「中国人の武装集団は、村を隅々まで荒らし、食糧・金・衣類などを奪い、抵抗する人々を無差別に暴行・殺害して、女性や子どもを襲った。(中略)朝鮮人の女性や子どもたちは、襲われないよう顔にすすを塗ったり、家族全員で畑に隠れ、虫に刺されながら夜を過ごしたりした」(満州に移民した朝鮮人の証言)
1945年の第2次大戦終戦後、満州地域で中国人に襲われ死傷した朝鮮人の数が、終戦直後の3年間で約8000人に達するという研究結果が発表された。虐殺の原因は、日本のかいらい国だった満州国が、朝鮮人と中国人を分断統治する政策を取ったことにあった。
尹輝鐸(ユン・ヒタク)韓京大学教授は12日「『韓僑(きょう)事務』『東北復員計画綱要草案』『中国朝鮮族移民実録』など中国側の資料を分析した結果、当時満州の朝鮮人は、主に国民党側の中国人からひどい迫害を受けていたことが判明した」と発表した。45年の終戦直後、国民党軍が占領した地域では朝鮮人176人が死亡し、1866人が負傷、3468人が拘束され、320人の女性が襲われたという。47年には朝鮮人2042人が暴行されて死傷し、8468人が逮捕された。
尹教授は、本紙の電話インタビューに対し「この時期、満州で死傷した朝鮮人は計8000人に達する。統計に含まれない山間部や共産党による占領地域まで含めると、実際の死者数はもっと多いだろう」と語った。
朝鮮人が迫害された理由は、当時この地域の中国人が朝鮮人に対し敵意を抱いていたからだ。満州国を介してこの地域を統治していた日本は、配給に差をつけるなどの方法で、日本人を「1等公民」、朝鮮人を「2等公民」、中国人を「3等公民」と認識させる差別政策を取った。実際には朝鮮人を差別しながらも、こうした手法を用いることで、中国人が朝鮮人を「日本の手先」と見なすようになったという。
戦争が終わると、中国国民党軍や地方軍・匪賊(ひぞく)などの武装勢力は、朝鮮人の村を何度も襲撃した。ある朝鮮人の村では、謝文東という人物の率いる武装集団が村人を全員殺害するという事件も起きた。46年5月に北満州で起きた「東安・密山事件」では、朝鮮人約100人が国民党の正規軍に殺害された。この地域の朝鮮人が中国共産党に友好的な立場を取った背景には、このような国民党側の弾圧の影響があったという。
尹教授は「光復(日本の植民地支配からの解放)直後の政局が極めて乱れていたため、こうしたことが韓国側に十分に伝わらず、資料も少ないことから、これまでほとんど研究されなかった」「日本が『複合民族国家』と主張していた満州国は、幾つもの民族が、アイデンティティーを持たず互いに矛盾を抱えて集まった国家だった」と語った。尹教授は12日、こうした内容の研究書『満州国:植民地的想像が生んだ複合民族国家』を出版した。
慶煕大学韓国現代史研究院の許東賢(ホ・ドンヒョン)院長は「これまで学界でも知られていなかった事件で、新たに発掘した資料を用いて実証的に明らかにした」と評価、「国際的視野の韓国現代史研究において重要な資料になるだろう」と語った。
■満州国とは
1931年の満州事変開始後、現在の中国東北部に日本が作ったかいらい国。32年から45年まで存続し、清の最後の皇帝だった宣統帝溥儀を皇帝に据え、新京(現在の長春)を首都とした。現在の中国では、満州国という表現は使わず「偽満」という表現を用いる。