日曜日のポエムコーナーを始めてみます。
鈍感な善意は最高の害悪だ
それはこんなよくあるお話。
ある起業家が、資金不足なので無料でデザインを手伝ってくれるボランティアを探し、見事見つけることができました。そのデザイナーはなかなか能力が高く、期待通りの仕事を行ってくれました。それも無料で!起業家はデザイナーに熱く感謝の意を伝えました。
気を良くしたデザイナーの方は、その起業家のために、引きつづきデザイン面での無償支援を行いました。彼は頼みもしないのに、プロダクトの宣伝をする大きなポスターを制作してくれました。
しかし、その宣伝ポスターは、当の起業家にとっては意に逸れるものでした。起業家が演出したいブランドイメージと、キャッチコピー、全体のクリエイティブがマッチしていなかったのです。
起業家はやんわりとデザイナーに「これはちょっと使えませんね…」と伝えると、あろうことか、デザイナーは激怒しました。「このデザインがわからないなんて、あんたたちはわかってない!」—一応の恩義がある以上、起業家は不躾にあしらうこともできず、その場はうまくお茶を濁して、退席してもらいました。「やばい…あの人めんどくさい」と気付いたときには、後の祭りです。
結局ポスターは採用しませんでしたが、なんとそのデザイナーは、頼みもしないのにたびたび「善意で」作品を持参してきました。毎度やんわりと断っているのですが、まったく通じていません。「使えればいいので使ってください」と、彼は伝えて立ち去っていきます。その後にはいつでも、なんとも扱いようのない「ゴミ」が残されています。
起業家は、彼から連絡が来るたびにうんざりした気持ちになります。が、中途半端に恩義がある以上、関係を断ち切ることも気が引けます。そして、迷惑であることを伝えても、わかってくれそうにもありません。少しずつ距離を置ければいいのですが、なかなか関係はすぐに切れそうにありません…。
ここでの問題は、デザイナーが「鈍感な」ことです。善意で他者に貢献すること自体は、すばらしい美徳です。しかし、そこに鈍感さというスパイスが加わると、一気にその美徳は害悪に変化します。
このエピソードから学べるのは、第三者に善意を振る舞うときには、繊細さを持つべきだという人生訓でしょう。自分は「ありがた迷惑」になっていないか。鈍感な善意ほど迷惑なものはありません。それは明確な悪意よりも厄介です。
この種の人はどこまでも鈍感なので、迷惑であることをわかってもらうことはできないでしょう。もう諦めて、距離を置くしかありません。
悲劇的なのは非常に親しい人間、たとえば親が「鈍感な善意」を積極的に振る舞うようなケースです。彼・彼女は、自分の善意が「子どもを支配するため」のものであることに気付きません。なまじ距離を置こうものなら「親を捨てるのか!」と激怒され、周囲の親族からは「ひどい息子・娘」だと思われ、そして自分も罪悪感に苛まれるでしょう。
あぁ、鈍感な善意だけは、陥りたくないものです。偉そうに語りつつ、ぼくも無縁ではありません。心当たりはちらほらあります。もしぼくが鈍感な善意を振る舞っていたら、こっそり連絡をください。猛省します。
★この記事を読んだ人にはこちらの本がおすすめ
ドンピシャで親による鈍感な善意を扱ったコミックエッセイ。タイトルとテイストは軽い感じがしますが、中身は超強烈にヘヴィーです。でも、レビューが象徴するとおり、救われる方も多い一冊です。
もう一冊。やっぱり中島義道を紹介しないわけにはいかないでしょう。ニーチェのことばから学ぶ、鈍感な人間の害悪について。
「善人たちはすべて弱い。悪人たりうるほど強くないゆえに、彼らは善人なのである」と、ラトゥーカ族の酋長コモロはベーカーに言った(「権力への意志」)