シリーズでお伝えしている、東日本大震災から2年。
今回は、津波に備えた避難のあり方を検証します。
おととしの3月11日、巨大地震が発生してから高さ3メートル以上の大津波が観測されるまでの時間を、当日の地図で見てみます。
東北の沿岸は、30分前後で大津波が到達し、逃げ遅れて多くの人が亡くなりました。
一方、震源から遠い千葉県旭市では、地震からおよそ2時間半もたって最も大きい7.6メートルの津波が襲いました。
このためいったん沿岸から避難したあと、危険は去ったと思って自宅に戻り、被災してしまった人が目立ちました。
この教訓をどう生かすか今、対策が本格化しています。
おととしの3月11日、旭市を襲った津波の映像、海上自衛隊機が上空から撮影しました。
地震発生からおよそ2時間半もたって7.6メートルの大津波が襲い、住宅を押し流しました。
最も被害が大きかった飯岡地区に住む大矢勢津子さん(67)。
大矢さんは、地震のあと、家族から「逃げよう」と促され、500メートルほど離れた小学校に避難しました。
しかし、いつまでたっても津波が住宅地まで押し寄せてくる気配はなかったといいます。
夕方になって夜は冷え込むと考えた大矢さんは、自宅にカイロなどを取りに戻ったところ大津波が押し寄せ、危うく流されそうになりました。
「こちらの方まで津波が来るとは思わなかった。外に出たら真っ黒な波が。その時は、波とは思わなかったのですが、ともかくすごかったです」と振り返ります。
学校でも同じ事態が起きていました。
海岸から200メートル離れた飯岡中学校では、揺れの後、すぐに全校生徒を高台の公園に避難させました。
しかし、その後の対応に問題がありました。
飯岡中学校教諭の大目智志さんは、当日の状況について、「とにかく保護者に無事に引き渡したいと思いました。子どもたちは、時間がたつにつれてどんどん緊張や不安が高まっていくのがわかりましたから」。
その日保護者に一斉に送ったメールには、避難場所に迎えに来てほしいと書かれています。
津波警報がまだ出ていた地震からおよそ1時間半後には、3分の2の生徒が保護者に引き渡されました。
このあと大津波が到達し、飯岡中学校の周辺も腰の高さまで浸水しました。
津波に巻き込まれた当時、2年生の佐久間海斗くんは、友人の保護者に引き取られて自宅の近くまで戻りました。
そこで津波に巻き込まれましたが、近くの建物に避難して助かりました。
「津波とは思わなかった。なにがなんだか分からなかった」と話します。
いったん避難しながらその後、押し寄せた大津波に巻き込まれた住民たち。
千葉県が仮設住宅に入居する被災者に行ったアンケート調査でも、自宅に戻ってしまった人が37パーセントに上りました。
なぜ「津波の危険はない」と思い込んでしまったのか。
旭市は、被災者に聞き取りを進めました。
その結果、当時、大半の地域では停電して、多くの人がテレビを見ることができず、津波警報を伝え続けていたはずの防災行政無線も、聞こえなかったことがわかってきました。
旭市は大地震でも確実に情報が伝わるよう、ことし、防災関連設備を一新し2月下旬、避難訓練を行って効果を確認しました。
従来の5倍程度の距離まで音が伝わる高性能スピーカーや、災害情報を流す電光掲示板を海岸の近くに設置しました。
訓練に参加した生徒たちにも「スピーカーの呼びかけがよく聞こえた」「電光掲示板も活用して、学校の避難訓練でちゃんと対応するよう心がけたい」と、おおむね好評でした。
旭市では、このほか避難所にたどり着いた住民が、長時間とどまれるよう毛布や食料も大幅に増やし、5000人分を用意することにしました。
旭市総務課の江戸義尚さんは、「避難所などに着いたら、津波警報などが解除されるまで絶対に戻らないでくださいと強く伝えたいと思います」と話します。
学校も対策を抜本的に見直しました。
以前はなかった津波の避難マニュアルを新たにつくり、この中では、津波警報が出ている間は避難場所で生徒を預かり続け、駆けつけた保護者もそこにとどまってもらうことにしました。
飯岡中学校の大目教諭は、「やはりあのときに生徒を帰していなければというのが、今は強い反省点です。警報が解除されるまできちんと避難を続けることが大切だと思います。それをきちんと子どもたちに教育することで、地域に広がり、飯岡地区全体が津波の被害に遭わない大切な教えになるんじゃないかなと思います」と今後に向けた取り組みを強調しています。
津波警報が出ているうちは絶対に戻らない。
旭市では、住民ひとりひとりが重い教訓と向き合っています。