新聞・週刊誌「三面記事」を読み解く
【第24回】 2013年3月18日 降旗 学 [ノンフィクションライター]

震災から2年。エステーの、ちょっといいお話
ちょっとじゃありません、ものすごくいいお話

 奥尻島を震源地に、北海道南西沖地震が発生したのは一九九三年のことだった。

 阪神淡路大震災が起きる二年前だが、津波を伴い、死者二〇二人、行方不明者二八人を出したこの地震は、三宅島や雲仙普賢岳の噴火と並び、当時としては近代における大惨事のひとつとして報じられた。

 その奥尻島の現地取材に、残念ながら私ではなく先輩のライターが赴いた。

 月刊誌に長いルポを書く予定で、先輩は、十日ほど現地に滞在し、帰京して急ぎ原稿をまとめる計画を練っていたが、先輩は帰って来ない。入稿日という名の〆切が近づき、そろそろ戻らないとまずいという時期になっても、先輩からは電話一本かかってこなかった。

 至極当然の流れで、担当編集者は焦り、やがて苛立ち始める。どうなっているんだあいつは、もう〆切じゃねえか、と別の取材をしていた私までがどういうわけか叱られる始末だ。

 結局、先輩は印刷所を待たせ……、印刷所の輪転機を止めたり待たせたりすると追加料金が発生するので本当はいけないのだが、先輩は“一発校了”という離れ業をやってのけ、その月の特集に穴を空けることなく仕事を終えた。

 印刷所を待たせる、穴を空けるなんてことは大先生にしか許されないことであり、大先生ですらときにはお小言をいただく。にもかかわらず、半チクなモノ書きのくせに、ほんの四、五回ほど穴を空けても平然としている私は、ギョーカイでは奇跡と呼ばれている。

 そんなことはどうでもよろしく、先輩の帰京が遅れ、原稿が遅れたのには理由があった。先輩は、奥尻島で、取材そっちのけで復興作業を手伝っていたのだ。

「お前な、被災地に行って、取材だけして帰ってくるようなばかにはなるなよ」

 二〇代後半だった私が、あのとき先輩に言われた言葉だ。

 私にまで八つ当たりしていた編集者も、先輩の〆切が遅れた理由を知ると、じゃあ来月は私も連れてってください、などと言っている。震災の記事を担当したのも何かの縁だから、少しくらいは復興の手助けをしたいとの考えからだ。

 本来、被災地に行って、取材だけして帰ってくるようなばかはマスコミにはいない。少なくても、私の周りにはいない。先輩のように、いったんは帰京しても再び現地を訪れて復興の手助けをしたり、その後の関係を持つようにしている。

 私の師にあたるノンフィクション作家の吉岡忍さんは、ある事件の取材をした際、一度は書きあげ編集者に送った原稿を自らボツにし、あえて穴を空けた経験すらある。これを載せたら、加害者家族の立場が悪くなるというたったそれだけの理由でだった。あのときの吉岡さんは、

「んー、編集部にはぼくが頭を下げればいいだけじゃない。始末書を書けと言うんなら何枚でも書くよ」

 と言い、平然としておられた。

 依頼された原稿を書くのはプロの仕事だが、書けと言われたから書くだけのモノ書きは本物ではない。書けと言われたことだけを書くモノ書きは、ただの代書屋だ。

 与えられた仕事しかできないやつも、本物にはなれない。出せば売れるとわかっていても、良心に従ったとき、たとえ立場が悪くなっても出さない決断を下す勇気こそが本物の証しだ。

 と私は思っているが、多くの人がマスコミ関係者の被災地での手伝い等々を知らないのは、マスコミの人間がそんな自慢めいたことを口にしないからだ。

 大切なのは、震災なら震災といった現実と自分がどう向きあうか、そして、復興に便乗した金儲けを考えるか、逆にそれを浅ましいと蔑むか――、人間性というものはそういうところに表れるのではないだろうか。

 というようなことを、朝日新聞の夕刊が掲載したエステー会長、鈴木喬さんのインタビュー記事で感じた。二年前、東北地方を襲った大地震と津波のあと、鈴木会長をはじめエステーが何をしたか、についてである。

 エステー社の『消臭力』という商品は、生産工場が福島県いわき市にある。が、生産ラインは大地震で壊滅的な被害を受けた。再開のめどは全くと言っていいほど立たず、『消臭ポット』の外注工場に至っては福島原発の半径数キロ圏内にあった。

 宣伝部長から、こんなときだからこそ、新しいコマーシャルをつくりたいとの申し出があったのは、震災の五日後のことだったそうだ。誰もの記憶に新しいが、震災後、テレビCMは公共広告のみだった。

 繰り返し放映される津波映像と公共広告ばかり見ていたら病気になる――、と会長は思ったとのことだ。そして製作されたCMが、ミゲルくんという少年が天使のような澄んだ声で“しょ~しゅ~りき~”と歌うあのCMだった。

 私の記憶はいい加減で、ずいぶん前から見ていたような気がしていたが、あのCMは震災後に製作されたものだったらしい。

 ロケ地はポルトガルのリスボン。一八世紀、地震と津波でリスボンでは市民の三分の一が犠牲になったが、街はその被害から復興した。だから、撮影にあたってはあえてあの街を選んだのだという。

 CMは好評を博したが、営業部からは大ブーイングだったらしい。

「商品をまだ生産できないのにCMなんか流されたら、お客さんや販売店から大バッシングを受ける。だからやめてくれ」

 といった内容だった。しかし、それでも、エステーはCMを流し続けた。
 また、社内では、福島工場を閉鎖し、埼玉工場に合流するプランも出された。

「これには怒りました。工場の幹部は転勤職種だからどこへ行こうと構わない。でも、地元のワーカーの人たちには、介護が必要な親があり、学校に通うお子さんがいる。エステーが先頭を切って逃げるようなことはできません」

 福島工場は震災から一ヵ月後に再開するのだが、現地を訪れ、復旧宣言をする際、鈴木会長は疲労とストレスで思うように動くこともできなくなってしまい、ずっと横たわっての移動だったらしい。

「ライバル会社の生産施設はどこも無傷でした。被害を受けたのはうちだけ……、エステーが手負いとなれば、ここぞとばかり大攻勢をかけてきます。とどめを刺すと。騎士道の精神なんてありません」

 会長の談話には、迫力と、窮地に立たされたからこその踏ん張りと、そして不安とが感じられる。そのストレスが、体調不良を誘発したのだろう。部下たちは、あのとき鈴木会長は死んでしまうのではないかと思っていたそうだ。

 この談話を目にして、私は思った。

 そうか。人に優しくとか、地球に優しくとか、頑張ろう東北とか言ってる企業は多いけど、エステーさん、一緒に頑張りましょうと言った同業他社はいなかったのだなと。ビジネスの世界ってシビアだね。人間どうしの“つながり”や“絆”よりも、企業の論理なんだね。

 エステーは、そのあと、業容とは全く関係のない商品の生産に乗り出す。
 放射線の線量計『エアカウンター』である。

「国内では三社が製造していましたが、全て政府と東京電力に売るので、民生用は一本もないと言ってどこも売ってくれない。腹が立ちましたね。値段も五〇万とか一〇〇万と高額です。ならば、うちでつくってしまえと」

 従来の商品とは全く違うことから、役員会でも反対意見が相次いだ。

「品質の保証はどうする、クレームがきたら対応はどうする……、等々、できない理由はいくらでも並べられます。でも、原発事故の被害は心理面も大きい。自分で数字を見ることができれば、日本を覆う暗い空気も変わるのでは、と思いました」

 ちなみに、エステーの社是は“空気を変えよう”である。

 役員の反対を押し切って生産に踏み切った『エアカウンター』は、しかし、たいへんなことになった。

「収支がひどいことになるのはわかっていました。三万円で販売すれば収支はとんとん……、ですが、販売価格は当初から一万五七五〇円を考えていた」

 赤字覚悟……、というより、赤字になるとわかっていて始めた事業だ。

「でも、幼い子どもを持っていて、いちばん不安を抱えているお母さんたちに訊くと、一万以下でないと買えないと言われるんですね。だったら俺に任せろ……、なんて胸を叩いてしまった」

 だから、赤字になることがわかっていても、心意気でやろうと鈴木会長は決めた。

 おまけに、発売二週間前、お母さんたちと約束したとおり、値段を九八〇〇円にまで下げた。これはほとんど衝動的に決めたことだったらしい。

 また、中国にいったんは設けた生産ラインを白紙に戻し、福島での生産に切り替え、衝動で九八〇〇円に下げた値段をさらに七九〇〇円にまで値引きした。こんにちまでの累計販売台数は二七万台にのぼるとのことだが、会社としては、赤字どころか“大赤字”らしい。

 だが、そのおかげで、自分の目で数値を確認し、安心できるお母さんたちもいる。

「プロの経営者からは、あんたはアマチュアだとよく冷やかされました。経営者という立場からすれば、私も儲けたいという気持ちはありました。でも、それは卑怯じゃないかと」

 鈴木会長はこうも言っている。

 私は自分の気持ちでやったが、“日本株式会社”として、また、日本の企業社会としても、もっとできることがあったのではないか。原発関連企業には、社会的責任を感じて、もっと前に出てきてもらいたかった、と。

 会長の言葉を前にすると、口先だけの“つながり”や“絆”には何の思いも込められていないことがわかる。あなたはアマチュアだとからかった経営者らは、被災地からも儲けるのがプロの仕事だと思っているのだろう。

 そして、その同じ口で、社会貢献だの、企業理念だのを宣うのだ、きっと。
 ちっとも粋じゃないぜ。口先だけなら、どんな“きれいごと”だって言える。

 被災地のお母さんたちに任せろと大見得を切ってしまった手前、鈴木会長もやらざるを得なかった部分もあるだろうが、大赤字になっても、会長は約束を果たした。それが、おそらくは、あの大震災への鈴木会長の“向きあい方”だったのだろうと思う。それでも、行動が伴う人は、素敵だ。

 私たちには、あえて書かない、あえて出さないという良心があるが、その逆で、赤字を承知で、あえて出すという文字どおりの“心意気”もあるのだ――、と改めて思い知らされたような気がする。

 教えてくれたのは、鈴木喬会長であり、エステーだ。
 惚れたぜ鈴木会長。エステーのファンにもなってしまった。

 本来、こういったインタビュー記事は雑誌がもっとも得意をするところなのだが、そのお株を奪うかのような、ちょっといいお話を朝日新聞が載せた。聞き手は三ツ木勝巳さんという方です。

 新聞にいい記事を書かれるとちょっと癪なのは何故なんだろう。

(文中一部敬称略)
参考記事および引用と抜粋:朝日新聞3月11、12日(いずれも夕刊)