しかし、セルが想定どおりの広がりを見せることはなく、ソニーは半導体生産を縮小。「未来を先取りする会社」は過去のものになり、ソニーは「第一線の会社」から「第二線の会社」へと転落した。とはいえ、プレステ2で累積出荷1億5500万台、プレステ3で累積出荷7700万台というビジネスは、ソニーにとって貴重なものだ。これを継続し、なるべく儲かる形で残していくことが、今のソニーの命題だ。その点で、開発コストを削減しリスクを抑えたプレステ4のビジネスモデルは、よく考えられているといえるだろう。
■ 先駆的だったPCエンジン
振り返れば、1990年代にゲームビジネスには実に多くのチャレンジャーが乗り込んだ。ソニーもそうした1社のひとつにすぎなかった。違いがあるとすれば、大ヒットを記録したパスポートサイズのハンディカムで大稼ぎするなど、ほかのチャレンジャーと比べてリッチだった、という点だ。
筆者は大学生のころはゲームセンターでアルバイトをしていたこともあるのだが、家庭用ゲーム機は持っていなかったので、もっぱら友人の家に上がりこんで遊んでいた。1990年前後、ゲーム機といえば任天堂「スーパーファミコン」、セガの「メガドライブ」、NECホームエレクトロニクスの「PCエンジン」が3大メーカー。特に、PCエンジン向けのナムコ「プロ野球ワールドスタジアム」は秀逸なゲームで、夢中になったものだ。
ほかのゲーム機に先駆け、CD-ROMを記録媒体に採用したのがPCエンジンである。周辺機器を買い増すことにより、いろいろなゲームを楽しむことができるPCエンジンは当時としては最強のゲーム機だった。しかし残念なことに、NECホームエレクトロニクスはその後の戦略ミスで大赤字を出し、ゲームハードから撤退。ソフト部門だけがNECインターチャネル(現インターチャネル)として存続した。
歴史の記述は時間が経てば経つほど簡略化されてしまうため、「任天堂を意識してソニーが立ち上げたのがプレステ」という言い方がなされることが多い。PCエンジンは歴史の中に埋もれてしまったため、今の20歳代の人にとっては初耳かもしれない。しかし、間違いなく、PCエンジンは一時代をつくったゲーム機であり、ソニーもそこから大きな影響を受けている。
そもそもPCエンジンは、ソフトメーカーであるハドソンが主導して練られたゲームプラットフォーム構想だ。ハドソンはNECよりも前にソニーに対して同様の構想を提案していたのだが、ソニーは袖にしていた。その後、PCエンジンの成功を見たソニーは、ロムカセットの代わりにCD-ROMを用いたゲームを採用するように任天堂に提案。しかし、任天堂はその提案を蹴った。
そこで1994年、ソニーはソフトビジネスのノウハウを持つソニー・ミュージックエンタテインメントの力を生かし、ゲーム事業に乗り出した。1997年ごろに取材した際、NECインターチャネルの幹部は「資金さえ続けばPCエンジンは続けることができた。資金力に勝るソニーに完全にやられてしまった」と悔しがったものだ。