オタクの魂・百まで

映画評なのか日記なのかよくわからない中途半端なもの書いてます

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$オタクの魂・百まで
『苦役列車』【予告編】【DVD情報】
2012年公開 / 監督:山下敦弘 / 出演:森山未來、高良健吾、前田敦子ほか



【前編】からのつづき)
この映画には二人の「友達」が登場する。まずひとり目は、貫多が港湾荷役のバイト先で知り合う専門学校生・日下部正二だ。このキャラは原作にも出ていて、設定面でも描写面でも大きな改変はない。貫多は他に友達がいないが、正二は学校の友達も多そう。仕事の覚えも早く、スポーツマンで、外見も'80年代シティボーイ風。貫多は彼と自分の違いばかり気にして「お前、本なんか読むんだ?」と問われれば「中卒だからってバカにするなよ」とつっかかり、機械の操作について「コツをつかむと簡単」と言われれば「それはぼくの頭が悪いって言ってんのか?どうせ中卒だし……」などと、いちいちヒガんでみせる。


しかしそれでも、無茶をふっかける貫多にお金を貸してやったり、連日の酒の誘いにも付き合ってやったりと、正二はよくやっていると思う。ただし、貫多がコンパに連れていけとゴネると、他の友達のことを気にして断るし、何か共通の趣味を持っている訳でもなく、映画に誘ってもつれない返事。貫多はそんな正二を自分の世界に引き込もうと風俗に連れていくが、あまり乗り気じゃなさそうだ。さらには正二に彼女ができて「もう風俗には行けない」と言ったことから、二人の間の溝は徐々に深まっていく。


そして決定打となったのは、貫多が正二の彼女・美奈子に会わせてもらい、女の子を紹介してくれるよう頼んだことだ。映画や芝居に詳しいという彼女に「将来は女優でも目指してるの?」と尋ねるとフッと鼻で笑われ、その後は『GS』がなんたら中沢新一がどうたら、貫多の理解できない話ばかり。おまけに、かつて映画の誘いを断ったはずの正二まで「こんど小劇場のスタッフさんを紹介してあげる」などと調子を合わせている。貫多は二人の態度に激怒し「女の前だからって高尚ぶるんじゃねえよ!ぼくの言う映画とてめえらの言う映画は、映画が違うとでも言いてえのか!」とブチまけてその場を台無しにし、ついに正二と決別してしまう。


この時の貫多の気持ちはよくわかる。オレも評論家の人とかが自分の好きな映画をバカにしているのを見てアタマにくることが多いもの。別に美奈子は何も悪いことは言ってないし、正二も善かれと思って会わせてやったまでだ。平生からさんざん世話になってるし、どちらが悪いかと言えば、正二の好意を無にした貫多の方が圧倒的に悪い。しかしこの問題には善悪では割り切れないものを感じる。正二って要するにミーハーなんだよね。自分自身の立脚点というものを持たず、ただ強い立場の人間になびいてるだけ。美奈子もただエラいセンセイの名前を挙げて偉そぶってるだけ。オレはこの二人を見て、町山智浩さんが前にブログで語ってた「オレは利口だ光線」という話を思い出したよ。
「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」2004年2月21日


その後、正二が「いつまでも甘えてんじゃねぇよ」と言ったのはもっともで、彼が離れていくなら、貫多は他の友達を探すべきだったかもしれない。しかし、暴言を吐かなかったとしても正二はいずれ離れていっただろうし、彼女ができたからと言って貫多の方を疎遠にしていいという理由にはならない。「空気読め」と言うならそれもそうかもしれないが、相手が一方的に作った空気を読まねばならないなら、そこには立場の優劣ができあがってしまい、その関係は友達とは呼べなくなってしまう。貫多は自分が「量産型トモダチ」になってしまうのが悲しかったんだろうね。だからたとえ決別することになっても、正二と対等の関係であろうとするなら、やっぱり本音をぶつけるべきだったのだと思う。
 

そしてもうひとりの「友達」は、貫多の行きつけの古本屋でバイトする大学生・桜井康子だ。彼女は映画版のオリジナルキャラで原作には登場しないのだが、正二と違って学生生活のことをあまり言わない。貫多が「学費を自分で稼いでいて、自分で弁当を作って食べている」と語っているぐらいだ。でも「本を読むぐらいしか楽しみがない」という貫多と意気投合したり、どちらも横溝正史を愛読していたり、違うように見えて、実は貫多との共通点は多いんだよね。また、貫多と一時疎遠になっていた後で発した「ヒマでヒマで死にそうだった」という言葉から察すると、彼女も貫多と同じく、一緒に遊びに行くような友達はいないようだ。


康子に恋心を寄せる貫多は、正二に仲立ちしてもらって彼女に「友達」になってもらうものの、貫多には「異性間の友情」という概念が理解できない。彼の中では、恋人は「すぐヤれる人」で、友達は「そのうちヤれる人」ぐらいの違いしかなく、異性を肉欲の対象としか見ていないので「友達ってどうやってなるんだ?」「ヤっちゃいけねぇのかよ?」と考え込む。一方の康子は、貫多が「友達だろ?」と言うので女の独り住まいの部屋に入れてやったり、けっこう無理を聞いてやってるところを見ると、貫多のことを良い友達だと思ってたんじゃないかな?しかし、そんな康子には実は遠距離で付き合ってる彼氏がいて、それを告げられた貫多はショックを受けてしまう。


その後の康子がとった行動は正二とは対照的だ。彼女は自分に彼氏がいると教えたのだから空気を読むまでもなく、現状では恋愛関係になれないことがハッキリしている。それなのに貫多は夜中に彼女の部屋に押しかけようとして無理矢理押し倒した。つまり貫多は威力をもって対等の関係を壊し、自分の有利に導こうとしたんだよ。彼が抱いている不満は「ヤりたいのにヤらせてくれない」というもので、いくらそれが本音でも、そんな身勝手なことをぶつけるのは友達のすることじゃない。だから康子が怒るのは当然だ。また、このとき康子が与えた攻撃がパンチやキックでなく、攻撃する側とされる側が同じ痛みを分かち合う「頭突き」だったのは示唆的だよね。彼女にとっての貫多は恋人ではなくても、対等と思える「康子専用トモダチ」だったんだ。


康子の友情を示すものがもうひとつある。ふたりが決別した後、貫多に渡すよう託けられた推理小説『泥の文学碑』だ。これは実際に西村さんが小説家になるきっかけを作った本だが、映画の中では康子が渡したという設定になっている。しかも「この本を読んでたら北町くんが浮かんできたよ」というメッセージつきだ。康子は映画のオリジナルキャラなので、この本を読めば、山下監督ら映画の作り手側が考える「貫多像」が浮かび上がってくるのでは?オレはそう直感して読んでみたけど、推理小説と言うよりも戦中戦後の小説家・田中英光の評伝のような内容だった。
泥の文学碑 (角川文庫 緑 406-17)/土屋 隆夫

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先に白旗あげてしまうと……すんまっせんッ!オレは国文学科卒なのに、田中秀光の小説は一遍も読んだことありまっせんッ!キャ~はずかし~!まぁとにかくっ!『泥の文学碑』に書かれていた彼の半生はなかなか面白かったよ。それによると田中は、酒と薬物と娼婦との愛欲に溺れて精神病院に入れられ、果ては師と仰ぐ太宰治の自殺とともに自身も睡眠薬を飲んで命を絶ったという人だが、もともとは荒廃した環境に育った訳でなく、その父親は歴史家で文人でもあった。少年時代の田中は気のやさしい甘えん坊で、大学時代はスポーツ選手でオリンピックにも出場し、その旅の途中、女性選手とロマンチックな恋をしたという。そんな人がなぜ退廃的な生活に身を落としていったのか?この本は次のように考察してるんだ。


英光が受けついだものは、単に『文人の血』だけではなかった。彼は『私の父系の血には狂気の血統が流れているのかもしれぬ』と書いているが、こうした怖れを抱かせるほど、父も祖父も、激情的な性格の持主であった。特に父親は、酒乱の傾向があったという。この”狂気の血統”に対する畏怖感は、英光の心の深部に、いつも重たく沈殿していた筈である(中略)自殺の背景には、”狂気の血統”に対する怯えがあった。彼は、自らを狂人に仕立てることによって、発狂の恐怖から逃れようとしたのではないか。彼は、意識的に狂気の世界へととび込んだ。遺伝的な『発狂』が訪れる前に、人為的な『発狂』を、自らの手で実現した。それが、彼を怯かし続けた黒い『血統』に対する、ただ一つの復讐であった


この「狂気の血統」という言葉を聞いて、何か連想しない?これって父親の事件がきっかけで荒んでいった貫多や西村さんと似てるんだよ!じゃあ西村さんはどんな少年期を送ったんだろう?それについては、彼が『スタジオパークからこんにちは』に出演した時の映像がおおいに参考になった。西村さんは「明るく、友達も多く、野球好きの普通の少年だった」「姉が読書好きだったので、その影響で『赤毛のアン』や『キュリー夫人』等の名作や伝記をよく読んでいた」「貫多が丁寧な言葉遣いをするのは、自分が裕福な家庭で、言葉遣いに厳格な両親に育てられたから」と語っているんだよ。やっぱり田中秀光と同じだ!貫多が自分のことを「ぼく」と呼ぶのにもそんな理由があったとは!荒っぽく見えて実はお坊ちゃん育ちじゃないの!


康子が『泥の文学碑』から何を伝えようとしたのか見えてきたよ。貫多は父親のせいで運命が変わってしまったけど、それで性格が荒んだのには、貫多自身が「選んだ」という側面もあるんじゃないか、つまり「人為的な発狂」だったんじゃないかと思うんだよね。彼ももともとは康子や正二と同じ普通の少年だったし、読書好きなことが康子と出会うキッカケになったんだし、その原点を思い出して気長に待てば、恋人になっていた可能性だって充分にあったはず。それなのに中卒だとか何だとかってコンプレックスを持って、他人との間に壁ばかり作っていては友達なんてできないし、それでは「コミュ障」と変わらないんじゃないの?山下監督が貫多をオドオドしたキャラとして描いたのは、そんな貫多の内面を見た目にわかりやすく表現したものなんじゃないかな。 


同じことは西村さんにも言えるのでは?山下監督のことを「親のスネをかじり、まともな進学コースを経てきた人間」なんて突き放したこと言わなくてもいいはずだし、自分本来の姿を見つめ直せば、きっと彼との共通点も見つかるんじゃない?それに西村さんは今や押しも押されもせぬ芥川賞作家なんだし、未だそんなコンプレックスを持ち続けてるなんておかしいよね。そして『新潮』2012年8月号に掲載されたこの二人の対談がこれまた面白かったので引用しておこう。山下監督が映画批判について文句をぶつけているんだよ!この白熱のバトルは映画並みのド迫力!


山下「原作でも、実体験を書いてるとはいえ、西村賢太さん本人ではなく、北町貫多という名前で描かれてますよね。似たような感覚だと思うのですが、僕らも僕らなりの映画版『苦役列車』、そして貫多を丹精に作り上げたつもりです。それで、ひとつ現場の代表としてどうしても気になったというか言っておきたかったのが、ネットで読める西村さんの日記にあった映画版に対する批判的な言葉についてですが、当初プレスなどでは好意的だった褒め言葉や態度をガラッと一変させたのは不可解で、東映サイドと何があったのかは知りませんが、正直とっても腹立たしく感じました。映画としては森山君ともどもベストを尽くすことができた、と感じていただけにそのへんは残念でした

西村「原作者は、見てつまらなかった映画をどこまでも褒めなきゃいけないとでもいうんですか?それこそ僕としてはよほど腹立たしい。美点のみ挙げた一文をプレスやメディアに寄せているのは、そこがあくまでも映画の宣伝の為に用意された場だからです。そこは批判を開陳すべき場所じゃない。原作者として最低限の協力とエチケットを発揮したまでのことに過ぎません。だから当然、批判は批判として別にある。制作サイド云々は別にした、映画そのものに対する批判がね。讃辞だけを聞きたければ、自主制作で仲間うちのみでの上映にすればいい


いやぁ~どちらの意見もスジが通ってて、どちらが正しいとも言えないんだけど、オレはこれを読んで「実はこの二人って、案外と良い友達になれるんじゃないの?」と思ったんだよねぇ。だって西村さん相手に自分の本音をこれだけ堂々とぶつけてる人なんて他で見たことないもの!それに、そもそも彼らは『苦役列車』という作品を愛するがゆえに対立してるんだし。


友達になるまでいかないくても、西村さんはもう一度、山下監督と交流を持ってほしいよ。彼は「宣伝のため」と称して批判を行ったけど、結果的には映画は不入りになってしまったんだもの。彼に全責任があるとは言わないまでも、原作者の名前であれだけ大々的に「宣伝活動」を行ったのだから影響がないはずがないし、そこは謝罪しなきゃいけないんじゃないの?しかし、もしも映画批判が純粋に別の目的でのみ行われたものだったら、原作者なりの主張はあってしかるべきで、それ自体には謝罪の必要はないだろうけど、ただしその場合、西村さんは嘘をついていたことになるのだから、真実をちゃんと打ち明けて、そのことだけは謝らなきゃネ。第一、前田あっちゃんに汚名を着せたままじゃかわいそうだろ!


『苦役列車』を観たお陰で、オレは自分の「友達観」を固めることができた想いだよ。ここで学んだことを応用すれば、過去の失恋にも決着がつけられる。自分なりに筋道を立てて考えてみよう。まずは職場の好きな人の場合。仮に彼女が嘘をついていたとしても、やっぱりオレはそれを暴かなくて良かったと思うよ。もっとよく知り合えば、彼女との間にだって自分との共通点は見つけられたかもしれない。だけど、オレの言葉は彼女のそれよりももっと強い力を持っている。そんなオレが彼女に本音をぶつけても真意は伝わることなく、ただ傷つけたり威圧感を与えてしまうだけだろう。それなら、小さな嘘は自分の胸の中にしまって、ただ笑顔で送り出してあげればいい。でも、本音で語り合うことのできない彼女とは、やっぱり友達にはなれない。


しかし、大学時代の彼女の場合は違う。彼女が持っていた言葉の力は、オレと対等かそれ以上だ。その相手に自分の考えを堂々とぶつけなかったことを今さらながらに後悔している。彼女に友情を裏切られたことは確かだけど、オレ自身も彼女の友達であることから逃げていたんだ。もちろん、本音をぶつけても彼女は変わらなかったかもしれない。しかしそれでも、自分がおかしいと思ったことはちゃんと言わないと。相手の気持ちが痛いほどよくわかっても、間違ってると思うことはちゃんと諌めないと。それで永久に離ればなれになってしまったとしても、その関係は友達と呼べると思うから。


大学時代の彼女は、卒業後どこかの大学の講師に就任したという噂を耳にしたけど、その後の消息は知らない。かたやオレはと言えば、四十過ぎても未だウダツの上がらぬ工場の派遣労働者だ。しかも、好きな人と休憩時間や退社時間が違って話す機会がなく、やむなく職務時間のほんの短い隙を見つけて話しかけていたことが上の人たちから不真面目に思われたようで、部署を配置換えになった。ここ数年、派遣切りがどんどん進んでいる状況だけにクビが皮一枚で繋がっただけでもありがたいが、これが最後通牒だろうな……。


配置換えの日の朝、好きな人には「今日から別の部署に行くんですよ!もうあまり顔を合わせることもないですね……」とニッコリ笑顔で言えた。自分としてはサヨナラ宣言のつもりだったけど、向こうは何のことかわからずキョトンとしてた。朝日だけが虚しくサンサンと輝いてたよ。くぅ……まったく、どうしようもない。自分の選んだ道が正しかったなんてとても言えないけど、しょうがないよ、こうやって考えて、ひとつひとつ納得し選択していくことがオレの生き方だ。そして、心から友達と思える人とは腹を割って話すことが、これからのオレの生き方になる。しかし恋はどうかな……この歳じゃもう二度とないか?でも、もしもまた恋をすることがあるなら、今度は友達になれる人がいいね。




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『苦役列車』【予告編】【DVD情報】
2012年公開 / 監督:山下敦弘 / 出演:森山未來、高良健吾、前田敦子ほか



好きになった人がシングルマザーだった。が!実はその人に恋人がいた……まぁどこにでもある、ありふれた失恋話だよ。「お友達でいましょうね」ってさ。しかし納得いかん……恋人がいるなら、なんで最初からそう言ってくれなかったのかなぁ?これまでメールのやりとりしてきたから打ち明ける機会はいくらでもあったし。彼女は「友達としてのメールのやりとりなら良いかなと思って……」と言うけど、オレは最初、手紙を書いてお茶に誘ったんだよ?好意を抱いてなきゃそんなことするワケないじゃん?その時点でハッキリ断ってくれれば、ここまで恋心を引きずることもなかったのにさ……向こうもそれに気づいてないはずないし、なんか嘘をつかれた気がしてしょうがないよ。


まぁ相手の気持ちを察するなら、彼女は自分がシングルマザーであることを言えばオレがあきらめると思ったのかも。でもオレはあきらめなかった。だって「ご一緒にお茶でもどうですか?」に対する「私は子持ちです」っていうのは、断り文句にならないでしょ?だから「相手がシングルマザーなら、どうすればうまくいくのか?」って考えたし、忙しい彼女の身を思って催促せず、辛抱強く返事を待った。それが向こうにとっては予想外のことで、対処に困ったんじゃないかな。しかし、子持ちだけど恋人がいるとわかった今、「私は子持ちです」を断り文句にするのはますます辻褄が合わないじゃん?


それにしても「お友達でいましょうね」っていうセリフ、過去にも何人かの人から言われたはずなのに、なかなか言われ慣れないもんやね……そもそも「恋人にはなれないから、じゃあ友達で」って理屈、何かヘンでしょ?なんだか友達っていうのが恋人より格下みたいでさ。つまり恋人以外のその他大勢が友達ってこと?そんじゃナニか?ガンダムの話に例えるなら、恋人はシャア専用ザクみたいなもんで、友達は量産型ザクみたいなもんなのかね?オレは量産型だったのかよ!?ショック……。


でも、なーんか違うんじゃないのかなぁ?彼女は職場で仲良くしてる人もいるし、プライベートの友達だっているだろうし、それらの友達それぞれに個性があって、言ってみりゃグフだったりドムだったりジオングだったりするワケでしょ?それらの友達と量産型のオレとじゃ、友達が違うってぇの?量産型の友達には嘘ついてもいいってこと?それとも、彼女にとっては他の友達も、みーんなまとめて平等に量産型なのかなぁ?……あ~ダメダメダメ、考えれば考えるほど卑屈になってくるわ。


その後、彼女からメールが来た。特に中味のない文章だけど、パンダちゃんの絵文字がいっぱい並んでた。その気遣いはうれしかったし、あんまり意固地になることもないかぁ……と思って、問いただすのはやめた。とにかくフラれたことには間違いないし、彼女の気遣いを素直に受け取って「友達」ってことにしとけばいいや。オレは「相手が誰であっても、あなたにはしあわせになってほしいと願ってます」と伝えた。それは偽りのない本心だったし、我ながらキレイに身を退くことができてよかったよ。


オレが「友達」という言葉に過敏になってしてしまうのは、大学時代の苦い経験がトラウマになってるからなんだよね。文章を書くのが好きだったオレは国文学科に入ったんだけど、学究肌なんてガラじゃないし、国文ってところはどこか保守的というか権威主義的というか、教授を教祖さまみたいに崇めて付き従ってる人達には違和感を覚えていたし、かと言って、就職に有利になる技能や資格が身につく訳でもない国文での生活をただのモラトリアム期間と割り切って遊びほうける人々ともソリが合わず、いつも身の置き所のなさを感じてた。


そんな中でたったひとりだけ、心から友達と思える人と出会ったんだよ。彼女は短大からの編入組だったんだけど、とても魅力的な文章を書く人で、資料を詳細に分析したり理論を突き詰めるよりも、自分の感覚を大切にした文章だった。オレ自身もその部分で勝負したいと思っていたので、彼女とはとても意見が合ったし、大親友だったし尊敬してたしライバルでもあった。そんな人だったから、まるで自然の成り行きみたいに付き合うことにもなったんだ。


彼女が当初、短大に入ったのは家の事情もあったみたいなんだけど、研究の道で身を立てたいという夢を持っていて、ある時「私がいくらがんばっても軽くあしらわれてしまう。短大なんか行かなきゃ良かった」と悔しがってた。そんなコンプレックス持たなくても、個性的でステキな生き方だと思うけどなぁ……その頃からなんとなく彼女の心が見えにくくなっていたんだけど、それから3ヶ月ぐらい経って、いきなり「やっぱり友達に戻ろう」と切り出された。なんの理由もなしにだよ。オレはどうしても納得いかなかったから復縁を迫ったりして、結局その関係は完全に壊れてしまった。


ところが、別れてから1年以上が過ぎた時、彼女の噂が耳に入ってきてね。実は彼女は、別の大学の教授の愛人だったっていうんだよ。オレは二股かけられてたの。夢を叶える力を持った男の方に行っちゃったんだ。信じたくなかったけど、時期的なことを重ねてみるとピターッと合う。オレは彼女のことをなにもかもわかったつもりでいたけど、実はなんにも知らなかったんだよ。それにオレは彼女の才能を誰よりも愛していたから、踏みつけにされても非難する気になれなくてね。ものすごく苦しんだし、「友達」って何なのかわからなくなっちゃった。もしも付き合うことなく友達のままでいたとしても、はたして彼女の選んだ道を祝福できただろうか?


ちょうど良い機会だし、今この時に「友達」の問題に自分なりの決着をつけ、トラウマを克服したいと思ったんだけど、うまい具合にそれが重要なキーワードになっている映画と巡り会えた。山下敦弘監督の『苦役列車』だ。でも、この映画を解釈するのはけっこう厄介なんだよ。原作が「私小説」という半自伝的なジャンルだけに、まずは作者である芥川賞作家・西村賢太さんのことを知ることが必要なんだ。そこで彼のインタビューなどを読み漁ったんだけど、非常に面白いものを発見した。西村さんは原作者なのに、映画版『苦役列車』をクソミソに貶してるんだよ!原作者みずから自分の作品の映画化をここまで批判しているのは日本映画史上でもめずらしいんじゃないかな?
ロケットニュース24「映画『苦役列車』に原作者が不満?」


西村さんは何の目的があって批判しているんだろう?このニュース記事には「映画の宣伝のためのネガキャンではないか」という指摘が書いてあり、西村さんもそれを認めたとあるが、映画公開時の雑誌をあたってみると、確かに本人がそう言っている。『文芸春秋』2012年8月号から引用してみよう。


この映画にはプログラム・ピクチュアの不利をはね返すヒットをしてもらいたいし、江湖の好評をも大いに獲得して頂きたく思っている。なぜならば、そうなれば原作の文庫本も比例して売れるだろうし、向後出るであろうDVDのセールにも影響があらわれるはずである(中略)これには案外、原作者による全否定と云うのも、集客と、そんな言うほどヒドくないとの却っての讃辞に一効果あるのではないか。となると、自分は実にネガティブながらも有益に、この映画の宣伝に腐心している図にもなる。まことに見上げた原作者だ
(西村賢太「この人の月刊日記・いつも通りの私小説、これでいい」)


なるほど。しかしオレは今まで考えたこともなかったんだけど、映画の原作使用料っていくらぐらいもらえるのかなぁ?これには別の映画がらみのニュースが参考になった。あの『テルマエ・ロマエ』の原作者・ヤマザキマリさんがバラエティ番組に出演した際「映画の興行収入は58億円だったが、原作使用料は約100万円だった」「1ページ2万円弱の原稿を描いてたほうがまだ儲かる」と発言し、ツイッター等で物議を醸していたんだよ。
ガジェット通信「映画『テルマエ・ロマエ』の原作使用料が安すぎる」


エっ!?たった100万円ぽっちなの!?おそらく邦画トップクラスの『海猿』でさえ250万円!?大ヒットした超大作ですらその程度なんだから『苦役列車』みたいな中規模の映画ならもっと少ないんじゃないかな?まぁDVD化による二次使用料とか映画化の話題性による原作本の売上増など含めて、トータルで西村さんの利益がいかほどになるかは把握できないんだけど、製作会社「マッチポイント」のツイッターでの発言によれば、映画は興行収入8600万円という惨敗を記録したので、原作料以外の収入もあまりアテにはできなさそうね。
日刊サイゾー「『ここまで動員力がないとは……』AKB48前田敦子『苦役列車』大コケで閉ざされる女優の未来」


しかし仮に、西村さんが100万円の10倍20倍の金額を得ていたとしても、もうひとつ別の疑問が出てくる。この人はそこまでお金に執着する人なんだろうか?と言うのも、西村さんが『笑っていいとも!』に出演した時の映像を観ると、芥川賞受賞後、年収が以前の10倍の5200万円になったそうなのに「生活はまったく変わってない」「特に高いものは買わない」「免許を持ってないのでクルマもいらない」「今の住居で満足なので引っ越しもしない」「友達がいないので遊びに行ったりもしない」「食べ物も一食500円以内で充分」「今のまま安寧な日々を過ごせればいい」と語っていて、無欲で質素な生活を好む人柄が伺えるんだよ。現在の収入で満足してるどころか使い切れてない人が、映画化によるロイヤリティを期待してるなんて変じゃない?


だから「宣伝のためのネガキャン」という話も本当かどうか怪しいんだけど、そうなると、じゃあ何のために映画を批判したんだろう?という疑問が再び浮上してくる。でも西村さんって、本音がどこにあるのか掴みにくい人なんだよね。テレビ等では、何かと過激な発言をする彼のことを「正直だ」と評する声をよく聞くんだけど、その発言を細かく追って行くと裏腹なことが多くて、オレは「この人は自分を正直に見せる術に長けているだけで、実は二枚舌を使い分けてるんじゃないか?」という印象を持った。そこで、複数の媒体を比較して、同じことを何度も言ってる箇所があれば、そこにこそ彼の真実が隠されているんじゃないか?と睨んだんだ。先述の『文芸春秋』の記事で、オレは下記の部分に注目した。


この主人公は、私小説たる自分のほぼ全作を通じて登場するが、単に『苦役列車』のみに限っても、自分はこれをイヤミなまでに江戸っ子意識を振りかざす男として書いている。恰もその意識のみが、自身唯一の矜持の立脚点であることを、ハッキリとわかるように書いている。それがかような、何か脳に欠落でもあるような台詞の言い廻しをされたなら、いくら好きにやってくれと云っても、これはそもそもこの原作を使った意味すら判然とせぬものになってしまう。第一、拙作中で絶えず明記している、中学卒業と同時に日雇いに従事せざるを得なかった主人公の性質を、イコール人との距離の取りかたが分からぬ半コミュ障に結びつけた映画版の設定はいかにも短絡的だ。自身がそうであったように、年少時よりそうした状況に甘んじる者は、人一倍廻りの顔色を窺い、努めてなつこく振舞うものである。そうしなければ、生活の為の世渡りができなかったのだ。映画版は、その辺の機微が全く解っていない。所詮、親のスネをかじり、まともな進学コースを経てきた人間が、空想と観念で拙作をいじったことが間違いなのだ


これと同趣旨のことが『新潮』や『小説現代』など他の雑誌にも書かれていて、なおかつどの記事でも「コミュ障」という言葉をもって批判を展開している。おそらくこれこそが西村さん最大の不満のようだね。確かにテレビで見かける西村さんは苦労人らしく、腰が低くて人当たりが良く弁舌さわやかな人物だ。一方、映画に出てくる西村さんの分身=主人公の北町貫多は、いつもどことなくオドオドしていて口ごもりがちで、西村さん本人とは似ても似つかない、「コミュ障」という表現がピッタリくる人物として描かれている。


ひとつ引っかかったのは「江戸っ子意識」の部分。これが理解できなきゃ主人公の心情が理解できないと言うなら、読者の中のほんのわずかな人たちしか本作の魅力を享受できないことになる。そんなことはないはずだし、いくら映画の出来に不満があるからって、オレたち受け手の側の人間に対してまで、そんな風に壁を設けなくてもいいのになぁ?西村さんが山下監督のことを「親のスネをかじり、まともな進学コースを経てきた人間」と称し「自分とは違う存在」と突き放しているのと、地方在住者のオレが「けッ!なーにが江戸っ子だよ!」とヒガんでしまうのは本質的に同じのような気がした。                 


とは言え、西村さんは小学生の時に父親が事件を起こし、中学時にそれが性犯罪だったことを知ってショックを受け不登校になり、卒業とともに港湾荷役などの日雇い労働に身をやつしていったという人だ。そんな苦労の末に現在の地位と名誉を勝ち取った人から見て、自分の分身たるキャラクターが「コミュ障」として描かれていれば、腹を立てても無理はないと思う。そうなるとオレの疑問の矛先は、今度は映画の作り手側に向けられることになる。山下監督は、なぜ貫多を「コミュ障」のように描いたんだろう?後編では、映画のストーリーを追いつつこの疑問を考えていこう。
【後編】につづく)

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テーマ:
オタクの魂・百まで-『グッモーエビアン!』
『グッモーエビアン!』【予告編】【DVD情報】
2012年公開 / 監督:山本透 / 出演:麻生久美子、大泉洋、三吉彩花ほか


好きになった人がシングルマザーだった。相手から聞かされた時は正直、逃げ出そうかと思った。だが待てよ……まだ付き合ってもいないどころか告白すらしてないのに、「逃げる」って言うのも相手に失礼だぞ?オレは女の人から逃げられこそすれ、逃げていいような身分か?41歳童貞のオレが?おまけにあんな美人だぞ?オレは惚れていいような身分でもあるのか?身の程を知らなさすぎじゃないのか?じゃあどうすりゃいいのよ?進退窮まって立ち尽くし、う~ん、でもやっぱし好きなんだよなぁ……というのが今。


だいたいオレはシングルマザー云々以前に、恋のイロハも知らんのよ。乙女心とかてんでさっぱり。恋愛スキル最弱級。こないだもこんなことがあった。好きな人は同じ職場だけど、仕事上の繋がりも少ないし、話すきっかけがなかなか見つからない。だから思い切って手紙を書いて、晩ご飯にでも誘ってみようか……?と、友達に相談してみたところ「順序としては、お茶→食事→告白 じゃないの?」と早速のダメ出しを食らった。エっ?せっかく誘っても最初はお茶だけなの?アフターなんにもなし?なーんにもないの?喫茶あるのみ?そりゃあ~まるで「ふぬうぅッ!もはや喫茶あるのみかッ!この上はハラかっさばいてえぇ~ッ!」という、薩摩武士のごとき潔い喫茶ぶり!世間の男たちはよくそんなので我慢できるねぇ……。


それでまぁ、手紙を書いてお茶に誘ってみたワケだが、返事としてもらったメールを読んで、またまたエっ?と思った。お茶に誘ったことの返答が書かれてない!?YESともNOともなんとも!?代わりに「これからいろいろと質問させてください」と書いてある!?この暗号解読にはかなりの日数を要してしまった。つまりこれは、お茶に行くにも審査が必要ってことなのか!?ヒャ~きびしい……しかもメール一通につき質問がひとつしか書かれなくて、質問の内容もオレの年齢とかフルネームとか……そんなのまとめて聞いてくれっつーの!この調子だとお茶に行き着くまで何年かかるのよ?トホホ……。


でも考えてみれば、あんな美人がバツイチなんだもの、何かよほど辛いことがあったに違いないんだよ。これぐらい慎重になって当り前だよなぁ。ウ~ム、こりゃとんでもない難物に出くわしちゃったぞ……しかし逆に考えてみろ?まだ付き合えるともなんとも決まったワケでもないんだし、むしろせっかくこういう機会が与え得られたのだから、シングルマザーのことについて調べたり、色んな人の考えを知ってみるのもいいかもよ?


そこで試しに「シングルマザー 恋愛」で検索してみたところ……まあ出るわ出るわ!シングルマザーたちのお悩みがぞくぞくと!その多くは「シングルマザーは子供のことだけ考えなきゃいけないの?好きな人と恋やセックスをしちゃいけないの?」っていうことなんだけど、それに対する批判意見がけっこう多くて驚いたよ。例えばこういうの↓
YAHOO!知恵袋「シングルマザーに彼氏とセックスすることに対して批判意見を見かけました」


いやぁ~辛辣!これを読んで、オレは『続・大奥(秘)物語』っていう映画を思い出しちゃったよ。
続・大奥(秘)物語 [DVD]/東映ビデオ

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昔むかし、江戸城大奥で将軍の目に留まって一度でもセックスしたお女中は「お手付き中臈」と呼ばれて、子供をもうければ正式に側室と認められるんだけど、将軍が若死にすると、お手付き中臈たちは「比丘尼屋敷」というところに半ば監禁されて、その後の一生をず~っと将軍に操を立てて生きなきゃならなかったのね。映画ではその生き地獄が描かれてるんだけど、シングルマザーの話も根本はこれと同じじゃん!人権蹂躙じゃないの?「シングルマザーは恋もセックスも我慢しろ!」という批判を見ると「オマエらは江戸時代か!」ってツッコミたくなるよ。厚生労働省の調査によれば、現在、国内の母子家庭の数は123.8万世帯もある。124万人もの女性に「恋愛するな!」と命令できるなんて、どこの将軍様なんだ?
厚生労働省「平成23年度全国母子世帯等調査の結果」


しかも、別添の「関係資料」のデータもよく見てみてよ!シングルマザーの平均年間就労収入181万円、離婚した父親からの養育費の取り決め状況「取り決めをしている」は37.7%、受給状況「現在も受けている」はたったの19.7%!別れたダンナたちがどんな人物かは推して知るべしだろう。平均年間収入と平均年間就労収入の差額42万円の内訳は何だろ?手当とか親の年金とかかな?何にしてもスズメの涙。そんな過酷な状況で子供を育ててるんだよね。


このデータから、オレはふたつの疑問がわいてきた。ひとつはシングルマザーの恋愛を批判する人々に対して「なんでこんな人たちのわずかな自由を奪ってしまうの?」ということ、もうひとつは自分自身に対して「こんな苦労してる人に恋なんてウカレたこと言ってていいの?」ということ。一方的な批判はできないわ……ただし、好きな人との関係が今後どうなるかは別として、それでもオレにとってシングルマザーの恋愛は決して他人事ではない。なぜならオレ自身が母子家庭育ちだから。


ウチの母ちゃんは「女の匂い」というものをまったくさせない人。オレの父親はまだ幼いオレを愛人の家に平気で連れてくような外道だったし、母ちゃんはそんな彼のことを激しく嫌悪していたから、よけい過敏になってしまったのかも。母ちゃんは母親というよりオバQか快獣ブースカのような存在。いつもおかしなこと言ったり失敗したり、おかげで笑いの絶えない家庭で、まるでマンガの世界みたいだった。何かを強制されたこともないし、会話も密にしていたから、いわゆる「良い教育」を受けてきたと思う。しかしオレはその居心地の良さからいつまでも抜け出せなくて、こんな40過ぎのオッサンになってもまだ独身で親と同居。自立できてないオレが悪いとは言うものの、「良い教育」って一体なんなんだろう?


しかしたった一度だけ、母ちゃんに「女」を感じたことがあった。オレが小学2年生の時、図々しくアパートに訪ねてきた、工員風のこぎたないオッサン!誰だったんだアイツ?母ちゃんとオッサンがどういう関係だったかは知らない。でも家に押しかけてくるぐらいだから何かあったのかも。オッサンが母ちゃんに好意を抱いていたことは子供の目から見ても容易にわかったので「けっけがらわしいッ!オマエごときが母ちゃんと釣り合うワケないだろが!身の程を知れや!」と、露骨に嫌な顔をして睨みつけたのを覚えてる。そしてそれっきり、オッサンは家に来なくなった。


そのことを思い出してみて気づいたけど、「工員風のこぎたないオッサン」って、今のオレそのものじゃんよ!軽蔑してごめんよオッサン、心底すまなかった……その後、母ちゃんが女の匂いをさせたことはなかった。もっと歳とってから茶飲み友達みたいなのができたことはあったけど、「男女の関係」は皆無だったと思う。はたして母ちゃんはそれでしあわせだったんだろうか……?ずっとオバQみたいにふるまってたけど、心の中では我慢してたのかな……?オレが嫌ったりしなければ、母ちゃんはあのオッサンと結ばれて、本当に自分が望むしあわせな生活を送れたんじゃないのかな……?たとえ嫌っても自分のしあわせを考えてくれてたら、オレももっと早くに自立を決意できてたのかな……?


息子以外に愛する人がいない母ちゃんは、オレとの関係に異常に執着するようになってしまい、オレは母ちゃんの愛情をだんだん重荷に感じるようになって、つい冷たい態度をとってしまう。その寂しさからか、近頃の母ちゃんは嘘をついたり隠し事をしたりすることが多くなり、そのことがさらにオレを苛立たせて、何度も口汚く罵倒してしまった。オレは親離れしたいし、母ちゃんにも子離れしてほしいけど、経済的な難しさもあるし、オレが離れてしまったら母ちゃんは本当にひとりぼっちになってしまうと思うと哀れで、未だ自立に踏み切れないでいる。


「母子家庭の子供の自立」という問題について考え込んでしまったオレは、『子連れ恋愛がハッピーエンドになる本』というのを読んでみた。著者の新川てるえさんは、彼女自身が2度の離婚と3度の結婚を経験していて「バツ後恋愛のスペシャリスト」を自称し、NPO法人を立ち上げて家庭問題のカウンセリングに取り組んでいるという人。こんな人が書いた本ならきっと役立つ知恵が得られるに違いないと期待したのだが……。
子連れ恋愛がハッピーエンドになる本/PHP研究所

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正直言って、オレはこの本を読んだことでかえって気持ちが暗くなってしまった。ここでも子供の自立ということが著者の体験として書かれているんだけど、ショックを受けたのは「夫の長女」の話。その子は夫の前妻の連れ子だそうで、著者の人とは血のつながりがないどころか、ほとんど他人と言っていい。そんな子を引き取って育てていたこと自体は立派と言えるかもしれないが、その育て方というのがどうも……。


さまざまな問題を起こすのは夫の長女でした。離婚のとき本当の父親でない夫の元で暮らすことを選んだのは、当時小学生だった彼女自身なのですが、本当の親と暮らせない自分をいつも悲劇のヒロインにしていました。夫と長女の喧嘩はいつも『お前なんか俺の子じゃない』『実の親でもないのにウザい!』という調子で、聞いてる私もウンザリでした。でも今思うと、思春期の娘が親に反抗するのは当然だし、昔は私と私の長女も同じような喧嘩を日々繰り広げていました。夫と夫の長女は本当の親子じゃなくても本当の親子のように関わってきたからこそ、そうやってストレートに感情をぶつけ合える関係だったのでしょう


……いやいやいやちょっと待て!いくら実の子じゃないからって、関係がうまくいかずストレスがたまってるからって、大の大人が中学生の子供に「お前なんか俺の子じゃない」なんて、よくそんなヒドイこと言えるなオイ!?実の子じゃないからこそ言っちゃいけないんじゃないのソレ?大丈夫なのかこのダンナ?著者も著者で、話をキレイにまとめすぎ!それに「夫の元で暮らすことを選んだのは、当時小学生だった彼女自身なのですが」ってのもどうよ?判断力の未熟な子供に責任押し付けるの?そんな子供を連れている人を選んで結婚したのは、当時すでに大人だったあなた自身じゃないの?それで気になる長女の行く末はというと……。


中学を卒業するとともに、彼女はひとり暮らしをはじめました。借りていた住まいが不良のたまり場になって夫が学校に呼び出されたり、高校2年の夏休み前になって学校を中退してしまったりと、問題はいろいろ続いてはいるのですが、働くことや、自力で生活することを覚え、彼女は彼女なりに成長しているように思います


……正気かよ!?それって「自立」と呼べるの!?この子はどう見ても深く傷ついてるし、そうなる可能性を視野に入れないで結婚しちゃった著者の失敗でしょ?Amazonのレビューに「自己正当化が過ぎる」という意見があったのも頷ける。これじゃあカウンセラーの看板に傷がつくことを恐れて言い繕ってるだけに見えちゃうよ。自分の失敗は失敗と認めた上で、他のシングルマザーがどうしたら同じ失敗を犯さないで済むかを考えるのが彼女の役目じゃないの?


しかし、これはオレと母ちゃんとの関係を逆転させたものなのだ。嘘をつく母ちゃんを罵倒してしまったオレに、このダンナを批判する資格があるだろうか?それに、オレがいくらもっともらしい道徳論をブチあげても「子供の側からの意見」にしかならない。オレはオッサンなのに未だ子供の立場しか知らない。子供でないのに子供のフリをして、安全圏から大人を批判するオレは、自分自身の人生においてすら傍観者でしかない。もしも好きな人にフラれちゃたら、また元の無責任な傍観者に戻るだけだけど、もしもうまくいったら、それもツライ。安全圏を離れて、否が応でも大人の側に身を置かざるを得なくなり、息子ちゃんから非難されてもモロに受けるしかないのか……?


この本だけでなく、我が子を他人に預けてまで恋愛やセックスに走るシングルマザーのことも、気持ち的には否定しきれない。本音をぶっちゃけると、オレも好きな人とセックスしたい。それこそがオレの望むしあわせだもの。後先考えず衝動まかせにヤるのがイカンのだという批判意見に対しても、オレは全面的には賛同できなくなってきた。好きな人とフツーに会話してるだけで、むしゃぶりつきたくなる衝動に駆られちゃうんだよ!こんなことは40年以上生きてきて初めて。せっかく良い雰囲気で話が盛りあがってるのに、突き上げるような激情に怖くなって途中で逃げちゃう。そして、もしもこの欲望を息子ちゃんに知られてしまったら、オレはたちまちマンガの世界の破壊者になってしまうのだろうか?この歳までずっとマンガの世界でぬくぬくとしてきた、このオレが……?。


「大切な人のしあわせを自分のしあわせと捉えること」と「自分個人のしあわせを追求すること」は、はたして両立不可能なんだろうか?「子供第一に考えろよ!」という意見はわかるし、「親だって自分のしあわせが欲しい!」というのもわかる。でも、両立できるならそれがベストに決まってるじゃん?オレが疑問に思うのは、あたかもどちらか一方しか選べないかのように信じられ、可能性の部分まで否定されていることだ。誰も傷つけず、何も我慢しないで、よりしあわせになれる道がどっかにないかと考えてしまうオレは虫が良すぎるのかな……?


ウ~ム、なんだか考えれば考えるほど、色んな人の話を聞けば聞くほど気が滅入ってくるんだけど、そんな中でやっと光明を見いだせる意見に出会えたよ!この質問のベストアンサーにはいたく感動してしまった。
YAHOO!知恵袋「離婚後の恋愛について」


この名もなき回答者がすばらしいのは、子供のしあわせを第一に考えることも、親にも自分のしあわせを追求する自由があることも、最初から肯定してるところなのね。「子供がいたら恋愛しちゃいけないの?」なんて、考えること自体がナンセンス。実践できるかどうかは別問題で、シングルマザーも独身女性だから、理屈の上では恋愛すること自体は間違いじゃないはず。この回答者はまずそれを是とした上で、どうしたら実践できるかを考えてる。子供に嘘をついてはいるが、現実を突きつけて傷つけてしまうよりずっといい。結果として、彼女は「結婚」という選択肢を一旦保留にしているんだけど、かと言って恋愛そのものはあきらめてない。むしろ結婚に執着しなかったお陰で、みんながしあわせになれる道を探り当てることに成功してる。子供たちが自立できたのも、この人に執着心がなかったからだろうねぇ。


もちろんこれはあくまでも一例に過ぎないし、誰にでも当てはまる普遍の真理じゃないんだけど、オレがここから学んだのは、ものの考え方の部分なのね。子供のしあわせも親の恋愛も結婚もセックスも、すべて「選択肢」であって、ひとつの選択肢に執着してしまうと、他の選択肢を選ぶ心の自由さが失われてしまう。もっと言うと「恋をあきらめる」というのも、選択肢のひとつとして捉えるなら必ずしもネガティブではないと思う。「どうしてもうまくいかなければあきらめてもいいんだな」ということを心の片隅に置いておくと、執着心が和らいで、焦らずジックリと関係を深めていけることもあるんじゃないのかな?


シングルマザーたちのしあわせを阻むものは、子供でもなければ世間の声でもなく、執着心なんじゃないかと。それはオレ自身にも母ちゃんにも、しあわせを願うすべての人にも言えるのかも。そして、執着から離れてみんながしあわせになる道を説いた映画が、この『グッモーエビアン!』なのだ。この映画、オレは何の予備知識もなくたまたま観たんだけど、なんと主人公がシングルマザーとそれに恋する男で、舞台はオレの地元の名古屋!まるでオレのために作られたような映画でないの!でも、この作品を理解するのにはものすごく時間がかかった。説教くさいところがなく、役者たちの表情やほんのちょっとしたセリフから作者の真意を読み解かなければならなかったから。


元パンクスのアキは、17歳の時に娘のハツキを生むが、出産への理解を得られなかった彼氏と別れる。バンド仲間のヤグにプロポーズされて、その後は娘と同居しつつ、ヤグとも関係を続けているが、なぜか籍は入れていない。オレがこの映画を初めて観た時に謎だったのは、アキとヤグの関係のこと。この二人はものすごく仲良しなのに、セックスの匂いをまったくさせないのね。そりゃあ確かにセックスを感じさせなければ子供ともうまくやっていけるだろうけど、本当に欲望も何もないのかなぁ?


ヤグは超・自由人。食いたいものがあれば食うし、眠たくなったらどこでも寝るし、行きたくなったらオーストラリアでもインドでもどこでも行っちゃう。自分の欲望に正直で、言行一致にもほどがある男だ。そんな彼がセックスに対してだけ異常に淡白というのは解せん。アキも不満ではないのだろうか?そのことが描かれていなければ、この映画は「セックスがなければこんなにしあわせなのに」という理想像になってしまう。


おかしい、そんなはずはない……その点がどうしても引っかかってしまったので二度目を観てみたら、やっぱりあった!解読のカギは、アキを演じる麻生久美子の演技だ!例えばこんなシーン。ヤグは友人宅に飲みに行き、ハツキも塾に通っているので、会社から帰ったアキはひとりぼっち。彼女は塾から戻ったハツキに一言だけ愚痴をこぼす。


「ひとりで食べる夕食って、慣れんもんやね……」


この時に麻生久美子が見せた、強烈なまでの「女」の表情!いやぁ~迂闊だった。恋愛スキル最弱級のオレには気づけなかったよ!ハツキと友達みたいに仲良しで、いつも屈託なく笑っているアキの心の奥にも、実はドロドロとした情欲が渦巻いていたのだ。ではヤグの方はどうなんだろ?寂しさをこらえているアキの心情を察していないのか?いやいや、これもそんなことはなかった!それが伺えるのは、ヤグが世界ツアーから戻ってきて、アキとどんちゃん騒ぎするシーンだ。さっきまでバカ言って大騒ぎしてたヤグが、突然「電池切れた」みたいにグースカ寝てしまう。それを見たハツキとアキが一言。


「マンガみたい……」
「ほんとに……」


この時の、ヤグを思い遣るようなアキの表情に注目だ!ハツキが言った「マンガみたい」と、アキが返した「ほんとに」には、ニュアンス的なズレがあるように思う。ハツキはヤグのことを本当にマンガのキャラみたいに思っているが、アキにはヤグの本心がわかっている。彼もひさびさに再会したアキを抱きしめたい気持ちでいっぱいなのだけど、ハツキのことを考えて情欲を抑え、寝たフリをしたのだ。この家族はマンガみたいに見えるけどマンガじゃない。ヤグはセル画でもなければ着ぐるみでもない。生身の男なのだ。アキとハツキは、ヤグが寝てしまったのを良いことに顔に落書きするのだが、後日、アキとヤグがふたりの時にも落書きしているのは「昨夜も何もありませんでした」という、ハツキへのメッセージだったのだろう。


ヤグをマンガのキャラだと思っているハツキは、よその父親たちと違う彼のことがだんだん疎ましくなり、イライラを募らせていくのだが、そのために大切な友達を傷つけてしまい、他人のことをまったく顧みていなかった自分に気づいて反省する。しかし彼女はそこで壁に突き当たってしまう。実はヤグとアキは我慢しているんじゃないか、自分の存在が彼らの邪魔になっているんじゃないかと。そんな時にヤグが発したのがこのセリフだ。


「我慢なんかしてにゃあよ。ただ、アキちゃんに気ィ遣わんようになったら、オレはただのワガママ男になってまうで……」


オレはこの言葉を聞いてずっと考え込んでしまった。「我慢」と「気遣い」の違いって何なんだろう?アキがハツキに余計な気兼ねをしないよう、ヤグは自分の欲望を押さえ込んでいる?いやいやいやそれはやっぱり我慢じゃないのか?わからなくて一ヶ月も悩んじゃったけど、オレ自身が恋してる途上でやっと答えを見つけた。我慢は執着の産物なんだ。もしもヤグが何がなんでもセックスしたいと思っていて、その気持ちを無理に押さえ込んだら、それは我慢になっちゃう。でも、ヤグは欲望には正直であっても、何に対しても執着を持たない男だ。その証拠に、友達から餞別にもらった大事なギターを、旅先で知り合った少年が持ってたフランスパンと交換してしまったりする。行きずりの人に対してさえそうなのだから、愛する人への気遣いもできるんだよね。


人の心から欲望を取り除くことはできない。指先でつまんでポイなんて無理だ。欲望というものは、しあわせになりたいという願いと直結しているから、それを原動力としてがんばることもできるが、執着心を生んでしまうこともある。だからオレは悩んだり不安に陥ったりしたけど、取り除くのではなく「欲望に気遣いの心をプラスする」という考え方ならどうだろう?実践できるかどうかはわからない。しかし、せっかく発想の転換ができたのだから、試してみる価値はある。そこに気づけただけでも『グッモーエビアン!』に出会えて本当に良かったよ!


そう言えば、こないだこんなことがあったんだよね。朝、会社に行く途中でフト思いついて、好きな人にのど飴を買ってってあげたら、もんのすご~く喜んでくれたのよ!うれしかったわぁ……「エっ?こんな思いつきでやったことで、こんなに喜んでもらえるんだ!?」とビックリしちゃった。あまり深く考えなくても、ちょっとしたことの積み重ねで仲良くなれるのかもしれないなぁって気がしてきたよ。気遣い、オレにもできるかも?とは言え、オレの強すぎるリビドーはどうしたらいいもんかね……いやいや不安がっててもしょうがない。第一、テメェで勝手に惚れといて、不安だ~心配だ~なんじゃらかんじゃら~って、そんな鬱陶しい男がモテるワケねーんだよ!アキに「かーつまらんっ!ロックじゃないねぇ~!」って言われないようにしなきゃネ!気合い入れろ気合い!
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オタクの魂・百まで
『テルマエ・ロマエ』【予告編】【DVD情報】
2012年公開 / 監督:武内英樹 / 出演:阿部寛、上戸彩、市村正親ほか


浴場技師ルシウス・モデストゥスは四十代マザコン童貞男だ。四十代マザコン童貞男のオレが言うんだから間違いない。そのことを説明するには、まず「オレは何ゆえに童貞なのか?」という、非常にクソどうでもいいことから語らねばなるまい……いや、オレだってそんな話したかねーよ!誰が好きこのんで童貞カミングアウトなんかするかっつーの!でも、映画『テルマエ・ロマエ』について語るには、この件にどォ~しても触れなきゃならないんだよっ!ちょっと聞いてちょうだいよっ!


思えばオレは、母子家庭で男の兄弟もおらず、大事っ子に育てられたのがいけないのだ……ずっと女系家族の中でぬくぬくとしてきたため、女の人を崇高なものと思い込む一方で「女の人からチヤホヤされて当然!」という根拠なきプライドまで育んでしまった。会話下手で、スキルもなんにもないくせに理想を高く持ちすぎ、やっと理想の相手にめぐり逢えても自信がないから積極的になれず、意を決してアタックしても相手の気持ちをまったく考えない勘違い行動ばっかりしてフラれて落ち込み、ますます消極的になるというジレンマに陥ってしまって、ついにこの歳まで童貞を捨てることができなかったのだよ……。


消極的っつっても、ヤりたくないってワケじゃないよ?ヤりたいかヤりたくないかの二択で言えば、そんなもんヤりたいに決まってんだよっ!願わくば挿入のみならず、あんなことやこんなこともしてみたいんだよっ!モテないっつっても、今までに機会がなかったワケじゃないよ?すんでのところまでいくことは何度もあったのに「イかなかったらどうしよう……」とか「勃たなかったらどうしよう……」とか心配で心配で、どうしても最後までいけなかったんだよっ!女体の神秘へのあこがれは人一倍強く、したくてしたくてたまらないのに、自分をさらけ出すのも怖いし、相手のさらけ出された姿を見るのも怖いし、したくて怖くて、あ~ンど~しよ~!


ところがこの期に及んでも、オレは未だ根拠なきプライドを捨てきれずにいる。世間の未婚男女がコンカツなどにウツツをぬかして大騒ぎするさまを眺めつつ「それでは種付けの牛や馬と変わらんではないかッ!キサマらには人間としての誇りはないのかあッ!」と遠吠えする毎日だが、当のオレはというと、そんな恋愛競争から逃げ続けて、自分の考える「人間らしさ」に執着するあまり、最も人間らしい営みであるはずの性行為をできずにいるという……この矛盾はどうしたもんかね?


そんなオレを見るに見かねて「風俗にでも行きゃいいじゃないの」と誘ってくれた人もいたが……ムーリムリムリムリ!それだけは絶っ対に無理ッ!オレは見ず知らずの人とフツーに会話するのさえしんどいのに、セックスなんてできるワケないじゃんよ!それに金銭で繋がった関係って、なんだか寂しいし……昔つとめてた会社でキャバクラなどに接待で行かされたことはあったものの、どこに行っても会話が一向に弾まず、オレはただニヤニヤしてただけ。あの時の気まずい空気は忘れられん……ただし唯一、フィリピンパブだけは気に入った。だっておネエちゃんたちが日本語わかんないから会話しなくていいんだもの!ありゃラクで良かったワ~。


そんなどうしようもなく情けないありさまだが、オレには人からよく「こーゆうの好きでしょ?」と薦められる映画がある。かの有名な『40歳の童貞男』だ。でもこの映画、初めて観た時ちょっとアタマにきちゃったんだよねぇ……。
40歳の童貞男 無修正完全版 [DVD]/ジェネオン・ユニバーサル

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主人公のアンディは童貞ではあるものの、決して恋のチャンスがないワケではないが、女性を崇高なものと思い込み、一方でプライドが高いので、世間に幅をきかせる派手な男女関係を嫌悪し、理想ばっかり追求している。そのため、すんでのところまで行ったことは何度もありながら、いつも機会を逸してしまうのだ。ここらへんはオレにそっくり!アンディもオレと同じ中途半端野郎なんだよね。


しかし引っかかったのは、この映画に出てくる「フィギュア」のこと。アンディはフィギュアコレクターで、大きな全身可動フィギュアからガシャポンサイズのものまでたくさん集めており、知識も豊富で、その道ではなかなかの目利きであることを伺わせる。劇中での扱われ方を見ると、アンディが大人になることの象徴としてフィギュアが用いられていることがわかるが、彼は理想の女性と出会って結婚するやいなや、フィギュアの大半を売り払ってしまうのだ!えッ?なんで売っちゃうの?相手は別に手放せとは言ってないんだよ?これじゃ童貞を捨てても、趣味の方は中途半端になっちゃうじゃん?未開封のままとっておいたやつも、箱から出してジャンジャン遊んで、もっと好きになればいいじゃん?結婚したらセックスだけ楽しみに生きるっての?40歳までずーっとひとり気ままに暮らしてたヤツが、そんな生活で本当にしあわせになれるの?


でも、コレを書くために再見してみて気づいたんだけど、オレもフィギュア集めてて、未開封のまま保存してるのがけっこうあるんだよ!コレクターの中にも「未開封派」と「開封派」の二種類がいて、未開封派はなんで箱を開けないかっつーと、フィギュアの価値(ヤフオクなどでの、つまり自分個人にとっての価値ではなく世間一般の)が下がるのがイヤだからなんだよねぇ。アンディの場合は未開封/開封が半々ぐらいに見えるので、ここでもやっぱり中途半端、オレも中途半端。これじゃ人のこと言えんわ……。


そこでオレは、何かのヒントになればと思って『中年童貞』という本も読んでみた。著者の渡部伸さんは、自らも童貞であるだけでなく、この世の恵まれない童貞たちを救うべく「全国童貞連合」を結成し活動している人だそう。
中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差― (扶桑社新書)/渡部 伸

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この本はデータがすばらしい。中でも驚いたのは、㈳日本家族計画協会の2006年の調査結果によれば、40~44歳の男性のうち、7.9%(無回答は5.0%)もの人に性体験がないということ。オレと同じ人がこんなにたくさんいる!『40歳の童貞男』を観て「こんな映画が作られるぐらいだから、オレみたいなのはよっぽど稀な存在なんだなぁ……」と自信を失ってたけど、中年童貞はマイノリティの中でもメジャーの部類なんだよ!このことにはとても勇気づけられたし、自分が童貞であることを隠さなくてもいいんだと思った。


ただ、この著者が「童貞問題は少子化問題」という持論に妙にこだわっているのが気になった。彼は少子化のことにどれぐらい関心を抱いているのだろう?オレ自身はと言うと、正直よくわからん。少なくとも、この本を読んでも少子化問題には関心が持てなかった。しかし童貞たちに恋人ができないのは、自信のなさやコミュニケーション下手が大きな原因になってて、それは仕事や趣味や夢など、恋愛以外のことにも大きく関わってくるはず。そっちの方向から攻めた方がよかったんじゃないのかなぁ?


また、ひとくちに中年童貞と言っても、童貞でも恋愛がしたい!と努力している著者のような「童貞改革派」と、もう恋愛なんて絶対しない!と決めてしまっている「童貞保守派」がいることも知ったが、保守派の主張に共通しているのは「なんで男ばかりがこんなに努力しなきゃいけないの?」ということ。あ~……実はオレも最近までそう思ってた。自分の答えはまだ出てない。でも本気で好きになれる相手が見つかると、そんなのどうでもよくなっちゃうんだよ。努力しようと思わなくても、努力せずにはおれなくなっちゃうんだよ。恋愛スキルも身につけたいけど、けっきょく最後は自分の気持ちの持ちようだよなぁ。彼らは世間一般の恋愛事情や価値観に反発するあまり、自分たち自身がそこに囚われちゃってるんじゃないの?とは言え、オレも同じところに陥ってしまいがちだけど……。


そんなことを思いつつ読んでいたが、「恋愛弱者」である童貞連合が、「恋愛強者」に位置する人々を招いて行った座談会が面白かった。非モテ側と同じように、モテ側にも「保守派」と「改革派」がいることに気づかされ、なかなかうまい人選だなぁ~と唸ったけど、それらのやりとりの中で「恋愛投資家」の肩書きを持つフェルディナンド・ヤマグチさんによる「タコの山田くん」の話が最も心に残った。


僕の後輩でマルハのタコ担当で『タコの山田』って奴がいるんです。つまらなそうでしょ、タコですよ(中略)彼は本当にタコ好きで、世界中からタコかき集めて、日本人に安くて美味しくてやわらかいタコを食わせるために情熱を持って仕事してるんですよ。中途半端に芸能人知ってますっていう広告代理店の人なんかよりずっとモテるんですよ。なぜかというと、誇りを持って仕事してるし、自信があるからなんです


この話を読んで思ったのは「執着」と「執念」の違い。つまり、殻に閉じこもって人の意見を聞き入れず、自分の今の姿を変えようとしないのが「執着」、行動して経験や人から学びつつ、一方で世間の言説に惑わされず、強者の意見に屈せず、環境に応じて変化しながら自分のあるべき姿を追い続けるのが「執念」なんじゃないかと。執着を捨てて執念だけを保つのってすごく難しいけど、世間一般からは非モテに見られそうな山田くんも、執念を持っているからモテるんだとヤマグチさんは言ってるのだ。


だからオレの場合、まずはフィギュアを箱から出して遊ばなきゃ!そういう根本の部分から意識を変えていかないと、おそらく恋愛も成就しないんじゃないかなぁ?しかしセックスしても、結婚しても、販売主任になっても、フィギュアを捨てても、オレやアンディみたいな中途半端野郎が急に大人になれるとは思えない。ただ、それらのことに執念を持って打ち込んでいくうちに、経験から学んで少しずつ大人になっていけるんじゃないかな……そんな気がする。だからフィギュアも絶対捨てちゃダメだ!


……というワケで、こんな長い長い前フリを経て、お待たせしましたッ!ここからやっと本題!『テルマエ・ロマエ』の話ですよ!オレはねぇ、これ観た時に「おおッ!これこそオレが理想とする童貞映画じゃないかッ!」って直感したんだよ!エっ?どこが童貞映画なのかって?こんなに語ったのにまだわかってくれないの!?しょうがないなぁ……じゃ、順を追って説明していくネ!


浴場技師のルシウスは自分の仕事に誇りを持ち、そのこだわりから、アテネ風の古いスタイルのテルマエ造りを提案するものの、時代に合わないと言われて相手にされず、ライバルにダシ抜かれている。プライドだけは高いものの実力はなく、ただギリシャや書物の真似事をするばっかりで、自分なりの独創的な仕事はできていないのだった……ほ~らネ!ルシウスもオレとおんなじ!どっちつかずの中途半端野郎なんだよ!


誰にも理解されないことへの憤りを抱えて浴場に赴くものの、客が暴れたり売り子が幅をきかせたりする騒がしい浴場を目にして「本来、風呂は体の疲れを取るための場所だッ!くつろげる空間でこそッ!この者たちには、世界の頂点に立つローマ人としての自覚はないのかあッ!」と、ますます苛立ちを募らせる……ン?騒がしい浴場?売り子が幅をきかす?なんかどっかで見たことあるゾ?……おおッ!こりゃあ~まさに、現代の恋愛事情に憤慨するオレではないかッ!


世の喧噪から逃れるべく、ルシウスは湯に頭まで浸かって耳を閉ざす。この時の彼の、体操座りで湯に沈み込んだ姿、これもどっかで見たことあるような……あッ!これって胎児みたいじゃない?ってことは、浴槽は子宮!そこに閉じこもることに心の平安を感じるルシウスはマザコン男!彼が吸い込まれた排水溝は産道!湯上がりのフルーツ牛乳は母乳ってワケね!


排水溝を通って抜け出た先は、これまで見たことのない別世界だった。見るもの触るものすべてが新しく、自分の知識が到底及びもつかないものであることに衝撃を受けるが、言葉が通じないため、教えてもらおうにも意思の疎通が図れない……またまた見たことある光景!こりゃあ~まるで、キャバクラに行った時のオレじゃないかあッ!日本語がしゃべれないルシウスは、会話ベタな童貞男そのものだよ!


それでも周囲の人々を見下し「ローマの属州になったからには、我々がその文化を吸収する権利があるッ!」と高飛車な態度を取るルシウス。その後、彼の運命の女性である真美と出会うが、彼女に対しても「こざかしい奴隷めッ!」と居丈高だ……出ましたッ!マザコン男の根拠なきプライド!「チヤホヤされて当然!」ってか!またまたオレそっくり!


そんなルシウスにはローマに奥さんがいるが、結婚して7年にもなるのに指一本触れず、仕事を言い訳にしてセックスから逃げ続け、とうとう欲求不満を募らせた奥さんを友人に寝取られてしまう……ギャー!これこれこれッ!オレもまったく同じ経験したことあるッ!きっとルシウスも「勃たなかったらどうしよう……」とか心配で、一線を越えられないんやなぁ……どこまでも中途半端なヤツ!


とまァ、こんな具合ですよ!どぉ?ルシウスはどっからどう見てもマザコン童貞男でしょ?しかもコレが、あながちオレの妄想ってワケでもなさそうなんだな~。コミック第2巻の解説文において、原作者のヤマザキマリさんが次のように語っているので、本作の隠されたテーマが「性」であることは間違いないッ!


私は『テルマエ・ロマエ』を描き始めた時から、これはこれで『必ず描かねばならぬテーマ』と決めて、構想を練り続けていたのです(中略)日本の様々な土地で、今もこの男根崇拝はしっかりと生き続けています。読者の方もご存じだとは思いますが、多くの温泉地などで男根をご神体とする儀式や行事が行われています。それは、大地から沸き出す温泉から、人々が太古から母性的な意味を感じ取り続けているからなのかもしれません


さらに、温泉(=子宮)は、人々の仕事などに対する執念と対比させたものであることも、コミック第3巻で説明されているんだよ!


温泉街には、人間が日常で強いられる『生きている以上、何かをやらねばいけない。自分を役立たせねばならない』という緊張感や義務感が、すっかりこそげ落ちた『思いっきり緩もう。ちょっとぐらいハメも外してヨシ!』的な、怠惰さと優しさの混同した寛容な空気が漂っています


映画のルシウスもまた、自分の仕事がただの模倣であったことに気づき、緊張感と義務感を持つようになる。父性の象徴のような皇帝の命に背き、女ったらしの次期皇帝候補のための浴場を作ることを拒んで、一大事業を成し遂げるのだ。それはただの独りよがりや模倣ではなく、日本人の奉仕と謙譲の精神から学び、自らの執念を奮い立たせた仕事だった。そして彼は真実と恋に落ちる。


あのあとルシウスはどうなったのだろう?やはり真美といっしょに、つぶれかけた温泉旅館の再建に乗り出すと考えるのが自然じゃないかな?今のルシウスなら、言葉の通じない日本でも人々から学び、愛と執念を持った仕事ができるはずだよネ。なぜなら、もしも彼が現実の厳しさに負けて、赤子のように泣いてしまったら、たちまち真美とは引き離され、母なる地・ローマに再び戻らなければならなくなってしまうから。あのラストは示唆に富んでいて実にスバラシイね!


オレが『テルマエ』で最も感動したことは、コメディなのに「童貞」を笑いのネタに使ってないってことなんだよ!オレがここで童貞カミングアウトなんかしてるのも「読者にウケたいッ!あわよくば女の人にッ♥」という下衆な魂胆がなかったワケではないし、それは『40歳の童貞男』も同じじゃないかな?なのに本作は、あえてそれを禁じ手にして他のネタをやり、それがしっかり面白い。思い遣りと真心のこもった大傑作だと思うし、世の童貞たちに勇気と愛を与えてくれる「おかあたま」みたいな映画だよ!この真心に応えねばッ!さあ童貞たちよ!産道めがけてレッツ・ダイブ!
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『桐島、部活やめるってよ』【予告編】【DVD情報】
2012年公開 / 監督:吉田大八 / 出演:神木隆之介、橋本愛、東出昌大ほか


映画『桐島、部活やめるってよ』について、自分が最も語りたかった想いは他の文章で書きましたが、それでも「まだまだ語り足りない~!」という気持ちがわいてきてしまったので、補足として雑記ノートみたいなものをここで書いてみます(補足の方がメインよりはるかに長文だけど……)。


こういうものを書く気になったのは、中森明夫さんがツイッター上で発表したレビューを読んで「おや?」と思ったから。
中森明夫氏による映画「桐島、部活やめるってよ」のレビューが素晴らしい件【ややネタバレ】


このレビューはネット上でもかなり話題になってるし、彼の説を支持する人も多い。オレ自身も当初はこれを鵜呑みにしちゃってたけど、それから原作小説やシナリオ、関連書籍なども読んで、自分なりに『桐島』について考え直してみたら、最終的には映画初見時の感想とは正反対の結論に到達しちゃって、その後に再び中森さんのレビューを読んでみたところ「コレって違うんじゃないの?」と思えてしまったんだよね。


オレが感じた最大の疑問は、中森さんが唱えた「桐島=キリスト説」のこと。サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』を基にしたもので、町山智浩さんや樋口毅宏さんも同様のことを言っていた。ゴドーのゴの字も知らなかったオレは「コレ読まなきゃ『桐島』を理解できないのか!」と焦って読んでみたけど、結果的にそれは徒労になってしまった。


あえて映画の作者の意図に添った形で解釈するならば「桐島=キリスト説」は「間違い」(あくまでもカッコ付きでの「間違い」)。なぜなら吉田大八監督は、下記リンク先の対談の中で「桐島=キリストは思いつかなかった」と発言しているから。
「観た後に意図を越えた部分で増殖していく、現代の都市伝説のような映画」吉田大八監督と社会学者・古市憲寿氏が語る『桐島、部活やめるってよ』という現象 - 骰子の眼


ただし、吉田監督は同対談の中で「作り手の側から『そんなことは考えてません』と限定する必要はない」とも言っているので、「桐島=キリスト説」も、中森さん個人の解釈として見れば、これはこれで「正解」。それどころか「実際の作品を観ないでみんなで勝手にまとめサイトや断片的なツイートを読んで盛り上がってしまう」ような見方さえ容認しているので、極端に言えば、『桐島』について「間違った解釈」などというものはこの世に存在しないのだ(「あまりにひどい誤解を除けば」という限定つきだけど)。


だから、中森さんのレビューの中から間違いを指摘するならば、「この映画をスクールカーストの語で評するのは間違っている」と発言していることだけは、コレってちょっとどうなのよ?『桐島』は多角的な解釈ができる作品だし、若い人でなくても楽しめるけど、それでもやっぱり表向きは「学園もの」の体裁をとっているワケだから、スクールカーストに絡めて論じた意見が出てくるのは当り前すぎるほど当り前でしょ?中森さんは「ベタ」とか言って笑うけど、青春映画だっていいじゃないか!劇中の実果のセリフを借りるならば「あるんだよ、あの人たちにはあの人たちの気持ちが」ってことですよ。


もちろん『ゴドー』みたいな作品も教養として読んどいて損はないだろうけど、ごく個人的な要望として言わせてもらうならば、中森さんのような発言力のある人に『ゴドー』のことはあまり言ってほしくないんだよなぁ。こういう機会でもなければオレが『ゴドー』を読むことは一生なかったかもしれないので、その意味で有意義だったとは思うけど、ああいうちょっと高尚なニオイのする本を、なんか有名な人が紹介してるからって、オレみたいな無知な奴がワケもわからず読んで、なんとな~くわかったような気になって、そこで考えるのを止めてしまうのが一番怖いと思う。


これまで吉田監督がラジオ等で行った発言によれば、『桐島』の製作にあたり参考にした作品は、『エレファント』『ナッシュビル』『台風クラブ』の3本の映画と、『絶望の国の幸福な若者たち』という本、これだけ。また(これはあくまでも非公式の発言だけど)『桐島』の脚本を担当された喜安浩平さんから伺った話では、「『エレファント』の技法を試したぐらいで、それ以外に何かを参考にしたことはない」そうだ。そして喜安さんも吉田監督の「作り手の側から限定しない」という立場に賛同されるとのことなので、やはり『ゴドー』でも他の本でも映画でもマンガでもゲームでも音楽でもなんでも、『桐島』を観た人それぞれの好きなものを基にして語るのがベストなんじゃないかな。


ちなみに、オレ自身が『桐島』を解釈する上で最も役立ったもののひとつは、トム・ハンクス監督の映画『すべてをあなたに』。たまたま職場のオバちゃんにすすめられて観たんだけど、いやぁ~すごく良かったんだわ~!と言っても『桐島』との直接の関係はなーんにもないハズ。でも、バンド仲間のガイとジミーが、バンド解散後にそれぞれ歩んでいった人生を見て、オレは大きなヒントをもらったんだよ!一本の青春映画として観ても、みずみずしくってほろ苦くって、これはオススメ!やっぱ青春映画ってオレは大好きだなぁ。四十のオッサンが観てもヤル気をもらえるもの。
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それと、こちらは作り手の意図に大きく関わっているものとして、古市憲寿さんの著書『絶望の国の幸福な若者たち』もぜひオススメしたい!
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オレは『桐島』を観た当初、なんで前田が「映画監督は無理」と言ってたのか、いくら考えてもわからなかったんだよね。まだ高校生でしょ?自分の限界を見切ってしまうには早すぎじゃない?ところがこの本を読んで、それがなぜだったのかようやくわかった。それどころか、オレ自身も前田と同じ「幸福」という名の闇の中にはまり込んでしまっていたことに気づいてゾッとしたよ。オレから見て、この本に書かれてることって映画『マタンゴ』にソックリなの!
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あの南海の孤島は「島宇宙」。そこに漂着した若者たちは、今まで享楽的な生活を送ってきたので、過酷な状況を生き抜く術を知らない。食料に困った彼らは、島にたくさんあるキノコに手を出し……「お~いしいわぁ~♥」。彼らは自分が怪物になってることにも気づかずキノコを食い続け幸福感に浸る。キノコ人間にならないためには、島から抜け出すしかないんだよ……。


また、大学生1000人を対象に行ったアンケートでは、前田に共感すると答えた男子学生がダントツ1位だったし↓
桐島、部活やめるってよ:大学生1000人調査で“リアル過ぎる”共通点が明らかに


主題歌「陽はまた昇る」のPVの中で、前田は高校卒業後、ピザ屋の配達のバイトになったことが描かれてるけど↓
高橋優 MV「陽はまた昇る」スペシャル編集編


これらについても『絶望の国~』を読んだら「ああぁ~!そうだろうなぁ~!」と妙に納得したよ!でも前田はきっと考えを変えるんじゃないかな?主題歌PVの全長版は現時点で公開されてないけど、彼は映画監督を目指すことになると予想!


そしてもうひとつ、ガス・ヴァン・サント監督の映画『エレファント』。この作品について喜安浩平さんは「同時刻を重複させる技法だけ試した」と語っておられたので、登場人物などについて特に参考にしたということはないみたい。ただ、個人的にはこの映画の人物描写にも強く惹かれたし、とりわけ、いじめられっ子がいじめられっ子を殺しちゃうシーンに衝撃を受けた。「自分とは違う」と思っていた人でも、お互いにもっと良く知り合っていれば仲良くなれたかもしれないのに……。
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そしてそのことは、『桐島』の登場人物たちにも言えるんじゃないかと思う。例えば前田と宏樹。見た目も全然違うし、カースト上位と下位で、クラス内でのポジションも違うふたりだけど、実は同じタイプの人間なのでは?女の子への接し方を見てみろ!前田がかすみに近づけないのと、宏樹が沙奈と別れられないのは同じ理由。どっちも超優柔不断じゃん!部活のことでもそうだよネ。8ミリカメラなんてこだわりのブツを持ってるくせに「映画監督は無理」とか言ってる前田と、未練たらしく野球部のカバンを持ち歩いてるくせに試合に出ようとしない宏樹、コイツらおんなじだよ!だから宏樹が泣いたのは、「自分とは違う」と思っていた前田の中に、自分と同じものを見つけたからじゃないかな。


オレが初めて『桐島』を観た時、違和感を覚えたのは前田のキャスティングのこと。映画オタクの彼を、なんで神木隆之介みたいなハンサムが演じてるの?従来の日本映画に出てくるオタクって、もっとキモい、いかにもオタクって風貌してることが多いよね。そこから発想して、もしも『桐島』が実話の再現ドラマだったらと仮定した場合、現実世界の前田も、まァ神木くんほどじゃないにしても、それなりにハンサムなんじゃないかって思うんだ。だから恋のチャンスにもそれなりに恵まれてる。映画館のロビーでかすみと出会った時、彼女は前田にわざわざ隣の席をあけてあげてたじゃん?他に彼氏がいる女の子が、ただ同じクラスってだけの、普段ろくに口もきかないようなヤツに、普通あんなことするものなのかな?前田は優柔不断なばっかりに、ただ立ってニヤニヤしてるだけで、せっかくのチャンスを逃しちゃう。つくづくバカだねぇアイツ……しかも前田はハンサムであるばっかりに恋をあきらめきることができず、趣味に専念することもできなくて、宙ぶらりんな状態になっちゃってるんだよね。そりゃかすみも愛想つかすわな。


その点で最強なのは武文だね。アイツは恋しようなんてハナっから考えてないから趣味に専念してるし、おそらく自分の夢に近づける可能性を一番持ってると思う。言うこともいちいち正論で、観客にとっての「答え」となる核心部分を語っているのは、実は武文だ。ただし彼はコメディリリーフとしての役割も担わされているので、いくら正論を吐いても観客は笑うばっかりでまともに聞こうとしない。だから武文のことをバカにしてるうちは、観客たちはいつまでたっても「答え」を見つけられない。そのことは、映画のシナリオを読んで(つまり、言葉だけの状態で)劇中のセリフを入れ替えてみるとわかりやすいね。


実果「すごい頑張ってたんだよ、小泉くん。でも結局負けるんだな、いくら頑張っても。なんのために頑張ってるんだろうね」

観客「うぅぅ~む?なんで頑張ってんだろなぁぁぁ~????」

武文「体育の授業で何点取ったってな、無意味。Jリーグ行くんだったら別だけど」

観客「アハハ、そりゃそーだろうけども、オマエに言われたかねーよ!」

武文「笑ってろ今のうち」「好きなだけ不毛なことさせてやる」


一方、宏樹の周辺人物で言うと、武文的ポジションにいるのは「パーマ」こと竜汰だ。パーマは武文の分身じゃないのかな?その証拠に、どっちもトイレに入ってハンカチで手を拭かない!まァそれだけじゃなくて、彼の言うこともいちいち正論なんだよね。特に「じゃあバスケ部入れよ」なんて、武文のセリフと根本は同じだ。しかし彼は『桐島』を好みそうなサブカル系の若者がパッと見で嫌悪感をもよおすような外見だから、観客たちはやっぱり彼の言葉を素直に受け入れられない。そこから思ったことは、たぶん吉田監督は、観客たちが「自分とは違う」と思うような人物に、あえて重要なセリフを言わせてるんじゃないかってこと。観客自身が偏見を捨てて耳をすまさない限り、大切なことはいつまでたってもわからないというワケ。


そんな吉田監督の分身は、もしかして映画部顧問の片山では!?その証拠に、吉田監督と片山(演:岩井秀人)は、顔が似てる!それと、片山が脚本を書いた映画内映画『君よ拭け、僕の熱い涙を』(通称『キミフケ』)のタイトルについて吉田監督は「『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』みたいな命令形の言葉にしたかった」とポッドキャストで語ってるし。片山は押しつけがましくてうっとおしいヤツだけど、彼の言葉を耳をすまして聞いてみると、意外といいこと言ってるんだよ!おそらく片山が作り手の考えを代弁する役割を担ってると思う。本題からちょっと逸れるけど、『キミフケ』もサブカル好きの観客がいかにもバカにしそうな映画だよね。むしろ今はゾンビ映画の方が認知されてるでしょ。


もうひとりのオレ的要注目人物は野球部のキャプテン。「ドラフトが終わるまでは」のところでは劇場内で笑いが起こったそうだけど、彼をバカにしちゃいかん!キャプテンの場合はセリフそのものだけじゃなく、表情や言葉のニュアンスからも心境の変化が読み取れる。以前は宏樹の顔色をうかがってオドオドしていたのに、「ドラフト~」のシーンでの堂々とした態度!宏樹に「どこ行くの?」と尋ねるところは「相変わらずフラフラしてんのかお前」とあきれた様子だし、宏樹から「どこ行くんスか?」と問われた時の「練習に決まってんだろォ……」は、もう自分にとっては野球をやることが当り前!これこそがオレの生きる道!と言わんばかり。練習を重ねるうちに何かしらの手ごたえを掴んだんじゃないかな。もしもスカウトが来なかったとしても、彼はきっと自分の夢を追いかけ続けると思うよ!


そして映画のラスト、宏樹は「桐島に電話をかける」と「野球部が練習しているグラウンドを眺める」という、まったく正反対の意味を持つ行為を同時にやっている。これまで映画を観てきた観客自身の心の色によって、映画のラストも違うものに見えるという仕掛けだ。オレは初見時「あ~やっぱし桐島頼りからは抜け出せないのか~……」と思ったけど、2度目に観た時は「ついに野球部に復帰するのか!やったね宏樹!」と思ったね!


ハイ!とゆうワケで、現時点でオレが考えついたことはこれで終わり!もう限界だぁ~!解釈ってよりただの妄想ばっかりだけど、監督本人が「作り手の側から『そんなことは考えてません』と限定しない」と宣言しちゃってんだから、これでいいのッ!こう見えても「正解」なのッ!ただ残念なのは、あれだけたくさんの登場人物がいるのに、オレが共感できたのは前田と宏樹だけだったから、彼ら周辺のことしかわからないんだわ。例えば風介なんかもすごく魅力的なキャラだと思うし、彼の頑張りを「不毛」の一言で否定する気にはどうしてもなれないんだけど、オレから彼に何を言ってあげたらいいのか、まだわからないんだよねぇ。だから他力本願だけど、『桐島』を観た人それぞれの意見をもっと読んでみたい。まだまだ色んな謎がいっぱい隠されてるゾ!みんなジャンジャン語ってよネ!なにせ『桐島』に関しては、中森さんや町山さんのような当代一流の論客が語ったことと、オレみたいなどこの馬のホネともわからんオッサンの妄想とは、まったくの同価!すべてが「正解」なんだよ!すばらしいと思わない?そう考えると、『桐島』について語れば語るほど自信がついてくるネ!こりゃ~語らにゃソンだぜぇ~?

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