『苦役列車』【予告編】【DVD情報】
2012年公開 / 監督:山下敦弘 / 出演:森山未來、高良健吾、前田敦子ほか
(【前編】からのつづき)
この映画には二人の「友達」が登場する。まずひとり目は、貫多が港湾荷役のバイト先で知り合う専門学校生・日下部正二だ。このキャラは原作にも出ていて、設定面でも描写面でも大きな改変はない。貫多は他に友達がいないが、正二は学校の友達も多そう。仕事の覚えも早く、スポーツマンで、外見も'80年代シティボーイ風。貫多は彼と自分の違いばかり気にして「お前、本なんか読むんだ?」と問われれば「中卒だからってバカにするなよ」とつっかかり、機械の操作について「コツをつかむと簡単」と言われれば「それはぼくの頭が悪いって言ってんのか?どうせ中卒だし……」などと、いちいちヒガんでみせる。
しかしそれでも、無茶をふっかける貫多にお金を貸してやったり、連日の酒の誘いにも付き合ってやったりと、正二はよくやっていると思う。ただし、貫多がコンパに連れていけとゴネると、他の友達のことを気にして断るし、何か共通の趣味を持っている訳でもなく、映画に誘ってもつれない返事。貫多はそんな正二を自分の世界に引き込もうと風俗に連れていくが、あまり乗り気じゃなさそうだ。さらには正二に彼女ができて「もう風俗には行けない」と言ったことから、二人の間の溝は徐々に深まっていく。
そして決定打となったのは、貫多が正二の彼女・美奈子に会わせてもらい、女の子を紹介してくれるよう頼んだことだ。映画や芝居に詳しいという彼女に「将来は女優でも目指してるの?」と尋ねるとフッと鼻で笑われ、その後は『GS』がなんたら中沢新一がどうたら、貫多の理解できない話ばかり。おまけに、かつて映画の誘いを断ったはずの正二まで「こんど小劇場のスタッフさんを紹介してあげる」などと調子を合わせている。貫多は二人の態度に激怒し「女の前だからって高尚ぶるんじゃねえよ!ぼくの言う映画とてめえらの言う映画は、映画が違うとでも言いてえのか!」とブチまけてその場を台無しにし、ついに正二と決別してしまう。
この時の貫多の気持ちはよくわかる。オレも評論家の人とかが自分の好きな映画をバカにしているのを見てアタマにくることが多いもの。別に美奈子は何も悪いことは言ってないし、正二も善かれと思って会わせてやったまでだ。平生からさんざん世話になってるし、どちらが悪いかと言えば、正二の好意を無にした貫多の方が圧倒的に悪い。しかしこの問題には善悪では割り切れないものを感じる。正二って要するにミーハーなんだよね。自分自身の立脚点というものを持たず、ただ強い立場の人間になびいてるだけ。美奈子もただエラいセンセイの名前を挙げて偉そぶってるだけ。オレはこの二人を見て、町山智浩さんが前にブログで語ってた「オレは利口だ光線」という話を思い出したよ。
「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」2004年2月21日
その後、正二が「いつまでも甘えてんじゃねぇよ」と言ったのはもっともで、彼が離れていくなら、貫多は他の友達を探すべきだったかもしれない。しかし、暴言を吐かなかったとしても正二はいずれ離れていっただろうし、彼女ができたからと言って貫多の方を疎遠にしていいという理由にはならない。「空気読め」と言うならそれもそうかもしれないが、相手が一方的に作った空気を読まねばならないなら、そこには立場の優劣ができあがってしまい、その関係は友達とは呼べなくなってしまう。貫多は自分が「量産型トモダチ」になってしまうのが悲しかったんだろうね。だからたとえ決別することになっても、正二と対等の関係であろうとするなら、やっぱり本音をぶつけるべきだったのだと思う。
そしてもうひとりの「友達」は、貫多の行きつけの古本屋でバイトする大学生・桜井康子だ。彼女は映画版のオリジナルキャラで原作には登場しないのだが、正二と違って学生生活のことをあまり言わない。貫多が「学費を自分で稼いでいて、自分で弁当を作って食べている」と語っているぐらいだ。でも「本を読むぐらいしか楽しみがない」という貫多と意気投合したり、どちらも横溝正史を愛読していたり、違うように見えて、実は貫多との共通点は多いんだよね。また、貫多と一時疎遠になっていた後で発した「ヒマでヒマで死にそうだった」という言葉から察すると、彼女も貫多と同じく、一緒に遊びに行くような友達はいないようだ。
康子に恋心を寄せる貫多は、正二に仲立ちしてもらって彼女に「友達」になってもらうものの、貫多には「異性間の友情」という概念が理解できない。彼の中では、恋人は「すぐヤれる人」で、友達は「そのうちヤれる人」ぐらいの違いしかなく、異性を肉欲の対象としか見ていないので「友達ってどうやってなるんだ?」「ヤっちゃいけねぇのかよ?」と考え込む。一方の康子は、貫多が「友達だろ?」と言うので女の独り住まいの部屋に入れてやったり、けっこう無理を聞いてやってるところを見ると、貫多のことを良い友達だと思ってたんじゃないかな?しかし、そんな康子には実は遠距離で付き合ってる彼氏がいて、それを告げられた貫多はショックを受けてしまう。
その後の康子がとった行動は正二とは対照的だ。彼女は自分に彼氏がいると教えたのだから空気を読むまでもなく、現状では恋愛関係になれないことがハッキリしている。それなのに貫多は夜中に彼女の部屋に押しかけようとして無理矢理押し倒した。つまり貫多は威力をもって対等の関係を壊し、自分の有利に導こうとしたんだよ。彼が抱いている不満は「ヤりたいのにヤらせてくれない」というもので、いくらそれが本音でも、そんな身勝手なことをぶつけるのは友達のすることじゃない。だから康子が怒るのは当然だ。また、このとき康子が与えた攻撃がパンチやキックでなく、攻撃する側とされる側が同じ痛みを分かち合う「頭突き」だったのは示唆的だよね。彼女にとっての貫多は恋人ではなくても、対等と思える「康子専用トモダチ」だったんだ。
康子の友情を示すものがもうひとつある。ふたりが決別した後、貫多に渡すよう託けられた推理小説『泥の文学碑』だ。これは実際に西村さんが小説家になるきっかけを作った本だが、映画の中では康子が渡したという設定になっている。しかも「この本を読んでたら北町くんが浮かんできたよ」というメッセージつきだ。康子は映画のオリジナルキャラなので、この本を読めば、山下監督ら映画の作り手側が考える「貫多像」が浮かび上がってくるのでは?オレはそう直感して読んでみたけど、推理小説と言うよりも戦中戦後の小説家・田中英光の評伝のような内容だった。
泥の文学碑 (角川文庫 緑 406-17)/土屋 隆夫
¥316
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先に白旗あげてしまうと……すんまっせんッ!オレは国文学科卒なのに、田中秀光の小説は一遍も読んだことありまっせんッ!キャ~はずかし~!まぁとにかくっ!『泥の文学碑』に書かれていた彼の半生はなかなか面白かったよ。それによると田中は、酒と薬物と娼婦との愛欲に溺れて精神病院に入れられ、果ては師と仰ぐ太宰治の自殺とともに自身も睡眠薬を飲んで命を絶ったという人だが、もともとは荒廃した環境に育った訳でなく、その父親は歴史家で文人でもあった。少年時代の田中は気のやさしい甘えん坊で、大学時代はスポーツ選手でオリンピックにも出場し、その旅の途中、女性選手とロマンチックな恋をしたという。そんな人がなぜ退廃的な生活に身を落としていったのか?この本は次のように考察してるんだ。
「英光が受けついだものは、単に『文人の血』だけではなかった。彼は『私の父系の血には狂気の血統が流れているのかもしれぬ』と書いているが、こうした怖れを抱かせるほど、父も祖父も、激情的な性格の持主であった。特に父親は、酒乱の傾向があったという。この”狂気の血統”に対する畏怖感は、英光の心の深部に、いつも重たく沈殿していた筈である(中略)自殺の背景には、”狂気の血統”に対する怯えがあった。彼は、自らを狂人に仕立てることによって、発狂の恐怖から逃れようとしたのではないか。彼は、意識的に狂気の世界へととび込んだ。遺伝的な『発狂』が訪れる前に、人為的な『発狂』を、自らの手で実現した。それが、彼を怯かし続けた黒い『血統』に対する、ただ一つの復讐であった」
この「狂気の血統」という言葉を聞いて、何か連想しない?これって父親の事件がきっかけで荒んでいった貫多や西村さんと似てるんだよ!じゃあ西村さんはどんな少年期を送ったんだろう?それについては、彼が『スタジオパークからこんにちは』に出演した時の映像がおおいに参考になった。西村さんは「明るく、友達も多く、野球好きの普通の少年だった」「姉が読書好きだったので、その影響で『赤毛のアン』や『キュリー夫人』等の名作や伝記をよく読んでいた」「貫多が丁寧な言葉遣いをするのは、自分が裕福な家庭で、言葉遣いに厳格な両親に育てられたから」と語っているんだよ。やっぱり田中秀光と同じだ!貫多が自分のことを「ぼく」と呼ぶのにもそんな理由があったとは!荒っぽく見えて実はお坊ちゃん育ちじゃないの!
康子が『泥の文学碑』から何を伝えようとしたのか見えてきたよ。貫多は父親のせいで運命が変わってしまったけど、それで性格が荒んだのには、貫多自身が「選んだ」という側面もあるんじゃないか、つまり「人為的な発狂」だったんじゃないかと思うんだよね。彼ももともとは康子や正二と同じ普通の少年だったし、読書好きなことが康子と出会うキッカケになったんだし、その原点を思い出して気長に待てば、恋人になっていた可能性だって充分にあったはず。それなのに中卒だとか何だとかってコンプレックスを持って、他人との間に壁ばかり作っていては友達なんてできないし、それでは「コミュ障」と変わらないんじゃないの?山下監督が貫多をオドオドしたキャラとして描いたのは、そんな貫多の内面を見た目にわかりやすく表現したものなんじゃないかな。
同じことは西村さんにも言えるのでは?山下監督のことを「親のスネをかじり、まともな進学コースを経てきた人間」なんて突き放したこと言わなくてもいいはずだし、自分本来の姿を見つめ直せば、きっと彼との共通点も見つかるんじゃない?それに西村さんは今や押しも押されもせぬ芥川賞作家なんだし、未だそんなコンプレックスを持ち続けてるなんておかしいよね。そして『新潮』2012年8月号に掲載されたこの二人の対談がこれまた面白かったので引用しておこう。山下監督が映画批判について文句をぶつけているんだよ!この白熱のバトルは映画並みのド迫力!
山下「原作でも、実体験を書いてるとはいえ、西村賢太さん本人ではなく、北町貫多という名前で描かれてますよね。似たような感覚だと思うのですが、僕らも僕らなりの映画版『苦役列車』、そして貫多を丹精に作り上げたつもりです。それで、ひとつ現場の代表としてどうしても気になったというか言っておきたかったのが、ネットで読める西村さんの日記にあった映画版に対する批判的な言葉についてですが、当初プレスなどでは好意的だった褒め言葉や態度をガラッと一変させたのは不可解で、東映サイドと何があったのかは知りませんが、正直とっても腹立たしく感じました。映画としては森山君ともどもベストを尽くすことができた、と感じていただけにそのへんは残念でした」
西村「原作者は、見てつまらなかった映画をどこまでも褒めなきゃいけないとでもいうんですか?それこそ僕としてはよほど腹立たしい。美点のみ挙げた一文をプレスやメディアに寄せているのは、そこがあくまでも映画の宣伝の為に用意された場だからです。そこは批判を開陳すべき場所じゃない。原作者として最低限の協力とエチケットを発揮したまでのことに過ぎません。だから当然、批判は批判として別にある。制作サイド云々は別にした、映画そのものに対する批判がね。讃辞だけを聞きたければ、自主制作で仲間うちのみでの上映にすればいい」
いやぁ~どちらの意見もスジが通ってて、どちらが正しいとも言えないんだけど、オレはこれを読んで「実はこの二人って、案外と良い友達になれるんじゃないの?」と思ったんだよねぇ。だって西村さん相手に自分の本音をこれだけ堂々とぶつけてる人なんて他で見たことないもの!それに、そもそも彼らは『苦役列車』という作品を愛するがゆえに対立してるんだし。
友達になるまでいかないくても、西村さんはもう一度、山下監督と交流を持ってほしいよ。彼は「宣伝のため」と称して批判を行ったけど、結果的には映画は不入りになってしまったんだもの。彼に全責任があるとは言わないまでも、原作者の名前であれだけ大々的に「宣伝活動」を行ったのだから影響がないはずがないし、そこは謝罪しなきゃいけないんじゃないの?しかし、もしも映画批判が純粋に別の目的でのみ行われたものだったら、原作者なりの主張はあってしかるべきで、それ自体には謝罪の必要はないだろうけど、ただしその場合、西村さんは嘘をついていたことになるのだから、真実をちゃんと打ち明けて、そのことだけは謝らなきゃネ。第一、前田あっちゃんに汚名を着せたままじゃかわいそうだろ!
『苦役列車』を観たお陰で、オレは自分の「友達観」を固めることができた想いだよ。ここで学んだことを応用すれば、過去の失恋にも決着がつけられる。自分なりに筋道を立てて考えてみよう。まずは職場の好きな人の場合。仮に彼女が嘘をついていたとしても、やっぱりオレはそれを暴かなくて良かったと思うよ。もっとよく知り合えば、彼女との間にだって自分との共通点は見つけられたかもしれない。だけど、オレの言葉は彼女のそれよりももっと強い力を持っている。そんなオレが彼女に本音をぶつけても真意は伝わることなく、ただ傷つけたり威圧感を与えてしまうだけだろう。それなら、小さな嘘は自分の胸の中にしまって、ただ笑顔で送り出してあげればいい。でも、本音で語り合うことのできない彼女とは、やっぱり友達にはなれない。
しかし、大学時代の彼女の場合は違う。彼女が持っていた言葉の力は、オレと対等かそれ以上だ。その相手に自分の考えを堂々とぶつけなかったことを今さらながらに後悔している。彼女に友情を裏切られたことは確かだけど、オレ自身も彼女の友達であることから逃げていたんだ。もちろん、本音をぶつけても彼女は変わらなかったかもしれない。しかしそれでも、自分がおかしいと思ったことはちゃんと言わないと。相手の気持ちが痛いほどよくわかっても、間違ってると思うことはちゃんと諌めないと。それで永久に離ればなれになってしまったとしても、その関係は友達と呼べると思うから。
大学時代の彼女は、卒業後どこかの大学の講師に就任したという噂を耳にしたけど、その後の消息は知らない。かたやオレはと言えば、四十過ぎても未だウダツの上がらぬ工場の派遣労働者だ。しかも、好きな人と休憩時間や退社時間が違って話す機会がなく、やむなく職務時間のほんの短い隙を見つけて話しかけていたことが上の人たちから不真面目に思われたようで、部署を配置換えになった。ここ数年、派遣切りがどんどん進んでいる状況だけにクビが皮一枚で繋がっただけでもありがたいが、これが最後通牒だろうな……。
配置換えの日の朝、好きな人には「今日から別の部署に行くんですよ!もうあまり顔を合わせることもないですね……」とニッコリ笑顔で言えた。自分としてはサヨナラ宣言のつもりだったけど、向こうは何のことかわからずキョトンとしてた。朝日だけが虚しくサンサンと輝いてたよ。くぅ……まったく、どうしようもない。自分の選んだ道が正しかったなんてとても言えないけど、しょうがないよ、こうやって考えて、ひとつひとつ納得し選択していくことがオレの生き方だ。そして、心から友達と思える人とは腹を割って話すことが、これからのオレの生き方になる。しかし恋はどうかな……この歳じゃもう二度とないか?でも、もしもまた恋をすることがあるなら、今度は友達になれる人がいいね。