東日本大震災から2年。
首都圏ネットワークでは震災からの復興や対策の課題についてシリーズでお伝えします。
1回目は震災や原発事故で避難してきた人たちの今です。
福島県から避難した人の最大の受け入れ先となってきた関東。
避難者の数は最も多かった去年4月で2万6400人近く。
それから10か月たった先月7日時点でも、2万5600人余りとあまり減っていません。
厳しい状況が続く中、ついの住みかを探して悩み続ける家族を取材しました。
福島から群馬県高崎市に避難している小飛山恭子さんです。
看護師として働きながら13歳と10歳の娘を女手一つで育てています。
当初は避難生活がこれほど長引くとは考えていませんでした。
「避難しているだけで、すぐ戻れると思った」という小飛山さん、「また同じものに囲まれて、また同じ家族でやっぱり生活していきたい」と、避難先でもふるさとに帰りたい思いは募りました。
娘と福島の自宅の写真をながめながら「なつかしい? ここでいつも遊んでたもんね」と話しかけています。
福島県南相馬市にある自宅は原発から21キロ。避難区域をわずかに外れていて住むことはできますが、原発事故の影響への不安などから学校には多くの子どもが戻らないままです。
小飛山さんは「向こうが元の状態に戻っていて全然何ともないのだったら戻れますけど、子どもたちは少ないわけですよね。そこで学校生活も不自由な生活を送らなくちゃならない」と話します。
去年4月には長女が群馬県内の中学校に進学。小飛山さんは、福島に戻るのをあきらめざるを得なくなりました。
南相馬市にいた両親も呼び寄せました。
「みんなと一緒に住みたいから、嬉しかった」という次女。祖母は「ここに来るのはずいぶん迷ってはいた。大変ですよ、いろいろ覚えていくの。道でもなんでもね」と話します。
家族で暮らせることを喜ぶ娘と故郷を離れたくない母親。
小飛山さん自身もふるさとへの思いを断ち切ることは出来ません。
40年間過ごした自宅には、思い出がたくさん詰まっています。しかし、娘のことを思うと福島に帰らないのはやむをえない選択だと考えています。
「子どもたちが成長していって、ああ、ここで生活してきてよかったねっていうふうになれば、それでよかったのかなと思う」と小飛山さんは願っています。
一方、福島に戻る決断をした家族もいます。
木村真嘉さん。6歳と5歳の子ども2人を連れて夫婦で群馬県高山村に避難してきました。
故郷の福島県浪江町にあった木村さんの店です。
大好きなオートバイや車の中古車を1台1台仕入れては整備し、勤め先を辞めて、念願だった中古車販売店を開店させました。
そのわずか1年後、原発事故が起きました。
自宅と店がある場所は、原発からわずか8キロ。放射線量が高く今も住むことは出来ません。
「帰れるのがいちばん良いんですけど、全部奪われてどうにもできない」と、今は高山村の被災者向けの集合住宅で暮らす木村さん。
一時は永住することも考えました。
木村さんは「みんな本当によくしてくれます。床屋さんとか行くと、野菜とかすごいもらえる。こんなにもらっていいのかな」と感謝の気持ちを言葉にします。
しかし生きがいだった店を失ったショックで家にこもりがちになりました。
結局、就職先は見つかりませんでした。
奥さんは「去年あたりからここにいても何も変わらない。福島のほうに行っていれば、仕事も進むのじゃないかな」と考えています。
木村さんは、今、妻の実家に近い福島県郡山市に生活の場を移そうとしています。
空き店舗を借りて新しい店を開くことを考えています。
かつての営業先もなじみの客もいない中、不安でいっぱいです。
「新しくネットワークをどんどん広げ、営業もかけないといけない。顧客もいるわけじゃないし、少しずつやっていくしかないです」と話す木村さん。
それでも福島での生活を選んだことに後悔はしていません。
木村さんは「福島にいるっていうだけでテンションがあがるというか、福島がいいと思っちゃいますね」とうれしそうです。
「子どもたちがあんなにいい笑顔で走り回っている姿見るとね、やっぱり戻ってきたほうがいいのかなって思いますね」と奥さんも喜んでいます。
木村さんは「元の生活と同じようにはいかなくても、家族で楽しめるように少しずつ取り戻していければいいですね」と話しています。
震災から2年。避難生活を続ける人たちは、ふるさとへの思いを胸に、それぞれの一歩を踏み出そうとしています。