この内容はすべて事実であり、事実でない場合、またこれから起こることに対して責任を負うという自信を持って悔しさと憤りで挙げる文章です。
2012年1月14日、韓国にいる知人からcode-vのナロとルイを紹介され、約束して原宿のスターバックスでナロ、ルイがジェウォンを連れてきて会いました。
3人は私より若くてお金がなく、一生懸命に生きているように見えて可哀想に思え、いつも私の家で一緒に遊んだり、外で食事をおごったり、クラブに連れて行ってvipサービスも受けさせてあげて親しくしていました。
ほぼ毎日のように一緒に遊んでいて、公演も観に行きました。そのように2週間ほど経ったころ、私とソ・ジェウォンは付き合い始めました。
私はジェウォンより4歳年上で、私の家は裕福で余裕のある中で育ち、韓国で貯めたお金も多かったので、デート費用は全部私が支払い、高価なブランド物もプレゼントしました。
そのように1ヶ月くらい付き合い、ソ・ジェウォンは私にプロポーズしました。今は自分はお金を持っていないけれど、12年の5月30日にアルバムが出ればお金を稼げるからそのときまで待ってくれと言いました。結婚して私の使ったお金の償いをするからと言われ、
結婚を前提とした同棲が始まりました。
ジェウォンの会社が私の家から歩いて10分くらいの距離で(神宮前)、そこからもうちょっと遠いところにジェウォンの宿所がありましたが、ジェウォンは私と出会ってからは一度も宿所で寝たことはなく、
仕事が終われば私の家に帰ってきて、朝はスケジュールに合わせて宿所に戻りました。
私はいつも明け方から起き出して、いつもジェウォンのスケジュールをみてあげ、寝坊なジェウォンをいつも起こしてあげていました。
そしてオフのときやスケジュールのないときは、毎日私のお金で旅行に行ったり遊びに行ったりしました。(1日の平均デート費用:10万円)
収入のないソ・ジェウォンは私に経済的に頼ってきたし、私もジェウォンの約束を信じてジェウォンに責任を持っていました。
5月30日、デビューしてからも収入がなかったので、ジェウォンはもう少し待ってくれと言いました。
出会った日から1年経つまで待ってほしいと言われました。約束は絶対に守るから心配しないで、と言って・・
私はジェウォンのことが本当に好きだったので、結婚しよう、絶対責任を持つからというジェウォンの約束を信じてずっと日本で暮らしていました。
けれども私の親が日本で何もせずにお金ばかり使っているという理由で怒って、韓国に帰国するか、そうでなければもう送金しないと言い出しました。
そのことをジェウォンに言うと、もう少し待てば自分が成功して、私の両親に会って結婚し、両親にお金もあげて幸せな姿を見せてあげれば両親も安心するだろうと言って、私を帰国させず、それで親との連絡も切りました。
けれども、ジェウォンも収入がなく、私も収入がなくなってしまったので、仕方なく私は西あずばにある知り合いのレストランで、7~8時間、ウェイトレスのアルバイトをしてお金を稼ぎました。
私が一人でお金を稼ぎ、ジェウォンの生活費に使っていました。
本当にジェウォンは一文無しでした。
レストランで稼げるお金は、以前使っていたお金と比較すれば比べられないほど足りませんでしたが、前に経済的に余裕があったときに周りの友人たちにお金をたくさん貸したり手助けしてあげていたので、
私が大変だということを聞いた友人たちがたくさん助けてくれました。
神宮前は家賃も1ヶ月16万円もしていたし、食費、旅行など、1ヶ月に買い物を除く生活費だけで50万円を使いました。
急に引越しをしなければならなくなり、家をまた探さなければならないことになって、私一人で家を借りるお金を工面することができず、韓国に帰国すると言うと、私を捕まえて引き止め、
結局、ソ・ジェウォンが1年後にお金を返すという前提で、私の友人から100万円を借りて家を借りました。やっぱり神宮前でした。
そうしているうちに私のビザに問題が生じ、韓国に戻らなければならない状況になりましたが、ジェウォンがもう少し留まれ、自分が守るからと哀願するので、日本で不法滞在者として暮らしました。
本当に好きでしたが、お金のない現実で私一人がお金を稼ぐのがあまりにも辛く、ビザがないために毎日毎日不安に怯えながら暮らすのがあまりにも辛くて疲れてしまい、別れようと言いましたが、もう少し経ったら返すからもうしばらく我慢してくれ、
本当に本当に1年後には結婚して全部償う、責任を持つ、キミがいなければ生きていけないと引き止め、キミがいなければ自分はどうしたらいいのかと毎日のように泣いて約束をしました。
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私はソ・ジェウォンのために犠牲になり、多くのことを諦めました。私は裕福な親のもとで育ち、アルバイトなどというものも一度もしたことがありませんでしたが、ただソ・ジェウォンを愛していたので、ソ・ジェウォンの約束を信じていたので、
両親との縁も切り、アルバイトをして一人でお金を稼ぎ、ソ・ジェウォンと私、二人の生計を担って暮らしました。
私が大黒柱で、私がジェウォンの面倒をみていたのです。その上、不法滞在まで・・毎日毎日、不安に怯えていたその気持ちは今でも忘れられません。
明け方のスケジュールに合わせて、明け方から毎日お弁当を作り、頭のてっぺんからつま先まで全部私が買ってあげて着せてあげ、すべてやってあげていました。恐らく、持っている服、靴、カバンなど全部、私が買ってあげたものです。
時々ある公演のときには毎回ついて行き、沖縄や大阪のようなところにも一緒に行き、スケジュールが終われば私といつも一緒で、
正直に言って、私の周りの人たちはもちろん、ジェウォンの周りの人たち、私たちが二人で通った歯科、ジェウォンが通う美容院の美容師、食堂など、私たちがカップルであることを知らなかった人はいないと思います。
当時はまだ、code-vが顔を知られていなかったので。
さらには身近な人たちも当然私たちが夫婦だと思っていて、
私が一人でジェウォンを食べさせていたという事実も知っていたし、会社でも恋人だということを知らない人はいませんでした。
コンサートのあとの食事会も一緒でしたから。
お金を稼ぐのは大変で、一人で二人分の生活費に責任を持つのは負担が大きく、友人たちからお金を借りるのも限りがあり、
不法滞在者であることが毎日不安で辛かったですが、ジェウォンを本当に愛していたし、私の人生をかけて、自分を信じてついて来れば最後まで責任を持つというジェウォンの約束を信じていたので、忍耐し続けました。
そして少し前から、ソ・ジェウォンは給料をもらえるようになり、私に、韓国に帰国してビザを再発行して戻り、結婚して一緒に暮らそうと言い出しました。
でももしかしたら、私たちが離れ離れになれば心も離れてしまうのではないかと心配になりましたが、ソ・ジェウォンは婚姻誓約書を書いて自分を信じてくれというので、韓国に帰国しました。
けれども、私の両親がジェウォンとの結婚を反対するかもしれないからと、ジェウォンが私の両親に会うのはもう少しあとにしよう、自分が成功してから会おうと提案してきました。
私が韓国で、私一人で暮らしていくのも大変で、ジェウォンが韓国に一度来るたびに、少なくとも20万円ほど使ってしまい、稼ぐ端から一度に使ってしまうので私が経済的な余裕がなくなり、
ジェウォンはしょっちゅう怒るようになり悪口を言って、結局、一方的に別れ話を切り出されました。
私が韓国に戻れば、まずは婚姻届を出して結婚しようという私たちだけの誓約書もあったし、毎日のように一日に数十回も洗脳するかのように約束していたのに、
1年過ぎた今、婚姻届の話は待ってくれというばかりで、いきなり別れ話を切り出されたので、あまりにもショックでした。
精神的ストレスが大き過ぎて倒れてしまい、病院に行って、私が妊娠しているということを知りました。ジェウォンに言うと、知らん顔をされて連絡もくれなくなりました。
精神的なストレスと、別れ話で体が弱っていた私は、結局、流産してしまい、手術を受けました。
誰にも言えず、一人で病院でどれほど怖くて孤独だったことか・・
けれども、ソ・ジェウォンはその事実を知りながらも最後まで、私からの連絡を避けて知らん顔をしました。
1年以上を、私はただソ・ジェウォンのためだけに生きました。
今のCODE-Vがあるのは、会社のバックアップもありましたが、収入のない彼に、私が不足なものがないようにしてあげようと努力し、何も困らずに暮らせるようにしてあげたからです。
行ったことがない場所、食べたいものは何でも買ってあげ、行かせてあげました。一度も食べたことのないような高価な食べ物も、靴、服、すべてが私のおかげで食べられて買えたのです。
結婚するというジェウォンの約束を信じ、ジェウォンが私の男だと思っていたからできたことです。
私が愚かで漠然とジェウォンの約束を信じていたのではありません。
最初は、5月30日にデビューしてお金を稼いで結婚する、その後は私たちが出会って1年後の2013年1月に結婚する、まだお金が稼げないのでもう少し待ってほしい、
私が韓国に帰国すれば婚姻届を出して日本で一緒に暮らし、子供も産んで、それから自分は軍隊に入隊する、そして、もしもC0DE-Vがうまくいかなかったらどうするのかということに対しても、
今のこのCODE-Vの活動も私との結婚のために大変でもやっていく、
その他にも、本当に具体的に私に約束してくれたので、信じられたのです。
けれども給料をもらえるようになったジェウォンは大金ではなくても自分一人が生きていけるくらいの経済的能力ができ、私はだんだん大変になっていたので、急な別れ話を出し、彼と私の赤ちゃんが流産してしまったにもかかわらず、すまないとの一言もなく、知らん顔をして無視しました。