2013年03月21日
アンチスケートの陰謀
Spring has sprung! 今年は春の訪れが早い。3月13日に国内最速の開花宣言が福岡で出た。と思ったら、私の住む、ここ東京では4日後の17日に開花し、満開は25日、月曜日との予報が出ていて、思わず「早っ!」と絶句(その後、22日満開に繰り上げ)。東京の開花判定をする標本木は靖国神社にあるが、その靖国の今年のさくら祭りは4/1で終了とのこと・・・・ 春が早いのはいいことなのか、そうでもないのか・・・・それは人それぞれ、地域それぞれに違うのかもしれない。 さらに言えば、春の訪れを例年よりも早く感じさせるのは、スケート業界のシーズン総決算、世界フィギュアの開催時期が例年よりも一週間以上も早いことも手伝っているかもしれない、ということはスケオタのあなたなら異論はなかろう。(例年の感覚で言えば、世界フィギュアの開催は3/21-24、もしくは3/28-31だろう。それが今季は3/14-17だ。一週間以上も早い。理由は不明) で、このブログを書いている今、カナダのロンドン(ややこしや)で開催されている世界フィギュアは、14日、木曜日から、例によってフジテレビが「独占録画ダイジェスト絶賛放送中」だ。2010/2011シーズン以前にあなたが、J SPORTS 4(旧称=J sports Plus)を契約していたのであれば、さぞや「昔は良かったなあ」とぼやいていただろう。なぜなら10/11シーズン以前は、フジテレビの録画放送よりも先にJスポがライヴ中継をしていたからだ(男女シングルに限るが)。それが昨季からできなくなってしまった。これにはカラクリがあるのだが、それについてはまた別の機会に。(後日、日本のフィギュアスケート報道の問題についてエントリー予定) いつぞや私は宣言した。競技会のレポート記事みたいなものはもうエントリーすることはないだろうと。そういうブログに価値がないと言っているのではない。私のモチベーションがもはやそういうところには存在しないということだ。だから、久々のエントリーがロンドン・ワールドの開催時期と重なったのは単なる偶然で、ワールドの観戦記を書こうというのではもちろんない。フィギュアスケートに注目と関心が集まっている時期を利用しようという助平心である。この時期を利用して私は何をあなたに伝えようとしているのか。それが決して愉快な話ではないであろうことは、当ブログを読者登録しているあなたであればとうに気づいているだろうが。 ホットシーズンのクライマックスにあって、私はあなたのスケート熱に冷水を浴びせかけようと企んでいる・・・・。 あなたは「アンチフットボール」を知っているだろうか? 星の数ほどあるブログの中から当ブログを訪問しているあなたはスケオタに相違ない。しかも相当物好き、若しくは天邪鬼な御仁であろうことも想像に難くない。しかし、そういうスケオタのあなたはフットボール(サッカー)についてどれほどの知見を持っているかを私は想像できない。ゆえに、これから本題を進めるに当り、プロローグとしてフットボールの話を少しだけしよう。 フットボールの世界では「アンチフットボール Anti-football 」という言葉がある。起源は諸説あるようだが、最初に私がそれを目にしたのは、ヨハン・クライフというフットボールレジェンドが発した前世紀のインタビューの中にあった。 「反フットボール」と直訳されるその言葉は、「ガチガチに守備を固めたプレイスタイル、チーム戦術」を採るチームを非難するときに使われる。誤解してはならないのは、強固なディフェンスを持ち、失点が少ないチームに対して、点をなかなか奪えないチームが悔しさ紛れに使う負け惜しみではないということだ(負け惜しみで使うチームも皆無ではないが)。また、そのときのゲームプランによっては、守備に重きを置き、攻撃はカウンターアタックを狙う戦術を選択するときもある。守備的なプレイ=アンチフットボール、と短絡的に考えると真意を見失う。 アンチフットボールの真意は、フットボール本来の魅力を損なうほどに守備的で、点を取ることを放棄したかのようにまったく攻めに出ないプレイを90分間続けることだ。フットボールのゲームは「相手よりも多くの点を取る」ことで勝敗が決する。ゆえに、本来、フットボールにおけるディフェンスとは相手の攻撃を防ぐということだけではなく、相手からボールを奪いマイボールにしたら、そこから攻撃に転じ相手からゴールを奪おうとしてプレイするのである。ゴールがゲームのゴール(目標)であり、そのためゴールを奪うプロセス(プレイスタイル、局面の駆け引き等)も魅力であり、ゴールの達成によってその魅力は最大化する。 ゴールを狙わない、奪いに行こうとしないフットボール・・・・それはフットボール本来の姿を自ら否定している。それゆえ、「アンチ」として非難されるのである。 今、「アンチスケート」が起きている!? 昨今のフィギュアスケートの世界でも「本来の魅力を損なうことを自ら行なっている」ことが起きている。私はここで、それをフットボールの例になぞらえて「アンチスケート Anti-skating 」と呼ぶことにする。(もちろん、オーディオ用語のアンチスケートとは意味が異なるのは言うまでもない。オーディオ用語のアンチスケートの意味について知りたい方はWikiでどうぞ) アンチスケートは、私が考案した造語に過ぎない(今のところ、ググってもスケート用語としての「アンチスケート」若しくは “Anti-skating” は検索されない)。しかし、アンチスケートは今や世界の、特に日本のスケート界を確実に侵蝕している。そして、恐ろしいのはアンチスケートの片棒を担いでいる人ほど、そのことに自覚がないことだ。あるいは、目先の利益優先に奔走するあまり、自分がアンチスケートになっていることに無関心を装っている(ここで言う利益とは企業・団体の商業的利益だけではなく、選手自身の成績至上主義も含む)。 アンチスケートを語る前に ~ フィギュアスケート本来の魅力とは? 「アンチスケート」について言及するためには、その定義をあなたと共有することが先だが、そのためにはまずフィギュアスケートの「本来の魅力」について今一度精査しなくてはならない。過去ログでも触れたので重複するところもあるだろうが、フィギュアスケートの魅力について改めて整理してみよう。(あくまでも観る側の視点からの魅力に限定して述べる) Charm 1: まず、最初に想起されるのは音楽である。ただ単に滑っているのではなく、音楽に乗って滑っているところがフィギュアスケートの魅力だ。音楽を使用するスポーツ(採点競技)はもちろん他にもあるが、演技の伴奏として音楽を使うだけではなく、音楽と選手の一体感がもっとも強く感じられるのがフィギュアスケートだと私は思っている。だから、いくつかある採点競技の中でもフィギュアスケートが私を最も魅了する。演技と音楽の一体感、それがフィギュアスケートの第一の魅力だ。 ただ、パラドキシカルな言い方になるが、フィギュアスケートはその競技会においてしばしば音楽の魅力をスポイルすることがある。競技会の時間制約、採点基準が災いし、使用楽曲を「パッチワーク編集」することがあるからだ。この点は競技会の先天的欠陥だが、ここではその点についてはこれ以上言及しない。 Charm 2: 第二点は、フィギュアスケート特有のエレメンツにある。氷の上を滑るというのは、陸上とは異なる世界の表現ができるということだ。他の助力を得ず、自身の肉体の力だけでA地点からB地点へ移動するとき、陸上では歩くのが基本だ。速く移動するときは「走る」ことになり、瞬間的に移動したければ「跳ぶ」ことになる(幅跳び)。ところが、フィギュアスケートではこの移動の動きひとつでも別世界の動きになる。一蹴りで氷上をスーッと滑り、その滑走中は様々なポーズを取ることができ、重心を移動させれば方向も変わる。この「重心移動」を利用して様々な動き(エレメンツ)が可能になる。スケートの様々なエレメンツは、日頃あなたがTVでご覧になっているスピン、ステップ、ターンはもちろんのことジャンプでさえも、すべてこの重心移動(荷重移動)によって生まれる。しかも(ここが重要なのだが)それが氷の上で「滑って」行なわれることで、エレガントに見えるのである。氷上でなければ生まれないこの独特なエレガントな動きがフィギュアスケートの魅力だ。さらに言えば、このエレガントなエレメンツはショーよりもコンペティションでより濃密になる。(スケートにおける荷重移動については後日詳述) Charm 3: 最後は、フィギュアスケートが採点競技であること。と言っただけでは何のことか分からないだろうから、もう少し詳述する。具体的に言えば、 スケーターの個性、感性、時には人生経験と言った、スケーター自身が持つ物語性が演技に映し出されるところ、それがフィギュアスケートの魅力だ。この物語性を持っているか否かで、その演技がスポーツに留まるか、アートの領域に足を踏み込むかに関わってくる。ただ単に、ジャンプが成功したとか、ハイスコアが出たとか、メダルが取れたとか、競技結果に一喜一憂するのではなく、スケーターの演技を通して、そのスケーターの物語(当然そこには光と陰がある)に触れたとき、あなたの胸はいっぱいにならないだろうか。あなたの胸がいっぱいになるのは、そのスケーターの演技に自己(の価値観・感情)を重ね合わせることができたときだ。逆に、物語がまだ始まっていないジュニア年代のスケーターや、シニアでも人間的な成長や深みがスケートに投影されないスケーターの演技は、技術的なことに感心することはあっても、芸術的な感銘、感動をあなたにもたらすことは難しいはずだ(それだけでも感動する類いのお目出度き人は本テーマでは論外だが)。 フィギュアスケートは観る人の感性に左右されると言ってもいい。スポーツ競技としては悪しき問題のように捉えている人も少なくないが、観る人によっていろいろな楽しみ方、味わい方ができるというのは採点競技の美徳だ。換言すると、あなたがフィギュアスケートをスポーツの視点のみから観るのであれば、あなたの幸福度は50%にも達しない。スケーターの演技がスポーツとアートの狭間で絶妙にバランスしているとき、或いはその絶妙なバランスをあなたがスケーターの演技に見出せたとき、あなたの幸福度は最大化する。ちなみに、私のフィギュアスケート幸福度最適比は、アート:スポーツ=59:41、である(この最適比をシュヴァルツシルト計量では「AS比」ということはまったく知られていない。あなたのAS比はどれくらいだろうか) フィギュアスケートの競技会はジャッジメント judgement(判定)で競われる。メジャメント measurement(測定)ではない。あなたがこれを甘受できなければ、あなたは永遠にフィギュアスケートを愛することはできないだろう。その代わり一度これを是認した途端、あなたは永遠にフィギュアスケートから離れることができないだろう。(「判定と測定」については、後日また採り上げよう) そして、賢明なあなたは既にお気づきだろうが、この3つの魅力を凝縮したものがフィギュアスケートのプログラムなのである。フィギュアスケートはエレメンツではなくプログラムで楽しまないと、その魅力を堪能しているとは言えない。 アンチスケートとは何か? で、本題。 アンチスケートとは、フィギュアスケートの本来の魅力を自ら損なうスケーティングスタイル、(自覚、無自覚を問わず)それを実践する選手、それを指導・支援するコーチングスタッフ・家族・関係者、それを黙認もしくは積極的に推進する事業・運営・関連団体・グループ、更にはそれを是として誤信或いは妄信しているファンを指し、または、以上の人物・団体の主張、行動、それらを含めた全体の現象を言う。 ちょっと長文の定義になってしまったが、そういうことである(なにが?^^;) 簡潔に言うと、本来フィギュアスケートの振興、発展に寄与する(しなければならない)立場、存在でありながら、むしろ逆効果になることを行なっている人・団体、その発言・行動である。 私はフィギュアスケートが好きだ。お気に入りの選手がいることはもちろんだが、フィギュアスケート自体が好きだ。だから、特定の御贔屓の選手が引退して競技会を去っても、フィギュアスケートは見続けてきたし、応援してきた。私の知る限り他のスケートファンもそうだった。2005年頃までは・・・・。 ところが、今の日本はどうだ。アンチスケートが、選手、日ス連、メディア、スポンサー、ファンの間でも跋扈しているではないか。外国の話をしているのではない。日本での話だ。 やっかいなことに、 アンチスケートは麻薬のように作用するらしく、目先の利益・成績、現実逃避的な多幸感を得るには即効性があることが結果的に実証されているので、一度アンチスケートで味を占めた人々はなかなかその魔界から脱け出せないでいる。 しかし、それは間違いなくフィギュアスケート自身を蝕み、やがて自らを衰弱、破滅させる「魔薬」である。一過性のブームとして(いわゆる2005年以降のスケートバブル)その上澄みだけを啜っているだけのスポンサーやマスメディア、ド近眼のファン(メディアのフォロワー)はそれでもいいだろう。スケート熱が冷めたらまた新たな「コンテンツ」を探せばいいだけだ。彼らにとってスケートは「消費コンテンツ」にしか思っていないのだから。断言するが、彼らは2014年以降にはその半分が、2018年以降には残りの全員が、スケートのことなどすっかり忘却しているはずだ。 しかし、真摯に取り組んでいる選手、家族、コーチ、関係者(そして本来は日ス連も)、長くスケートを愛してきたファンはそれでは困るのである。 私が見る限りだが、アンチスケートは自然発生したわけではない。明確な意志、目的、謀略を携えてそれは現われた。但し、その発芽段階に加担した人の中には、アンチスケートがやがて手に負えなくなるほどに傍若無人の振る舞いをすることになろうとは想像していなかったかもしれない。しかし、それは十分に予見できたはずだ。藤四郎の私でさえ予見できたのだから。 アンチスケートへのカウンター 私はこのアンチスケートの陰謀を阻止するための一助ならんとして、本ブログの再開を決意した。アンチスケートの流れの逆、即ちカウンターを当てようというのだ。アンチスケートの病巣は深い。手順を踏んでブログを進めなければ、あなたは混乱するに違いない。そのため、このテーマは数回に分けて連載という形で展開する。 まずは、アンチスケートの起源に触れ、現象の検証、病巣の実態に迫ろうと思う。そして、最後はその治療の方向性を提言することを試みる(うまくいくかどうか)。その範囲は多岐に亘る。それゆえ、連載途中で脱線気味になるかもしれない。また、予めお断りしておくが、このテーマでは具体的な選手名を登場させざるを得ない。自覚か無自覚かに関わらず(結果的に)アンチスケートになっている選手、団体、関係者、スポンサー、メディア、ファンのグループを採り上げる。具体的に採り上げないと、何を問題視しているかが判然としなくなるからだ。知らず知らずのうちに、あなたはアンチスケートになっているのかもしれない。或いは、アンチスケートが正統だと錯覚しているかもしれない。ゆえに、本テーマはあなたにとっては大変不愉快なものになる可能性がある。私自身もこのブログでアンチスケート普及連合(Maximize Anti-skating Organization)から攻撃を受けるだろう。かつて彼らの攻撃を受けて、当該ブログを削除せざるをえなかった友人たちを私はたくさん知っている。アンチスケートのカウンターの芽を自ら摘んでしまった・・・・。 そこで今回初めて、当ブログでは投稿制限を設定することにした。今回のブログテーマは、あなたと議論し、意見交換するためのものではない。このブログも所詮、浜の真砂の一粒に過ぎない。ゆえに当ブログ内で議論していても広がらない。であれば、当ブログから一石を投じ、当ブログの外で波紋が広がるようにしなければ意味がない。議論は当ブログの外でやってもらったほうが遥かに広い議論になるだろう。それゆえ、議論の場を外に誘導するため、敢えて当ブログ内のコメント欄はクローズするのである。ご理解を賜りたい。 Epilogue: Dear Friends, 私は長らくアンチスケートに触れることを避けてきた。それとなく示唆はしてきたが、直言することは避けてきた。2005年を境に一気に膨張したスケートバブルの中でアンチスケートについて言及するよりも、フィギュアスケートの魅力をきちんと伝えていくほうがポジティブだと思ったからだ。ところが、その考えは甘かった。癌細胞の異常分裂速度が正常細胞の分裂速度を超えてしまった。真摯なスケートファン・関係者の自己治癒力に期待したのだが、それが追いつかないほど病巣は深く広がってしまった。そして、その癌細胞は今季、恥知らずも甚だしく、表皮を突き破って体外に露出するに至った。惰眠を貪っていた私は怒りを通り越し呆れるだけだった。 その怠惰な私を叱咤するかのように、友人が勇気あるブログをアップした。その友人は、私のスケートの友であり(スケート以外でも楽しい人だが)、師匠でもある。その博識、知見はもとより、感性、知性、機知に富んだ表現力に目を見張るものがあり、さらに言えば一人の人間としても尊敬に値する人物だ(ネットだけではなくリアルな友人だ)。その友人のブログに勇気づけられたのが、今回のテーマ連載の直接的な動機である。ご本人に許諾をいただいているので、最後にその友人のブログを紹介することで、今回のエピローグとしたい。必読である。 http://blog.goo.ne.jp/mana21mi/e/6661184cdad741ce846d09060c373bea なお、同様の主旨で書かれた他の友人のブログもあるのだが、その紹介はご本人の許諾を得てからまた後日機会を設けたい。
posted by pbq1447 |14:13 |
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