皇極紀三年条にある「打毬(実際は毛偏に掬の旁側が旁)」は、中臣鎌足と中大兄とが厚誼を通ずるきっかけとなった出来事として有名である。二人は出会い、後に大化改新へとつながった。家伝には「蹴鞠」とある。
小学館の全集本頭注に、和名抄のマリウチの訓をあげ、蹴鞠とは異なってポロまたはホッケー風の競技としている。しかし、漢語の「打毬」には二義あるとされ、後にダキュウと呼ばれるポロ風の競技と蹴鞠とが同じ言葉で表されていたらしい。
ダキュウは、左右楽を伴って華やかに賑やかに行われる宮中行事として伝わっている。その最初の記事は、万葉集九四八・九四九番歌の左注にみえる。歌は、職務をさぼって大騒ぎ、大はしゃぎをし、大目玉を食らってしょんぼりおとなしくしている風情を歌っている。
他方、蹴鞠は、懸りと呼ばれる木の下で、丸く円を描くように並び立って鞠を蹴り合う遊戯で、私語が禁じられている。蹴る人が合図に発するアリ(また、ヤクワ、ヲウとも)という言葉以外、無言のゲームである。室町期の蹴鞠百首和歌に、「ありといふ 声より外に いふ事は 鞠のかかりに せぬとこそ聞け」とある。
皇極紀の記事には、鎌足が中大兄の「皮鞋(みくつ)の毬の随(まにま)に脱け落つるを候ひ、掌中(たなうら)に取り置(も)ち、前(すす)みて跪き恭みて奉る」のに、中大兄は「対ひて跪き、敬(ゐや)びて執りたまふ」とある。終始、無言である。すなわち、パントマイムである。お喋りが禁じられているからである。
鎌足は、天皇家に蘇我氏が並び立っている政治体制を打破したいと考えている。それは、冠位十二階の制定以来、蘇我氏も位を授ける側にあるという通念を打破しなければならない。当たり前だと思われていることを覆すには、たくさんのことを語らなければならない。しかし、世は蘇我氏が牛耳っており、妙な動きが知れれば中大兄ともども身の危険にさらされる。神祇伯を固辞して出仕しなかったり、南淵請安先生のところへ勉強に行くふりをして道々二人だけで語らう時間を作るなど、蘇我氏側、すなわち、時の政権側に悟られないように苦労している。皇極紀の「打毬」の記事は、たくさん話したい→無言劇→たくさん話す、という流れの結節点になっている。
日本書紀の執筆者は、「打毬」という語の、喧騒と静寂、饒舌と沈黙の両者がまとめられている点に興味をもち、わざわざ「打毬」と記したものと考えられる。もし、皇極紀の「打毬」がポロ風の競技とすると、鎌足と中大兄がふつうに会話を交わして意気投合したなら、話が蘇我氏側に聞こえてしまって拘束されることになる。話をしているという形式が、クーデター計画という話の内容を表すように意味を込めている。逆に、大騒ぎをしているなかでパントマイムをしていたら、それこそ蘇我氏側に怪しまれるだろう。偶然にも中大兄は言葉を交わすことが禁じられている蹴鞠をしていた。皇極紀には「偶(たまさか)に」と記され、話をせずに好を交わす千載一遇のチャンスであったことがきちんと明示されている。語一語に意味を込めていく史(ふひと)の姿勢は、司馬遷を髣髴とさせるものがある。
黒田智『藤原鎌足、時空をかける』(吉川弘文館)に、脱げた靴を拾ってあげたことがどうして感動的なのかわからないとし、ギリシャ神話や聖なるものについての類型的な考察をあてはめた論が行われている。氏は中世史、肖像研究が専門であり責はない。古代史は、こんな基礎的な史料に対してすら、まともな読解による定説を得ていない。
小学館の全集本頭注に、和名抄のマリウチの訓をあげ、蹴鞠とは異なってポロまたはホッケー風の競技としている。しかし、漢語の「打毬」には二義あるとされ、後にダキュウと呼ばれるポロ風の競技と蹴鞠とが同じ言葉で表されていたらしい。
ダキュウは、左右楽を伴って華やかに賑やかに行われる宮中行事として伝わっている。その最初の記事は、万葉集九四八・九四九番歌の左注にみえる。歌は、職務をさぼって大騒ぎ、大はしゃぎをし、大目玉を食らってしょんぼりおとなしくしている風情を歌っている。
他方、蹴鞠は、懸りと呼ばれる木の下で、丸く円を描くように並び立って鞠を蹴り合う遊戯で、私語が禁じられている。蹴る人が合図に発するアリ(また、ヤクワ、ヲウとも)という言葉以外、無言のゲームである。室町期の蹴鞠百首和歌に、「ありといふ 声より外に いふ事は 鞠のかかりに せぬとこそ聞け」とある。
皇極紀の記事には、鎌足が中大兄の「皮鞋(みくつ)の毬の随(まにま)に脱け落つるを候ひ、掌中(たなうら)に取り置(も)ち、前(すす)みて跪き恭みて奉る」のに、中大兄は「対ひて跪き、敬(ゐや)びて執りたまふ」とある。終始、無言である。すなわち、パントマイムである。お喋りが禁じられているからである。
鎌足は、天皇家に蘇我氏が並び立っている政治体制を打破したいと考えている。それは、冠位十二階の制定以来、蘇我氏も位を授ける側にあるという通念を打破しなければならない。当たり前だと思われていることを覆すには、たくさんのことを語らなければならない。しかし、世は蘇我氏が牛耳っており、妙な動きが知れれば中大兄ともども身の危険にさらされる。神祇伯を固辞して出仕しなかったり、南淵請安先生のところへ勉強に行くふりをして道々二人だけで語らう時間を作るなど、蘇我氏側、すなわち、時の政権側に悟られないように苦労している。皇極紀の「打毬」の記事は、たくさん話したい→無言劇→たくさん話す、という流れの結節点になっている。
日本書紀の執筆者は、「打毬」という語の、喧騒と静寂、饒舌と沈黙の両者がまとめられている点に興味をもち、わざわざ「打毬」と記したものと考えられる。もし、皇極紀の「打毬」がポロ風の競技とすると、鎌足と中大兄がふつうに会話を交わして意気投合したなら、話が蘇我氏側に聞こえてしまって拘束されることになる。話をしているという形式が、クーデター計画という話の内容を表すように意味を込めている。逆に、大騒ぎをしているなかでパントマイムをしていたら、それこそ蘇我氏側に怪しまれるだろう。偶然にも中大兄は言葉を交わすことが禁じられている蹴鞠をしていた。皇極紀には「偶(たまさか)に」と記され、話をせずに好を交わす千載一遇のチャンスであったことがきちんと明示されている。語一語に意味を込めていく史(ふひと)の姿勢は、司馬遷を髣髴とさせるものがある。
黒田智『藤原鎌足、時空をかける』(吉川弘文館)に、脱げた靴を拾ってあげたことがどうして感動的なのかわからないとし、ギリシャ神話や聖なるものについての類型的な考察をあてはめた論が行われている。氏は中世史、肖像研究が専門であり責はない。古代史は、こんな基礎的な史料に対してすら、まともな読解による定説を得ていない。