埼玉県川越市の製本業 -製本の事なら株式会社豊翔-

 

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埼玉県川越市の製本業 -製本の事なら株式会社豊翔-

豊翔のブログ



お試し

自信はどんな変装よりも、あなたを変えます。

ほとんどの人は、やってもいないのに自信がない、などと言います。

やらないで自信を付けた人は、残念ながら歴史上一人も存在しません。

自信は、目標達成に向けて必要なことは何でもするという決意と、何事にも屈することのない熱意によって形創られていきます。

ここでひとつ、理解しておかなければならないことがあります。

それは、自信というものは、実はあなたが気にしている障害が築き上げてくれるということです。

どんな種類の仕事であれ、障害は間違いなく訪れます。

そしてそれはどういう訳か、必ず目標設定後のかなり早い時期に訪れるか、真っ先に出くわすことが多いのです。

その原因をはっきりと説明することはできませんが、人間の内部にある不思議なメカニズムは、どうやら困難な問題を最初に持って来て、あなたの覚悟を試すという傾向があるようなのです。

この「お試し」の時、逃げるか進むかの二者択一のなかで自信の種が蒔かれ、その種があなたに目標達成の近道を指し示してくれるのです。

要するに、必要だと思っていたのにやらなくてもよいことがいくつか現れてくるのです。

必要なことは何でもするという決意と、何事にも屈しない熱意が、目標達成に加速度をつけ、予想していた困難をほとんど無くしてくれるという現象が起こるのです。

その現象を呼ぶ本質のエネルギーこそが、事に対峙して揺るがない自信なのです。

自信は決意と熱意と、そしてリスクに自ら飛び込んでいく勇気のなかで形創られていきます。

障害が目の前に現れたなら、「来たか!」と腹を据えて、不敵な笑みを口許に浮かべて立ち向かっていきましょう。

お試しの時こそが、栄光の時なのです。



トモダチ

あなたの人生の扉を開ける鍵は「勇気」です。

断じて進む勇気を持ちましょう。

「百万人といえども我はいく」

かつて維新の扉を開いた英雄、坂本竜馬は言いました。

勇気とは、前進の異名です。

そして、勇気にはもう一つの勇気があります。

それは、「パスする勇気」です。

江戸時代のある商家には、こんな家訓がありました。

貯蓄十両、借金百両、投資千両。

そして、見切り万両。

やりくり、節約、我慢を人生経営の大きな柱に据えて、こじんまり貯蓄に励んでも、それはたたが知れていて、その価値はたかだか十両ほどのものだ。

それなら、まだ借金出来る信用を持っている者の方が価値は上だ。

しかし、さらに借金の上をいくのが、今という時を再生産する、未来のための投資である。

だが、投資よりも何よりも「見切り」が大切であり、物事は決して深追いしてはならない。

事に当たっては、自分のなかにぶれない「原理原則」を持って、人と事の運びと時の流れを見切ることが重要だ。

見切るとは、「潮目」を読んで、引くべき時に鮮やかに引ける「撤退の勇気」を言う。

こうしたことをしっかりと理解している商人が、永く反映するという教えです。

人と対峙した時は、あなたのなかにある原理原則に照らして、その人とこれから関わるかどうかを判断しましょう。

人を人足らしめるものは、その人が持つ価値観以外にはありません。

あなたをあなた足らしめている価値観を共有出来る人だけが、価値観の仲間なのです。

それ以外の人は、環境が決めたトモダチです。

環境が決めたトモダチは、遅かれ早かれ必ずあなたから離れていきます。

離れていく人を見切ることが出来ず、いつまでもおぼろげな可能性にしがみついて深追いすれば、その結末はあなたを小さな人物として、あなたから未来を奪うのです。

「これは違う!」

そう感じたら、パスする勇気を持ちましょう。

撤退は鮮やかに。


スパッと切り替えて、次のゾーンで頑張ってみるのです。



発展の契機

求めない!

我欲を捨てる!

行き詰まった時は、
こうした健全な諦感(ていかん)を持ってみましょう。

行き詰まりの本質は、我欲です。

人は色々なモノを欲しがり、
また、地位を得ると人を操りたがります。

しかし、モノを弄(もてあそ)べば志を失い、
人を弄べば徳を失います。

長い人生の中で、人は何かを求めて、
がむしゃらに突き進まなければならない時があります。

夢を見て、夢を追いかけて、貪欲に知識を吸収する。

人として成長していく出発点は、
求める姿勢の醸成にあります。

成功を目指して、
たどり着こうとする一点だけを見つめて、
自己実現に向けて走り続ける。

こうした姿勢は、
成功するための必須の要素であることは論を待ちません。

しかし、なのです。

真の高みに至るための鍵は、
「境地」にあることを知らなければなりません。

よく役者が、「新境地を開いた」と言われたりしますが、
そうした境地が開かれて、
人は次のステージに進むことが出来るのです。

ひたすら前進するということと、
健全に諦めて人に求めないというアンチテーゼ。

こうした考え方を、
「アウフヘーベン(止揚)」といいます。

これはドイツの哲学者ヘーゲルが、
弁証法の中で提唱した概念です。

それは、以下のような考え方です。

古いものが否定されて新しいものが現れる際、
古いものが全面的に捨て去られるのではなく、
古いものが持っている内容のうち積極的な要素が、
新しく高い段階として保存されるとします。

このように弁証法では、
否定を発展の契機として捉えました。

そうした観点に立てば、人に求めないという否定は、
次の新しい発展への契機として、
より積極的な自分軸を構築する要素となるのです。

行き詰まりを感じた時は、少し落ち着きましょう。

まず身体を緩めて、心も緩めてみるのです。

何も求めず、自分の道をただ歩くことだけを考えるのです。

揺るがない自分を再発見することが出来れば、自ずと道は開けてくるからです。



人生の差

「己に打ち勝てば、天下はその徳に従う」

二宮尊徳が残した言葉です。

自分に勝つ力が、今ほど求められる時代はありません。

欲が無ければ、人は前に進めません。

欲は、人を力強く前進させるエンジンだからです。

しかし、車はエンジンだけでは安全に走ることは出来ません。

ハンドルやブレーキが必要なのです。

ハンドルはインテリジェンスであり、ブレーキは自己制御できる力です。

この「知性」と「自分に打ち勝つ力」があって、「欲」は健全で力強いエンジンとなり人を前に進めます。

敵は我れにあり!

如何なる分野であれ、自分を律していける人だけが最後の勝者となることを忘れてはなりません。

実は、人生は他者との競争ではありません。

自分との戦いなのです。

自分自身と真正面から勝負する!

妥協した分だけ、「人生の差」となって自分の環境に現れてきます。

届かなかったのは、諦めたからです。

何故諦めたのか?

結局、自分に負けたのです。

人生はレースではなく、フィギュア・スケートのような採点競技に近いような気がします。

競技ですから、勿論そこそこの技術があることは大前提ですが、最後は自分の演技がいつも通りに出来た人が勝者になります。

弱い自分と戦って打ち勝った人だけが、栄光を掴むのです。

真の力は、自己制御にあります。

昨日の自分を超えていきましょう。

敵は我れにあり!

この姿勢のなかに、状況を根本的に変革する力が宿っているのです。



根本療法

お金が無いから貧乏なのではありません。

考え方が貧乏だから貧乏なのです。

例えば本当に痩せたければ、どうしたら痩せるかをあれこれ情報収集しても、結果的に無駄です。

何故ならば、そんなことは本当は当人がとっくに知っているからです。

痩せる方法を知っているにも関わらず、何故いつまで経っても痩せることが出来ないのでしょう。

それは、現象の奥に潜む本質的な原因に目を向けようとしないからです。

即ちそれは、太ったという現象の奥にある原因です。

どうしたら痩せるかということではなく、何故太ったのかということが本質であり、ここを押さえない限り一時的に痩せたとしても、またすぐ元に戻ることは目に見えています。

これは、経済に対しても同じことが言えます。

どうしたらお金持ちになれるか、ではないのです。

何故貧乏なのか、なのです。

対処療法ではなく、「根本療法」を意識しましょう。

考え方とは、事が起きた時の「反応」の仕方につながります。

お金持ちの人が反応するゾーンと、貧乏な人が反応するゾーンは全く違います。

まずここを理解しましょう。

そのためには、付き合う人を変えてみるという発想も大切です。

今の状況を突破するきっかけとなるものは、「違和感」だからです。

違和感こそが気付きの入り口となります。

いつもいつも守りに入って、やり慣れたことことだけをやり、慣れ親しんだ人とだけ付き合っていると、自分という人間が花が開くが如くの速度で劣化していきます。

状況打開の鍵は、現象の奥に潜む本質に迫る覚悟と、違和感に飛び込む勇気にあるのです。



気持ちの歴史

伸びない人は、例外なく失礼な人です。

如何なる状況や人間関係においても、必ず、そこに至るまでの経緯というものがあります。

そうした経緯を推し量らずに、瞬間的に降って沸いた衝動を熱意と勘違いして行動すると、今まで築いてきた信頼を失うことになります。

人と人との関係は、現実に触れあった時間の長さと、その時どうお互いを思いやったのかという「気持ちの歴史」が創り上げていることを忘れてはなりません。

如何なる人も、頑張ろうとする状況に至るまでには、自分に気持ちと行動を注ぎ続けてくれた人がいます。

「注ぎ続けた」というところが大切なのです。

その流れの中で、自分が取るべき行動と発言を考えられる人が、ぶれないリーダーとなるのです。

自らの環境を成り立たせている重要な要素を、夢忘れてはなりません。

軽率な振る舞いと発言は、リーダーたる者として、厳に戒めなければなりません。

全ての生き物にはルールがあります。

同じように、人間関係にもルールがあります。

軽率な考え方は、軽率な発言と行動を生み、その発言と行動が信頼関係にヒビを入れてしまいます。

信頼を失ってからその重要さに気付く者を「愚か者」といいます。

失ってから気付いても、遅いからです。

人の気持ちが絡む局面では、「熟慮」する習慣を持ちましょう。

いくら純粋に相手のことを思っていたとしても、それが善意の押し付けと相手に映れば、結果的に相手に与えたものは「不快」となってしまうからです。

思いは、伝わってこそなのです。

相手に「快」を与えられる言動を、常に心掛けていく。

思っていることより、伝わったこと!

ここに人間関係の基本があるのです。



意識の分岐点

興味深い話を聞きました。

私たちがくよくよ後悔している時、脳はそれをキッカケにして成長しようとしているのだそうです。

深い後悔が、人を壮絶な練習に駆り立てていくからです。

単なる反省ではなく、過去の経験を振り返るのでもなく、こうありたいという想像を現実と比較しながら、未来のあるべき自分を模索する。

後悔したその時、自分は一体どうすることが良かったのかを、理想という想像と比較することによって、現実に起こったことだけを振り返るのではなく、こうすれば良かったかもしれないと深く思うことによって、未来の自分の感じ方や考え方を変えることが後悔の持つ真の意味であると。

悔しさをバネにするとよく言われますが、自分自身の今までの人生を振り返ってみても、何かにこだわって何かをやり遂げた動機は強烈な悔しさであり、それは深い後悔から発せられた壮絶な力となって自分を目標へと近付けました。

後悔を、輝く未来の力に変えるのか。

それとも、事あるごとに引きずるトラウマとするのか。

優れた魂ほど大きく揺れて、大きく悩んで、大きく後悔します。

優れた魂は、多感だからです。

後悔したのはその事の中に、魂が諦めきれない何かがあったからに違いありません。

どうせ悩むなら大いに悩み、どうせ後悔するならこれ以上ない後悔をして、それらを脳が更に力強く活性するためのキッカケとしてしまいましょう。

中途半端に悩んで、中途半端に後悔しているから、いつまで経っても引きずるのです。

「クソッ!今に見ていろ」

これくらいの覇気を胸に湛(たた)えて、力強く前に進むのです。

悔しさも栄光も、みな思い出の中に宿ります。

思い出を敵に回すのではなく、味方に付けていけるかどうか。

ここが意識の分岐点となるのです。



明日の夢

明日の夢は、今日の努力の上に創られます。

努力とは奮闘することです。

あなたは、今日という一日が人生最後の一日だとしたらどうしますか?

現実離れした質問ですが、自分自身の在り方をチェックするには、最適なアングルなのではないかと思います。

意識するしないに関わらず、人物と評される人たちは皆、今日という一日を人生最後の時の如くに明快に生きています。

彼らは自分自身が為すべきことに対して、迷いを生じることなど決してありません。

今日が最後の日なのですから、いちいち迷っている暇などないのです。

迷わないとは、ためらわないということです。

迷いとためらい!

実は人生を人生足らしめずに、ただの生存としてその価値を貶(おとし)めるものが、迷いと躊躇(ちゅうちょ)なのです。

この二つが悩みを生む根本的な暗黒物質、即ち「ダークマター」なのです。

この無意味な悩みを背負って、さらなる迷いと躊躇のスパイラルを描いても、行き着く先は自分が元いた場所です。

スパッと決めきってしまいましょう!

明日の夢を創る奮闘とは、決めきって一歩を踏み出す勇気を持つことです。

今、あなたの目の前で展開されている全ての状況は、他の誰でもないあなた自身が蒔いた種が萠芽(ほうが)したものです。

自分が蒔いた種は、自分で刈り取るしかありません。

もし、あなたが何かで迷っているのなら、「今日一日が人生最後の日ならば」と考えて自分と向き合ってみてください。

何かの気付きがきっとあります。

不平を言う前に戦う!

これがリーダーたる者が持つ、基本的な姿勢です。

苛立つようなことが自分に起きるのは、自分が小物だからです。

いつも取るに足らざることに引っ掻き回されて、何か起きる度にその些細な一つ一つのことが気になって、やるべきことに集中できない「私」。

苛立つなら、不甲斐ない自分に苛立ちましょう。

他人や状況を変えようとするのではなく、自分を変えるのです。

全て自分が引き寄せている!

人間は磁石のようなものです。

自分が愚かであれば、引き寄せてくる人も環境も、その全てが愚かなものとなります。

花には蝶、ゴミにはハエなのです。

状況を嘆いても、何も変わりません。

それどころか、その嘆きはあなたの命を曇らせ、あなたという命の器を無限小へと縮めていきます。

今日からは、一切の不平や不満は口にしない!

こう決断してみるのです。

ここが、あなたという一個の人格が磨かれていく出発点となるからです。



冒険

生きるとは、本来の自分を確認するための「命の研磨」を行うことです。

命の研磨は、違和感を感じる場所で経験することになります。

それは「傷付く」ということです。

あなたが本来の自分に会いたいのならば、傷付くことを恐れてはなりません。

傷付くことを恐れてどっちつかずの中途半端なことをすれば、そのツケは、死ぬ間際に痛烈な「後悔」となってあなたを傷付けることになるからです。

私たちはこの世を去ったあとは、一体何処へ行くのでしょうか?

それは誰にも分からないかもしれませんが、恐らくは大宇宙の一つのエネルギーとして元々いたところに戻るのではないかと思います。

宇宙のエネルギーとして、肉体も持たず囚われの我も持たず、飲まず食べず、ただ静寂に包まれて遠大な時の流れの中を「法則」として存在する。

人間の眼から見れば、気が遠くなるような静謐(せいひつ)な空間と深閑(しんかん)たる時間を、只ひたすらそこに存在し続けることで完璧な法則としての意味を体現する。

そのように考えると、本来の自分にほんの少しでも近付くということは実に凄いことだと思います。

ここで勝手な仮説を一つ。

私たちは過去、大宇宙の懐に抱かれた完璧な存在でした。

しかし、ある時その完璧さに退屈してきたのです。

その時、シンプルな疑問が沸き上がってきました。

「自分って一体何なんだろう?」

その瞬間、突き上げるような思いに襲われます。

「経験してみたい。そして、自分とは一体何なのかをもう一度確認してみたい。」

私たちはそうして、宇宙のエネルギーが唯一自分を確認出来る「人間」という形を持って、今という時に「自ら願って」生まれてきたのです。

自分を確認するとは、目的に満ちた経験をすることです。

ですから、人生とは目的に満ちた経験なのです。

傷付くことを恐れて、無難に空気を読みながら、ビクビクオドオドいつも心配しながら生きて、生活のモットーはといえばやりくりと我慢。

これでは何のために生まれてきたのか分かりません。

この思いが宇宙に帰る間際に、痛烈な後悔として自分を傷付けるのです。

人生は目的に満ちた経験であり、冒険です。

何が起きても大丈夫!

何故ならば、本来のあなたは「完璧」だからです。

大宇宙は私たちの母と父を選び、私たちが「努力さえすれば」出来るように産んでくれているのです。

あなたの命を研磨する場所は、いま目の前にある違和感のなかにあります。

違和感こそが冒険であり、あなたが求めていた気付きの場所であり、経験の場所だからです。



やってまれ!

雑音が耳に入ってきたら、それは、あなたがそのことに集中していないということの証です。

雑音とは、あなたが歩むべき道から離れたどうでもよいことに他なりません。

あなたの人生と関係のないことに心を奪われていては、あなたは何処へもたどり着くことは出来ません。

「夢は必ず叶うんですよ。あれやこれやじゃなくて、一つのことに集中すれば」

イチローの言葉です。

迷っていることそれ自体が、一番よくありません。

さっさと決めて、さっさとやりきってしまいましょう。

こうだと決めた一つのことだけを寝ても覚めても考えて、その考えを現実に実行するのです。

その時、あなたと関係のない雑音なんかが聞こえていたら、それはもう絶対に駄目です。

あなたの今までの過去の人生を振り返ってみてください。

何だかんだ言っても、今までやり遂げてきたことは、他人の雑音なんか全く気にもしないで、ただ一心不乱に我が道を突き抜けた時だけだったはずです。

今こうして振り返ってみれば、不惑の心境で突き抜けたその時こそが、「ここぞの時」でした。

やってみて駄目だったら、また一からやればいいのです。

この覚悟がないから、どうでもいい些細な雑音に心が敏感に反応するのです。

青森の五所川原市のねぶた祭りは、ねぶたを引っ張りながら「やってまれ!やってまれ!」と皆で声を掛け合います。

「やってまれ!やってまれ!」

この精神が大切であり、迷ったらゴーなのです。

あなたが現役でいる限り、どうでもいい雑音など完璧に無視して、只今この時を駆け抜けていく気概を持たなければなりません。

気持ちを大きく持って、堂々と悠々と前進していく人こそがリーダーたるべき人なのです。



人と人

何か起きた時は、絆を創る時なのだと理解しましょう。

雨降って地固まると言いますが、少し言葉足らずのような気がします。

雨降って、地を固めるのです。

何か事が起きて、それを有機的に繋げてより高い次元の価値に昇華させるためには、意志が必要です。

意志ある処に、道は「突然」拓けてくるからです。

一人の断固とした意志が絆で繋がって、強いチームが徐々に出来上がってきます。

人と人との奇(く)しき縁(えにし)は必然的な出会いとなって現れ、そこに思いが生まれて夢を創るパワーとなるのです。

出会いは夢の始まりです。

出会いを夢の始まりにするためには、出会いの根底にある縁を絆に変えなければなりません。

その絆と絆を「志」という、魂の領域にある不動の決意で連結していくのです。

その思いの源となる行為こそが、コミットメントです。

それでは一体何にコミットメントするのでしょう。

それは、絆です。

絆にコミットメントするのです。

絆は運命を変更します。

起きてきた出来事それ自体には、何の意味もありません。

その出来事に何かを感じて、そこに寂しいとか感動したとかいう意味が宿って、人を動していくエネルギーとなるのです。

人を動かしていくエネルギーの源である思いが、お互いの成功と幸せを思い合う絆でしっかりと結ばれている人は、何が起きても動じることはありません。

悲喜こもごもの現象に一喜一憂することなく、魂という不動の領域にある決意から生まれる志を意識しましょう。

ここにコミットメントするのです。

人生は何にコミットするかで決まります。

絆にコミットした人だけが、志で繋がる人間関係を手にすることができるのです。

全ては人と人との関係から始まります。

One for All !

All for One !

心温まる人間関係を構築してはじめて、人生が回り始めることを肝に銘じましょう。



伝道師

成功しようと真剣に思っている人は、いちいち「ヤバイ」ことは言いません。

ヤバイこととは、メゲたこととか、不慮のアクシデントとか、それを言うことで人に心配をかけて人のテンションを下げることです。

ヤバイことを、あたかも手柄話のようにペラペラ喋って、それで当人は気が晴れたように思っていますが、実はそんなことはありません。

そのヤバイことは、命の奥底くに深く刻まれて、ペラペラ喋っている当の本人を小者へと誘導するウイルスとなるのです。

人生は決断の連続です。

故に、人生は決断力で決まります。

決断の差が、人生の差になって表れてくるのです。

決断の本質とは何か。

決断とは、別れを覚悟することです。

これが決断の本質です。

心配、不安、恐怖の本質は「別れ」なのです。

別れたくないから頑張っている。

これが人間の動機の究極です。

しかし、今までとは違う新しい何かをどこかでやり始めなければ、今いる状況それ自体が腐ってきます。

進化を選択すれば、誰かとの別れがくるかもしれません。

そうした不安が、蚊に刺されたようなことをヤバく感じさせて、自分を「不安の伝道師」としていくのです。

不安と恐れは宇宙を敵に回します。

今日からは、いちいちヤバイことは言わない!

こう決断しましょう。

ヤバイことが起きたら、それを逃げずにしっかりと受け止めてしっかりと反省して終わりです。

反省したら終わり。

もう囚われない。

囚われないとは、思い出さないことです。

決断とは思い出さないことであり、捨てることなのです。



想定内

「決然たる意志の持ち主は、世界を自分に合わせて形創る」

ドイツの文豪ゲーテは言いました。

信念がブレた時、人はその他大勢の一人となって光を失います。

あなたが決然たる意志を持って事に臨めば、必ず風圧が競うように巻き起ってきます。

それは単純な「作用反作用」という、人生の原理だからです。

勘違いしてはならないのは、自分が凄いと思っていることは、簡単に人もそう思うはずだという幼稚な思い込みです。

自分が凄いと思っていることを相手に伝えたいのならば、まず戦略を持たなくてはなりません。

ろくに考えもせずにインスタントな行動を取れば、その結末は当人にとって衝撃的なものになります。

自分が凄いと思っていることを誰かに伝える、即ち「情報伝達」という仕事の肝は、いかに人と係わるかという一点に尽きます。

故にその戦略は、相手をよく知るというところから始まるのです。

成功者には「観察力」があります。

相手のことをよく観察出来ていれば、これから自分が取ろうとする行動に対してどのような結末が展開されるのか、ある程度の予測はつくはずです。

プロは自らの行動に対して、常に「想定の範囲内」でその結末の行き着く先を考えます。

そして、その範囲内ならば「誤差」と捉えて、決して落ち込むことはありません。

事を起こすにあたって真剣に取り組もうとする姿勢があれば、戦略の段階で徹底的に考えなければなりません。

我が仕事も人生を切り開く戦いです。

戦略をしっかりと持って戦う人をプロと呼びます。

さあ、人生という一度きりの戦場を、戦略を持って前に進むのです。



大河

意志あるところ、道は必ず拓けてきます。

しかもその拓け方は、何の予告も前触れもなく「突然」やってきます。

必ず解決してみせるという熱く不動の意志を、今目の前にある問題に対して持つことが出来れば、その問題の解決方法は予想だにしない途方もない方向から、ある日突然やってくるのです。

熱く固い不動の意志を持ちましょう。

そこに流れているものは「絶対に諦めない!」という、ドクドクと音のする脈々たる血液の如くの思いでなくてはなりません。

最後の最後に結果を生むものは、不動の決意であることを忘れてはなりません。

ただ動いても駄目なのです。

これさえやっていれば必ずたどり着く。

私は絶対やる。

こういう決意が宇宙を揺り動かすのです。

勝負の時に一番よくないこと。

それは躊躇(ちゅうちょ)です。

戦うなら戦うで、ちゃんと前に出て戦う。

守るなら守るで、思慮深く次の展望が開けてくるようなきちんとした守り方を貫く。

出処進退を間違えてはいけません。

なぜ、勝負の時に迷うのか。

それは、あなたがあなたを信じていないからです。

いつもいつも自分一個のことばかり考えている「エゴ」が、あなたを迷わせるのです。

あなたには「意味」があります。

あなたがこの世に生まれてきてくれたから、頑張れる人がいるのです。

小我を捨てて、大我に就きましょう。

苦しい時ほど前を向いて頑張るのです。

諦めたら全てが終わります。

今、あなたの目の前で「運命の振り子」が、可能と不可能の間を往き来しています。

どちらに止まるのか、ではありません。

どこに止めるのか、なのです。

意志ある処、道は必ず拓けます。

一滴の水が意志を持った時に、その流れは「大河」になるということを忘れてはなりません。



旅立ち

開かない扉はありません。

あなたが、「この扉はなぜ開かないのだろう」と本気で悩めたなら、その扉は必ず開きます。

本気で悩んだということは、そこに可能性があったというです。

あなたの無意識が、あなたを別次元に運ぶ可能性に反応したからこそ、あなたは悩んだのです。

悩みの根源は、ふたつしかありません。

ひとつは、可能性。

そして、もうひとつは逃避です。

その分かれ道は、扉の解釈にあります。

その扉を可能性と見れば、勇気が湧きます。

しかし、そんなの無理と見れば、どう逃げるかを事ある度に思って、あなたは勇気を放棄していきます。

人を逸材足らしめていくものは、勇気以外にありません。

勇気を失うということは、全てを失うということだからです。

開かない扉など、この世にひとつもありません。

旅立ちの儀式は、前向きに悩むことから始まります。

後ろ向きに悩んではいけません。

前向きに悩めば、真剣。

後ろ向きに悩めば、深刻。

所詮、目標設定といっても、観念論ではお話になりません。

あなたが目指す別次元のあなたと出会うために、どれだけ真剣に悩んだかだけが、リアルな目標となることを忘れてはなりません。



戦う楽観主義

これが大きな仕事を成し遂げる秘訣なのです。

行き詰まったら、夜明けはすぐそこに来ています。

行き詰まりは「転機」に差し掛かったと解釈しましょう。

人生の進み方は「呼吸」と同じです。

吸って吐いて、吸って吐いての繰り返しです。

力を貯めたら、その力を吐き出さないといけません。

吐き出すから、次の力を吸い込むことが出来るのです。

吐き出した後、果敢に次のステージに行く、即ち更なる「鍛え」のゾーンに自らの駒を進めていくのです。

出来た、出来なかったなど、棺桶に片足を突っ込んだ時に振り返れば、取るに足らざることだったと思うに違いありません。

前へ!前へ!

倒れるなら、前向きに倒れる!

メゲても前向きなゾーンでメゲる。

悩むなら、前のめりに悩む!

命は、人が一番叩かれて出来上がると読みます。

鍛えのなかに自らを置きましょう。

諦めない限りエンドは来ません。

行き詰まりというエンドは現実には起こらないからです。

自分が行き詰まったと「思った」だけです。

気持ちを「戦う楽観主義」というモードにロックオンして、吹っ切れていきましょう。



意志の発動

試練が人を磨き、負荷が人を育てます。

自分に高いハードルを課して、日々自分で自分を追い込んでいける人が、人生の後半戦にきて俄然光ってきます。

力は貯めてこそ、「いざ鎌倉」という時に発揮されるからです。

ただ漠然と毎日のルーティンなことに流されて、忙しい忙しいと心を亡ぼしていれば、最後に行き着く場所は、使い捨てにされた部品の集積所です。

時間の切り売りをどれだけしても、人生は変わりません。

自分自身に投資をするという姿勢を、断固とした決意で確立しましょう。

「意志の発動」という言葉があります。

意志の発動から生まれた行動は、必ず結果をもたらします。

意志とは、何に命を賭けるのかという明確なビジョンです。

意志の発動を理解できない人は、脳ミソを止めて無難な生活、無難な人生を歩もうとします。

しかし、無難な生活はやりくりと我慢の生活であり、無難な人生は他者の意志に翻弄される波乱の人生、即ち使い捨てにされる部品のような人生になるのです。

意志の発動とはビジョンであり、ビジョンとは如何に生きるかです。

生きるとは命を賭けること。

それでは一体、何に命を賭けるのか。

命は可能性に賭けるのです。

命を不安に賭けてはいけません。

磨かれていない命は、迷うばかりで何処にもたどり着けません。

自らに高いハードルを課しましょう。

その時感じる試練と負荷が、あなたを本物足らしめていくからです。



浮き世離れ

社会で活躍されている様々な人たちの話をよく聞くことがあります。

話を聞いていて、彼らに共通する特徴的なことは「夢」です。

「夢じゃなきゃ、やってられない!」

みな一様にこう言うのです。

使命感とは、どこかに「誰誰のために・・せねばならない。」というある種の悲壮感のような響きがありますが、天命にはそれがありません。

夢が天命の正体だからです。

人は夢を見て、夢に魅せられて、一枚一枚自分の要らなくなった古い皮を脱ぎ捨てていきます。

素直な気持ちで、夢を追いかけてみましょう。

夢が語れないのは「致命的」です。

日々の生活をマイナーチェンジすることが夢ではありません。

生きる基準を上げていく。

何があなたの「基準値」になっているのかが、全ての現象の奥に隠されている本質だからです。

一つ一つの細かなことに対処しつつも、その先に何を見ているのかが問われる時代が「今」なのです。

目に映った出来事が真実と思ってはいけません。

それはあなたの肉眼が、単純な生理現象として捉えた映像に過ぎないからです。

肉眼で見るのではなく、心眼で感じることが大切なのです。

一生心配し続けて、悩み続けて、暗く考え続けて、人の悪口を言い続けて、苦虫を噛み潰したような顔で生きる人。

一生ワクワクして、夢に焦点をあてて、悩まず迷わず笑って人生を進む人。

人は問題解決型の人生を歩む人に魅力を感じません。

夢を追いかけて、夢に生きる人に魅力を感じるのです。

真面目に頑張るところは真面目に頑張りながら、少し「浮世離れ」してみましょう。

「夢じゃなきゃ、やってられない!」

これが、世の中をリードしていく人たちの「基準値」だからです。



戦友

「支えるのではない。共に戦うのだ。」

あるテレビCMのフレーズです。

どれだけ人をフォローしても導いても、人はそれだけでは変わりません。

人を泉に連れていくことは出来ても、泉の水を飲ますことは出来ない。

ヨーロッパの諺です。

真の価値ある人間関係は、支え合う関係ではなく、共に打って出る関係の中にあります。

人生の幸せは、何人の「戦友」を得ることが出来るかにかかっているからです。

現役であるということは、人生という「戦場」に立っているということに他なりません。

戦う気持ちを持って戦う。

なんとなく戦っても駄目なのです。

未来を輝くものにしたければ、勝負をしに行かなくてはなりません。

いつまでも支えられていたら、勝負など出来るはずがありません。

気分や気紛れで事に立ち向かっても「返り討ち」にされるだけです。

やると決めたら、一切の雑音を遮断しましょう。

本当にやると決めたことは、知識でもなく、意識でもなく、「胆識」で捉えるのです。

人間最後に行き着くところは、胆力の問題になるからです。

腹をくくって戦う。

戦う気持ちを持って戦う。

そこに、共に歩く戦友が現れてくるのです。



夜明けは近い

チャンスは、文句を言わない人にやってきます。

ため息を一つつくと、幸せが一つ逃げていきます。

人間は40歳を過ぎたあたりから、
それまでの生き様が余すところなく表情に表れてきます。

文句やため息やボヤキや言い訳は、
人の心を劣化させるだけでなく、最後は自分自身を
「被害者意識の塊(かたまり)」のような顔にしてしまいます。

襟を正して、我が天命を見つめ直してみましょう。

あなたがあなたの限界に挑み、
その限界を越えていくことは、
あなたと関わる全ての人たちに良い影響を及ぼすのです。

先日ある方から、こんな教えを頂きました。

「難来るをもって、安楽と心得べき候う」

困難が襲ってきた時こそ、
安心して悠々と立ち向かえということだそうです。

安楽とは
「心身に苦痛がなく楽々としていること」を意味します。

困難は、前進しようとする人にしか起こりません。

命とは、人が一番叩かれると書きます。

成長せんがため、進まんがために
困難という鍛えが宇宙から用意されたのです。

闇が深ければ深いほど、夜明けは近いことを知りましょう。

決断とは、一切の言い訳や文句を断つと決めることです。

一人荒野を行く決意を持つのです。

誰かにフォローされ続けるリーダーなど一人もいません。

あなたがあなたであることを証明するために、
いま目の前にある勝負の舞台から絶対に降りてはなりません。

悪ければ悪いなりに戦うのです。

我が内なる思いに100万ボルトの電流を流して、今日一日と格闘する。

逃げたら終わりです。

戦う気持ちがなければ、勝つことは出来ないのです。



海流

自分の限界に向かって自分が行う「投資」を決断といいます。

決断とは未来への投資を言うのです。

決断こそが、未来への架け橋であると心得ましょう。

お金持ちになりたいのなら、お金持ちになるという決断が必要です。

幸せになりたいのなら、幸せになるという単純な決断を持たなければなりません。

決断という心構えは目に見えません。

しかし、目に見えないエネルギーが形を得て、森羅万象を動かしていることは紛れもない真実です。

よく氷山の一角と言われます。

海面から上に出ている部分は、全体の氷山の僅か10%に過ぎません。

残りの90%は海中に伸びて、海面上に出ている形から海中の氷山の形を想像することは全く出来ません。


氷山の一角に強い風がどれだけ吹いても、氷山が影響されて動くことはありません。

氷山は海面を吹く風に影響されるのではなく、海中を流れる海流に従って動くからです。

海中にある氷山も海流も、目には見えません。

人間もまた、これと同じです。

行動の内側に、その動機として何が流れているのか。

ここが「肝」なのです。

人間は四六時中思っているものになります。

これは理屈ではありません。

四六時中思っていることが、自分を動かしていく海流だからです。

ですから、四六時中の思いというイメージを創っていくことが最大の仕事なのです。

しかしそうだからといって、特別に意識して強く何かを思っても、それはあなたを動かす海流とはなりません。

そうした意図的な思いは、恐ろしいほどここ一番の時には役にたちません。

意図的に強く思うという思いではなくて、瞬間何気にサッと駆け抜ける思いに全てがあります。

これが海流となってあなたを動かしていく、「イメージ」の正体だからです。

本当に実現することは、仕事をしている時も、遊んでいる時も、ご飯を食べている時も、朝起きて歯を研いている時も、何気にふっと思ったことなのです。

あなたは今、何を四六時中思っていますか?

その思いは、その思いのままに、または形を変えて必ず実現します。

自分が四六時中思っていることだけが実現する。

意識が研ぎ澄まされている時は勿論のことですが、ボンヤリしている時も、何が自分の海流となって自分を動かしているのかをもう一度考えてみてください。


その思考こそが、あなたの眠れる意識を再起動させるきっかけとなるからです。



凛として!

「ダイヤモンドは傷付かない!」


自分で自分をどのように位置付けるかが、事に処していく前提となっていきます。

ダイヤモンドは、研磨されればされるほど、最初の原石という姿からは想像も出来ない輝きを放つ存在へと変化していきます。

真の人材も全く同じです。

人は研磨されて、その内面からの輝きを得ることが出来るからです。

自分がダイヤモンドたる自覚を持てば、「今に生きる」という姿勢が、自分の内側に芽生えてきます。

今に生きるとは、「逃げない」ということです。

もしあなたが、今という状況に悲観的であるとすれば、それは今に生きるという覚悟を忘れているからです。

この覚悟を忘れた時、状況は様々な姿に形を変えて、あなたの心に猛獣の如く襲いかかってきます。

その結果、あなたは一つ一つの些細な出来事に振り回されて、傷付いたと感じて、最後は自分の身の周りに起きる全ての現象の原因を、他者に転化することになるのです。

悲観したくなるような状況こそが、あなたの内側を磨く最高の研磨剤であることを自覚しましょう。

あなたがダイヤモンドたる自覚を持てていれば、あなたが傷付くことは絶対にありません。

あなたが何の自覚も持たず、ぼんやり生きていると、あなたは簡単に傷付くことになります。

それは、時代の波に翻弄されることになるからです。

凛とした態度を持ちましょう。

凛とした態度は、意識から始まります。

意識、意識、意識。

只今この時のあなたの意識こそが、全ての原点なのです。

「私は傷付かない」

その理由は、「私はダイヤモンドだから。」

事が起こった時は、「来るなら来い!ひとつ、やってやろうじゃないか。」と気を吐くくらいでないといけません。

ダイヤモンドは傷付かない。

さあ、凛として出発です。