2001年宇宙の旅について
もしもこの映画が一度見ただけで理解されたのなら
われわれの意図は失敗したことになる。
(原作者アーサー・C・クラーク)
この映画の意図するところは神である。
(監督スタンリー・キューブリック)
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キューブリックは究極のSF映画を作った。誰で
あっても2001年を超える映画を作るのは非常に困
難である。スター・ウォーズにおいても技術的な面
での比較は出来ても内容は2001年に遠く及ばない。
(ジョージ・ルーカス)
彼は何ものも模倣しなっかたが、我々はみんな、
我先に彼を真似しようとした。
(スティーブン・スピルバーグ)
2001年宇宙の旅は1968年に公開された映画である。もうすでに30年以上の月日がたっているに
もかかわらず、色あせないこの映画はものすごいものがある。同年に発表されたSFに『猿の惑星』
があるが、とても同じ年の映画であるとは思えないだろう(別に猿の惑星を批判しているわけでは
ありません。猿の惑星も私は大好きです。)。しかも驚くべきことにこの映画はボイジャー計画以
前であることは言うまでも無いが、アポロ計画よりも前に作られている。人類は他の惑星の映像は
おろか、月にも降り立っていない時代だ。それなのにここまで完璧に宇宙の映像を描き出している。
キューブリックは万巻のSF小説を読み尽くすと、1964年にイギリスの著名なSF作家アーサー・
C・クラークのもとに『語り草になるようないいSF映画を作りたいのだが、なにかアイディアは無
いか?』と問い合わせた。そしてこの映画は語り草となった。この映画がここまで見事に仕上がった
のもキューブリックの完璧を求める姿勢にある。キューブリックはこの映画を作るにあたり天文学
者、物理学者はもちろんのこと生物学者に至るまで、さまざまな科学分野の人間に助言を求め調べ
尽くした。アーサー・C・クラークはキューブリックについて、『なにかに興味をもつとすぐにそ
の道の専門化になってしまう人だ』と語っている。またキューブリックはこの映画でそれまでには
無い映像技術をいくつも生み出している。キューブリックいわく『存在しない技術なら作り出せば良い』
、また『人間の想像しうるすべては必ず映像に出来るはずだ』。そしてそれまでに無い奇跡的な映像
が生まれた。『2001年宇宙の旅』の映像スタッフにはその後『スター・ウォーズ』などの有名SF映画
で活躍する人間が数多くいる。そしてこの映画は、ルーカス、スピルバーグなど多くの映画監督に絶大
な影響を与えた。とにもかくにもすごい映画なのである。
ストーリーの解釈(この先はストーリーの核心に触れています)
2001年宇宙の旅はその難解なストーリーから映画を見ても理解できないように作られている。
しかし原作本は小説だけあって細部に渡り解かりやすく書かれている。
ここで原作本似かかれる解釈を紹介しよう。2001年宇宙の旅の原作は、
著者であり映画の脚本を担当したアーサー・C・クラークによって
映画製作と同時進行して書かれたものである。アーサー・C・クラークはこの原作を書くにあたり
キューブリックと共同でアイディアを練りながら、
またキューブリックの気難しい注文に答えながらこの原作を書き上げている。
しかし映画とは多少の食い違いが見られるが、その芯にあるものは映画と同じと考えて良い。
ただし映画2001年は原作という一つの解釈がありながら、敢えてキューブリックが
当初予定されていたナレーションをはずしてまで解釈を見る者にゆだねる形にした。
つまり下記に記述する内容はあくまでこの映画の一つの解釈の形だと考えてほしい。
この映画の本当の解釈は見る人の想像の中に存在する。
1.遥か昔人猿達の前に現れるモノリスの意味
遥か昔に人猿達の前に突然モノリスが姿をあらわす。原作ではモノリスに触れた猿が奇妙な行動をとる。
モノリスが催眠効果で猿たちを操り道具を使う事を教える。そして人類は知能を進化させ、
その後役目を終えたモノリスは姿を消す。
2.木星探査の目的
原作では旅の目的地は土星の衛星ヤペタス。映画で変更になったのはキューブリックが美術スタッフの
作った土星の輪がどうしても気いらなかったかららしい。後にアーサー・C・クラークが言うにこれは
不幸中の幸いだった。というのも数十年後ボイジャーによって我々がはじめて目にする土星はそれまで
の想像と大きく食い違っていたからだ。科学的な面からも高い評価を受けるこの映画は汚点を残さずに
すんだ訳だ。
本題に移ろう。映画では木星探査の目的について、コンピューターハルの電源を切った直後に説明され
ている。月で見つかった謎の物体モノリスが発した強力なビームがまっすぐに木星を指した。原作では
もう少し細かに説明書きされている。月で発見されたモノリスは相当な科学力を持っていないと作るこ
とが出来ないことが克明に説明され、モノリスをここに仕掛けた、つまり300万年前に月を訪れた
何物かは人類よりも遥かに優れた文明を持っていたとし、土星(映画では木星)に行けば何らかの知的
生命体との出会いがある。それはおそらく土星に文明があるのではなくおそらく太陽系外から来ている
であろう彼らが、土星に何かを残している。また300万年のときを経てもなお彼らの文明が存亡している
かという疑問があるが、これほどまでに高い水準の文明ならまだ存亡していることは充分に考えられうる。
いずれにせよこのミッションは人類以外の知的生命体との出会いを目的とした物である。これが探査計
画の目的である。すなわち2001年宇宙の旅の主題は人類にいつの日か訪れるであろう未知なる生命体と
の出会いにある。
3.人工知能コンピューター”ハル”の反乱の理由
映画の大きな謎の一つであるハルの反乱の理由は何なのか?原作の説明はこうである。絶対に間違いを
起こさないように作られたハルに対し、地球の司令官たちはこのミッションの本当の理由を二人のクル
ーには秘密にするように命令した。つまり嘘をつくように言われたわけである。間違ったことを言わな
いはずのコンピューターは、本当のことを言うなと言われ思い悩む。結果精神分裂症にかかった。
そして地球との更新を経とうとして通信系統のAE35ユニットの故障を訴え取り外させようとした。
その結果二人のクルーはハルの電源を切ることを画策し、電源を切られる(=コンピューターにとっての死)
ことを恐れクルーたちを殺そうと図ったわけである。
4.木星についたデイブ・ボーマンはどうなったか
木星にたどり着くとそこに巨大なモノリスの姿が映し出され、その後意味不明な光の帯の映像に移る。
これは何か。まあここは想像のつくところだが、モノリスの中に吸い込まれていったということであろう。
光の帯は何なのか?つまりそこは次元を超越した空間であることをあらをしている。原作では(木星では無く
てヤペタスの上空だが)巨大なモノリスを発見したボーマンは船外活動用のポッドに乗り込み近づいてい
くと、突然モノリス内部に流星のようなものが現れそのまま吸い込まれてしまう。やがて異次元の世界の中の
使い古した宇宙ステーションのような場所を通り抜け、見知らぬ恒星系にたどり着く。さらにすでに廃墟と化
したような惑星を素通りして太陽に吸い込まれていく。ボーマンは薄れ行く意識の中でモノリスは我々人類を
自分達の世界へと導くスターゲイとだと理解する。
5.ラストシーンの赤ん坊は何か
原作でハルの電源を切ってから土星に向かうまでの間にボーマンが未知なる生物とはどういう姿をしているの
か思いを巡らせるシーンがある。そこの記述を一部抜粋してみよう。”科学知識が進歩するにつれ、遅かれ早
かれ生物は、自然が与えたもうた肉体という住家から逃れでるだろう。ひよわで、病気や事故に絶えず付きま
とわれ、ついには避けられない死へと導く肉体など無いほうが良い。自然の肉体が擦り切れたら――いやそれ
どころか、擦り切れないうちに――金属やプラスチックの部品と取替え、そうして不死を勝ち取るのだ。
しかし脳は有機組織の名残として、しばらくは留まることになるかもしれない。機械の四肢を操り、あるいは
電子の五感――盲目的な進化では到底得られない鋭い微妙な感覚――を使って宇宙の観察を続けるだろう。
地球ですらその方向に何歩か進み始めているのだ。長生きできないと宣告された何百万もの人が、人工の手足、
人工肝臓、人口肺、人工心臓のおかげで、いま幸福で活動的な暮らしをしている。この方向に行きつく先は一
つしかない。――たとえそれが常軌を逸したものであろうと。最後には脳さえ消えて行くだろう。意識の着床
する場として脳は必須のものではない。そのことは電子知性の発達が証明している。精神と機械の対立は、や
がて完全な共生という永遠の妥協で終わるかもしれない…。だがそれが終局だろうか?(中略)ロボット身体も
血と身体と同様に単なる踏み石であって、やがて人々が精霊と呼んだものに至るかもしれない。
そして、そのまた向こうに何かあるとすれば、その名は神のほかにあるまい。”
どうであろう、ずいぶんと深い階層に位置する考えである。これがキューブリックと、アーサー・Cのたどり
着いた2001年の主題である。つまりすでに生命を超越した彼等は、人類を進化に導き、そして彼らの世界へい
ざない、最後に自分たちと同じ神秘的な存在”スターチャイルド”へとボーマンを変貌させたと言うことだ。
2001年宇宙の旅の原作本は映画同様にかなり面白い、一度読むことをお勧めする。しかしあくまでこれ
は映画の一つの解釈である。そのことを忘れないでほしい。
2001年宇宙の旅にこめられたメッセージ
さまざまな映像の比喩的表現によって2001年は作られている。特に目立つのが色の対比と棒の描写である。
2001年は白い物が非常に多く出てくる映画である。その中でアクセントのように赤い物が存在している。
冒頭のシーンで人猿が手に持つ白い骨。宇宙ステーション内部はほとんどが真っ白であるが、いすだけが赤く目
を引く。宇宙船ディスカバリー号は真っ白であり、内部のハルだけが赤い。ハルはこの映画で最も人間的に見え
る存在である。ボーマンやフランク達はなぜか無表情で感情がほとんど伝わってこないのに対し、命乞いをした
りミスをするハルは非常に人間的に見える。ハルを赤にしたのはそれが血の色であるからのように感じられる。
キューブリックはハルに生命があることを強調するために赤を用いたのではないか、そしてハルの電源を切る
(つまりとどめを刺す)あの部屋の内部は真っ赤なのだ。もう一つの棒状の比喩がこの映画には多く存在してい
る。人猿が放り投げる骨、地球上空を飛ぶスペースシャトル、その内部を浮遊するペン、ディスカバリー号も
棒状である。これらはすべて印象的に映し出されていて、すべてに共通するのが人間の用いる道具であること。
そしてハルの電源を切るときに使ったキーもまた棒状である。この映画で最も人間的な存在であるハルの命を絶
つもの、それが棒の比喩のたどり着くところであるとすれば、最後に人間にその人間性を失わせるものが人間の
作り出した道具であると言う痛烈なメッセージである。ここらへんはもちろん映像の無い原作には存在しない映
画のオリジナルの部分である。また原作はボーマンや、フランクがそんなに冷たく書かれていなく、逆にハルは
あまり感情が伝わってこない。この違いはなぜか?キューブリックとアーサー・Cはこの映画の主題の概念とし
て神のような存在を作るところまでは意見が一致していた。しかし科学を崇拝するがゆえに明るい未来を確信す
るアーサー・Cと、人間の行く末に悲観的な見方を示すキューブリックとの間でこのような違いが起こったのだ
ろう。アーサー・Cは人類はやがて機械に変貌し不死を勝ち取れると言う見方を示しているが、キューブリック
はやがて人類の文明は機械にとって変わられという見方を示している。これが映画ではハルを人間的に描き、人
間を機械的に描いた理由と見うけられる。