元寇
鎌倉時代に当時世界最大の勢力を誇ったモンゴルが再三にわたり臣従を促してきました。しかし幕府が無視したため、蒙漢と高麗・南宋の数万の軍がが二度にわたり、対馬・壱岐を経て博多付近を攻撃したものです。これを蒙古襲来、文永・弘安の役(1274〜1281年)と申します。
文永の役
文永十一年(1274年)10月、元軍20.000、高麗軍6.000、水夫6.700が大船300、軽船300、補給船300をもって高麗の合浦(がっぽ 現在の馬山)から来襲。対馬はまたたくまに踏みにじまれ、14日には壱岐が蹂躙、16〜19日には平戸方面に上陸、20日には博多に侵入してきました。これを迎え撃つ日本側は九州の武士団約一万です。しかしはじめての外国との戦であり、相手の戦法に戸惑いもありました。
元軍の弓の射程距離は日本側の2倍、それに加えて「震天雷」という大砲のような火器を使用したので、10キロほど退き大宰府あたりまで落ちました。しかしここで少弐景資(しょうにかげすけ)という武将が相手の副将の劉復亨(りゅうふくこう)を射落としたことにより元軍は軍勢を立て直すために退却したといいます。
日本側の死者の数は元軍の10倍でしたが、元軍は深追いせずに海上に引き上げました。これが運命を分けました。
翌21日の朝には海上に元・高麗軍の船は一艘も無く、日本側にとっては昨日の戦が夢のように思えたでしょう。
夜に暴風雨があったもので、元軍はこれによって壊滅してしまいます。高麗の資料では元軍の溺死者は13.500と言われています。
後世の日本ではこれを「神風」と言います。
しかしこのままで終わるはずが無く、時の執権北条時宗は西国の守護達に厳戒態勢を命じました。
翌年4月、又々チンギスハンの孫フビライは服属を促す使者を送り込み、使者は鎌倉に出向きましたが9月7日五人全員が斬首されてしまいます。これによって元軍の再来は確実となったので北条時宗は西国御家人の動員確保と博多湾一帯に20kmにわたる元寇防塁(石垣)を築きました。
| 対馬の被害は対馬守護の宋資国以下80騎が戦死、多数の島民が殺害され、子供を含む約200人の島民が拉致され高麗に連行されました。 |
弘安の役
弘安四年(1281年)、フビライの使者が斬首されたことにより、今度は14万という大軍で押し寄せてきました。蒙漢と高麗の4万の合浦からの東路軍と南宋の慶元(けいげん 現在の寧波)からの江南軍10万です。東路軍と江南軍は6月半ばに合流するはずでしたが、東路軍は大幅に遅れることになる江南軍を待たず、6月6日に博多湾の志賀島・能古島付近で戦闘状態に入ります。しかし今度の日本軍は準備がありました。特に石垣の防塁での守りは固く、また夜討という夜襲で相手を悩ませたため、元軍はいったん壱岐沖に退却しました。
6月29日、日本軍は壱岐に退却した東路軍に対し、松浦党、竜造寺氏などの数万の兵で攻撃を開始し、遅れて着いた江南軍の待つ平戸へと追いやりました。今回は日本側の優勢が窺われます。
6月末、平戸で合流した東路軍と江南軍4.400隻の大船団と14万の兵は九州本土への上陸を試みますが、またもや松浦党や島津氏の猛攻を受け、7月27日に主力軍を隣の鷹島に移しました。
そして7月30日夜、何とまたもや大型台風が北九州地方を襲いました。今度は五日間にわたり海が荒れたため、元軍は壊滅状態になり、高位の将兵は約10万の兵を置き去りにして帰還してしまいました。生還者は3万数千人と言われています。
2〜3万の兵を捕虜としたありますが、残りの7万人はどうなりましたのでしょうか。工匠や農業の知識のある人が捕虜となったようで、博多の唐人町は江南軍の南宋の人の町と言われています。
三度目の元寇はありませんでした。1294年にフビライが死に、内乱がおきて日本遠征どころではなくなったのです。
この二度の戦役を見ますと、日本の侍はよく頑張ったと思います。また元軍はやはり大陸の騎馬兵なので海戦は不向きだったのでしょう。高麗も宋も臣従させられて、嫌々戦に駆り出されているので戦意が乏しかったかな? それにしても偶然の二度の暴風雨で助けられた感がありますが、この「神風」思想が後の日本に大きな影響を与えましたが、第二次世界大戦ではついに「神風」は吹きませんでした。
| 文永の役で元軍が上陸した対馬の西海岸に小茂田浜神社があります。ここは戦死した宋助国を祭る神社です。ここでは毎年11月12日に鎧兜に身を固めた侍の末裔が勢ぞろいして、神主が海に向かって矢を射る「鳴弦の儀」が行われています。 |
倭寇(わこう)
倭寇は日本人による侵略者あるいは海賊です。秀吉の朝鮮出兵も日中戦争もあちら様から言えば倭寇です。
主に朝鮮半島や中国大陸の沿岸で略奪・拉致を行うもので、404年に高句麗に記録されているのがはじめで、14〜16世紀に最も盛んであったようです。1223年、1232年にも「高麗史」や「吾妻鏡」に記されているので、元寇はこれに対する報復かもしれません。
しかし今度は元寇に対する報復として倭寇が活発になってまいります。元寇によって船や兵を失った高麗や元の沿岸は守りがお留守の状態です。日本側は鎌倉幕府が弱体化して御家人の窮乏・浪人が目立ち始め、その人たちや元寇で被害を受けた対馬・壱岐等の九州沿岸の人、瀬戸内の漁民や商人が武装化して進出して行きました。1333年に鎌倉幕府が滅びますと、その後は激増することになります。
これに対し高麗は侵入してきた倭寇に1376年、1380年、1383年とそれぞれ大打撃を与え、1389年にはまた対馬を襲撃しています。1380年に倭寇を討伐した李成桂が1392年に高麗を滅ぼし朝鮮を建国をしました。日本側も1392年に足利義満が南北朝を統一し、明との貿易のため倭寇を鎮圧したため影を潜めるようになりました。
それにしても対馬は地理的に日本と朝鮮の最短距離にあるため、度重なる災難に会いますが、幕末にもイギリスやロシアの軍艦による不法占拠事件がおきます。
オラ、もうこんな島イヤだ ! という事件がおきるのです。
しばらく鳴りを潜めていた倭寇ですが、16世紀に入りますと再び活発となります。
いままでは局地的な報復合戦の体でしたが、1557年に勘合貿易という日本と明との貿易が途絶えたことから中国大陸沿岸に大規模な倭寇が発生しました。この倭寇は中国の人が大部分で、日本人はわずかでした。はじめは中国の浙江省が中心の密貿易でしたが、取締りにより壊滅すると海賊に変わり、日本の平戸・五島列島を根拠地にして中国沿岸に押し出しました。この人たちは日本人の姿かたちをまねたので、やはり倭寇と呼ばれたのです。
やがて明も融和策を講じ日本以外の国に貿易を認めたため倭寇も下火になり、日本も秀吉の天下統一により倭寇取締令を発したので収まっていったのです。
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