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■「千人の声」その後 取材後記:11
【小沢香】宮城県塩釜港から市営汽船で約50分。日本三景・松島に浮かぶ浦戸諸島のひとつ、寒風沢(さぶさわ)島に近づいた。東日本大震災で、人が住む浦戸の4島は、松島湾の防波堤のように津波の直撃を正面から受けた。寒風沢も桟橋と中心集落を失い、昨年、雪の中を訪れた時は、急ごしらえの仮桟橋の鉄板の上を恐る恐る歩いたことを思い出した。
船着き場に着き、驚いた。工事現場で使う足場パイプを組んで鉄板を渡しただけ。変わっていない。船を降りた島の女性は「満潮だと水が足場まで来る。誰か海に落ちないと直らないっちゃ」と言った。
それでも仮桟橋近くに新しいカキ加工場があった。家も作業場も失い、島の仮設住宅に住む長南正義さん(53)が昨年、4軒のカキ漁仲間で450万円ずつを負担し、共同で建てた。
震災の年は避難所で生活しながら泥に埋まった種ガキを拾い、桂島の作業場を借りて夢中で出荷した。「おれは生きてる、生産してんだよと伝えたい」と語っていた。
今冬は個人の顧客も倍の200軒に広がった。だが、2年経って逆に「こんだけ何も復興が進まないと『これからおれはどうしよう』と先が見えなくなってきた」と悩む。
壊れた桟橋はもちろん、岸壁が直らないと船から浜へカキを直接揚げることもできない。一方で、島の人は副業にしている水田の整備は着々と進む。自宅の土地は危険区域とされ、住宅は新築できない。災害公営住宅は最近になってようやく候補地を打診されたが、危険区域と近接する海に近い湿地だ。地盤調査や測量の内容も聞いていない。
「働ける漁師が、島に残って海の仕事をやんないと皆を不安にさせてしまう。もう少し地域に合ったやり方にならないのか」
加工場の隣では津波被害を受けた外川栄子さん(59)の民宿・外川屋が今月から再開した。地盤沈下した地域一帯の対策工事は始まらない。半年かけて自己負担で地盤工事をし、床を1・5メートル持ち上げた。1千万円以上かかったが、「日銭は自分たちで稼がないと。船から民宿が見えただけでも復興のアピールになるっちゃ」。
昨年10月からはワカメ養殖も始めた。今は工事関係の客ばかりだが、「だんだんとワカメや田んぼ作業ができる体験型観光にしていきたい」と話す。
浦戸諸島は、道路や鉄道網がなかった時代、海運の要所だった。寒風沢島は、江戸廻米の千石船が発着する港として栄えた。明治に入ると、漁師たちは近くの石浜の港から「ラッコ船」に乗り、毛皮を求めてベーリング海まで航海した。
「カキ、ノリ、魚、畑に田んぼ。島は働きさえすれば、食べていける良いところ」と外川さん。戦後も往時は寒風沢島だけで500人近くが暮らしていた。だが、震災後、170人いた島民の3割近くが島を去ったという。
震災前、島にはただ一つの商店「かじや」があった。後継ぎ娘の長南まり子さん(61)が2010年に改装し、焼きたてピザが味わえる喫茶店を隣につくり、島民の憩いの場として軌道に乗ったばかりだった。まり子さん一家は、津波で店と家を流され、本土の仮設住宅に逃れた。昨年訪ねた時には「できることなら戻りたい」と話していた。
再訪すると「土地も資金もない。気力も出ません」と視線を落とした。先祖代々の土地は「公園にする」と告げられ、安い価格で手放さざるを得なくなった。昨年末には母が亡くなった。「『再生はあきらめろ』という選択を行政がしたということなのでしょう」。無責任にかけられる言葉はなかった。
現在、島の仮設住宅に暮らすのは11世帯。「みんなが復興住宅に入って落ち着くまでは自分だけ島を出るわけには行かない」と言っていた島津和代さん(67)は今、その災害公営住宅の計画に納得がいかない。
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