけ、追加に次ぐ追加といった捜査展開となったわけである。第一次手入れでの押収物件はライフル銃3丁、鉄かぶと300個などだが、最終的にはかなりの銃、弾などが押収された。
川南豊作らは昭和39(1964)年6月30日、東京地裁で、破壊防止法違反第1号として懲役2年〜8年(一部は執行猶予付き)の判決を受けた。川南は昭和43(1968)年、最高裁に上告中に病死した。 (参考資料・祥伝社刊「革命」)(編集委員 中村英光)
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