「ナツユメナギサ」と「Nega0」は共通点が多いことに気付きました。世話焼きの主人公がいて主人公に依存する幼なじみヒロインがいる。幼なじみヒロインは主人公に夢を託し活躍を願ってる。幼なじみヒロインの主人公への依存はなくすべきものとして取り扱われる。自立が一つのテーマ。 ここで主人公へ夢を託してるのはプレイヤーも同じと言うのがポイントです。プレイヤーによる自己投影も「なくすべきもの」と扱われているんじゃないかと。心地よい物語への依存は物語の結末において否定される。物語は儚いものなのです。 [致命的ネタバレ] 双方の物語において主人公は最初から死んでいます。物語の舞台は幼なじみの夢の中。幼なじみは「主人公が生きて活躍する世界」を思い描き、そこに逃げ込んでいるのです。その世界において幼なじみは自らの幸せを省みていません。 「ナツユメナギサ」においては物語から自らの存在を消し去り、ただ主人公が他ヒロインと恋仲になるのを見守っています。「Nega0」においては「例え自分が幸せになれなくても主人公さえ幸せになればいい!」と夢にしがみついています。「Nega0」のキャッチコピーは「さようなら、ご都合主義(ハッピーエンド)」です。敵魔法少女の妄想をぶっつぶすのが表面上の目的ですが、最終的にぶっつぶすのは幼なじみの妄想(→主人公が生きている)なのです。1周目では幼なじみとくっつく主人公は2周目では幼なじみの親友とくっつきます。3周目では自分の相棒(擬人化パソコン)とくっつきます。4周目では苦手なタイプの転校生とくっつきます。どれだけ不本意な展開になっても主人公を諦めず依存し続けるのが「Nega0」の幼なじみです。 [致命的ネタバレ終わり] 「スマガ」も物語への依存の否定という意味では似たような話です。ただし「スマガスペシャル」で「ネバーハッピーエンド」なる概念を生み出して永遠に続く物語と妥協してしまいました。 [致命的ネタバレ] 「スマガ」の舞台は現実逃避した文学少女の夢の中です。その夢の中では「エンディングを迎えないため」にバッドエンドしか起こらないように仕組まれています。バッドエンドならば「もしあの時○○だったらハッピーエンドだったのではないか?」と物語を巻き戻し夢を見続けることが出来るからです。主人公の目的は文学少女を説得しハッピーエンドを迎えさせ、現実と向き合わせることです。 「スマガスペシャル」においても基本的な話の筋は変わりません。目を覚まさせる相手が夢の外にいる文学少女でなく、夢の中にいる百合カップルというだけです。夢の中の魔女二人が世界を永遠に幸せが続くループ時空にしてしまったというのがあらすじなのです。「スマガスペシャル」においては「夢から目を覚まさなくても良いじゃないか?」という考えが提示されます。ループ時空はそのまま。永遠に終わらない幸せ。それが「ネバーハッピーエンド」です。 [致命的ネタバレ終わり] 「リトルバスターズ!」や「Angel Beats! 」にも物語への依存を拒否する要素が盛りだくさんです。心地よい物語の出来がいいから依存されまくっていますがw 視聴者は主張に説得力を持たせるための下地「心地よい物語」に浸りきって、最後まで話を聞いていない気がします。 [致命的ネタバレ] 「リトルバスターズ」の舞台はバス事故にあった仲良しグループが見ている夢の中です。夢は楽しかった頃の思い出で成り立っています。仲良しグループのほとんどは生還が絶望視されており、生存見込みがある二人は頼りない。事故後に二人だけで生きていけるかどうか心配されています。生存見込みがある二人は夢の中であることを知らず、生還絶望視組は夢の中であることを知っている。ここにおいて生還絶望視組の意見は二つに割れます。「二人を現実に帰すべきだ」という意見と「二人をこのまま夢の中にいさせるべきだ」という意見と。最終的に「夢の中で成長した二人が現実に帰る」というのがエンディングになります。 「Angel Beat!」の世界は幸せな青春を遅れなかった人間にそれを味わわせる世界です。視聴者で行ける人多そうですね…。卒業すべき世界として描かれてます。受け入れず暴れてちゃいけないらしい。 [致命的ネタバレ終わり] 共通するのは「都合のいい夢物語は終わる。最後は現実と向き合わなきゃいけない」というメッセージです。視聴者にも物語から自立して欲しいかのように感じられます。 ただ、商売としては依存されなきゃ成り立ちません。物語への依存を否定する話はビジネスとして矛盾を抱えてるわけです。物語の主張は棚上げしてグッズを買って欲しいという下心も存在します。 「スマガスペシャル」が選んだ「ネバーハッピーエンド」は「終わらない夢物語もある」というメッセージで実際の商業展開と整合的です。FD出しておいておきながら「物語は終わる」と言う主張はおかしいので転換は致し方ない。「開き直りじゃないか」と思いますがそれで業界は廻っています。 「依存を否定して終わる物語」が「依存させ続ける終わらない物語」を内包し、ビジネスとしてそれを頼りにしているのはちょっと皮肉です。 |
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個人的に、ヒロインの依存に対する否定という意味では「CROSS†CHANNEL」の黒須太一が思い浮かびます。後半、ヒロイン(特に曜子・冬子)の自分への依存を否定して、一人ずつ元の世界へ送還していく展開と、最終的に自分以外の全員を送還した後、独りになってなお皆との記憶を保持したままループ世界に在り続けることの孤独に壊れかける主人公。この段階で、これまで自立性を志向しつつも皆との関連性に依存があったわけですが、最終的には自身の過去と出生を再認識する事で自身を補完。最終的には、一切のレスポンスを期待することなく、ラジオを通じて世界に語り掛け続けていくというエンディング。これは男三人の合言葉「友情は見返りを求めない」を世界に対して適用していると言いますか、依存することなく、ただただ世界を愛していくという結論のように思えます。 |
仮井 2010/10/06 21:33 |
度々すみません。 |
仮井 2010/10/07 22:27 |
コメントありがとうございます。 |
dakuryu 2010/10/11 04:48 |
どうもです。 |
仮井 2010/10/13 01:13 |
追記 |
仮井 2010/10/13 01:14 |
確かに依存してる曜子と冬子にとってはそうですね。ただ「依存しちゃいけない」と「物語に依存しちゃいけない」にはやや飛躍があると思うのです。肝心の太一が是としていませんし、曜子や冬子が極めて特別扱いなヒロインというわけではありませんし、作品としてそういうメッセージにはならないかなと。 |
dakuryu 2010/10/25 05:21 |
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