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古代の身分制は、荘園制の発達、農民や賤民の逃亡等により崩れました。 六世紀ごろ、貴族の間に仏教が浸透し、「殺生戒(生き物を殺すことを禁じる戒め)」などが重んじられるようになると、「死」をはじめ、「産(人間や動物の出産)」、「血(主として女性の月経)」に触れることが、「ケガレ」として忌まれるようになりました。「 延喜式 」にはこれらのことが規定されました。 中世にはいると、地震、台風、政変なども「ケガレ」によってつくり出されると考えられ、この「ケガレ」を取り除く、「清目(キヨメ)」という役割の人たちは、国の安全を保ち、社会を正常に発達させるために、なくてはならない大切な役割を担う人たちとされていました。 彼らは主に神社や寺院の清め、人の葬送、動物の死体処理、武具や馬具のための皮革生産、祭礼の警備、刑の執行などに従事していました。 ところが、十七世紀頃になると、「キヨメ」意識が薄れ、自分たちとは違う人たち、「ケガレ」に携わる人たちという、差別意識が生まれていったのでした。
農業の生産力が高まり、商工業が発達しはじめた当時において、土木、運送、行商などの農業以外の仕事に携わる人が被差別の立場に置かれました。 また庭づくりや芸能の面で大きな役割を果たしたのも、被差別の立場の人々でした。 善阿弥という庭づくりの大家は、室町幕府の将軍足利義政の側近となり、奈良市にある興福寺大乗院などの庭園をつくりました。 また被差別民は室町時代に発達した「猿楽」や「能」などの芸能も担いました。大和猿楽四座のうちの結崎座を率いた観阿弥・世阿弥親子の観世流を記念して、川西町結崎の寺川のほとりに碑が建てられています。
赤ちゃんが生まれることもケガレだったの? そんなことおかしいよ。だってみんな赤ちゃんだったんだよ。
そうよね。この時代の主なキーワードは「ケガレ」と「キヨメ」かもしれないわ。 そして今はキヨメの部分が忘れられてしまったの。
この頃、被差別民とされた人たちは、優れた技術や技能を持っていたということもあって「なにか特別な仕事をする人たち」「自分たちとは違う人」と思われて、それが差別意識にすり変わっていったんだ。