紫電改と松山三四三航空隊
子供の頃、ちばてつや「紫電改のタカ」を「週刊少年マガジン」(昭和38年7月~昭和40年1月)で愛読していた。その後なぜか「紫電改」という名が育毛剤に使われて奇異な感じがしたものだ。「紫電改」という名機は「零戦」「隼」についで親しみのある戦闘機であり、それが川西航空という地元の鳴尾で製作されたのを知ったのは最近のことである。
紫電改は、太平洋戦争末期、日本の空を守るべく登場した。もともとは水上機専門であった川西航空が製作していた水上戦闘機「強風」を次期主力戦闘機の開発が進まないことから海軍の命令で陸上機「紫電」に転用。ところが問題が続出し、大幅に設計変更し、「紫電改」が誕生した。
昭和19年10月20日、アメリカ軍がレイテ島に上陸すると、航空特攻作戦が開始された。そして総力をあげてこれを阻止しようとする日本軍との間に、太平洋戦争最大の航空決戦が繰り広げられた。フィリピンに進出した三四一航空隊の紫電隊も、本来の制空の任務よりも重武装をかわれて、もっぱら敵上陸地点や出没する敵魚雷艇の攻撃などに使われた。三四一空に合流したマルコット基地の戦闘機七0一飛行隊も同様で、連日の出撃に犠牲は増えて可動機数は減る一方だったが、飛行隊長白根斐夫少佐は、いつも部隊の先頭に立って攻撃に向かった。そして10月末のある日、上陸拠点付近の敵魚雷群を銃撃中に対空砲火を浴び、帰らぬ人となった。
昭和20年1月8日、第三四三航空隊の志賀淑雄少佐が松山基地に着任した。続いて源田実大佐、林喜重大尉が着任した。この部隊にやってきたメンバーには、磯崎千利、松場秋夫、坂井三郎、指宿正信、宮崎勇、杉田庄一という撃墜王たちが参集した。こうして紫電改を主力とした三四三空の編成は、搭乗員だけでも120名、それに整備員その他地上員までふくめると、3000名をこえる大部隊となった。しかし時すでに遅し。紫電改の生産はわずか400機そこそこで、その活躍期間も半年に満ずに終戦を迎えることになった。(参考:碇義朗「紫電改」光人社)
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