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今月の放送

こうして“クニ”が生まれた

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古代日本は、アジア情勢の影響下で形作られてきた。
紀元前4世紀、弥生時代の日本に首長を中心とした「クニ」を誕生させたのは、戦火を逃れてきた大陸の渡来人であった。3世紀に女王・卑弥呼のもと「倭国」が登場した背景には、中国の魏と朝鮮諸国のパワーバランスの変化があった。6世紀のヤマト朝廷の国造りは、仏教導入で得た文化と知識、技術から本格的に始まった。そして大化の改新の背景には、超大国・唐に対する外交の争いがあった。番組では前半2回を「飛鳥の外交」として蘇我氏を中心に描き、後半2回は「“クニ”の胎動」として倭国の始まりにさかのぼる。

加藤 謙吉 今月の語り手
中央大学・成城大学 兼任講師
仁藤 敦史 第3回の語り手
国立歴史民俗博物館 教授
設楽 博己 第4回の語り手
東京大学大学院 教授
第1回 飛鳥の外交① アジアの中の大化の改新第2回 飛鳥の外交② 仏教・古代の文明開化第3回 “クニ”の胎動① 卑弥呼の外交第4回 弥生時代 国際社会への参入
時代・年表
年表
年表
年表
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飛鳥 アジアの中の古代日本

大化改新 全方位外交への転換

本放送:3月5日(火)23時00分~23時25分 再放送:3月12日(火)5時30分~5時55分、12時25分~12時50分
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政治を牛耳り、天皇(大王)を脅かす逆賊・蘇我入鹿を討った大化の改新(乙巳の変)、このクーデターで権力を握った中大兄皇子(天智天皇)たちは、大化の改新という天皇集権政策を推し進めたと日本書紀には記されている。しかし近年の研究では蘇我入鹿が天皇を脅かした根拠は乏しく、むしろ背後にあった深刻な外交対立に原因を求める声が大きい。蘇我氏は先祖の代から朝鮮の百済と積極的に交流し、仏教などの文物を取り入れてきた。しかしこの時、百済は新羅と唐の連携攻撃によって苦境に立たされており、中大兄皇子の一派は唐・新羅と交渉すべしとして蘇我氏と対立していたという考え方が出てきた。大化の改新は何故おきたのか?どのような影響を与えたのか?大化の改新を国際関係から読み解いてゆく。

歴史の証言
大化改新   日本書紀  国立公文書館ほか 蔵
大化改新   日本書紀  国立公文書館ほか 蔵 日本書紀は天皇ごとに巻が分かれており、蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の場面は皇極天皇の記述に出てきますが、他の出来事の記述と比べて非常に詳く記されているのが特徴です。これは天武天皇が勝利をおさめた壬申の乱の記述も同様で、日本書紀の制作者が天智天皇(中大兄皇子)や天武天皇の業績を称える事に重点が置かれているからと言われています。日本書紀によれば乙巳の変の原因は、蘇我氏の天皇家への野望ということになりますが、現在では番組でご紹介したような政治外交の対立が主な原因と捉える研究者が多いです。
日本書紀の基となった歴史書の編纂は天武天皇の時代に始まるので、そうした傾向はさけられず、蘇我氏には実際以上に分の悪い記述がされているだろうという事のようです。
ただし、読み物としての日本書紀はよく出来ており、入鹿暗殺の場面などは非常に緊迫感をもって描かれています。また飢饉や疫病の際には神仏に祈祷する事も多かったのですが、その時不思議な事が起きたなどという記述も現れます。古代の人々が日常でどのような世界観を持っていたのか探る手がかりとしても貴重な本と言えます。
(番組ディレクター)
歴史の現場
伝・飛鳥板蓋宮跡 奈良県明日香村 皇極天皇の宮殿は伝・飛鳥板蓋宮跡で、その一部は宮殿の石敷きを再現しています。有名な乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)はこの宮殿で行われた訳ですが、実はこの遺跡は皇極天皇の宮殿だけでなく天武天皇の宮殿跡でもあります。というのも、歴代の天皇が即位するたびに、同じ場所に宮殿を新たに建てたからなのです。遺跡は複数の天皇の宮殿跡が上下に重なっていて、一番上の遺跡が天武天皇の飛鳥浄御原宮と考えられています。
これは飛鳥が初めての都「天皇の代替わりに関係なく国の中心となる所」となったから起きた事です。飛鳥に都ができる前は、同じ奈良の磐余(現在の桜井市付近)に比較的宮殿が集まっていましたが、基本的に天皇が変われば拠点も移動したので、遺跡は単独で出る場合が殆どです。しかし天皇が代わるたびに移動してはは継続的な街作りも出来ませんので、蘇我氏が本拠とした飛鳥に飛鳥寺を置いて、街道や建物などを恒久的に使おうという考えに変わってゆきました。
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飛鳥 アジアの中の古代日本

飛鳥寺建立 古代の文明開化

本放送:3月12日(火)23時00分~23時25分  再放送:3月19日(火)5時30分~5時55分、12時25分~12時50分
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我が国最古の本格的寺院・飛鳥寺の建立は、仏教を取り入れることで日本(倭国)の新しい国造りが始まった大きな画期である。しかしその仏教が、外交交渉の末に倭国が獲得したものだという事はあまり知られていない。当時中国大陸では超大国の隋・唐が誕生し、その影響で高句麗、新羅、百済の三国に争いが勃発。倭国には百済から出兵依頼が届く。大和朝廷で勢力を伸ばしていた豪族・蘇我馬子は、百済に対し援軍を送る代わりに寺院建設に協力するよう要請したと考えられる。587年、馬子は仏教導入に反対する物部守屋を倒して政治の実権を握ると、百済への援軍計画を進めた。そして翌年、百済から大量の職人や知識人が渡来し、飛鳥寺の建立が始まる。仏教は経典や寺院のみならず漢字・暦学・官位など、文明開化のセンターとなってゆく。古代日本に巨大な影響を与えた飛鳥寺の建立を対外交渉史の視点から描く。

歴史の証言
仏教伝来   日本書紀  国立公文書館ほか 蔵
仏教伝来   日本書紀  国立公文書館ほか 蔵 仏教の伝来については大きく二説あり、奈良の元興寺縁起などでは538年、日本書紀によれば552年という事になっています。後者の552年には、百済から欽明天皇へ仏像や経典などが贈られました。そして天皇が仏教を導入するかどうか家臣の豪族たちに諮問した所から、蘇我氏と物部氏の仏教を巡る対立が始まります。以後蘇我氏と物部氏の対立は実に30年もの間親子二代にわたって続き、遂に武力衝突の末に蘇我馬子が勝利します。番組でもご紹介したように、百済から仏教が「伝来」したのには理由があり、蘇我氏のねらいが仏教による国造りである事から、仏教は「伝来」というよりは積極的に「導入」されたものであると解釈されています。仏教を統治の一手段として利用する事は中国の皇帝が行っており、中国を目指した国造りを行ってゆく上でも、倭国は塔を建てる技術や仏典の読み書き知識などを必要としました。
仏教の導入の記念碑という意味でも、今回は飛鳥寺(法興寺)建立をターニングポイントとしました。
(番組ディレクター)
歴史の現場
飛鳥寺 奈良県明日香村 飛鳥寺の起源は、588年の法興寺とされています。実はこの法興寺、奈良時代には平城京に移されて「元興寺」となり、元興寺は今も続いています。では飛鳥寺は何かというと、その移転の時に、寺の建物は奈良に移らずまた残った僧侶もいて「本元興寺」と称しました。ですから、飛鳥寺と法興寺は先祖を同じくする寺なのです。本元興寺はその後落雷による火災で伽藍が焼けて、一時かなり勢力が衰えます。しかし江戸末期に篤志家の援助で再建され、「飛鳥寺」となって今日に至っています。ちなみに飛鳥大仏は、早稲田大学が詳しく調査した結果、造立当時とあまり変わらない姿で今日に至っている事が分かりました。
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こうして“クニ”が生まれた

卑弥呼の外交戦略

本放送:3月19日(火)23時00分~23時25分 再放送:3月26日(火)5時30分~5時55分、12時25分~12時50分
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日本に初めて“クニ”の称号が現れたのは「漢委奴国王」の金印で有名な紀元1世紀である。やがて3世紀に多くの小国の争い(倭国乱)があり、卑弥呼が諸国から共立されて女王となり、使節を魏に送ったとされている。しかし近年、遼東半島から朝鮮半島を支配した豪族・公孫氏の研究が進み、卑弥呼は魏に使いを送る前に朝鮮半島の公孫氏と関係を築いていたという考えが出てきた。卑弥呼の狙いは、中国の王朝と関係を結ぶことで、それまで卑弥呼に従わなかった狗奴国王などを従える権威を得ることであったとされる。金印の発見された奴国の時代から初の連合国家造りを進めた卑弥呼の外交まで、我が国初の「クニ」の実態に迫る。

歴史の証言
卑弥呼の記録   魏志倭人伝  国立公文書館ほか 蔵
【仮】“時間を支配”する 遣唐使が持ち帰った暦 卑弥呼の記述がある本をよく「魏志倭人伝」と言いますが、正確には中国の歴史書「三国志」の中の「魏書」の更に「東夷伝」になります。東夷とは中華思想の下での「東の野蛮人」というような意味です。しかし当時の中国が辺境を軽視していたかと言えば、逆に重視していたのではないかと思えます。何故なら倭国をはじめ中国の情勢には殆ど影響を及ぼさない辺境の地からの使者に応対し、こまめに記録しているからです。これは皇帝の徳が辺境まで及んでいる事を表す意味でも重要ですし、北方の騎馬民族などは中国の勢力圏を度々犯してくるので、注意が必要だったからだと思われます。卑弥呼がどのような人物だったのか、魏志倭人伝以外では殆ど分かりません。
しかしこの時、卑弥呼は治世の終わり頃であり、それまで全く半島や大陸と交渉を持たなかったと考える方が不自然です。番組では東大寺山古墳から出土した鉄の太刀を紹介しましたが、こうした物を卑弥呼が持っていたとしても不思議ではありません。
そういた意味でこの太刀は、文字以外で卑弥呼の外交を考察する上で貴重な証言となる品なのです。
(番組ディレクター)
歴史の現場
金印公園 志賀島(福岡) 博多湾の突端に位置する志賀島ですが、現在は島が道路で陸と繋がって、車で市内から45分ほどで来ることができます。この島の金印公園があった場所から「漢委奴国王」という金印が発見されました。時は江戸時代、発見したのは甚兵衛というお百姓さんでした。
田んぼの溝を修理しようと崖を切り落とした所、大きな石で固めたところが出てきて、石取り除いたら金印が出てきたというのです。甚兵衛は金印を兄が知り合いだった福岡の商人にあずけ、商人は学者に鑑定を依頼します。その結果、中国の史書「後漢書」にある記述「光武賜うに印綬を以てす」にある金印であると判明しました。金印はその後福岡藩の藩庫に入り、明治以後、国宝に指定されました。
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こうして“クニ”が生まれた

弥生時代 国際社会への参入

本放送:3月26日(火)23時00分~23時25分 再放送:4月2日(火)5時30分~5時55分、12時25分~12時50分
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日本史の源である縄文時代、弥生時代について、近年様々な調査方法が開発された。その結果、従来の歴史観が見直しを迫られている。例えば、放射性炭素14を利用した年代測定法によって「弥生時代の始まりは従来よりも500年早い紀元前10世紀ではないか」という報告がなされ、「縄文から弥生への移行は、数百年かけて多様に進行した」という考え方が生まれてきた。
その弥生時代に“クニ”の胎動となった大きなターニングポイントが、紀元前4世紀の「首長集団の渡来」であった。鉄器を日本列島に持ち込んだ首長集団は、首長を頂点とした大規模組織で、他集落の支配と統合を繰り返していた。こうした社会システムが東に広がって、古墳時代に繋がる“クニ”の原型となったのではないかといわれる。最新の研究を交え、アジア情勢の影響で激動した弥生時代に迫る。

歴史の証言
種子のレプリカ(縄文時代)   山梨県立博物館 蔵
種子のレプリカ(縄文時代)   山梨県立博物館 蔵 縄文時代、我々の先祖は何を食べていたのでしょうか?この疑問に答える「レプリカ法」という技術を使った研究が近年進んでいます。レプリカとは種子の複製の事ですが、そもそも縄文時代時代の種子が遺跡に残っているケースは極めて希です。そこで目をつけたのが、土器にある小さな穴。粘土から土器を造る際、何らかの種子が表面についてしまい、そのまま土器を焼いたときに種子が焼けてできた穴です。その穴に柔らかいシリコンを注入して固め、取り出して表面を電子顕微鏡で観察すると、豆や穀物の種子の特徴が驚くほど正確に分かるのです。
従来は、縄文や弥生の遺跡から出土する炭化米などを研究の手がかりとしていましたが、後の時代の植物の種が古い地層に混入している例も多く、信憑性や正確性に問題がありました。しかし土器を作った時に出来た穴であれば、そのような間違いは起きません。現在こうした研究の成果として、大豆、小豆、エゴマ、麻、ヒョウタンなどが栽培されていた事が分かっています。
(番組ディレクター)
歴史の現場
池上曽根遺跡 高さ11メートル、見る者を圧倒する迫力の「和泉の高殿」。総面積60万平米という広大な規模の池上曽根遺跡を象徴する建物です。この遺跡は弥生時代中期の環濠集落で、周りには堀(溝)が巡らしてあります。環濠の周りにはたくさんの住居跡が見られ、「和泉の高殿」の前には巨大な木をくりぬいた井戸がありました。稲作に関係する祭祀を行ったと推定されていますが、発見された当時も水が湧いていたそうで、2000年以上枯れることの無い井戸でした。こうした大規模な集落では、分業や流通が発達し、他の集落とも交流が盛んでした。こうした大集団をまとめ上げ、他の集団とも交渉を行った代表者が「首長」すなわち小国の王となっていったと考えられています。
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