古代日本は、アジア情勢の影響下で形作られてきた。
紀元前4世紀、弥生時代の日本に首長を中心とした「クニ」を誕生させたのは、戦火を逃れてきた大陸の渡来人であった。3世紀に女王・卑弥呼のもと「倭国」が登場した背景には、中国の魏と朝鮮諸国のパワーバランスの変化があった。6世紀のヤマト朝廷の国造りは、仏教導入で得た文化と知識、技術から本格的に始まった。そして大化の改新の背景には、超大国・唐に対する外交の争いがあった。番組では前半2回を「飛鳥の外交」として蘇我氏を中心に描き、後半2回は「“クニ”の胎動」として倭国の始まりにさかのぼる。
政治を牛耳り、天皇(大王)を脅かす逆賊・蘇我入鹿を討った大化の改新(乙巳の変)、このクーデターで権力を握った中大兄皇子(天智天皇)たちは、大化の改新という天皇集権政策を推し進めたと日本書紀には記されている。しかし近年の研究では蘇我入鹿が天皇を脅かした根拠は乏しく、むしろ背後にあった深刻な外交対立に原因を求める声が大きい。蘇我氏は先祖の代から朝鮮の百済と積極的に交流し、仏教などの文物を取り入れてきた。しかしこの時、百済は新羅と唐の連携攻撃によって苦境に立たされており、中大兄皇子の一派は唐・新羅と交渉すべしとして蘇我氏と対立していたという考え方が出てきた。大化の改新は何故おきたのか?どのような影響を与えたのか?大化の改新を国際関係から読み解いてゆく。
日本書紀の基となった歴史書の編纂は天武天皇の時代に始まるので、そうした傾向はさけられず、蘇我氏には実際以上に分の悪い記述がされているだろうという事のようです。
ただし、読み物としての日本書紀はよく出来ており、入鹿暗殺の場面などは非常に緊迫感をもって描かれています。また飢饉や疫病の際には神仏に祈祷する事も多かったのですが、その時不思議な事が起きたなどという記述も現れます。古代の人々が日常でどのような世界観を持っていたのか探る手がかりとしても貴重な本と言えます。
これは飛鳥が初めての都「天皇の代替わりに関係なく国の中心となる所」となったから起きた事です。飛鳥に都ができる前は、同じ奈良の磐余(現在の桜井市付近)に比較的宮殿が集まっていましたが、基本的に天皇が変われば拠点も移動したので、遺跡は単独で出る場合が殆どです。しかし天皇が代わるたびに移動してはは継続的な街作りも出来ませんので、蘇我氏が本拠とした飛鳥に飛鳥寺を置いて、街道や建物などを恒久的に使おうという考えに変わってゆきました。
我が国最古の本格的寺院・飛鳥寺の建立は、仏教を取り入れることで日本(倭国)の新しい国造りが始まった大きな画期である。しかしその仏教が、外交交渉の末に倭国が獲得したものだという事はあまり知られていない。当時中国大陸では超大国の隋・唐が誕生し、その影響で高句麗、新羅、百済の三国に争いが勃発。倭国には百済から出兵依頼が届く。大和朝廷で勢力を伸ばしていた豪族・蘇我馬子は、百済に対し援軍を送る代わりに寺院建設に協力するよう要請したと考えられる。587年、馬子は仏教導入に反対する物部守屋を倒して政治の実権を握ると、百済への援軍計画を進めた。そして翌年、百済から大量の職人や知識人が渡来し、飛鳥寺の建立が始まる。仏教は経典や寺院のみならず漢字・暦学・官位など、文明開化のセンターとなってゆく。古代日本に巨大な影響を与えた飛鳥寺の建立を対外交渉史の視点から描く。
仏教の導入の記念碑という意味でも、今回は飛鳥寺(法興寺)建立をターニングポイントとしました。
日本に初めて“クニ”の称号が現れたのは「漢委奴国王」の金印で有名な紀元1世紀である。やがて3世紀に多くの小国の争い(倭国乱)があり、卑弥呼が諸国から共立されて女王となり、使節を魏に送ったとされている。しかし近年、遼東半島から朝鮮半島を支配した豪族・公孫氏の研究が進み、卑弥呼は魏に使いを送る前に朝鮮半島の公孫氏と関係を築いていたという考えが出てきた。卑弥呼の狙いは、中国の王朝と関係を結ぶことで、それまで卑弥呼に従わなかった狗奴国王などを従える権威を得ることであったとされる。金印の発見された奴国の時代から初の連合国家造りを進めた卑弥呼の外交まで、我が国初の「クニ」の実態に迫る。
しかしこの時、卑弥呼は治世の終わり頃であり、それまで全く半島や大陸と交渉を持たなかったと考える方が不自然です。番組では東大寺山古墳から出土した鉄の太刀を紹介しましたが、こうした物を卑弥呼が持っていたとしても不思議ではありません。
そういた意味でこの太刀は、文字以外で卑弥呼の外交を考察する上で貴重な証言となる品なのです。
田んぼの溝を修理しようと崖を切り落とした所、大きな石で固めたところが出てきて、石取り除いたら金印が出てきたというのです。甚兵衛は金印を兄が知り合いだった福岡の商人にあずけ、商人は学者に鑑定を依頼します。その結果、中国の史書「後漢書」にある記述「光武賜うに印綬を以てす」にある金印であると判明しました。金印はその後福岡藩の藩庫に入り、明治以後、国宝に指定されました。
日本史の源である縄文時代、弥生時代について、近年様々な調査方法が開発された。その結果、従来の歴史観が見直しを迫られている。例えば、放射性炭素14を利用した年代測定法によって「弥生時代の始まりは従来よりも500年早い紀元前10世紀ではないか」という報告がなされ、「縄文から弥生への移行は、数百年かけて多様に進行した」という考え方が生まれてきた。
その弥生時代に“クニ”の胎動となった大きなターニングポイントが、紀元前4世紀の「首長集団の渡来」であった。鉄器を日本列島に持ち込んだ首長集団は、首長を頂点とした大規模組織で、他集落の支配と統合を繰り返していた。こうした社会システムが東に広がって、古墳時代に繋がる“クニ”の原型となったのではないかといわれる。最新の研究を交え、アジア情勢の影響で激動した弥生時代に迫る。
従来は、縄文や弥生の遺跡から出土する炭化米などを研究の手がかりとしていましたが、後の時代の植物の種が古い地層に混入している例も多く、信憑性や正確性に問題がありました。しかし土器を作った時に出来た穴であれば、そのような間違いは起きません。現在こうした研究の成果として、大豆、小豆、エゴマ、麻、ヒョウタンなどが栽培されていた事が分かっています。