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東日本大震災2年 震災遺構 保存・解体、合意進まず

被災者の家から見える共徳丸。住人は「窓の外を見るたび、行方不明の夫を思い出してつらい」と言う=気仙沼市新浜町

<異様な存在感>
 宮城県気仙沼港から内陸に約600メートル。家も工場も解体された気仙沼市新浜町のJR鹿折唐桑駅前の更地で、大津波によって打ち上げられた大型漁船が異様な存在感を示す。
 福島県いわき市の水産会社が所有する「第18共徳丸」(330トン)。漁船前には祭壇が設けられ、多くのボランティアや観光客が手を合わせる。
 「いつまでわれわれの心を苦しめるつもりか。早く解体してほしい」
 船のすぐそばの自宅で暮らす無職女性(47)はうんざりしたようにつぶやく。朝、カーテンを開けるたびに共徳丸と向き合うことになり、気持ちがふさがるという。
 津波に流された夫=不明当時(51)=は、今も行方が分からない。船は平穏な夫婦の暮らしを壊した象徴のように見えるという。

<議論に時間を>
 宮城県内外の有識者らでつくる「3.11震災伝承研究会」は、津波の被害や教訓を伝える震災遺構の保存候補に共徳丸を含め県内の46カ所を選定した。気仙沼市も船を保存する構想を掲げる。
 この流れに女性は納得がいかない。「よその人は震災を風化させるなと言うけど、住民は忘れたくても忘れられない。風化を防ぐため、なぜ私たちが負担を押し付けられるの」
 写真店経営の佐川真一さん(58)は、船が打ち上げられた土地の所有者だ。「近くに工場などの建物ができれば船は埋没してしまい、津波の怖さを伝えるという保存の意義が薄れる。船は観光のための見せ物でしかない」と冷ややかに言う。
 地元では反対の声が根強いが、保存に賛同する声もある。鹿折地区の自宅兼店舗を津波で流された塩田賢一さん(46)もその一人。約20店舗の仲間と共に昨年1月に船の近くに仮設商店街をオープンさせた。周辺の家の大半は津波で消えた。人を呼び込む船に地域の復興を託す。「街づくりの上で船の存在は不可欠。もっと時間をかけて議論してほしい」と求める。
 市は船会社との間で、船体を無償で借り受けて管理責任を負う契約を結んでいる。契約が切れるのが3月末。船会社は4月以降、船体の解体準備に入る考えを示しており、保存を望む側は焦りを募らせる。

<昨年春に決定>
 保存か解体か。その合意形成が比較的早い地域もある。宮古市は、4階まで津波に襲われた田老地区の「たろう観光ホテル」の保存方針を昨年春に固めた。現在は建物の維持管理の財源確保に向け復興庁と交渉を進め、首都圏などからの修学旅行誘致に力を入れる。
 田老地区は、明治三陸大津波(1896年)で1859人、昭和三陸津波(1933年)で911人が犠牲となった。
 万里の長城に例えられた巨大防潮堤や津波防災の町宣言など、長年にわたり「その時」に備えたはずだった。それでも、181人もの死者・行方不明者を出した。
 「あれほどの対策をしてきたのに多くの人が犠牲になった」。いち早く震災遺構としての保存に名乗りを上げた、たろう観光ホテルの松本勇毅社長(56)が悔しさをにじませる。
 「建物が消えたら、津波の恐ろしさがまた忘れ去られる。次の世代には絶対にこんな悲劇に遭わせたくない」


2013年03月09日土曜日


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