流行に託けて好き勝手書こうと思う。
衰退論なぞ語る暇も無く、私はデカダンスを掲げているのだから、その受け取り方は判じられよう。
だから、某記事のURLも貼らないし、某社のインタビューも貼らない。

強いていうなれば彼の”ちょっとだけ手ざわりのいいやさしい空間のある作品”という文言に惹かれたから、というだけに過ぎない。

1.長さを推し量るもの
 
ほんの一時期だが、売り文句にテキストサイズが「~KB!!」などと使われていたこともあったように思う。
ボリュームを推し量るかなり冷静な数字の基準だ。
この冷静な数字の担保するものは、実に量的な文字数であり、そこから推し量れる”長さ”というものは、妙に手馴染みのよい箱のガムのようなもので、惰性のままに噛み続けていてもわずかながらに味が染み出してくる、そんな具合の保障であろう。

スルメイカやら、噛めば噛むほど、などと言われるが実はそんな事は無くて、噛んでいる内に口腔への意識が薄れてゆき、半ば成型工場の機械のように押し潰しているようなだけになっている。
スルメイカなんかはそのころにはもう、イカだか繊維屑だかなんだかわからない状態になってるだろう。
閑話休題。

”長さ”という保障の肯定的な文句の裏に、かの反応群のような”長さ”への疑念もまた、ある。
何かの傍らの慰みのように噛み続けるガムのようなスタンスで挑めるものでないにも関わらず、そんな保障が成り立ってしまっていたのである。
尤も、これを善しとするも悪しとするも個々に掛かっている。

”長さ”の尺度はまだある。期間だ。
作中の時間経過そのことである。
長ければ数年、短ければ数時間というものすらある。いや、それこそ数千年という単位すら存在する。
しかし、この”長さ”は保障されるものがごく少ない。強いて挙げればキャラクターの服装の変化、あるいは成長・変化、時節の催しなどだろうか。
入学イベントを描写してから一年間をスっ飛ばす作品すらある。
この”長さ”は物語に必要な時間を抽出することに有り、日常や生活を形成し得る可能性のある”長さ”だ。
画面に表示される日付の遷移が最も実直な日常の構築であるのかもしれない。
この”長さ”への配慮が篭っていた注釈が『はるまで、くるる。』の澁澤の言葉

「どうやら時間は伸縮自在で、カンヅメのように圧縮することもできれば、複雑に折りたたむこともできるらしいのだ」

というものだった。
この言葉を向けられて”短い”と評ぜられる事は出来まい。
先に言ったようにこの”長さ”の保障はごく限られている、それは、またこの”長さ”については疑念を抱く者もあまり居ないという事ではないだろうか。

およそ論じられる部分はここなのかもしれないが、プレイ時間という”長さ”も存在する。
いや、これはまた別の問題だが、『聖なるかな』は気付くと400,500という数字が刻まれていたように思う。
プレイ時間を記録する類のエンジンの表記は、私に限って言えば起動させたまま床に就いたり、あるいは仕事へ、外出へと向かうのでおよそ参考にはならない。
実質的な日数についても、複数作品を並行してプレイすることが多い為にこれも参考にならない。
この記録が真摯に取られている方は実にマメだなぁ、と感心しきりである。
また、これはプレイ時間を記録するエンジン以外にも縛られる。SLGなどのゲームパートを擁する作品は勿論のこと、スキップやジャンプ、シナリオセレクトなどの存在、ユーザーの操作を受け付けない演出、コンフィグ設定による文字表示速度や演出速度の調整など。
プレイ時間はこの操作の有無、速度、精度にも左右される事になる。
また、CG差分なども全て回収するようなプレイをすれば、これまた違う結果になろう。

これらが総じて体感時間を形成する。(期間はまた別かもしれないが)
しかしどうやら時間は伸縮自在なようだ。趣味の買い物をしているといつの間にか時間が大層に過ぎていたり、女性の買い物に付き合うと甚く長大な時間を過ごす感覚を与えられるように。


2.味覚論と口唇性、それによる批評の意義

私は味覚論を多用する。それはTweetを見ている方々からすれば往々にして解る事だろう。
味覚論展開の核心には味覚による教養主義的な経験的受容判断があるからである。
味覚は経験、あるいは性質とともに変化・成長してゆくもののようなのである。
本来、苦味や酸味と言った味質は毒や炭化、腐敗を意味するものであり、生来の環境下においては嫌煙される味質だ。幼児などが苦味や酸味に過剰に反応したり拒絶したりするのはこのためである。
しかし、この生来の感覚は成長の過程で変化、成長を経て分別されるようになる。
コーヒーの苦味や漬物の酸味、そういった味質と身体に異常をきたす味質の分別である。
分別の先には嗜好化が待っているのは言うまでも無い。
また、感覚と感覚の漸近はデカダンスの要素でもある。感覚を形成する形相からの剥離、あるいは咀嚼という形相破壊、液媒による融解、浸透の故である。

ここで問題にしたいのは、味覚の経験的受容判断の成立が成される前に、その場を立ち去ってしまう事、あるいは苦味や酸味といった生来の忌避を携えたままに居るという事である。
苦味や酸味を忌避し、充分な咀嚼が行われず、喉奥に流し込まれるそれらはフォアグラの作り方すら覚える。
尤も敏感な彼らは消化不良を引き起こし流れ出るだけかもしれないが。
そうしてやせ細る、あるいは肥え太るというのは不摂生という他あるまい。
昨今に流れる規制の問題とあまり絡めるつもりは無いが、少なからず関係があるかもしれぬ。

飲食というものは生涯を通して続けるものであり、続けねばならないものだ。
その行為から離れることは出来ないが、娯楽の場面においてはそうではない。
離れてしまっても、別の娯楽を摂取出来る。しないことも選択出来る。
そういう意味で酒やタバコにかなり近しいとも言えるのである。まして、成人というくくりがまさにそうであるように。
その上で私は卑近の感覚である酒に例える事が多くなる。
かつて、あまり酒の種類も知らぬ頃に”甘味果実酒”という分類とフランス産という銘に釣られてヴェルモットを手にした事があった。
強調されたワインの臭みに薬草のエグ味、慣れぬ舌は困惑した。
何故飲み続けたのか当時の心は覚えていないが、ヴェルモットはおろかそこから種々のワインを好むようになってしまった。
性欲の喚起のままに釣られたのもそこそこ、中古で安く買った作品の中の、ハードな陵辱の描写、バッドエンドの悲惨さに引っかかった時のようである。
あるいは、酒という名目への疑いの無いまま缶入りの甘味酒を飲み続ける、そんな姿も何かに重ねられよう。
そうした受容判断の構築を阻害するまま、甘味だけを氾濫させていけば、そこには蜜に酔う蝶だけが舞おう。
いやしかし、”STRONG"だとか”飲み応え”だとかいうのにもまた、同様の何かを思わせてならない。
佳趣とする人間がコンビニの陳列の表をなぞって何気なく手にとって満足するだろうか?
そういう事である。


3.日常と生活とその極致と

”ちょっとだけ手ざわりのいいやさしい空間のある作品”
何故この文言が抜け落ちて”長さ”の論議だけが一人歩きを始め、やいのやいのと揶揄されながらコースを走り続けているのかはどうでも良いが、抜け落ちたことには肩を落としている。
”長い”という論議の中には繰り返される日常描写から、その物語を組み上げていく、その構築への是非へ展開していったように思う。
異を唱えるとすれば、この日常と彼の絵空事の作品にあるであろう”生活”の取り違えだろうか。

ハレとケ。宗教学や日本文化概論なんかを教養でやった人間にはなじみのある言葉だろう。
言うまでも無く、日常という言葉は”ケ”である。
ケがなければハレもない。ハレの前には圧倒的な数のケがあり、ケはハレの前に圧縮され得るものでもある。
イベントCGは数多の文字の上にしか踊れない、という事である。
ケを生み出すのはハレの意義でもある。その年の収穫に感謝したり、その年の厄を祓ったり、年月の堆積を感謝したり、そうしたハレの生成はその生活の糧などを抽出してケの中に溶かして行く。
鍬の一振りに、土の砂粒の音にそれこそ”微レ存”している。
しかし、それを恣意的に速度を調整し、Ctrlを押下するだけでスキップさせてしまえる。
噛む事無く、スルメイカの味だけを口腔に広げ、それを肴に酒が美味く飲めるだろうか。
いや、こうした機能を悪し様に言う訳ではない。以前だかに、某氏ののたまった”クリックの快楽”なる感覚、
咀嚼のその行為への快楽という捉え方で、それを無くして味をしてもらおうと言う、そのなんという味気なさか、という事にある。
そこにあるひと噛み、ひと噛みに何がしかの旨みを染み出せば、良い肴になり、味気ない味の長続きするガムにはならない。
こうした部分においてシナリオライター・かずきふみの技巧を私は評価している。
彼のテキストの中にはそれこそ、物語にはなんの必要もないようでいながら、その生活の根底を垣間見る細やかな仕草が付け加えられている。
『もっと、姉ちゃんとしようよ』においては、その心遣いが声優の演技にまで食い込んでいる様を見せてくれた。
ここまで血を通わせたのは彼の意思か、あるいは汲み取ったスタッフが居たのかまでは我々には見えない。
日常に生活の芳香がしているのが好ましいのだ。
しかし、噛ませ続けてはならない。やがてそれは口腔感覚を麻痺させて、繊維屑へとしてしまう。

では、極致とはなんなのか。
この繊維屑を愛することに他ならない。
繊維屑から湧き出た味、芳香を反芻して、そのものへと返す事なのである。
繊維屑の一本一本まで解き解して、その中に何があったのだろうかと考える。
途方も無いその作業の中に、やがて数学的崇高のような妙が訪れる。
味が反省され反芻され、それをもたらす繊維屑を尊び、生活が何故か色を増して見える。
私にはその感覚が特定の音楽ジャンルと強く結びついてしまい離れないのだが、その由がまだ完全には理解出来ていない。
いずれ真摯に向き合うべきだとは思うのだけれども…。