『逃げて、カイトくん!』 言われるまでもない。ひたすら走って僕は逃げる。大声出して思いっきり走る。 逃げ切る自信は、はっきり言って無い。追いかけっこなんて久しぶりだし、マラソンだってクラスでも真ん中くらい。その頼りない脚力だけを武器に僕は走り続ける。 『がんばれ、カイトくん! 早く早く! 何してんの、追いつかれちゃうよー!』 野球のユニフォームを着たチルルが腕をぐるぐる回してる。 生まれ変わったら、僕もチルルみたいにゲームのキャラクターになりたい。2次元に行きたいって常々言ってる校長先生の気持ちもようやくわかった。3次元はサバイバルだ。 命がけだから、とにかく逃げる。交差点を信号無視で突っ切る。DQN中学生の群れも突き飛ばす。今なら体力測定で校内新記録が出せる。もう貧弱だなんて言わせない。 「内崎くん、待ちなさい!」 でも、凪原先生の足は普段のポヤポヤした彼女らしくない俊敏さで、僕は捕まってしまった。 首根っこをすごい力で掴まれて、一歩も動けなくなる。 「逃げないで、内崎くん。私の大事な教え子に苦しい思いはさせたくないの。せめて、すぐに終わらせてあげるから…」 凪原先生の、猛禽類のような真っ赤な瞳。いつもの優しい先生はここにはいない。僕は恐怖で声も出せない。手に力が入る。息が詰まって目が霞む。ぐるぐる回る。 苦しい。殺されちゃうよ。 そんなのいやだ。 助けて、姉ちゃん…! ガシッと、別の手が横から伸びてきて、凪原先生の手首を捉えた。 「弟に何すんのよ」 ギリギリと凪原先生の手首が軋んで、「あぐっ」と呻いて僕を離した。 殴りにかかる先生の拳を軽く捌き、そのまま上体を捻って先生を地面に叩きつける。 先生はそのままのびてしまった。 僕を助けてくれた、学校の制服を着たその女性は、間違いなく僕の姉ちゃんだった。 でも僕に向けられたその瞳は―――青い。 宝石を埋め込んだみたいに。凪原先生の“赤”と同じくらいに。 僕はその異様な輝きに怖じ気づく。 「…大丈夫だった、魁斗? どこか痛いところある?」 でも、僕の頬を撫でる温かさも優しい声も、いつもの姉ちゃんだった。僕はホッとして、涙がこぼれた。 「かわいそうに。怖かったよね。でも安心して。姉ちゃんが来たから、もう大丈夫」 僕は姉ちゃんにしがみついた。柔らかくて温かくて、いつもの甘い匂いに安心して、僕は泣いてしまった。 僕の姉ちゃん。小さい子に戻ったみたいに、姉ちゃんに抱きしめられて僕は泣く。 姉ちゃんはそんな僕の頭を優しく撫でてくれる。強く抱きしめてくれる。見つめ合う瞳と瞳。やがてどちらからともなくまぶたを閉じて、惹かれ合う唇。 くちゅり。舌を触れあった。そして強く吸い合い、絡め合った。甘い舌。柔らかい唇。僕たちは情熱的なキスを続ける。 スパーンッ、と姉ちゃんの後頭部あたりで音がした。 「いったーい!? 誰よ、邪魔しないでよ!?」 「あんたこそ、こんなときに弟と路チューしてんじゃねーよ!」 そこには、姉ちゃんと同い年くらいのショートカットの女の子が立っていた。 凪原先生と同じ赤い瞳で。 「吉川…? あなた、『三中の猫娘』吉川じゃない!」 「久しぶりね、内崎……いや、『二中のボンバーマン』内崎!」 二中の…なに? 「あなたが、どうしてこんなところに…? ここは私たち二中出身者のテリトリーだって、2年前の『渡辺商店前の戦い』で決めたはずでしょ!」 「フン、そんなのガクチューん時の取り決めでしょ? かんけーねーよ。それに、ここに私がいる理由も、あんたならわかるはずよね? あたしたちが、戦う理由もさ…!」 吉川さんっていう姉ちゃんの知り合いらしき人は、拳をシッと突きだしてファイティングポーズをとった。 短い髪とキリッとした目のきれいな人だけど、敵意剥き出しの真っ赤な瞳が怖かった。 ていうか、この2人のノリが怖かった。 「ふざけんじゃねえぞ、テメー! 先輩らが決めたルールだろーが! 勝手に破ってんじゃねえよ、帰れ!」 「いったぁ!?」 姉ちゃんの肩パンが吉川さんに炸裂した。 「だから先輩より偉いマスターに呼ばれたんだから仕方ねーだろー! テメーだって同じ立場なんだろうが! 帰れとかいうなバカ!」 「あぁっ!?」 吉川さんのローキックが姉ちゃんに当たった。 「三中のお嬢ちゃんが、うちらのナワバリ歩いてんじゃねーよ!」 「二中の貧乏人のくせに、いばってんじゃねえっつの!」 殴る蹴る。髪の毛を掴む。カバンを振り回す。 女子同士のマジケンカを前にすると、男子はおとなしくなってしまうものなんだ。 『カ、カイトくん。なんだか、いつもの姉っちと違うような気が…』 「ごめん。姉ちゃんには中学時代のことは話題にするなって口止めされてるんだ」 『はぁ…』 ギャーギャー騒ぎながら取っ組み合う2人のケンカを、やや遠巻きにして応援する。 僕もそのうち上の学校行くようになったら、姉ちゃんみたいに変な通り名とか付けられちゃうんだろうか。 『二中のポケガマスターとか?』 イヤだなあ。 「くそっ…! 腕を上げやがったな、内崎!」 戦いを優勢に進める姉ちゃんに、やがて吉川さんが焦りを見せ始める。 当然だ。うちのボンバーマンは僕がかなりレベル上げてるからね。 でも、その吉川さんの後ろから、わらわらと女の人たちが現われる。学生っぽい人もいれば、OLっぽい人もいる。看護師さんもいれば、母さんくらいの主婦も、三中の制服を着た女の子もいる。 みんな、真っ赤な瞳をしてた。田中のミートゾーンの広さを思い知らされた。 「驚いた? ここにいるのはみんな三中出身者だよ。マスターにお願いして三中軍団を作らせてもらったのさ。私とあんたの因縁に決着をつけるためにね!」 「ひ、卑怯だよ、吉川!」 「何とでもいいなよ、ふふっ。でも、あんた1人でどこまでやれるかな? 私たちの味方はまだまだいるよ…。さあ、あんたも、うちのマスターのペットになちゃいな!」 「くっ…!」 「姉ちゃん、逃げよう!」 僕は姉ちゃんの手を引いて走り出す。姉ちゃんは悔しそうに唇を噛む。 「ずるいよ、仲間呼ぶなんて…! もうこうなったら戦争よ! 私も二中軍団集めて、あいつらぶっつぶしてやる!」 僕らのデュエルモードは、すっかり蚊帳の外だった。 最強の先輩とやらに電話し始めた姉ちゃんの手を引っ張りながら、僕はどんどん悪い方向に広がっていく事態に頭を痛めた。 『カイトくん、ストップ!』 チルルが叫ぶ。前方のワゴン車から、同じジャージを着た逞しい女の人たちが降りてくる。どこかの大学の柔道部らしい。超ごつい。しかも、みんな赤い瞳。 田中のヤツ、何人ポケガ持ってんだよ。反則だ。 僕とのデュエルを想定して、戦士用にポケガを集めていたに違いない。もうこれ趣味の問題じゃないだろ。だって、あの人たちは怖すぎる…! 「…魁斗、逃げて」 「姉ちゃん?」 「ここは姉ちゃんが食い止めるから、魁斗は逃げなさい」 「でも、逃げたってキリがないよ! 僕も姉ちゃんと一緒に戦う!」 『待って、カイトくん! あなたは逃げたほうがいい!』 「なんで?」 『デュエルモードのゲームオーバーはどっちかのマスターの死亡だけど、通信が途切れてしまえば中断できるはず!』 「そうか! これはワイヤレス対戦だから、通信できない距離まで離れてしまえば…」 『うん!』 「でも、もうDSiiの性能的には、とっくに切れてもおかしくないくらい離れてない?」 『んー、それはあたしも対戦初めてだからわからないけど…でも、アクマの世界でも3キロぐらいは障害物関係なしに繋がってたから…』 「3キロ…こっちも、そこまで離れなきゃダメか」 『だから、カイトくんは逃げよう! 今はそれだけ考えようよ!』 「でも、姉ちゃん1人でなんて無理だよ!」 姉ちゃんが、僕の頭をそっと撫でる。 「無理じゃないわよ。姉ちゃんなら大丈夫だから、魁斗は早く行きなさい」 姉ちゃん、強がってるけど、膝が震えている。 前には柔道部のごつい人たち。後ろからは吉川さんたち三中軍団。 どうにかしなきゃ…! 「…チルル、カメラだ。僕のポケガを増やす。今すぐ、できる限り!」 『ダメだよ。今はデュエルモードのマスター監視にカメラ使ってるもん! 本当なら、デュエル中はあたしを含めて一切の機能が停止してるんだよ!』 ダメか。でも、発想は悪くないはずだ。 僕のポケガはたった2人で不利だけど、僕んとこのお助けキャラがむちゃくちゃなおかげで、こうしてアドバイスを貰えるようになった。 ポケガの数と戦闘力では負けるけど、あいつのDSiiが他の機能を使えないというのなら、僕はその機能を使って対抗できる。 だったら…… 「『お着替えモード!』」 僕とチルルの声がハモった。僕は姉ちゃんのアバターをクリックして『お着替えモード』を起動する。 「死ねい、内崎ッ!」 さっそく返り討ちフラグを立てながら、吉川さんたちが突進してくる。 僕は戦闘に向きそうなコスチュームを選んで、姉ちゃんのアバターに着せる。 その瞬間、激しい爆風が巻き起こった。 悲鳴を上げる吉川さん以下三中軍団と柔道部の人たち。僕まで吹き飛ばされて尻もちをついた。 目が眩む。すごい衝撃だった。 「―――問おう」 「え?」 凛とした声の響き。 見上げると、そこにいたのは、金髪で、鎧をまとった姉ちゃんだった。 「問おう、あなたが私のマスターか?」 エロセイバーきたー! 「私がここで時間を稼ぐ。その間にマスターは避難しろ。できるだけ遠くに」 『姉っちったら、すっかり凛々しくなっちゃって…』 キリッとした横顔が凛々しく頼もしい。透きとおるような肌が金髪と似合っている。かっこいい。しびれる。 こんなアニメチックなファッションも着こなすなんて、さすがは僕の姉ちゃんだ。 「でも、あんなにたくさん敵がいるよ!」 衝撃に吹き飛ばされた敵ポケガの人たちも、ワラワラとゾンビのように起き上がってくる。この人数は脅威。1人対30人くらい。しかも、まだまだ増えていく。 なのに姉ちゃんは、この状況もまるで何でもないことのように、ぶっきらぼうに言い切った。 「別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」 「あ、それ姉ちゃん、違う人…」 「でも私も魔力が残り少ないし、このあと、たっぷりとマスターに補給してもらう必要があるが…そ、それでもいい?」 「もうエロパートが始まっちゃったし」 『カイトくん、行こう! 姉っちなら大丈夫だよ!』 「え、う、うん」 ちょっぴり不安だけど、僕は姉ちゃんに後を任せて走り出した。 「―――約束された勝利の剣!」 激しい衝撃音と、大勢の悲鳴が聞こえた。 確かに、しばらくは大丈夫そうだ。 僕は走る。とにかく走る。 街中の人たちが全員敵に見える。でも姉ちゃんが頑張ってくれてるのか、僕は誰にも攻撃されることなく、かなりの距離を稼いだ。この調子なら、もうすぐ圏外だ。 でも、そこでいきなり行き止まりだった。婦警さんがバリケードを築いて道をふさいで、渋滞が起こっていた。 僕はそのバリケードの婦警さんに近づく。 「あの、すみません! 急いでるんです、通して下さい!」 ミニパトの窓に首を突っ込むようにして携帯電話で喋っている婦警さんが、そっけない口調で答える。 「ダメよ。今、凶悪犯が逃亡中なの。誰も出すわけにはいかないわ」 「そんな…ッ! 僕、家に帰るだけです! 通してください!」 「ううん、ダメよ。だって、私たちが探してる凶悪犯って…」 婦警さんが僕の方を振り向いた。きつそうな目をしてるけど、きれいな人だった。 「あなただから」 そしてその瞳は、真っ赤に輝いていた。 「うあッ!?」 『カイトくん!?』 腕を掴まれ、捻り上げられた。 画面の中では、田中がDSiiを見てゲラゲラ笑っている。 僕らの作戦は読まれていた。あいつは、最初からそのつもりで婦警さんまで配置してたんだ。 「敵マスターを捕獲しました。今からそちらへ連行します」 携帯電話で田中に連絡を取りながら、婦警さんがジャラリと手錠を取り出す。僕にはそれが地獄へと繋がる鎖に見える。 ここまで来て…! 「―――魁斗くん!」 道路の向こう側で、チャリンコのタイヤが滑る音がした。 知佳理ちゃんだ。知佳理ちゃんがチャリンコを乗り捨て、ガードレールを踏み台にして跳んだ。車の屋根に飛び乗って、そのまま、次々に車の屋根を踏みつけ、知佳理ちゃんが僕の方まで跳んでくる。 速いッ! 婦警さんが身構えるより先に、知佳理ちゃんが彼女に体当たりを喰らわせる。婦警さんは僕もろとも倒れる。そして知佳理ちゃんが僕の腕を引っ張って、走り出す。 「早く! こっちへ!」 「う、うん!」 知佳理ちゃんの足は速い。 レベルアップするたびに地味に上がっていった彼女の「みがるさ」と「すばやさ」を思い出す。体育の時もいつもどおりだったのに、今はクラスの誰よりも身軽で速い。まさか戦闘のためだなんて、考えもしなかった。 僕らは、人通りのない雑居ビルの非常階段の陰で、ひとまず呼吸を整える。 「来るの遅くなっちゃた。ごめんなさい。このあたりはずっと警察のお姉さんたちに封鎖されてるの」 「ううん。助かったよ。でも、やっぱり囲まれてるのか…」 向こうは相当準備している。まさか婦警さんたちまで押えてるなんて。 どうしよう? 反対側から逃げてみるか? それに、姉ちゃんは1人で大丈夫なのかな? いいかげん合流した方がいいのかも。 とにかく、なんとか3人で脱出を…。 「魁斗くん」 「え?」 知佳理ちゃんの顔がすぐ近くにあって驚いた。 「今、お姉さんが1人で敵を集めている。戦力がそこに集中してる分、田中の周囲は手薄なはず。魁斗くんは監視されているから、お姉さんの近くで逃げ回っていて。私がその隙に田中を倒す」 「え、何言ってんだよ! そんなの危険だ! みんなで逃げよう!」 姉ちゃんと違って「攻撃力」も「防御力」もない知佳理ちゃんに、そんなことできるはずがない。 でも知佳理ちゃんは、そんなことはわかってるというように、首を横に振る。 「このまま逃げても追い詰められるだけ。だったら別の方法を考えないと。田中は今、どこ?」 僕のDSiiを覗き込もうとする知佳理ちゃんから、慌てて画面を隠す。 「ダメだよ、ダメだって! 知佳理も姉ちゃんも、みんな揃って逃げるんだよ! ちゃんと考えようよ、みんなで助かる方法を…!」 「魁斗くん」 知佳理ちゃんが僕を真っ直ぐに見る。青い瞳が、すごくきれいに見えた。 僕は吸い込まれそうになって、息を呑む。 「私はあなたを助けることしか考えてない。そのためなら何でもする」 「ん…っ!?」 知佳理ちゃんに唇を奪われた。舌が口の中に入ってくる。 「ちゅっ、ちゅぷ、んっ、魁斗くん、ん、ちゅぷ、ちゅう…」 強引に掻き回され、甘い唾液を注ぎ込まれ、こんな時だってのに…頭が、蕩けてしまう。 『カイトくん! ちかりんに覗かれてる!』 知佳理ちゃんは僕のDSiiで、田中の位置を確認していた。 パッと僕から離れて、階段から飛び降り、知佳理ちゃんは走り出した。 「魁斗くんはお姉さんのところへ! DSiiはここに置いて、2人で封鎖を突破して!」 「ダメだ! 行くな、知佳理! 知佳理ー!」 速すぎる。知佳理ちゃんはあっという間に走り去ってしまう。 僕は画面の田中を見た。田中は僕たちの学校の校庭にいた。そして僕を見上げて、またニタリと笑った。 「罠だ…田中はこれも読んでる。きっと知佳理ちゃんは捕まっちゃう…」 『…ちかりんは、たぶんそれも知ってるよ』 「え?」 『ちかりんには姉っちみたいな攻撃力がないから、警察が囲んでる封鎖は越えれない…だから、自分が姉っちの代わりに集めれるだけ敵を集めて、2人を逃がすつもりなんだよ…』 「そんな!」 『…カイトくん』 チルルが真剣な目で僕を見る。 『ちかりん、言ってたね。DSiiを置いてけって。それって、かなりいいアイディアだよ。DSiiを捨てちゃえばアイツも追いかけてこれないから、カイトくんは逃げられる。姉っちなら婦警さんにも勝てる。ちかりんを助けて、3人で逃げて』 「ダメだよ! DSiiを取られたら姉ちゃんと知佳理ちゃんが田中のモノに…」 『大丈夫! あたしがそんなことさせない! アイツに何かされる前に、全部のデータ壊してやるから!』 「それじゃ…チルルはどうなるの? ゲームが壊れたら、チルルだって壊れちゃうだろ!」 『あ、あたしはただのキャラだし、全然平気だよー。それにカイトくんたちがこんな目に遭ったのも、全部ポケガのせいなんだし…』 「やめろよ! どうしてみんな、そんなこと言うんだよ! 僕はそんなのイヤだ。チルルも一緒じゃなきゃ、絶対イヤだ!」 『カイトくん!』 チルルが、僕を睨みつけた。 『…勘違いしないで。あたしはただのゲームだよ? いつかカイトくんが大人になったら忘れちゃうような、ただのゲーム。姉っちやちかりんを、そんなものと比べちゃダメッ。カイトくんの一番大事なのは、あの人たちでしょ!』 ビシっと僕に指を突きつける。 小っちゃいくせに、偉そうに。涙目のくせに偉そうに。 違う。全然違う。チルルは間違ってる。チルルだって一緒だ。僕たちはずっと一緒だったじゃないか。 いつだって一番楽しそうにしてたのはお前だろ。自分とこのシステム壊してまで僕の心配してくれたのは、お前だろ。 一番大事なのは何かなんて、僕はまだ子供だからわかんないんだ。 子供だから、全部欲しいんだ! 「チルル、行くぞ」 『ど、どこへ!?』 「姉ちゃんと知佳理のとこだよ! 4人でうちに帰るんだよ!」 僕はわんわん泣き喚くチルルを抱いて、走った。 「姉ちゃん!」 セイバーの剣を杖のようにして、なんとか立っている姉ちゃんを見つけた。 倒れてる人もたくさんいるけど、吉川さんはそこにはいない。僕は姉ちゃんの着替えを解いて制服に戻し、体を支える。 「姉ちゃん、大丈夫? しっかりして!」 「ん…大丈夫。疲れただけで、なんともないから、心配しないで」 「ごめんなさい、姉ちゃん。こんなになるまで、ごめんなさい…」 「それより、知佳理ちゃんが…早く行かないと」 「知佳理ちゃん? 知佳理ちゃんが来たの!?」 残った敵を引き付けるために、「これから田中を倒しに行く」と宣言して、知佳理ちゃんは学校へ向かったそうだ。 姉ちゃんには、僕を連れて逃げるように言って。 「…僕、知佳理ちゃんを助けに行く!」 「うん! 一緒に行こう!」 どうしても自分も行くと言い張る姉ちゃんを肩に抱えて、僕は学校へと急ぐ。 校庭は異様な空気に包まれていた。 田中と、凪原先生と、吉川さんと、それにさっき僕を捕まえようとした婦警さんや大学柔道部の人たち、ヤンキーっぽいお姉さんたちまで、およそ40人ほどの田中のポケガたち。 大人だらけの校庭は、僕たちの場所を奪われてしまったみたいで悲しかった。田中は、僕たちの姿を見て、ユラユラと首を揺らしながら笑った。 「フヒヒヒヒ! どうしたどうした内崎ィ〜! もうあきらめたのか〜?」 「う、うるさい! 知佳理ちゃんはどこだ! 返せ!」 「ポケガか〜? お前のポケガなら、ここにいるぞ〜」 ズン、と地面が響いた。彼らの後ろから、山が動いてきた。 何か大きいものがあるなとは思ってはいたが、大きすぎるから北海道の姉妹校から送られてきたかまくらかと思っていた。 でもそうじゃなかった。人だった。 女子柔道78キロ超級金メダリストの山塚選手だった。 「えええ〜〜ッ!?」 反則すぎるポケガに僕と姉ちゃんはあごを外す。 間近で見るとその迫力は失禁ものだった。 でかい。重そう。すごい食べそう。178キロは超えてそう。 その彼女が、柔道着の胸元に手をつっこんで、ズボッと何かを取り出した。 知佳理ちゃんだった。 「えええ〜〜ッ!?」 まるで子猫でも捕まえたみたいに、山塚選手はぶらんと知佳理ちゃんの首根っこを掴まえて僕らの前で振ってみせた。だらりと力を失った知佳理ちゃん体が揺れる。 「知佳理ちゃん…!」 「フヒヒ! コイツ、さんざん俺のポケガを引っかき回してくれたから、さすがの俺も焦ったぜ〜! でもコイツを捕まえとけば、お前も取りに戻って来ると思ったからさ〜」 「知佳理ちゃんを返せ!」 『カイトくん、姉っちが!』 「あっ、姉ちゃん、待って!?」 姉ちゃんが山塚選手に向かって走る。でも、山塚選手が軽く手を出しただけで、姉ちゃんはバイーンと弾き返される。 「きゃあ!?」 「姉ちゃん! 姉ちゃん、しっかりして!」 「う…だ、大丈夫…」 吹き飛ばされた姉ちゃんに駆け寄る。たった1人で戦い続けた姉ちゃんの体力はもう限界だ。山塚選手みたいなバケモノと戦わせるわけにはいかない。 強い。てか同じ人間っていう気がしない。いくらポケガやお着替えモードで強化しても、もともとの性能が違いすぎたら、どうしようもないんだ。 僕らでは、田中のポケガには勝てない…! 「フヒヒヒヒヒ! どうした、内崎ィ〜? もうゲームオーバーかよぉ? もっと遊ぼうぜ〜?」 なんとかしなきゃ。姉ちゃんと知佳理ちゃんを助けなきゃ。僕がなんとか―――。 「―――内崎さん、大丈夫ッ?」 そのとき、校門から、キコキコと自転車で近づいてくる人がいた。 ヒョロっとしたメガネの、姉ちゃんくらいの年の人だった。 「キミオ先輩!? 来てくれたんですね!」 姉ちゃんが目を輝かせる。この人、姉ちゃんの先輩? そういや、さっき姉ちゃんが助っ人を呼ぶって電話してたっけ。でもこの人が最強の先輩だって? 「探しちゃったよ。電話も繋がらないしさ…」 ひぃひぃ言いながらチャリンコ漕いでくるこのお兄さんは、とてもケンカ強そうには見えないし、むしろ僕でも楽勝でメガネ狩りできそうに見える。 「あのっ、それであの人は…!?」 「あぁ、うん。来てるよ…ちょっとばかし、不機嫌なんだけど」 でもそのチャリンコの荷台には、後ろ向きで乗っかってる髪の長い女の人がいた。キミオって人に頭を小突かれ、面倒くさそうに自転車から降りてくる。 「お、お久しぶりです! 来て下さってありがとうございます!」 姉ちゃんはガチガチに緊張して深々とお辞儀をした。 髪をかき上げ、眉をしかめたその人は、恐ろしい眼力を発揮しながら、「おー」とかったるい声をだした。 「エリカ様…あいかわらず、恐ろしいくらいキレイです…!」 その人は、恐ろしいくらいキレイ、という形容がまさにぴったりな人だった。ポケガでレベル上げまくってきた姉ちゃんでさえ引くくらい、キレイな人だった。 長い髪。大きく力強い瞳。絵に描いたように整った顔。足は長いし胸も大きい。それでいてウエスト絞られまくりの、日本人離れした卑怯なスタイル。 ジャージにジーンズと古っちいスニーカーみたいな、超やる気のないそのファッションですら、彼女自身の発する凄まじい存在感で輝きまくってる。 僕らとはオーラが違う。てか人間が違う。どこからこんなカリスマ性が放射されてるんだ。マジで近寄りがたい。そばにいるだけで日焼けしそう。 「ったく、ふざけんなよ、内崎ー。せっかくこれから、キミオとイチャイチャタイムだったのにー」 「す、すみません! でも、私たち本当にピンチで!」 「あー、あいつらか?」 エリカさんが、柔道選手とか看護師さんとかいるバラエティ豊かな田中チームを睨みつける。 「…なんだあれ? コスプレ?」 「いや、あれはその…」 「あーもういいよ。さっさと終わらせて帰る。生理前なんだよ、あたしは」 ボリボリ髪を掻きむしりながら、無造作にエリカさんは山塚選手に近づいていく。 ちょ、やば…!? 「あれ? あの人って、オリンピックに出てた人に似てない?」 止めようかどうしようか迷う僕の横で、キミオとかいう彼氏さんがノンキな声を出す。 「本人ですよ! だから危な…?」 ドボンッ! ていう、沼に巨石を投じるような音がした。 振り向くと、ジャージに両手突っ込んだまんまのエリカさんの右足が、山塚選手の腹にめり込んでいた。もう本当に、膝近くまでめり込んでいた。 ゆっくりと、大木のように後ろに倒れていく山塚選手。知佳理ちゃんを受け止めるエリカさん。ずしーんと、巨体が落ちる振動で地響きが起こる。 田中チームは、全員ポカーンと口を開けた。 僕もあっけに取られ、そしてシビれた。 瞬殺。あの山塚を、瞬殺…! 『戦闘力15000…17000…なにィ? まだまだ上がるだと…キャア!?』 チルルのスカウターが爆発した。 「そう…あれがエリカ様…かつて同級生の包囲網から彼氏をかっさらったチャリの単騎駆けで、『二中の趙雲子龍』と呼ばれた伝説の人…」 姉ちゃんも、何言ってんだ? 「おい、てめえら」 エリカさんが、知佳理ちゃんをその場に横たえ、山塚選手の体を踏みつける。 いいのか? いいのか、それ? そんなことして、ロンドンに支障はないの? 「こんなガキにまで手ェ上げて恥ずかしくねえのか? あぁ? てめぇらにプライドはねえのかよ! 落ちぶれたもんだな、三中!」 あぁ。そういや、二中と三中出身者の戦争っていう話だったっけ。 僕らもすっかり忘れてたが、いきなり三中呼ばわりされた田中チームの方だって、全員キョトンとしている。 その中で吉川さんだけがアワアワと青ざめていた。 他のメンバーは姉ちゃんにやられて、残ったのは彼女だけらしい。三中軍団(笑) 「あたしが根性叩き直してやらァ〜ッ!」 エリカさんが、蹴る。殴る。ぶん投げる。 凪原先生も吉川さんもぶっとばす。柔道部だってぶん投げる。次から次へと田中のポケガを沈めていく。 ありえない。チートすぎる。ポケガ強化人間たちを狩りまくり。まさに乱舞。無双乱舞。リアルに一騎当千。むしろファンタジーの領域へ突入中だ。 「最強の…召喚魔法だったのか!」 殴る。蹴る。終わらない僕たちのギガフレア。 大学柔道部は全滅。ヤンキーっぽいお姉さんたちも撃沈。しかしまだまだ止まらない。誰にも止められない。OLっぽい人が吹き飛ばされる。学生っぽい姉さんが沈む。看護師さんを蹴る。婦警さんも殴る。 あれ? ていうかあの人、婦警さん殴った? 殴って、延髄に蹴り入れた? いや少しは躊躇しようよ。そこは躊躇しとこうよ。これ、すごい事件になるんじゃないの? 僕たちも逃げるべきなの? そして、田中1人を残して、あっというまに全てのポケガがエリカさんの前に倒れた。 乾いた風が、静寂の校庭を通り過ぎていく。 「…お前もか、おっさん?」 「ヒィ!?」 ギロリと睨まれ、さすがの田中もたじろいだ。 素敵です、エリカ様。 『あなたのポケガは全滅です! あきらめておうちに帰りなさい!』 チルルは拡声器を持って叫んだ。 そうだ。もうアイツのポケガは全員倒した。戦えるポケガがいない以上、僕たちの勝ちだ。 「いいや…まだだ…マスターが死ぬまで、デュエルは終わらない…フヒヒッ!」 ボコッと、田中の肩が膨らんだ。背中も、お腹も、ボコボコと膨らんで、体が大きくなっていく。 「フヒヒ! フヒヒ! フヒヒュヒュゥウゥ……」 ユラユラと揺れてた田中の首が、グラグラと大きく動き出し、空気の抜けるような音を立てて、ゴロリと地面に落ちて溶けた。 無くなった首の下から、メコメコと、山羊のような角と顔が生えてくる。セミがさなぎから抜け出すみたいに、田中の中からアクマが生えてくる。 「オ前をコロセば、オレの勝ちだァ〜〜!」 ウシのような体に山羊の頭。鋭く長い爪は1本1本が杭のよう。悪魔の雄叫びが、腹の底までビリビリ響く。 「う…うわ…」 『ままままずいです! いくら強くても、ニンゲンさんじゃ本気を出したアクマには勝てないです! 逃げましょう!』 本物のバケモノを目の当たりにして、足がすくむ。頭ではわかっていても体は反応できない。カチカチと歯の鳴る音だけ聞こえてる。 「お…お……」 エリカさんも怖じ気づいてる。圧倒的な恐怖の前に誰も動けない。邪悪な空気に飲み込まれて、一歩も足が動かない。 「エリカ、こっちへ!」 彼氏さんが僕の横を走る。 でもその前に、エリカさんが絶叫する。 「おばけだ〜〜〜ッ!?」 ―――そして僕たちの時間は……止まった。 理解を超えた存在を前にしたとき、人は誰でも恐怖を感じ、正気を失う。 今、風が吹いていた。荒れ狂う暴風が。 それが拳による風圧だなんて、世紀末救世主マンガでも読んでなければ想像もつかない。 まさしく悪魔だった。 山羊みたいな顔してる方じゃなくて、恐怖で我を失ったエリカ様が悪魔だった。 「ぎゃ〜〜〜ッ!」 怒濤のオラオラ状態。悲鳴を上げながら繰り出されるスーパーコンボ。 悪魔の巨体が転がる。吹き飛ばされる。宙に浮く。まるで正月の河川敷で子供たちの注目を集める立体凧のように。 僕たちは思考停止を続ける。現実感はどんどん失われていく。 キレイなお姉さんが、野獣のような悪魔をフルボッコにしてる。 すでに意識も失ってる山羊頭の角を鷲掴みにし、泣きながらその顔面に膝を入れている。 とてもシュールな光景だった。 悪魔の顔面あたりからは、ミンチっぽい音がしてた。 「おばけめ、おばけめッ! えい! えい!」 「エリカ、ストップ! もうやめよう! やめたげて!」 彼氏さんがエリカさんの肩をタップする。エリカさんは「キミオ〜!」と泣きながら彼氏さんに抱きつく。 「怖かった…えぐっ、超おばけ出た〜」 「う、うん。怖かったね。とても子供に見せられるような光景じゃなかったよ…」 幼子をあやすように、エリカさんの頭を撫でる。そしてピクリとも動かなくなった悪魔を見下ろし、彼氏さんはホッとしたようにため息をつく。 「エリカといると、ホント驚くことばかりだよ…きっと、エリカが特別な女の子だから、こういう『不思議なモノ』に縁があるんだろうね」 そして、彼氏さんは僕のほうを見た。 いや、僕のDSiiを見て、眩しそうに目を細めた。 「…君がうらやましいよ」 「え?」 「君の出会ったその『不思議なモノ』を、ずっと大事にしてあげて。大人になるまで…いや、大人になっても。それは、君だけの宝物だから」 この人は僕の秘密に気づいてる。 なのに、優しく笑ってる。 彼氏、意外と大物…! 「キミオ、もう行こうよぉ。怖くて1人で帰れない…えっく、今日はキミオんち泊まる〜」 「うん、そうだね。もうここは大丈夫そうだし、僕らは帰ろっか」 「ぐすっ、帰ったら、いっぱいギューしろよぉ?」 「ハイハイ」 チャリンコを押す彼氏に手を引かれ、べそをかきながら二中のバハムートは帰っていった。 もしもエリカさんをポケガにしたら最強なんだろうなって少し思ったんだけど、僕にはあの彼氏さんみたいに彼女と上手く付き合ってく自信もないし、素手で悪魔を倒すような人とチルルを同居させるのもかわいそうだから、やめとこう。 チルルは、コタツに頭を突っ込んで、お尻をガタガタ震わせていた。 エリカ様とその彼氏さん…ありがとうございましたッ! 「ぐああああッ!?」 悪魔が再び悲鳴を上げた。何か黒いものが悪魔の体にまとわりついている。 手だ。地面から伸びてくる無数の手だった。 ガチリと悪魔の体がたくさんの手に拘束され、その下に真っ暗な空間が広がり、悪魔を飲み込んでいく。悲鳴が耳に痛いほどだった。 『…正体を見せたことで、向こうの世界に見つかったみたい…彼はこれから、あちらの法に従って処分されることになります』 「処分って?」 『具体的にはわかんないけど…向こうでは、ニンゲンさんのポルノ画像をダウンロードしただけでも八つ裂きなの』 帰ったらすぐにHDDとキャッシュの掃除だ。 「あ、でも…ということは?」 『ハイッ★』 チルルは、くす玉を叩き割って、「大勝利!」の垂れ幕の前で優勝カップを掲げた。 『カイトくんの勝ちーーーッ!』 ファンファーレが吹かれる。紙吹雪と喝采が舞う。電光掲示板がオール10点を叩き出す。マイクの前でチルルが「チョー気持ちいい」を連発する。たくさんのチルルにチルルが胴上げされる。泣きながら実家に電話する。 勝ったんだ…僕たちは! 「…魁斗くん」 「知佳理!? 大丈夫!?」 おぼつかない足取りの知佳理ちゃんを抱きとめる。知佳理ちゃんはギュッと僕を抱きしめる。 「…良かった…みんな無事で良かった…」 「知佳理…」 ボロボロと涙を流す彼女の髪を撫でる。さらさらとした彼女の感触を確かめる。 「うん…知佳理が無事で、本当に良かった…!」 「…魁斗」 「姉ちゃん!」 知佳理ちゃんと姉ちゃんを強く抱きしめる。 僕たちの勝利。大勝利。 DSiiを空高く突き上げて、僕は叫ぶ。 「勝ったぞーーーッ!」 まあ、僕は結局、何にもしなかったわけだけど。
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