朝鮮寇

日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではない。

日本側の記録によれば(『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』『百練抄』『日本紀略』『扶桑略記』等)、
それまでたびたび侵略を受け、九州北部はもとより薩摩大隅にまで及んでいたことが記録されている。

 その大半は、朝鮮半島からのものであった。数隻の賊船によるものがほとんどであったが、中には、45隻2500人の新羅の者が来襲し、
捕らえた捕虜が「王の命令を受けて略奪に来た」と述べたこともあった。(『扶桑略記』)
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm

実はコリアンは、太古から
日本人虐殺&侵略を多数行っていた。

【第一次侵略=356年】
ワイ人=朝鮮人の金奈勿(キン・ナブツ)が、稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪、
志良岐を乗っ取る。稲飯命王朝が滅亡。
【第二次侵略=562年】 朝鮮人国家=新羅が、半島の日本領=任那を武力攻撃。任那は滅亡した。
【第三次侵略=660年】 新羅が、唐軍と共に日本領=百済を侵略。百済は滅亡した。
【第四次侵略=811年・12月】 新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。
【第五次侵略=813年(弘仁4年)・2月】新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。
【第六次侵略=869年(貞観11年)・5月】新羅の海賊、博多で掠奪する。
【第七次侵略=893年(寛平5年)・5月】 新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
【第八次侵略=894年(寛平6年)・4月】 新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
【第九次侵略=997年(長徳3年)】 高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺。
【第十次侵略=1014年(長和三年)】 高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。

【第十一次侵略=1019年(寛仁三年)】
50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らして物資を奪い、
家屋を焼き払い、老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。

日本側は、大宰権使=藤原隆家・大蔵種材や在地の豪族らが応戦撃退。
逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。
十数日間に渡る戦闘だった。刀伊の侵略。

【第十二次侵略=1097年(承徳元年)】
異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船
を撃破し賊徒数万を海没させた。元寇に至る外国からの侵略事件の中でも最大規模のもの。

【第十三次侵略=1274年10月(文永11年)】
忻都、金方慶らに率いられた、高麗人・モンゴル人数万人が朝鮮の月浦(現在の馬山)
を出発。10月5日に対馬を、10月14日には壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の
本拠を全滅させた。

【第十四次侵略=1281年(弘安4年)】
高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍
が日本を侵略。

【第十五次侵略=1419年(応永26年】
朝鮮が、日本領=対馬を、倭寇征伐の名目で侵略する。朝鮮では己亥東征という。
太宗は「倭寇の根拠地は対馬だ」と言いがかりをつけ、対馬を侵略した。

これにより6月19日、李従茂指揮の227隻、1万7258人からなる船隊が、
朝鮮の巨済島から対馬にむかい、翌20日に対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。

当初、朝鮮軍は対馬の民家1939戸を焼き、多数の日本人住民を虐殺した。

しかし、同年26日に仁位郡に進攻した頃から対馬の伏兵に反撃され、朝鮮軍は
2500余人の損害を出した。そして、宗貞盛の撤兵要求を受け入れて7月3日に巨済島に引き揚げた。

【第十六次侵略=1956年(昭和26年】
島根県隠岐郡竹島を不法占拠。隠岐島の漁民を44人拉致・5人を殺害。現在に至る。