普段からこのブログをお読みの皆様ならご存知の通り、腱鞘炎から両腕全体が重たい状態となり、また日常の要件を済ませていると深夜になるため会報が遅れました。お詫び致します。
自分を支えている根幹には微笑禅の実践と理論があり、その上に様々な活動が成り立っているので、このブログに書いていることも基本的に毎日投稿している八王子五行歌会のブログの文章http://gogyoka.bbs.fc2.com/も成すこと全てが禅と思っています。
既にブログに書いたことは全て省略しますが、それですら余りに話題が多いため適度なところで切り上げて来月号に回す、臨時増刊号を出す、等々と考えています。
*印相について
禅では法界定印を組みますが、最近私は両膝の上に両手を置き掌を上にする形を取っています。印相を調べてみたところでは名前がありませんでした。知っている方がいたら教えてください。
この形になったのは自然な理由があります。腕や頚椎胸椎などの痛み、要するに上半身の疲れをとるコツは肩甲骨をよく動かすこと、特に肩甲骨を寄せる、つまり胸を開くことです。ところが法界定印を脱力して同時に胸を張り顎を軽く引くのは少し無理があります。実際にやってみると分かります。それで上記の形にすると無理なく肩甲骨を寄せることが出来たという次第です。腕を休めながら掌から宇宙のエネルギーを吸い込むような感覚です。
禅の形には結跏趺坐、胡坐、椅子に座る、立禅(仁王禅)、歩行禅、寝禅、最終的には全ての行為まで含まれるのですから、基礎訓練を行った後は法界定印に拘る理由はないと思います。
*歩行禅について
微笑禅の特徴の一つは歩行禅にあり、私がこれを実践し始めたときにはネット検索をしても歩行禅という言葉が無かった、と書いたことがあります。もちろん経行(きんひん)は曹洞宗臨済宗ともに道場内で行いますが(両者ではかなりの違いがある)、微笑禅の会の方法のように、雑踏の中を無念無想で歩く、というのはありませんでした。
私が最初の見性体験をしたのが西暦で言えば2008年1月、見性体験記を書き終えたのが同8月です(途中で見性体験を繰返したので、何度か書き換えていますから初稿はもっと早かったでしょう)。その見性体験は川岸に沿って歩く歩行禅の直後に起きたものです。
そこで改めて調べなおすと『歩行禅―呼吸のくふうと巡礼の瞑想 』(松尾心空) が2001年に出版され、『むだを堂々とやる!―禅の極意』(板橋興宗、1999年)でも歩行禅と呼べるような記述があるようです。
共に読んでいませんが読者の感想を見ると、両者とも足の裏を意識する、足の裏で息を吸う、という方法らしく、私の言う歩行禅とは趣が違います。これは禅を工夫して日常生活の中に取り入れると必然的に様々な歩行禅の方法が生まれてくるだけのことで、多分かなり前から歩行禅はあったはずです。
私が歩行禅をしていたときには空中10センチぐらいのところで歩いているかのように心地良い、足を全く意識しない状態になりました。
以前ある熱心な会員が歩行禅の方法を会得して夜自転車に乗っていたところ、横から若者が、酔っていたのでしょうか、凄いスピードで自転車で突っ込んできたそうです。会員はごく自然に自転車から飛び降りたのですが、自転車そのものは90度ぐらいに曲がった状態になっていたとのこと。よく怪我もせず咄嗟にそういう行動が出来た、と感心しておられました。
実践篇のDVDでコツを語っていますが、私も雑踏の中で歩行禅をしているとき、目は遠くを見ているのに周囲の動きがよく見え、余所見をしてぶつかって来る人、わざと肩をぶつけてくる人など、サッサッとかわすことが出来ました。一点を見ながら同時に周りの動きを鋭敏に察しているわけですね。
より詳しくいうと、この頃は足の治療をしつつ合気道も学んでいたので、足首と足の指を鍛えるために、歩行中につま先立ちの時間を長めに作るようにしていました。所謂ナンバ歩きというか殿様歩きのように軽く肩を揺らせる結果になります。こういう稽古をしていると足の力が強くなり様々な面で心身にいい影響をあたえますが脇道に逸れるので省略します。
ところで現在「歩行禅」で検索すると物凄い数がヒットします。いろんな説がありますが、どうやら『脳と心の整理術』(茂木健一郎、2012)が一番強い影響を与えているようです。あの茂木健一郎が広めたのか、と思うと実に複雑な気分です。
*不思議な法悦境
法悦境というのは厳密に言えば仏の教えを聴いたときの喜びを意味しますが、一般的には禅定状態の心が晴れ渡る感覚、三昧の心境にも使われるので大雑把に法悦境に統一します。
大学でシュルレアリスムを教えていたときに当然フロイトの無意識の発見の話になり、そこから唯識論を少し解説したことがありました。レポートを読むと学生が妙に感動していたので意外に思ったものです。そのことを思い出しながら、輪廻転生説やヴィパッサナー瞑想の主張にごく素朴な疑問を覚えたのをきっかけに、おさらいとしてwikiの「唯識」を読み直しました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
姿勢を正して速読したところ、目の疲れにも関わらず不思議な法悦境に包まれて一座組んだような爽やかさを覚えました。あまりに疲れて坐禅が出来ないときの体験ですので、読書?が坐禅の代わりにもなるのかと新たな発見をしました。
wikiでもそうですが五感、意識、末那識、阿頼耶識の関係を大抵ピラミッド型で図解します。そうではなく立体的な螺旋運動にするとより分かりやすいのに、と思います。
結局五感も意識も脆く不完全な装置で、その上に末那識というのは情報を自分に都合よくより分ける篩(ふるい)のことです。それらを含めて人間にバイオプログラミングされている全ての能力の中で自覚できない部分が阿頼耶識に当たります。これらは具体的な実践方法により浄化される可能性があります(転識得智)。
*とりとめもないので一応終わりにします。
非常に逆説的な現在の心境を言えば
1.下手に悟るより凡人のままがいい。
2.執着心は大いに持ったほうがいい。
3.我執は消すべきだが「私」という自己同一性は当然残る。
4.我見に囚われない柔軟な私が生まれただけで充分。
と言ったところです。折に触れてまた記すことにします。合掌
自分を支えている根幹には微笑禅の実践と理論があり、その上に様々な活動が成り立っているので、このブログに書いていることも基本的に毎日投稿している八王子五行歌会のブログの文章http://gogyoka.bbs.fc2.com/も成すこと全てが禅と思っています。
既にブログに書いたことは全て省略しますが、それですら余りに話題が多いため適度なところで切り上げて来月号に回す、臨時増刊号を出す、等々と考えています。
*印相について
禅では法界定印を組みますが、最近私は両膝の上に両手を置き掌を上にする形を取っています。印相を調べてみたところでは名前がありませんでした。知っている方がいたら教えてください。
この形になったのは自然な理由があります。腕や頚椎胸椎などの痛み、要するに上半身の疲れをとるコツは肩甲骨をよく動かすこと、特に肩甲骨を寄せる、つまり胸を開くことです。ところが法界定印を脱力して同時に胸を張り顎を軽く引くのは少し無理があります。実際にやってみると分かります。それで上記の形にすると無理なく肩甲骨を寄せることが出来たという次第です。腕を休めながら掌から宇宙のエネルギーを吸い込むような感覚です。
禅の形には結跏趺坐、胡坐、椅子に座る、立禅(仁王禅)、歩行禅、寝禅、最終的には全ての行為まで含まれるのですから、基礎訓練を行った後は法界定印に拘る理由はないと思います。
*歩行禅について
微笑禅の特徴の一つは歩行禅にあり、私がこれを実践し始めたときにはネット検索をしても歩行禅という言葉が無かった、と書いたことがあります。もちろん経行(きんひん)は曹洞宗臨済宗ともに道場内で行いますが(両者ではかなりの違いがある)、微笑禅の会の方法のように、雑踏の中を無念無想で歩く、というのはありませんでした。
私が最初の見性体験をしたのが西暦で言えば2008年1月、見性体験記を書き終えたのが同8月です(途中で見性体験を繰返したので、何度か書き換えていますから初稿はもっと早かったでしょう)。その見性体験は川岸に沿って歩く歩行禅の直後に起きたものです。
そこで改めて調べなおすと『歩行禅―呼吸のくふうと巡礼の瞑想 』(松尾心空) が2001年に出版され、『むだを堂々とやる!―禅の極意』(板橋興宗、1999年)でも歩行禅と呼べるような記述があるようです。
共に読んでいませんが読者の感想を見ると、両者とも足の裏を意識する、足の裏で息を吸う、という方法らしく、私の言う歩行禅とは趣が違います。これは禅を工夫して日常生活の中に取り入れると必然的に様々な歩行禅の方法が生まれてくるだけのことで、多分かなり前から歩行禅はあったはずです。
私が歩行禅をしていたときには空中10センチぐらいのところで歩いているかのように心地良い、足を全く意識しない状態になりました。
以前ある熱心な会員が歩行禅の方法を会得して夜自転車に乗っていたところ、横から若者が、酔っていたのでしょうか、凄いスピードで自転車で突っ込んできたそうです。会員はごく自然に自転車から飛び降りたのですが、自転車そのものは90度ぐらいに曲がった状態になっていたとのこと。よく怪我もせず咄嗟にそういう行動が出来た、と感心しておられました。
実践篇のDVDでコツを語っていますが、私も雑踏の中で歩行禅をしているとき、目は遠くを見ているのに周囲の動きがよく見え、余所見をしてぶつかって来る人、わざと肩をぶつけてくる人など、サッサッとかわすことが出来ました。一点を見ながら同時に周りの動きを鋭敏に察しているわけですね。
より詳しくいうと、この頃は足の治療をしつつ合気道も学んでいたので、足首と足の指を鍛えるために、歩行中につま先立ちの時間を長めに作るようにしていました。所謂ナンバ歩きというか殿様歩きのように軽く肩を揺らせる結果になります。こういう稽古をしていると足の力が強くなり様々な面で心身にいい影響をあたえますが脇道に逸れるので省略します。
ところで現在「歩行禅」で検索すると物凄い数がヒットします。いろんな説がありますが、どうやら『脳と心の整理術』(茂木健一郎、2012)が一番強い影響を与えているようです。あの茂木健一郎が広めたのか、と思うと実に複雑な気分です。
*不思議な法悦境
法悦境というのは厳密に言えば仏の教えを聴いたときの喜びを意味しますが、一般的には禅定状態の心が晴れ渡る感覚、三昧の心境にも使われるので大雑把に法悦境に統一します。
大学でシュルレアリスムを教えていたときに当然フロイトの無意識の発見の話になり、そこから唯識論を少し解説したことがありました。レポートを読むと学生が妙に感動していたので意外に思ったものです。そのことを思い出しながら、輪廻転生説やヴィパッサナー瞑想の主張にごく素朴な疑問を覚えたのをきっかけに、おさらいとしてwikiの「唯識」を読み直しました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
姿勢を正して速読したところ、目の疲れにも関わらず不思議な法悦境に包まれて一座組んだような爽やかさを覚えました。あまりに疲れて坐禅が出来ないときの体験ですので、読書?が坐禅の代わりにもなるのかと新たな発見をしました。
wikiでもそうですが五感、意識、末那識、阿頼耶識の関係を大抵ピラミッド型で図解します。そうではなく立体的な螺旋運動にするとより分かりやすいのに、と思います。
結局五感も意識も脆く不完全な装置で、その上に末那識というのは情報を自分に都合よくより分ける篩(ふるい)のことです。それらを含めて人間にバイオプログラミングされている全ての能力の中で自覚できない部分が阿頼耶識に当たります。これらは具体的な実践方法により浄化される可能性があります(転識得智)。
*とりとめもないので一応終わりにします。
非常に逆説的な現在の心境を言えば
1.下手に悟るより凡人のままがいい。
2.執着心は大いに持ったほうがいい。
3.我執は消すべきだが「私」という自己同一性は当然残る。
4.我見に囚われない柔軟な私が生まれただけで充分。
と言ったところです。折に触れてまた記すことにします。合掌